03
湿地帯からたった3m程度の大きな岩の上。それだけで頬に風を感じた。大きく息を吸い込む。あの車両を出る寸前のハボックのように。
「将軍たちは、……」
エンジントラブルで動けない車両の中にいる。無線も通じない。
それは今、聞く必要はあるのか。ここには虫は寄ってこないが長く留まるのは避けることが定石なのは明らかだ。その思いが口を噤ませる。
ハボックは虫除けに浸った一人分のハンカチを取り出し、またマスクのように私の顔を覆い、乱れた髪を整えた。
見上げるハボックの口元には笑みが浮かんでいた。
「あのね、大佐。結局、オレは、オレが生き残った方法でしかここを抜けられないんです。だから準備をした。オレはあれ以上深く湿地帯に入られたら、ここをアンタを連れて出るのに五分五分だと踏んだから、少しエンジンに細工して、故障させてもらったんです。――大丈夫ですよ、簡単なことしかしてません。見れば直せる程度のことです。でも、あそこならその見るってことに躊躇するから、こういう風にあそこを出てこれると思ってました。エンジンをいじろうって思ったのは、この視察のメンバーに南方の特隊で知ってた名前を見つけたからです」
「車両の中でにらみ合っていた奴だな?」
「あ、しゃべんないでって言ったでしょ。――そうです。ダンジュー先任少尉です。南方で特隊にいました。班が違ったんで同じ作戦をしたことはないですが、知ってる顔です…。あー、10分過ぎましたけど話しますね。この先、ここを抜けるまで、こんな風に話せないと思いますから」
厳かに頷けば、ぽりぽりと数回頭を掻いて、視線が彷徨った。
「えーっと、今回の視察、アンタがいつもみたいにポンポンって適当にハンコ押して決まったんだと思ってました。そして、巡り巡って、アンタ自身が視察に行くはめになったとばかり…」
「――私もそう思ったが?」
だから、私はそれほど適当には書類に判子は押さないんだよ。ホークアイ中尉の誤解していたが。
「多分、そうなんだと思いますけど、こういう事態になってるのは半分はオレのせいかもしれません。オレ、今回の視察、護衛官としてじゃなく、副官として扱ってもらおうと思ってたんです。牽制です。ここを知ってる奴がオレ一人だと思ったんで。でも、実際は違いました。ええーっと、実は嫌われていまして、ダンジュー先任少尉に。オレ、ここを出て結構すぐに東方司令部に引っ張ってもらえたじゃないスか、アンタに。それがダンジューは気に入らなかったらしくて。知り合いに、うまいことやりやがって、いつか痛い目見せてやると言っていたと聞きました。その、ダンジューと経歴が似てるんスよ。士官学校の時に射撃大会で入賞したり、貰った勲章とか。オレの経歴が認められて東方司令官の護衛官に抜擢されるなら、先任の自分の方が任命されるべきだ。横取りしやがってと…」
「あー、ということは、私に回りまわってきたこの視察はダンジュー少尉が将軍に何かしら嗾けてこうなったと?」
「そう考えるのが妥当なんじゃないスか? 将軍は南部支部に左遷されて、手柄を上げて、中央に返り咲きたいんでしょう? そのためにこの誰も来ない場所に視察に来た。そういう視察にアンタみたいな人を同行させますか?」
「私みたいな、若くて有望な将校か。うむ」
手柄を横取りしそうな人物を望んで同行などさせまい。
「――将軍は車中から出ずに救援を待つ気か?」
それで大丈夫なのか?
「ダンジューに何か考えがあるんだと思います。正直言ってそれが何かは分かりませんけど。奴もここで生き残った奴ですから方法はあるんだと思います。――ここから生還した奴は多くないですが、顔を突き合わせてどうこうと話し合うようなことはしないんで。オレはオレがいた班がやってた方法以外のことは知らないんです。もしかしたらもっと楽にここを抜ける方法があるかもしれない」
申し訳なさそうに目を瞬かせるハボック。
首を横に振る。公にはなっていないが、この地の生還率の著しい低さは聞き及んでいた。恐らく最善の方法などなきに等しいのだ。
「ハボック、お前は車中で待つより、一刻も早くここを離れようとした」
「そうです。ここでは人が多い方が危険だ。あの車内で誰が窓を開けないといえます? 水もある。食い物もある。尿意を訴えた将軍にここでするなと言えますか? 簡易便器は用意してありましたけど、そういう問題じゃないんです」
むしろ、あそこから一歩の動けない状態になる方が恐ろしい。
「オレはこの方がマシだと思った。アンタと二人だけなら、行けると思った。ダンジョーはあそこに残った方がマシだと思った。アンタは下士官にもあそこにいるか、あそこから出てくるか、選択肢をやった。十分です。ありがとうございます。――羽音がする。そろそろ行きましょう」
私の耳には羽音は届かなかったが、ハボックの耳には届いているのだろうか。それとも、話を切り上げたかったのか。知る余地はない。
極力、汗をかかないように。呼吸数を減らし、呼気は細く吐く。時折、ハボックが高周波のような羽音を立てる、近寄ってきた虫を叩き潰した。
息苦しい湿地帯を抜け、その先に続く潅木地帯に入れば、虫の脅威は格段に減った。その変わりに空腹の猛獣がいつ襲ってくるかという新たな脅威が出現した。
「トラがいるんです。でっかい凶暴な常に飢えたトラです。もちろん嬉々として人間を襲います。気配を殺して近寄ってくるんで。後、奴ら、木に登りますから、頭上にも注意して下さい」
「ハボック、深呼吸をしてもいいだろうか?」
「あんましちゃダメですよ。草はここにもちょこっと生えてます。群生してないだけなんで。トラと鉢合わせたとき虫に刺されたら終わりですから」
それは群生していな分、虫が近くに来ても分かりにくいということだ。思わず息を飲む。今まで以上の注意が必要だった。
ハボックは実に慎重に歩を進めた。木々に擦り付けられたマーキングの痕跡や、乾いた糞、足跡、抜け落ちた毛。それらを見つけては、息を潜め、気配を殺し、トラがいそうな場所を大きく迂回して僅かづつ距離を稼ぐ。
今、この地に入るものはほとんど皆無と聞く。かつてここが戦場になっていたときとはトラの生息数にも違いがあるだろう。乾季に入り、食物が満足に取れなくなりつつある状況下では、猫科の猛獣すら大集団行動している可能性もある。
全身に集中し、できる限りの音を立てないようにハボックに続いた。熱帯の暑さが時に意識を朦朧とさせる…。
殊のほか時間を欠けてトラたちと無事出会わずに潅木地帯を踏破する。トラはここでは潅木地帯にしか生息していないらしい。再度、ハボックが荷物を降ろし、マスク代わりのハンカチを取ってくれた。
「あー、ハボック少尉。そろそろこの行軍のゴールが知りたいと思い始めているんだが」
ハボックは荷物を片付け始める。簡易スコップで穴を掘り、その中に持ってきたものほとんど全てを埋めてしまった。正に身一つになり降り返る。表情が明るい。
「この後、最大の難所が待っています。でも、多分そう難所じゃない気がします。この先は有毒泥土帯スっよ。埋まったら死にます。触ったら火傷します」
「火傷?」
「どっかの錬金術師が練成を失敗して、なんかの化学物質の海になったとか。それ以来、ここらでは錬金術はダメなんですよね。なんかマトモな練成にならないとか聞いたことがあります。だから、アンタに練成を頼まなかった」
「…………」
「でも泥土帯には虫もトラもいません。通るのは人間だけですから楽って言ったら楽かも」
「どうやって渡るんだ?」
「乾くんです。雨が降らない日が続くとぱっきぱきに。その上を走ります。今度は全力疾走ですね」
「な、なぜ、走る?」
走るしかないというなら走ろうとも。だが、この疲労困憊の身体に鞭を打つというならせめて理由を聞かせて欲しかった。
「乾燥すると有毒ガスが立ち上がって溜まるんです」
「ゆ、有毒ガス?」
「はい。それと、真ん中辺りは乾かないんですが速く走れば沈まないで渡れるんです。立ち止まったり、転んだり、歩いたり、ゆっくり走ったりしたら沈みますけどね。だいたい1キロぐらいを3分で走るペースで大丈夫ですよ。全長10キロくらいだから、目安は30分です。渡りきったらほぼゴールです。隊員を分けていくつかのポイントに待機させてます。運が良かったら、もしくは、運が悪かったらここに出ると言ってたんで一番多くここで待機していると思います。あとたった30分でゴールになりますから」
強い回転性の目眩が襲う。人知を超えている! 30分で10キロを走れなど! 言葉もない私に、改めてハボックが向き合い、神妙な顔をする。――まだなにかあるのか…?
「血清を用意させてます。その虫除け、それなりに効くんですが、毒性があって…」
「――だから時間を気にしていたのか」
なんだ、そんなことか。内心胸を撫で下ろす。いや、そんなことで済ませていいのだろうか。そう思っても、30分で10キロを走るという無理難題の前にはそれほど重要ではない気がするから不思議だ。
「頭の良い上司って素敵ですね。話が早くて助かります。眠くなって、意識が跳ぶんですよ。みんなで使ってたら全滅なんで。アンタが走ってる間に寝ちゃったら、オレが背負うんで安心してください」
「それはどうも…」
この疲労感の何割かは虫除けのせいだと思いたい。そして、できれば今すぐ昏倒したいぐらいだった。確か最近更新された10キロ走のワールドレコードは27分ぐらいではなかったか。ただの高級軍人に過ぎない私に、10キロを30分で走るなんて簡単に言ってくれるなハボック!
「大佐はなんでもできるから、本当に助かります」
本心か煽てか、よく分からない口調でハボックは言った。後30分でタバコが吸えると思うと頑張れそうです。にかっと笑う。その清々しさと、自分の日頃の自分の運動不足っぷりに、意識がどんどん朦朧としてきた。
「よし! じゃあ、行きましょうか!」
そして、ハボックはあまりに容赦なく駆け出した…。