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予感はあった。その日は朝っぱらから腹の調子が悪かったし、司令部に行くまでにある全てのタバコ屋でいつも買ってる銘柄のタバコだけ売れ切れてた。その上、司令室では大佐が居眠りもせず書類にサインをし続ける。大佐の後ろの窓から差し込む日差しが眩しすぎる気がした。何か面倒なことが起きなきゃいいけど。
そう思った矢先に鳴り響いた内線のコール。いつものように電話のコールに反応が良いフュリーが取って大佐に回す。――大佐! 喧騒の中から、フュリーの声を聞き取った大佐が小さく頷き、ペンを持ったまま受話器を取って肩に挟んだ。
確認事項に少しの軽口を乗せて笑い合う。司令室に絶えることがない、いつもの喧騒がさーっと引いていくような感覚に、軽く目眩がした。大佐の声だけが耳に届いてきて、頭の中をかき回す。
「え? 申し訳ありません。もう一度よろしいでしょうか」
珍しく大佐が電話口で聞き返す。そして、右の眉が大きく跳ね上がった。ペンを置いて、改めて受話器を持ち直し、耳に押し当てる。
「…………」
無言のまま眉間に皺が寄り、徐々にそれが深くなって行く。間髪入れずペンが動いた。手元の書類に殴り書きされたそれはすぐさま次の紙へ移る。そのペン先が紙をこする音まで聞こえてきた。
堅く結ばれた口元が、諦めを含んだようにため息と共に開いた。明後日の日付に、3桁と3桁の数字。再度確認するように大佐の口から吐き出される。
鼓動が一回、大きく胸を叩いた。鈍い大きな痛みがじわじわと広がって全身を覆って行く。墜落感に息を止め歯を食いしばった。目の奥が熱い。胃が沸騰しそうなほど熱い。吐き気が込みあがる。口の中が干上がっていく。
3桁と3桁の数字。ただの6個の数字の羅列。それを知ってた。数字でしか表記されない場所がある。アメストリスにあって地名なんかない場所がある。南方国境線に、経緯度でしか言われない場所があった。サウスコード。ここに来る前そこにいた。
電話を置いた大佐が肩を落として、またため息を付く。そして、オレをその目に写して言った。
「視察だ」
うそだろそんなの。無意味だってえの。そこはもう放棄された戦場だ。アメストリスもアエルゴも立ち入らない。国土としてあまりに無意味だからだ。しかも、そこに明後日だって?
「仕方ないだろ。命令だ」
そのあまりにいつもと変わらない調子が性質の悪い冗談に聞こえた。
「わあ! なんてヤな話!」
殊のほか大声になった独り言に、司令室中の視線が集まった。でも、こんなの、大佐にとってもオレにとってもいつものことに過ぎないから、大佐も全く気にしないで口を開く。売り言葉に買い言葉のように。
「別にお前に同行など頼んでないだろうに。それにそれほどイヤならお前には頼むまい!」
本気で言ってんの? あそこを知ってる奴にもう一度行けと言って、一体誰が行くと思ってんだ。あそこに行こうとするのは、何にも知らない奴だけだ!
でも、この人があそこへ行かざる得ないのなら、同行するのはオレだ。それは誰にも譲らない。そして、はたと気が付く。こんなに行きたくないのに、もう腹は決まっている。
大きく息を吐き出した。もう一度あそこに立つ。それを思えば膝が小さく震え出す。武者震いだ。そう自分に言い聞かせていること自体強がり以外の何ものでもなかった。自分が行きたくないと叫び出す前に、司令室を出る。走り出さないように、ゆっくりと一歩づつ。準備が必要だった。覚悟が必要だった。この人を生きて連れ帰るために。無傷で連れ帰るために。
オレたちを乗せて東部を出た始発の汽車は何の事故にもテロにも合わず、予定通りに南部に到着した。予定通りにことが運んで、こんなにがっかりしたことはない。
汽車から降り立てば、南部の日差しが肌をジリジリと焼いた。日差しが東部とは根本的に違う。暑い。暑いのに、背筋が寒気を覚えてあわ立つ。光が駅舎の白い壁に乱反射して目の奥までしくしくと痛んだ。日差しを遮った手に、額にも、湿った様子はない。汗は出ない。ちゃんと。それに少しほっとした。予定通り、この日に合わせて水分を制限して、軽い脱水状態になるようにしてきていた。辛うじて間に合ったのだ。
そして、目の前で暢気に大きな欠伸をしてる人も汗ばんだ様子はなかった。黒髪の隙間から覗く白い首筋は冷ややかで熱を感じさせない。体温すら感じさせないときがある。この人は汗をかくように見えないんじゃなくて、本当に元々あんまり汗をかかない人だった。
――体質だ。代謝が良くなくて元々汗が出にくい。だから、体温調節が苦手で、熱が内に篭るんだ。何だかよく分からないけど、そんな話を聞いたことがある。その時はそんなんで大丈夫なのかと思ったけど、今日この時には便利以外の何ものでもなかった。
また大佐が大きな欠伸をした。汽車の中でも特に何を言うでもなく、ずっと寝ていたのに。いつもならこの人が東部を空けるときは、寝る時間を削って出張ギリギリまで仕事をする。でも、今回の出張ではホークアイ中尉にお願いして、十分な睡眠を取らせてもらいそれなりに体調を整えてた。なのに、まだ寝るか。まあ、今回は体力をいくら温存してくれてもし過ぎることはないんだけど。この暢気さが頼もしく見えなくもない。
南部地方の小さな駅舎、プラットホームを出れば、改札口前に軍服の集団が高級軍用車をこれでもかと並べて待っていた。一列横隊。その前に立つ大尉が大佐に気が付いて、背筋を伸ばす。それを合図に一斉に揃った敬礼を見せた。それに挑発されて、改札を出てこちらも大佐の後ろに横隊に整列、ばりっと敬礼。オレたちの敬礼が見えない大佐だけ、いつもの気の抜けた敬礼だった。
大尉が定型句で挨拶をし、謝罪する。上官の不注意で怪我を負い視察を断念したこと。立ち消えになった視察の代行を申し出た将軍のたっての希望で、直前になって視察の同行をマスタング大佐にお願いしたこと…。なかなか終わらない挨拶に、苛立ちを隠さず睨みつけてやれば、大尉がすぐに言葉を濁し、軍用車のドアを開けた。大佐は相変わらず、やる気なくどうでも良さ気に頷いて、車に乗り込む。
「も、申し訳ありません!」
いくら田舎でも、うちの大佐みたいな高級将校を何分も車の前で立ち話させるなんて、何を考えているんだ? さっさと開けろ。んで、うちの大佐はさっさと乗り込め!
全く何をそうカリカリしているんだか。乗り込む寸前、ちらりと向けられた視線がそう言っている気がした。
「ああ、バルクマン大尉。今回の視察の行程表は持っておいでか?」
大尉が自分用のものだろう、少し皺が寄った折られた数枚の書類を胸ポケットから忙しなく取り出す。それにざっと目を通した人はすっとオレに渡した。
「少々お借りする」
少しだけ申し訳なさそうな顔を大尉に作って、言う。いいえ、用意が悪く申し訳ありません。そう言って大尉は、オレを振り返り、何もないことを確認して、ドアを閉め車を出した。オレたちも用意された車に乗り込む。
改めてそのスケジュール表を開いた。確かに、地方誘導の視察なのに事前にスケジュール表が送られてなかった。時間が迫っているからだと思っていたが、そのスケジュール表に書かれた同行者の中に知った名前を見つけて明らかな悪意を感じた。このスケジュールはあそこを知ってる奴が立てたのだ。
また、鼓動が早くなってきた。
鈍い痛み。墜落感。でも、そんなものを感じてるヒマなどない。予定では2時間後、あそこへ出発になっている。後2時間。何ができる? 何が用意できる? もう無理だ。あの人の手でも足でもあばらでも折って急遽視察を取りやめてもらおう。そんなことまで考え始めている自分に落ち着けと言い聞かせる。