WALKOUT+
02

視察に向う大型軍用車両2台には南方地方支部の将軍とその小隊丸ごと一つ、そして、私とハボックだった。ハボックが自ら部下たちを車から降ろさなければ、この人数全ては乗れなかっただろう。それを考えれば、始めから将軍は私の部下の大半をこの車両に乗せるつもりはなかったか。もしくは、途中で降ろすつもりだったか。
しかし、この車両2台は、この一行が一山超え、国境付近に広がる広大な湿地帯に入り、しばらく進んだところで実にあっけなく頓挫した。エンジン系のトラブル。車両に詰め込まれた最新鋭の無線は早々に湿度にやられていてその機能を果たさなくなっていた。その上、最新鋭のため繊細な作りで設置された軍用車から運び出すこともできない。修理も専門の技師を必要とした。つまり、これらは無線を直し、無線状態が良好な高地に運び、救援を求めることを不可能とした。
周囲を見渡せば全方向に広がる湿地帯に、それを囲むように山々が聳え立つ。
そうこうしている内に車両はその自重でゆっくりと傾き、湿地帯に嵌って行く。このまま暢気に車中にいるわけにもいくまい。それはあり難くも将軍とその随行者たちも同じ考えのようで、頻繁にお互いの耳元で囁き合い、簡易式の会議が開かれていた。
そこにまぬかれぬ身の私は、私の唯一の随行者へちらりと視線を動かしたが、ハボックは相変わらず微動だにせず、窓の外を見ているだけだった。

「――マスタング大佐、」
漸く身内のみで行われていた会議を経てもたらされた、その薄ら笑いを抑えた響きは私にまた貧乏くじを渡すことを教えた。
外へ出てエンジンの様子を見てくるように。もしくは、軍用車両は君をここまで快適に運んでくれたのだから、帰りは徒歩で。私たちが帰りも快適に車両で帰るために救援を連れてきてくれたまえ、か?
そして、予測の範囲内、将軍はここで助けが来るのを待つと言った。さて、私は何をやらされることやら。そう思った矢先にハボックが漸く口を開いた。向こう張りに耳元なんかで囁く。
「大佐、救援を呼びに行く役を勝ち取ってください」
――勝ち取る? 勝ち取る必要などない。将軍はそれを申し下してくれるだろうから。
我々が今日ここへ視察に来ていることは周知のことである。そのスケジュール表も司令部や関係各所へ届けている。時間通りにそれが遂行されずとも驚かれはしないだろうが、それが数時間にも及んで滞れば、何かしらの救援が訪れるのは自然の流れではないのか。車両の傾きは問題だが深刻なほどではない。ここで5・6時間待てば良いだけの話ではないのか。それに車両のエンジントラブルは直すことができないほど深刻なものかは不明だ。直せる可能性もそれなりにあるに違いない。その上で、敢えて私に救援を呼びに行けというのは、いつもの嫌がらせの他に何と言うのか。手柄を独り占めにしたいのか。ならばそもそも私など呼びつけなくても良かろうに。この程度の手柄に一喜一憂する私ではないのだ。
「救援が必要だ」
どうだ間違いなかろう。自ら言い出す必要などないのだ。将軍自ら、湿地帯を抜け山を越え救援を呼びに行く役目を申し下した。
それに表立って反対するものはいなかった。恐らくこの場で私の味方といえばハボックのみだったから仕方ないのだろう。多分…。だが、その、この地を熟知しているハボックに異存がないのなら、よろこんでご指名いただこうではないか。
ほら、お前の望み通りになったぞ。
そう奴を伺えば、その顔にはいつの間にかいつもの茫洋とした雰囲気も、半分怒ったような、あー面倒臭いという不貞腐れた雰囲気もなかった。むしろ、将軍の随行者の一人を睨み付けている。相手も、ハボックを視界に留め薄ら笑いを浮かべていた。いささか問題がありそうだが顔見知りなのだろう。しかし、尋ねはしなかった。時間を一刻でも惜しむべきことをハボックの発散するぴりぴりとした雰囲気が伝えていた。それにそれを詳しく聞く機会はこれから山のようにあることもまた明らかに思えた。

「部下をたったひとりしかここへ連れてこなかったのは君の落ち度と言えよう。君はそのひとりを連れて行くがいい」
ことが思い通りに運び、嬉しくてたまらないという風情の将軍。それとは対照的に、ここに残ることになったものたちに同情的な視線を向けているようにも見えるハボック。それがなんとなく気になって敢えて将軍に逆らい、同行してくれるという有志を求めてみた。だが、嘲笑をもって受け流された。
将軍が口を開く。
「しばらくここで過ごし救援を待つか、この湿地帯を抜け山を越えるか。マスタング大佐に同行したいものは許可しようではないか」
もちろん、挙がる手はなかった。
ハボックはそれに見向きもせず、用意したバックパック一つを担ぎ上げ、大きく息を吸い込む。そして、何の躊躇もなくドアを開け、湿地帯に降り立った。足元を確認するように幾度が地面を踏みしめ、手を差し向ける。
「行きましょう。大佐」
その手を取って、かつてのハボックの戦場へ立つ。車両のドアはすぐさま閉められた。

生暖かい淀んだ大気がゆっくりと全身を包む。独特な臭い。この湿地帯独自の植生によるものだろう。見たこともない形の草々が多い。車両がいかに密閉されていたかを知った。
「大佐、言いたいことも、聞きたいことも色々とあると思うんですがね、まずはここを一刻も早く黙って抜けることが先です。いいですか?」
「――、」
開こうとした口元を、手袋を嵌めた大きな手が覆う。
「アンタはしゃべんないで。呼気に寄ってくるタチの悪い虫がいます」
顔を顰め、口を閉じれば、その手が内ポケットからビニール袋に入ったハンカチを取り出す。何らかの液体に浸ったハンカチ。それを取り出して、私の頭の上から絞る。髪の毛をくしゃくしゃとかき回して、それを頭皮と顔にまでまぶし、そのハンカチをマスクのように顔に巻かれた。
「虫除けです。いいですか、……」
ハボックが話しの途中で、目を凝らし遠くを見つめる。釣られるようにそちらを見れば、かすむように淡い影がうごめいている。そして、それがゆっくりと近寄ってくるようにも見えた。もしやあれは虫の大群なのだろうか。
疑問を乗せて奴を見れば、大きく頷かれる。ハボックももう口を開かない。ブロックサインで話の終わりを告げられた。つまり、あの大群の虫がその性質の悪い虫というらしい…。口を開けば、それをより呼ぶことになる。



ハボックの前を行く。いつものことだが、ここでは前より後ろの方に虫が寄るから、まだマシだという理由らしい。方向を変えるときは大きな手が後ろから伸びて、ブロックサインを作った。走るとも違うそれなりの速さの行軍。迷いない指示の下、ただ息を潜め、行く。
虫が呼気に集まるというなら、車両の排ガスにも集まるのではないか。ならば、先ほどの虫の大群の多くは、湿地帯に嵌っている2台の車両から出続けている排ガス付近に群がっているのか。振り返りはしなかった。それをハボックが許さなかった。

小一時間ぐらいか、黙々と進めば、湿地帯の中に島のように浮かぶ小高くなっている場所がところどころに出現しはじめた。正に島のように見えた。そこに生えている植生は遠目から見ても湿地帯のものとは異なり、近づけば、それはそれぞれが巨大な一つの岩でできていた。
ハボックのブロックサインがその内の一つに向けられる。登るらしい。先人たちの努力の跡に手を掛け、無事その上にたどり着くと、ハボックが担いだ荷物を降ろし、水筒を取り出した。それをまず渡される。
「いいペースで来れました。ハンカチ、外して大丈夫です。水は半分ぐらい飲んでください。10分ぐらいしたらまた湿地帯に入ります」
虫はここには来ないらしい。顔を覆うハンカチを外せば、ハボックが目敏く、また液体が少し残っていたビニール袋を差し出す。
「揮発性の虫除けなんですよ。まだ使いたいんで。えーっと、あんまし時間がないですが、聞きたいことありますか?」
聞きたいことは山のようにある。だが、当面知っておくべきことは何だろうと考えるが、こいつがいれば別に差し障りないような気になって、特にこれと言って今聞くことが思い浮かばない。それもハボックがいつの間にかもういつものぼやーっとした雰囲気に戻っていたかもしれない。
「ほら」
水筒を返せば、ハボックは口を湿らす程度しか含まず、バックパックに戻す。それに顔を顰めれば、ハボックが更に顔を緩めた。
「アンタ、ツいてます。さすがです。この時季はまだ雨季のはずなのに圧倒的に水量が少ない。ちょっと信じられませんが、確実にここは乾季に入りかけている」
「あー、ハボック少尉。普通はこういう熱帯地域では乾季の方が危険なのでは?」
一応、セオリー通りのことを言ってみれば、頷かれる。
「そうですね。でも、ここは乾季でドライアップするより、雨季で大量発生した虫に殺られる方が早いんですよ」
「やられる?」
何が、誰に?
「あの虫に、殺られます。あれの正体は小蠅なんです。ただ、普通の小蠅より大分小さいんですが、蚊のような針をもってて、吸血です。ギザギザで何度も再生する毒針で刺されたら、もんどりうつほど苦しみます。2・3匹に射されたら大抵立てなくなります」
「――立てなくなったことがあるのか?」
「ええ。ここに来た頃ですね。先輩に負ぶってもらいましたよ」
「…………」
この色々と鈍い奴ですらもんどりうつのか。それが辺りが霞むほど群生していると? 眼下に広がる湿地帯を見渡せば、虫の大群で淡く霞を帯びている場所がいくつもあった。
「呼気に寄って来るとは、二酸化炭素か?」
「はい。あと、アンモニアに寄って来ますから。多分、メインはアンモニアなんですよ」
アンモニアは呼気にも微量に含まれる。汗にも含まれる。そして、……。
「だから、小便はしないで下さい」
「分かった」
この戦場の過酷さ。その異常さ。それを切り抜けてきたこと。改めて自分の部下を見やれば、なんとも力が抜けきっていて、緊張感を削ぎ落とされる気がした。
「ハボック少尉、……」
「はい?」
「――。あー…、しかし、その、どうしても我慢できない場合はどうすべきだろうか…」
「アンタは我慢できます」
「いや、その、私といえども…」
「こんなところで普通に小便なんかしたら集中攻撃をうけて、最悪の場合、切り落とします。大抵は腫れ上がって、まともに歩けなくなるんですよ。それでタネとおさらばです。腫れ上がって無事だった奴を、オレは3人しか知りません」
「お、お前はその内のひとりか?」
「いいえ、違います。オレは小便しなかった方です」
「そうか。ハボック。交感神経が興奮してきたぞ。尿意なんか感じない。汗も出ない。呼吸数も減ってきた」
「それでこそ大佐です。あ、うんこもダメですから。小便とうんこがダメな理由は違うんスよ。うんこは尻です。ズボン下ろすじゃないスか。ここ一帯に超かぶれる草が生えてるんです。かぶれるっていうか、爛れて腐る? 火傷に近い感じ?」
「わかった。大便もしないぞ」
「はい、そうしてください。この吸血蠅は、基本、湿地帯に生えてるぺたーとした草のあるところにしかいません。理由はよく分かってないんですがね、そう思っていて大丈夫です。だから、この岩の上はその草が生えてないんでしゃべれるんですよ。うんこの方は針みたいな草ですから注意して下さい。でも、育つと蔦になる。生えてる場所によって色とか形とか違いますから。その辺の草に軽々しく触んないで下さい」
俄かに心配になって両手を見れば、ハボックが笑う。後ろからちゃんと見ていたから大丈夫、と。
「めちゃくちゃです。でも、ここではこれが普通なんスよ。何かと戦う以前にここで生き残れるのかっていう場所なんです。ああ、そろそろ時間です。また湿地帯に入りますね。これぐらいの虫ならここを突っ切った方が圧倒的に早いですから」
チームでどうにかなる場所ではない。だから、ハボックはチームを置いてきた。個としての強さや運がなくば、ここでは生き残れないのだろう。
2011/05/04