�V-15

私の武器は使い古しの農具と数本のライフル。
そして、――アエルゴの旧地雷原。

夜明けの気配にいち早く気が付いた鶏が早々に一鳴きを上げる。刻一刻と姿を現すはずだろう。今日も、晴天を予感させる見事な朝焼けが。出窓に腰をかけ、その荘厳なまでの光景をじっと待つ。息を詰め、手に汗を握りながら。心拍数は上がっていた。
大軍を相手にする訳ではない。この美しいだけの牧歌的な集落を制圧したところで、アエルゴにもアメストリスにも何の利益もないのだ。交通の利点すらないこの場所が軍事拠点なり得ることはない。こんな場所を通って、僅かでも自軍に損害が出ることを馬鹿らしいと思わせたら良いのだ。戦いを逃れる手立てはある。
深い青を湛えた空に鮮やかな赤が侵食しはじめた。陽が昇る。すぐに、網膜を焼くほどの光が辺り一面を焼くだろう。硬く握り色を無くした拳が小さく跳ねるように痙攣した。まるで私の中の恐怖を映すように。
打つ手はある。守る方法はある。この平和な集落はこのままだ。なのに、何故、私はこんなにも迫りくる戦火に絶望感を抱くのだろう。
私には何も無くなった大地に立ち尽くすことしかできない。何故、そのイメージを拭えないのだろう。
稜線から一条の光の帯が差す。それは刹那の猶予もなく地上のもの全てに容赦なく広がって行った。全てをなぎ払い。窓から入ってきた強烈な光に硬く目を閉じた。目蓋を通してすら、燃えるような赤が目を射す。目を刺す…。

――頬に当たる日差しが穏やかなものに変わり恐る恐る目を開ければ、空は晴れやかな青を、木々は瑞々しい緑を、木戸に巻きつくモッコウバラは輝かしい黄を、全てありのままの色を取り戻していた。ありのままの色を。
確実に戦火が迫っているのに、しかし、私は未だ戦いののろしを見つけられないでいる。確実に、この集落は取り返しの付かない事態に向かっていた。





階下からエミリーの朝を告げる声に応えて一階に下りると、部屋中のレースのカーテンが風に翻っていた。朝の清々しい空気とさわやかな日差しに満ちたダイニングの、白いクロスの掛かったテーブルの上には、すでに朝食が並べられている。
トーストされたパンとかりかりに焼かれたベーコン。新鮮な卵はボイルで。ヤギのミルクで作ったチーズとヨーグルトに、摘みたての苺。
今日は早いのねと、長女のメグに笑って言われたが、全く嫌味に聞こえないのは彼女の持つ人柄のなせるわざだと思う。４人の美人姉妹と共に食べる朝食はそれが何であっても美味しいものになることは間違いないだろう。
「――わたし、今日、ヤギの寝わらを全部取りかえるわ！」
末っ子のエミリーが、いつものように今日の予定を話しはじめる。とにかくしゃべるエミリーに、メグが朝食を取るように促し、次女のジョーが時々茶々を入れ、３女のベルが聞き役に徹する。にぎやかな朝食の時間だった。
古い汚れたわらは、いい肥料になるのよ。花が咲いたときに、もう一度肥料をあげると来年はもっとたくさんの花を咲かせてくれるの。今年は、隣りのおばあさまのお手伝いをして、一緒に肥料をまくわ！　毎年、美しい花を咲かせるためには、毎日の世話が必要よ。花の根をいためてしまわないように草を取るのは難しいわ。しぼんでしまった花もすぐにつんでしまわないとならないの。こういうことは代々受けつがれていくわ。たくさんのことを毎日くりかえして、みんな覚えていくのね。わたしがおばあちゃんになっても、同じように花を咲かせるために！　ああ、今日の仕事はとっても重大だわ！！
変わらぬ平和な朝の光景。それが、突然、何の前触れも無く奪われるのだ。戦火の臭いを感じた瞬間に生まれた焦燥感は、四肢に鉛を溜め込むように重くなる。
穏やかな朝食の時間はメグが予定が遅れるわよとエミリーを急かして終わりを迎えた。エミリーは全てに対して行動が遅い私を急かして外へ出る。私は鶏小屋へ、エミリーはヤギ小屋へ。
「そう、あなた、あまり鶏を探しに遠くに行ってはだめよ？　今日のおやつはメグねえさまのアップルパイなのだから」
別れ際、エミリーは言った。彼女は私の昼寝に寛大だった。

高く、どこまでも青い空。茂る青い木々。咲き誇る無数の花々。黄金の小麦畑。無数の姦しい鶏たち。畑仕事の野太い男たちの掛け声。にぎやかなおしゃべりの合間にもれる女性たちの笑い声。
生活のために働き、働くために生活を送る、この牧歌的な時間。

私は、この優しくも美しい集落と、ここに暮す人々の生活を守りたい。嘘ではない。嘘ではないのだ。





集落を見渡せる小高い丘の、木が不自然に揺れた。森の小動物や大型の鳥類が遊ぶ、軽い反動で生じた揺れではない。しかも、そこは鶏の大集団について回る昼食後、私のお気に入りの昼寝の場所でもあった。
まとわり付くように感じていた不愉快な気配の原因が分かった気がした。
――誰かが私を見ている？　誰かがこの集落を伺っている？
外来種のナゴヤコーチンの雌鶏を小脇に抱え、今日も林の中に分け入る。
そこは取り立てて変わりがないように思えた。無作法な足あとはなく、木々の若葉を踏んだ形跡もない。誰かが潜んでいる気配も感じることはできなかった。それでも確信があった。何かが待ち構えているという…。

そこには金髪の男が私の昼寝の定位置で寝ていた。近づいても起きる気配すらない。
「お前が戦火の先触れなのか…？」
木の根元に大きなバックパックを置いて、それを枕に大口を開けて眠る男の口から涎が一筋垂れていた。平和で、牧歌的で、長閑な。脇に転がっているライフルすら、この男の隣にあるだけで棒切れのように見えてくるから不思議だ。
思わず、その無防備にさらされた腹を踏みつけた。あまりに気持ち良さそうに男が惰眠を貪っているのがしゃくに障ったのかもしれない。そうしたら、さすがに男も目を覚ました。咎めるように開かれたその目が、まるで今日の空のように青かった。赤に侵食されても尚青さを取り戻す空に似た青に。