V-16
その集落は美しいかった。花。木に咲く花に、草に咲く花。赤、白、黄。多くの花びらをもつ花。大きな花びらをもつ花。小さな花。苔むしたレンガにモッコウバラの蔓が絡まり、無数の花が咲いていた。歴史を感じさせる大株のシャクヤクだけでなく、オレを越える背丈のオールドローズすら咲いている。
オレの実家の庭先にも咲いているそれらは、何代も前の人が植えたものだと聞いた。実家に咲くものよりも大きなそれは、何十、何百年とそこに受け継がれているものなのだろう。そして、そこに住む人間が日々世話をし続けなくてはああは見事に咲かないことを知っている。
集落は早生の麦が実りの時期を向えていた。
そこはなんて言うか、昔読んだ絵本に出てくるような世界だった。花が溢れ、静かに木漏れ日がきらめく、幻想的な世界。花壇の手入れや家畜の世話に追われる女たち。穏やかに農作業をする男たち。その集落全体を一望できる丘から、双眼鏡で覗く風景は故郷を感じさせる共通のものがあった。時間がゆっくりと動いている。きっと夕食に鳥を焼くにも暖炉の火で直火焼きだ。ちゃんと中まで火が通るまで4時間もかかる。
陽が出たら動き出し、陽が沈めば一日が終わる。ここに住む人たちはそういう生活を過ごしているのだろう。
集落全体がつぶさまで見渡せる、要所とも言えるこんな場所を無防備に晒していられることにこの集落の平和の歴史を感じた。この何も隠さない自明性こそが、平和を長く保ってこれた理由なのかもしれない。アメストリスにも、アエルゴにも干渉する理由を与えなかった。
こんな集落に住む人間なら、見ず知らずの河で流されてきた人間を助けてくれるだろう。だけど、これほどまでに開放的な集落で人一人隠すのは無理に近い。――いや、そもそも隠す必要はないだろう。そう。彼らは隠す理由を持ってないのだから。
ヒューズ中佐はこの付近一帯を虱潰しに探せと言った。通信手段も無く、情報自体から隔離された場所。彼らは自分たちが拾った人間がどういう生きものか分からない。そう。危険物を拾ったとしても危険物を拾ったと知らなければ、通報はできないのだ。
ふと、その長閑な風景の中に違和感を感じた。大群の鶏が集落を行く。鶏は頭のいい家畜だ。毎日の習慣を欠かさず行う。そんなものをわざわざ見張る必要はないし、こういう小さな集落でそんな穀潰しを養う余裕はないだろう。なのに、その鶏たちの後ろをついて回る青年がいた。黒髪の、中肉中背の少年のようにも見える青年…。その存在はこの光景の中で異彩を放っていた。――その穀潰しが突然振り返った。眼光鋭い、見慣れたその容姿に、思わず背筋に冷たい汗が流れる。
ありえねえ。いろんなことがありえないんだけど、こんな離れた距離で双眼鏡越しに目が合ったような気がすることが、まずありえない…。
何で、あの人はこんな平和な場所であんなにも気を張ってるんだ?
考えなくちゃならないことは山のようにある。どうしてこんな場所にいんのかとか、どうして連絡をくれなかったのかとか、どうしてこんな場所でそんな殺気の篭った目をしてんだとか。
でも、あの人は確かにここにいた。しかも、命に別状も無く、怠けて。そのあまりに普段と変わらない様に、全身の緊張が一気に抜けていく。そうすれば、強烈な睡魔がじわじわと湧き上がってきた。それはそうだ。ここしばらくまともに寝てなかった。東方にいる、きっとまだ眠れてない人たちのことを思えば、ここで一足先に寝るのは気が引けるけど、気温とか日差しとか、穏やかに吹く風とか、ここの全てのものが、オレに眠るように働きかける。
無用になった、ヒューズ中佐に持たされた大量の薬が入ったバックパックを草むらの上に下ろせば、ちょうどいい枕になって。考えるのはオレの仕事じゃない。だから、今は体の求めるままに眠ろうと考えながら目を閉じたところまでは、辛うじて覚えている…。
気持ちよく、穏やかな風を受けて寝た。近年まれに見る健やかな眠りだった。寝ていても、風が前髪を揺らして行く感覚が分かり、口元に笑みが浮かんでしまうような。そんなオレの幸せな眠りは、容赦なく腹を踏まれて、自分の口から出たカエルが潰れたような声によって妨げられた。
例え、どんなに疲れて寝ていたとしてもこのオレが腹を踏まれるほど接近を許してしまう相手は極わずかにすぎないし、わざわざ気配を殺して近づいてきて、腹を踏んづけるようなマネをする人はそうはいない。それにどんなにありえねえと思ったことでも、この人ならありえるとオレはすでに思ってしまっていて、集落から離れた山中に隠れていたオレに気が付いて、自分から来るなんてこともこの人ならあるんだろうと普通に考えていた。
咎めるように目を開ければ、やっぱりその人がオレの腹を当たり前のように踏んでいて。
ちょっともう。止めて下さいよ。全く…。
でも、そんないつもの軽口が出ることはなかった。確かな違和感。はっきりとした違和感。そのあまりの大きさに息を呑む。
揺るぎのない人だ。でも、結構だらしなくて、鈍臭いところもあるし、案外すぐ騙される。よく笑う。突拍子もないことを言うし、それに寂しがりやの気がする。あと不器用だと思う。仕事は合理的にさばけるくせに、人間関係となるとなんか上手くなくて。単に誠実ってことなのかもしれないけど。まあ、でもこんなことは、この人の懐に入っているからこその印象だ。だからこそ、猜疑心、警戒心、不信感。―――そんなものが自分に向けられる日が来るなんて思いもしなかった…。
オレを見下ろした、オレを写した黒い瞳が迷いに揺れる。
こんな人は知らない。この人は、オレの知ってる人じゃ、ない。
向けられる視線に、オレは何一つ言葉を発することなどできなかった。いやな夢を見ている。でも、目が覚めてもあの人がいないのなら、それでもまだ夢を見ている方がマシな気がした。
『―――なんだ。空の色が反射してより青く見えたのか。デジレ王子はこんな気持ちだったのかもな。ちょっと感動した』
呟きは流暢なアエルゴの公用語だった。何を言っているかなんて聞き取れなかった。
ただ、オレにはアエルゴの公用語とだけ分かっただけだった。
もし、この人がアエルゴ人で、大佐でないのなら、ここでアメストリスの軍人だとばれたら命はないだろう。 油断していた。完全に。別人の可能性なんてはなっから考えてなかった。大佐に生き別れの双子の兄弟がいて、それがアエルゴにいたなんて話は聞いたことない。でも、大佐がアエルゴの公用語を話せるなんてことも聞いたことなかった。
まだ腹に足を置かれたまま、身動き1つ取れず、高まる緊張感に嫌な汗が背中を伝う。なのに、オレは阿呆のようにただ呆然と見上げることしかできなくて。何を、何て言えばいいのかわからなくて、でも、言いたいことは山のようにあって。
付き合いは、もう短いなんていえないのに。別人である可能性より、大佐のことで知らないことがあるという現実に突然横っ面を殴られた気分だった。口を開いたまま、こんな時に何も言い出せない自分の頭の悪さを罵倒した。
別人かもしれないと考えながら、別人であることなんか頭から考えてなかった。
――声も、手も、髪も、あの人以外のものではありえなかったのに。
大きな風が吹いて木々を揺らした。葉擦れの音が辺り一面を覆う。
黒い髪も、サラ、と音を立てて大きく煽られた。ああ、ほらやっぱり大佐じゃん。
そう思う気持ちはもう理屈じゃなかった。
突然、大佐が脇に抱えていた、茶色の雌鶏が飛んだ。
その鶏は、わざわざ踏みつけられたままのオレの頭の上に着地した。この緊迫した場面で。一瞬の沈黙の後、その人は堪えきれないと言わんばかりに、高らかに聞きなれた明るい笑い声を上げた。
「ああ、そうだな。藁の色だものな!」
その言葉に応えるかのように、頭の上の鶏がくるると鳴く。
アンタの中で何かが欠けてる。でも、それでも変わんないものがあって、間違いなくアンタなんだと思った。
自分の知らないことがある。そんな残酷な事実をこんな時に知る必要はないだろう…。
それでも、ひどく久々の気がする大佐の明るい笑い声に伝られるように、こみ上がる笑いを止めることはできなかった。