メモログ09
大佐はつらいよ 東方純情編 (全編は「花も嵐もロイ・マスタング」に収録)

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久しぶりの休みの日、その人は突然ふらりと現れて言った。デートに連れて行ってやるぞと。
休みの日に大佐んちでごろごろして、ちょっと散歩がてらに公園に行って買い食いしたり、マーケットに行って買い物したり、メシ食いに行ったりすんのと、わざわざデートを銘打ってどっかに行くのに何か違いがあるのかと思ったけど、はあ、とだけ言って、いつものように大人しく大佐に従った。



しばらくいつものように一列縦隊で並んで歩いていれば、大佐はバス停で止まった。驚いたことに、移動にバスを使う気らしい。アンタがバスに乗るなんて信じられないと耳元に囁くと、生まれたときから金持ちだったわけではないと逆に笑われた。それでも、大佐が小銭を払ってバスに乗るなんて不思議な光景だった。
「バスで行くんスか?」
にっこり。大佐はいつにも増して楽しげだった。
だけど、デートだなんて言うわりに大佐は自分で重いものを持つ気など全くないらしい。まあ、いつものことなんだけど。でもせめてこれがデートだと言う気だったら、一瞬でも自分で持つ素振りを見せてくれてもいいんじゃないのかとふつふつと思った。もちろん、思っただけで口から漏れることはない。日頃の訓練の成果だ。オレの手には大佐がバス停に行く途中で買った、一体何人分なのかと思うほど大量の弁当があった。石畳にバスが跳ねる度、大量の弁当がずっしりと重みを増すほどの。

住宅地を抜け、バスは進む。乗客は一人ひとりと減っていき、バスから降りたときは誰もいなかった。どこを見ても代わり映えのない工場地帯の中のバス停の一つ。仕事以外でこんなところに来ることはまずない。なのに、オレよりこんなところに来る機会なんかなさそうな大佐が迷いなく歩いた。足早に。それは、大きな荷物に気を取られていたら置いていかれそうなほどだった。人もいない。猫すらいない。入り組んだ細く薄暗い路地。弁当の入った袋が壁やフェンスに容赦なくぶつかった。
まるで自分の庭のように淀みなく歩いていた大佐が漸く立ち止まったのは長大なフェンスに囲まれた工場施設の小さな門扉の前だった。そして、一かけらの躊躇もなくそこから中に入る。その出入り口には警備員が不在で鍵も掛かっていなかった。丁度昼時だから飯を食いに行ったのかもしれないし、全ての門扉に警備員を立たせているわけではないのかもしれない。ただこんな不審者たちを容易く侵入させてしまうのは人事ながら不安になってくる。
工場内の建物には通し番号しかかかれていなくて、外観を見ただけじゃ何の工場か分からなかった。複数の巨大なボイラーからは蒸気が勢いよく立ち上がり、人の姿は見えなくても工場が稼動していることは分かる。
大佐は何の気兼ねもなく同じような形の建物の隙間を抜け、一際大きな建物の裏口の前で立ち止まった。大型シャッターの脇のドアをコンと一回叩くと、警備員がすぐドアを開け中に招き入れる。その周到さに事前に話しが通っていたことを知った。

室内の暗さに目が慣れても、そこは暗かった。
オイルに汚れた壁を這うむき出しの大小の配管に、通路にところ狭しに置かれた鉄くずの入ったいくつもの木箱。だけど、寂れた工場という印象は、いくつもの部屋を通り過ぎて行く内になくなった。奥に入り込めば込むほど、設備は整備され手が行き届いていた。人の姿も格段に増えて行く。大掛かりな機械の周りには作業服の男たちが真剣な目をして作業工程を見つめていた。その脇を通るオレたちのことなど見向きもしないで。
分解され、半分だけ形をなくしたモーターに、無造作に積み上げられたシリンダーにシャフト。職場で見慣れたものの、部品があちらこちらで作られている。
「大佐、ここって…」
工具を握る真剣な目の職人たちに、モーター音。充満するオイルのにおいとハンダの臭い。一歩進む度にじわじわと湧き上がってくる興奮を自覚する。
「――以前、この敷地内にどれだけの施設があり、どれだけの人が働いているかは、聞いた気もするが忘れてしまったな」
作りかけのエンジン。鋳型で抜かれたばかりでまだ成形の整ってない鉄板の一部。骨格だけ組みあがった車体。無造作に置かれた多くのタイヤ。
きっと、ここはオレ一人なら絶対入れない場所だ。この人が来るからこそ門扉は無人で開けられていた。大掛かりな機械が、設備が、誰でも彼でもウェルカムな訳でないことを堂々と証明している。
オレは元々こういうものに憧れて軍に入ったことを思い出した。自動車なんて高級なものはオレの生まれ育った田舎町には一台もなかった。都会に行ったことのある近所のオヤジに話を強請りに行ったりして、数年に一度、遠くの町から視察に来る軍人が乗ってくる自動車を指折り数えて待ってた。実物が砂埃を舞い上げを走ってるのを見た夜はいつも眠れなかった。小さい頃は軍に入れば運転し放題だと思って、漠然と自分の想像してたっけ。
一度外へ出て、また別の棟へと渡り歩いて、なんてことはない普通のドアの前で大佐が漸く振り返った。
もうオレは手に持っていたものの煩わしさなんか忘れていた。そのドアの向こうには小さかった頃の時間へ続いてる。走行してるエンジン音が遠くに響いていた…。

「お前はここが何の工場だと思う?」
イタズラに成功したような面持ちで大佐が問う。
痺れた。
アンタは何をしたらオレをどれだけ喜ばせられるか本当に良く知ってる!
「―――――車。自動車」
しかもコースを持ってる。工場内に、だ。
「その答えでは満点にはほど遠い」
待ちきれなくて、お許しがでる前にドアノブに手が伸びた。カチリと音を立てるシリンダー錠に、ギィッと唸る重いドア。鋭い光が差し込む。外に続いていた。
「複数のメーカーが協賛して開発している自動車工場だ。この国で最も新しい自動車がここにある」
耳をつんざくほど大きなエンジン音が大佐の声を遮った。

開け放ったドアからの、突然の外の明るさに一瞬視界が奪われた。明るさに目が慣れると、そこに工場に囲まれてぽっかり開いた空間に作られた、大きな試運転用のオフロードコースを見た。

コース場に出ていたスタッフたちが珍客に気付いて手を止めている。帽子を取り、立ち上がって会釈をする人もいた。その視線は闖入者を排除しようとする嫌なものではなく、好奇心と好意に満ちたものだった。

大佐は、コース全体が見渡せるように作られた桟敷に立つ責任者らしき年配のおっかなそうなじいさんを見止めて、そっちに歩みを向けた。
「ハボック、私は彼と少し話をして来る。お前は皆さんと一緒にその弁当を食べていなさい」
大佐はそう言ってオレをコースに置いていってくれた。
素晴らしすぎる!



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万年軍曹だったオヤジは言った。
軍に入れ、と。軍に入っても、車の仕事はできる。しかも最先端の設計に技術を手に入れることができる…。
確かに、国中に戦火を燻らせているこの国の軍は戦争の道具の開発に力を入れている。でも、だからと言って、そう簡単に軍に入りたいとは思えなかった。技術に憧れて軍に入ったオヤジはたったの一度も技官になるチャンスにすら恵まれず、退役を迎えたのだ。例え、軍に入っても、やりたいことはできない。オヤジの人生がそのことを俺に教えた。だったら、望むことをする人生の方がマシじゃないのか。そう思って、俺は軍に入隊しなかった。俺の決断を聞いたオヤジは、静かにそうかと頷いただけだった。

町工場に就職して必死に働いて時間を忘れて働いて、ついに憧れのメーカーから引き抜かれ、更に心血を注いで働いた。そして、この国で一番最先端の自動車をつくる、複数のメーカーからなるビッグプロジェクトの一員に抜擢された。それは、軍の技術部が作った中古自動車を解体して、最先端の設計と技術を学ぶことから始まっていた。

「――レボン。どうして軍に入らなかった?」
このプロジェクトのボスは軍の退役技官出身だった。
最先端の自動車の需要は軍こそがもっとも高い。最大にして唯一のターゲットこそ軍だった。だからこそ未だ軍に影響力を持つというこの人がボスに相応しいということなのだろう。しかし、それ以上にこの人の見識は群を抜いていた。誰もがその知識を得がたく思い、一言一句聞き漏らすまいとした。
俺にとってこの人は尊敬に値するが簡単に尊敬できない、そんな存在だった。軍の技官。オヤジが憧れてなれなかった軍の技官。そして、この人が俺のオヤジを知っていたことも、言い知れぬ劣等感を刺激した。
「親が軍人だからと言って、息子も軍人にならなくちゃいけないなんてことはないでしょう? 好きなことをしたかったから、軍人にはならなかったんです」
そう言うと、この人も静かに頷いただけだった。

より速く走るためにエンジンの開発は急務だった。より速いエンジンの回転を得るためにシリンダーやシャフトの研究は昼夜を問わず行われた。シリンダー内に空気とガソリンの混合気体をファンで強制的に圧縮して送り込み、シリンダー内で電気スパークを起こし点火させる。これによって今までよりもずっと大きなエネルギーを産み出すことができ、速い加速を得ることに成功した。
走行スピードが飛躍的に上がったことで、タイヤの開発も必要となった。主流であるソリッドタイヤはスピードが上がると横滑りを起こし著しく走行が不安定になる。より速い加速には、石畳や荒れた路面でもしっかりとグリップする空気タイヤが適していた。だが、空気タイヤはよくパンクを起こし、多くの埃を舞い上がらせる。俺たちは空気タイヤの寿命を延ばすため、厚いゴムの下に、厚いリブ付きの布地を合わせることにした。
研究と開発で追われ、充実した日々を送っていた。

そんなある日、工場内が俄かに浮き足立った。
ボスがゲストを連れて来たらしい。それが誰か教えられることはなかったが、とにかくすごい人らしいという噂だけが飛び交っていた。そんな最中、ボスに工場内にある唯一の応接室に呼ばれた。

そこにはボスと、金持ち風の若い優男が一人いただけだった。
「彼がレボンの一人息子、ウィリアム・レボンだ」
こんな男になんでオヤジの息子として紹介されなきゃならないのか。気持ちが苛立つのを感じながらボスの手前名乗った。
「ウィリアム・レボンです…」
無愛想な挨拶にも、女が騒ぎそうな笑顔を浮かべた男は立ち上がって手を差し出す。その白い手はあまりに汚れとは無縁で。―――躊躇は一瞬だった。オイル塗れの自分の手のように汚れればいいと思って、その手を握った。
「――はじめまして。私はロイ・マスタングと申します。レボン元軍曹にはたいへんお世話になりました」
男はあまりに普通に名乗りすぎた。この東部にいていやアメストリスにいて知らないものなど一人もいないだろう名前を。思わず驚きに目を見開いた俺にボスが本物だと笑い声を上げた。
もし彼が本物のロイ・マスタングだとしたら俺とたいして年が変わらなかったはずだ。でも、彼は全くそうは見えなかった。
「若く見えるだろう? これが軍服を着ていたら、まだそんなに疑われないんだがな」
学生のような雰囲気で彼はボスの言葉に少し困ったように笑った。汚れた手など少しも気に留めないで。

ボスは東方方面軍の技術部にも在籍したことがあると語った。ならば、その現役の司令官とも面識があるだろう。でも、何故、俺がここに呼ばれるのかが分からなかった。
「一度機会があったら、お前に会わせたくてな」
国家錬金術師。商売敵とも言える存在。彼がこの世で最も速い車でも練成してくれるというのか。この国ではいつだって国家錬金術師の前では二の次だった。

「レボン元軍曹は独学で多くを学ばれていました。技官への推挙も数多くありましたが、ご本人が承諾されませんでした。現場に立つ一下士官でいることを選んでくださった。東部は内乱が長く続いたために経験が豊富で優秀な現場をまとめられる下士官が少ないのが現状です。―――レボン元軍曹は部下からの信頼がとても篤く、ご自分が行いたいことより、行わなければならないことを優先してくださった。私のような若造が言うのもおこがましいですが、東部にはなくてはならない存在です。今、退役を迎えられて漸く技術部に外部顧問として携わっていただいています」
高級ソファに向かい合って座らされて、ボスが促すままに彼はオヤジのことを話し始めた。俺の知らないオヤジの話を軍人が話す。
「――外部顧問…?」
「アドバイザーとして、中央への招聘も近いでしょう」
「………………」
毎日のように顔を合わせているのに、そんなこと知らなかった。言われもしなかった。
「マスタング大佐は、東部内乱中から親父さんと面識がある」
オヤジが内乱時のことを俺の前で話したことは一度もなかった。家ではいつも物静かに本を読んでいるオヤジ。
「あの頃、レボン元軍曹は戦地で故障した車両をちょっとした道具だけで直してしまうものだから、誰にとってもスーパーヒーローでした。特に最前線にいたものたちには。故障しそうな車両に同乗して、最前線まで物資を届けてくれたことは一度や二度ではありません。私も東部に赴任してすぐにご挨拶に伺いました。ご健在で何よりでした」
「奴は凄かった。技官がアレはどう直したらいいか、コレはどうしたらいいかって聞きに行くぐらいで、オレは恥ずかしかったものだ」
「ケンカされたとお聞きしましたよ」
「誰からだ?」
「ドクターです。ドクター・ノックス」
「クソ。口止めしていたのに。奴め…」
「五分五分だったそうですね」
「技官でもないくせに勝手なことをするなと言いに行ったら、返り討ちにあった。そんなことを言っている場合か、ってな。あの頃は前線までなかなか物資が行き渡らなかった。後陣じゃ技官たちすら前線には国家錬金術師がわんさかいるんだから、届かないなら届かないで何とかするだろうって考えるものが多かった。レボンに殴られて目が覚める思いだった」
懐かしい思い出とばかりに二人は笑った。でも、オレは何も知らない。何も聞いていない。二人がオヤジを褒めれば褒めるほど、齟齬間が酷くなる。
「―――でも、オヤジは勲章一つもらっていない…」
どれだけスゴイと言われても、この二人がもらった山のような勲章のただ一つもオヤジはもらっていない。
「―――、……………」
俺のたった一言で彼の顔は強張り、楽しげな色が掻き消えた。表情のないその整った顔は白さが際立って病的にさえ見えた。沈黙が息苦しい…。

「レボン。勲章がないことが、勲章になりえることもある。親父さんは人を殺さなかった。人を生かすことに尽力した。マスタングとは逆だ。勲章を与えられることが必ずしも栄誉になるとは限らない」
軍に入ることを拒んだ俺にはわからない話だ。殺すことも、生かすことも、自分の手の届く範囲だけで十分だ。だけど、笑顔の消えた顔に、子どもをいじめた後味の悪さに似た罪悪感が生まれていた。
「―――すみません。そんなことが言いたかったんじゃないんです。オヤジのそんな話、今まで聞いたこともなくて…」
一瞬、黒い目が伏せられてから、あなたのおっしゃる通りだと思いますと、彼は言った。
「レボン元軍曹はご自身のことを多く話す人ではありませんでした。私は話しすぎたようです。申し訳ありませんでした」
「………………………」
立ち上がって深く下げられた頭に何を言っていいのか分からなくなった。彼は俺をオヤジの息子だというだけで親しげに笑ったのだ…。その後彼はもう軽やかに話すことはなかった。



彼をひっそりと裏口から見送った。たった二人だけの見送り。迷子になるなよとボスに言われて、少し自信がありませんと苦笑を浮かべ、一人で帰って行くその背が寂しそうに見えた。

「親父さんが、何で退役を迎えてもここにこないと思う? 何で軍に拘ると思う?」
万年軍曹だったオヤジ。
「軍に奴がいるからだ」
自動車よりも、ロイ・マスタングを選んだ。風評とは随分違う焔の錬金術師の素顔を知ってしまえば、それはそれほどおかしなことには思えなくて。
「だから、一度会わせたかったんだが…」
「あの人は何をしにここへ来たんですか?」
オヤジの話の後は、ボスが話す自動車の最新の開発技術の話を真剣な目で聞いていた。でも、たったそれだけのために、東方司令官である彼がこんな郊外の工場まで出向いてくるとは思えなかった。

「あの童顔に騙されて、奴を侮るものは多いし、あの顔のせいで、奴の第一印象は軒並み悪い、男に」
作業着の懐から煙草を取り出し、ほらと向けられた。遠慮なくそこから一本もらうと、ボスがにやりと笑った。普段は厳格で少し怖い感じの人が、そんな顔をするとオヤジとケンカするほど血気盛んでやんちゃな印象にがらりと変わる。
「―――何をしに、か。奴が東部に左遷されて間もない頃、ふらりと技術部に来て、戦地で本当に役に立つ車が欲しいと言った。アレはああ見えて、最前線の将だ。常にこの軍にいる限り。輸送の重要性を身に沁みている。だからこそ本当に役に立つ車が欲しいと言う」
もう姿は見えない路地に、彼を思う。その背は多くの命を背負うほど、大きなものには見えなかった。
「もちろん、軍も自動車の研究には余念はないが積極的でもない。奴が幾度もその重要性を報告し掛け合っても中央は無しの礫だった。上層部が重い腰を上げるまで待てなかった奴は軍内で行おうと考えていた計画を民間に委託できないかと考えた。―――つまり、ここでしている計画の発案者は、元を正せば、奴だ。何をしに? 自分が発案した計画の進行を見に来たんだ」
「……………」
「複数のメーカーに話を持ちかけ、何回も話し合いの席を設け、説得し、利潤を解き、金を出させ、実際にこの計画が動くようまとめたのは奴だ。速くて丈夫で安全な自動車で、物資を安定して前線に届けるために」
だから、この人がこのプロジェクトの長を務め、オヤジは外部顧問をしているのか。
貰い煙草は火をつけたまま、吸うことなく短くなっていった。それはボスの手の中にある煙草も同様だった。
「今、現場を仕切っているのはお前だ。だから、知っておいて欲しかったんだ。今作っているものは、いずれ軍のコンペディションに参加する。上層部と談合しているメーカーとの戦いになるだろう。その時、絶対的な性能の良さがなくては話にならない」
自分が立案し立ち回って実際にプロジェクトが回る段階になって全部を他人に任せる。それはどういう気持ちなのだろう。

「―――どうして、ボスはこのプロジェクトに参加したんですか?」
「面白そうだったからだな。それに尽きる。今、この世界で最も速い自動車を作る。なんかワクワクしないか? オレは所詮技官だからな。この年になってもまだ夢を見る。お前もそうだろう?」
 子どもの頃の夢を追って、今ここにいる…。
「だが、お前の親父は違う。大局を見られるんだ。親父さんはどうして軍が科学技術を二の次にするのかを知りたいと言った。科学技術は錬金術の根幹を支える柱の一つであることに違いはないのに、蔑ろにしすぎだと。―――軍は、この国は、錬金術の発展を望んではいない。錬金術師を集めて国家で飼うのも、国の目の届く範囲に置いときたいからだろう、と言っていた」
もっと詳しく知りたきゃ、オヤジに聞け。そう言うとボスは、ほとんど灰になった煙草を一吸いしてから、携帯灰皿に捨てて戻っていった。ポイ捨てするなよ、と残して。

知らないことが多すぎて、眩暈を感じた…。
八つ当たりのように、当たり前のように、彼に失礼なことを言った。失ってから、自分に向けられたあの親しげな笑顔の価値を思い知る。

もう一度話しをする機会が欲しくても、その後、彼が工場に訪れることはなかった。



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オペラ座の幕間、ボックス席は意図的に人払いされた。設計上、ボックス席は防音が際立って優れているため、極めて私的なことを話せる場所として最もよく利用されていた。
 舞台には中央の著明な作曲家の演目が掛かっていた。話題の舞台。それを純粋に楽しみにここへ足を運ぶものはどれほどいるのだろうか。客席には経済界の重鎮や高級軍人が多くを占めている。その目的はもちろん観劇などではなかった。

「マスタング中佐。実際のところ、どの程度ご尽力いただけるのでしょう」
開口一番、容赦のない一言だった。時節の話題も何もかも省き、この席で最も話したかった話題を先方が単刀直入に口にする。様式美を最も重んじる世界にいる人がそれを一切省いて。―――それは私に掛ける時間を惜しんでのことか。私があまりに無力に見えるためか。疑いは一瞬だった。彼には取るに足りない存在にかける時間など刹那もない。
「マスタング中佐。内乱で老舗も新興も一緒くたになってしまった東方は確かに軍の事業に新規参入しやすい風潮はあるでしょう。――しかし、それは軍に大口の需要があってのことです。軍はまだ内乱を続けようとしているのですか? それとも、また戦争をしようとしているのですか?」
彼の息子よりも年若な私に対して、その目に侮りはなかった。直接的に語られる言葉は本音が滲んでいる。望んだ支援を得ることができないだろう。今は。
「東方には未だ支援を必要としている地域が多くあります。テロも頻繁に起こっています。近年は自然災害も増えています。故障の少ない輸送車を軍は常に求めています」
我ながら若く青いことを言っていると思う。安いヒロイズムすら感じる。だが、これが現状であり、事実でもあった。
常に危険に晒された現場を思えば、少しでも良い車が必要だった。少しでも良い車でその命を守らせたい。内乱も戦争も終わらない。イシュバールが終われば、今度は別な地で戦火が上がる。この国は常に血を求めている。
長く目を閉じていた彼は同意するように大きく頷いた。彼の近しい人にも東部内乱に出兵した軍人がいるのかもしれない。いや、経済界に身を置くものが軍の動向に我関せずではいられまい。戦火の現状を認識しているのだ。輸送車の必要性も。
「――マスタング中佐。例えば、あなたが軍上層部へ上奏します。仮にあなたの求める性能の良い輸送車があったとして、それを是非、軍用車として採用したい、と」
すでに戦地での輸送車や輸送路の重要性や、今現在使用している車体や輸送路の軟弱さは報告書としてまとめて提出してある。その上で性能の良い輸送車が真に必要だとも。しかし、私の報告書は誰にも読まれず廃棄されているだろう。音沙汰はとんとなかった。
「問われるでしょう。何故、あなたはわざわざ民間の自動車を軍の要に採用するのか。何故、軍で開発した自動車ではならないのか。しかし、これすら、あなたの才覚で解決したとしましょう。軍は需要を自覚します。―――その上で、仮に我々にその車を作れたとして、我々のような軍閥とつながりを持たない民間業者がその需要を獲得できるとお思いですか? 軍高官の後ろ盾なくば、受注業者に参入することがいかに難しいか、あなたもお分かりでしょう」
軍内において私の名前など何の力も持たない。どれほどの勲章を授与されたところで、どれほど英雄と称えられたところで、上層部にとって私はただの大量殺人兵器であるという認識は変わらない。私がまだ私自身が武器以上のことができることを示していないからだ。
「あなたは東方司令官といえども任期は浅くまだ何も成していない。しかも、あまりに若く中佐に過ぎない。そんなあなたの後ろ盾のみで莫大な事業を行うには大いに不安があります。私たち一族だけでなく、会社の人間、しいてはその家族まで路頭に迷わせることは出来ないのです」
率直に言葉を尽くしてくれることこそが、今の私に対する最大の評価だった。そして、その誠意こそが将来の私に対する期待でもある。
「この軍事国家において何か成すと言うならば中佐という地位はあまりに低すぎます。しかも、あなたは軍閥でもない。後ろ盾も持っていない。しかし、10年後に同じ話しを持ってきてくださったなら、私は持っているもの全てをあなたに賭しても良いと思うかもしれません」
しかし、私が10年後東部にいるとは限らない。より遠い場所へ左遷されてしまっているかもしれない。中央に返り咲いているかもしれない。そうして、この問題に携われるかは不明だ。
「それに、………。老婆心ながら言わせていただければ、今はこんなことに関わっている時期ではないのではありませんか?」
オペラ座中にハンドベルの音が鳴り響いた。最終幕の開く合図はこの会合の終わりの合図でもあった。彼の視線がふっと一瞬、私から緞帳が落ちたままの舞台へ向う。
彼が私のために用意してくれた時間が終わった。

まず自分の立つ場所を確立しなくては何を成すどころではない。今、私は自分の足場を固めることに全力を注がなくてはならない。自分の能力を示さなくてはならないのだ。―――頭で理解していても、感情は付いて行なかった。一つをやり終えてから、次のことを行っていたら多くのことが間に合わない。しかし、今はこれで満足すべきなのだ。縁を結ぶことはできたのだから。そう言い聞かせ、席を立ち、深い礼を取る。司令官として実績すらない、中央から左遷同然にやってきた私と言葉を交わしてくれただけで十分礼に値する。東部の人脈はなきに等しい。それを一つ一つ作って行き、多くの協力を集めなくては大きなことは成せない。
「―――マスタング中佐、………」
硬く握り締めた拳。自分の至らなさと、協力を得られない悔しさ。その両方など容易く見破られていた。その声色には若さへの寛大さがあり、さらに礼を深くし、その場から退出した。
フロアには正に客席へ戻って行こうとする、着飾った人の群れ。その流れに逆らい、華やかな空間を後にした。

オペラ座の正門に立つ着飾った衛兵に無言で見送られ、闇夜へ向かう階段を降り立ったとき、実にタイミングよく一台の軍用車が見慣れたシルエットを運転席に乗せて滑り込んできた。運転席が開かれるより先に手で制し、自ら後部座席へ乗り込む。
「中佐…」
呟かれるように漏らされた非難の色。ご自分でドアを開けてお乗りになる軍高官はいません。だから、オペラ座の衛兵にすら軽んじられるんです。きっと彼女はそう言いたいのだろう。しかし、それは何回言われたところで正したことはなかった。いつしか彼女はそれを口には出さなくなった。何故なら、彼女は声に出さなくとも雄弁にそれを語る術を持っていたからだ。
車が彼女の不満を乗せて荒々しく発進された。私は慣性に従い、ゴツンと勢い良く窓ガラスに頭をぶつけた。
「―――ホークアイ…」
「はい」
バックミラーに映ったアンバーの瞳が冷たく私を見ていた気がして、思わず姿勢を正した。
「えーっと、話にもならなかったよ。まあ、それでも時間を設けて、話しを聞いてくれただけあり難いと思わなければならないんだろうけどね。若さと言うのはなんとも歯がゆいものだな」
「……………」
彼女の冷ややかさは変わらない。
中佐という低い地位でもって東方司令官に任命を受けた私が、東方で人脈を作るよりも先に行わなければならないことは山積みにあった。しかし、私は既にしばらく東部に腰を据えることを決めていた。私の基盤をここに作る以上、人脈を築いていくことは必要不可欠だった。
「―――時間が解決することではありませんか?」
「ちゃんと種をまいておいたらそうだろう。ホークアイ。私は最後の最後で自分を助けるのは、この才覚でも錬金術でもないと思っているよ」
「……………」
「人間が。縁を結んだ人間こそが最後の最後で私の窮地を救うことになるだろう。だからこそ、何を押しても人脈を作って行くことがとても大切なことだと考えている」
だから、もう少し私のわがままに付き合ってくれ。あれもこれも手を出す私のわがままに。
「――司令部に戻ります」
少しだけ車のスピードが落ちた気がした。



東部に来たときからそう間を置かず、考えていた輸送車の件は、彼の息子さんを中心とする若き後継者たちの力によって動き出した。
彼はその後も幾度か私のために時間を作ってくれ、最終的に若い者同士のほうが話が合うだろうと息子さんが参加している次代の経済界を担う若者が集っていたサロンに紹介してくれた。

――若いからこそ、失敗を恐れず大きなことができる。親父たちにできないことを俺たちが行ってみましょう。それに、マスタング中佐。今からこの計画を実行に移して、納得の行くものができるのにどれくらい掛かると思いますか? 1年や2年じゃ無理でしょう。10年掛かるかもしれません。でも、俺たちは5年を目処になんとかしたい。その頃、あなたは中佐のままでしょうか? 実績がなにもないままでしょうか? 軍界でのあなたの立場は今のままでしょうか? 俺たちが実際にこの計画を動かしてみましょう。俺たちに何ができるのか試してみたいとも思います。成功が約束された勝負なんかしたって面白くもなんともありません。それでは老人のゲームです。

足繁くそのサロンに通い、忌憚ない意見を言い合えるようになってから、彼らは、完全にそのプロジェクトを任せるという条件で、協力を申し出た。
少しずつではあったがメーカーに話しを聞いてもらえる機会が増え、実行に現実味が帯びてきた頃だった。私は彼らの条件を呑むことにした。軍界で行うべきことに専念するために。

今では数ヶ月に一回、プロジェクトの進行が報告される。
それが彼らの発案者である私への誠意だろう。



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試作車が組みあがり、倉庫一つ解体して作った更地に試乗コースを作って、さて誰が試運転をするかという話になった。始めはこのプロジェクトに関わった誰もが自分が乗ってみたいと言い出したが、そう時間を置かず、未知のスピードに対する恐怖心が湧いてきて、次々に辞退して行った。
「そうか。誰も乗らないんじゃ、どうしようもないな」
ボスはそう言うと、運転に慣れている軍人を貸してもらおうと言った。

それから数日が経って、突然ドライバーが来ることになった。朝からコースの整備や記録器の調整、試作車の搬入に追われながらも、一体、どんな軍人が乗ることになるのか、話が尽きなかった。
正午を少し回ってから、その人たちは入ってきた。試運転用のコース全景を見ることができる、高い場所にあるドアの一つから。
マスタング大佐だった。
思わず作業の手を止めて立ちあがると、マスタング大佐と目が合った。会釈。彼の顔に何の気兼ねもなく、いつかのような笑みが浮かんでいるのを見た気がした。慌てて帽子を取って会釈を返すと、周りの奴らも作業の手を止めて彼を仰ぎ見た。
俺は彼が俺のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「レボン、誰だ? あの人たちがドライバーなのか」
「じゃあ、軍人かよ。マジで?」
「――ロイ・マスタング大佐だ」
「うそ、ロイ・マスタング…?」
「すっげえ、―――若え…」
相変わらず私服だと軍人には見えない。着てるものが良さそうだから辛うじて学生には見えないだけで、やっぱり明らかに年下に見えた。自分たちとそう変わらないはずなのに。
でも、みんな同じような印象を持ったことを知って、俺だけじゃなかったことにほっとした。

マスタング大佐は愛想良く俺たちに挨拶を返しながら、ボスのいる桟敷席に上って行った。その前に片手に大きな荷物を下げた、連れの長身な金髪の青年と少し言葉を交わして。
金髪の青年は心持ち弾むように近寄ってきた。
「えーっと、ジャン・ハボックと言います。はじめまして。これ、メシなんですけど、よかったら」
 ジャン・ハボックと名乗った長身な青年は、興奮を抑えきれないように目を輝かせてにこやかに笑った。大らかな、人好きする笑顔だった。――マスタング大佐に、この国で最も新しい自動車がここにあるって聞きました。その、それってこれですか? エンジンが掛かったままの試作車を興奮を隠しもせずに聞いてくる。その様子は、小さい頃からの夢とか憧れを引きずってる自分たちとどこか同じにおいがした。
誰ともなく、そうだぞ、すごいだろ! と声が上がる度に、すげぇすげぇと返ってきた。

「えーっと、ハボックさん。軍人さんですよね?」
軍人がドライバーになってくれると聞いていた。でも、目の前の青年もマスタング大佐と同様に軍人には見えなくて、確認するように聞いてみた。エンジニアたちとシャフトがどうのシリンダはどうなってるかとか込み入った話しをして、ボンネットに顔を突っ込んでいる姿はここで働く人間と遜色なく見えた。
「―――あ、はい。これでも軍人です。ジャン・ハボック少尉です。マスタング大佐の護衛とかしてます」
これでも。軍人に見えないって大佐にすら言われることあるぐらいで…。照れるように笑いながら自覚ありますと笑うハボック少尉は確かに軍人には見えなくて、打ち解けるのに時間は掛からなかった。

「―――重いんですよ。エンジンは重いんです。今までは鋳鉄でした。それに変わる合金やアルミニウムのような軽い素材が出てきてもまだまだ鋳鉄が主流です。エンジン全部を鋳鉄なしで、と言うわけには行きません。幾分かは軽くなりましたが、でも、まだ重い。道路はその重さに耐えられないし、石畳は車体を激しく揺らす。だから、補強した空気タイヤを装備した4輪全てに独立したサスペンションを付けたんです」
「今、業界の流れは道路の整備に向かっています。道路の舗装材の開発です。それが必要じゃないとは言いません。ですが、私たちは国がその予算を出すとは楽観視していません」
「ボスも言います。軍は科学技術よりも錬金術の方に傾倒しているから、莫大な費用のかかる国中の道路舗装に消極的だって。確かに一人の国家錬金術師が道路舗装を錬金術でやってくれたら人件費も何もかからないんでいいんでしょうけど」
「車自体の開発を進める方が現実的です。今回の試乗車は従来の自動車に比べて安定して高速が出せるようになってます。道路事情の悪い場所でも安定して高速を保てるように、サスペンションに新しい工夫を取り入れました」
必死になって、なんでも話した。マスタング大佐の連れということは、この車の乗り心地は直接大佐に伝わると言うことだったし。自分たちの取り巻く問題を知ってほしかった。それは嘆願の機会でもあった。
ボスからの合図を待ちつつ、差し入れされた大量の弁当を床に開いて時間を惜しみながら腹ごなしをして話した。が、気さくに話をしているうちにとんでもないことことに気がついた。
―――彼は今日これから試運転することを知らなかった。

「聞いてないんですか? あらら」
「でも、マスタング大佐が連れて来られた方って、少尉お一人ですよね」
「はい」
「じゃあ、やっぱり、少尉が乗ることになると思うんですが」
「さすがにマスタング大佐が乗るってことは…」
「あの、話がよく分からないんスけど」
「ウチのボスが、新型の自動車の試運転に、運転慣れした軍人を貸してほしいって軍に打診してたんです。この国で自動車は軍が一番保有してますからね」
「それに運転慣れしてる」
「軍に納入することを考えたら軍人に直接乗り心地とか要望を聞いてみたくて」
彼自身に否はなさそうだった。自分が運転すると知って、明らかに目の色が変わった。
「軍に納入と言っても、一般車、高級将校用の送迎車じゃないんです。もちろん、それにも適していると自負していますが。私たちが作っているのは、行く行くは戦地用の輸送車に応用させようというもので。コンディションの悪い砂漠や山道を走ることを考えた車なんです」
「正式に打診した件は、このプロジェクトに参加していない他のメーカーが猛烈にクレームつけてきて、結局、取り下げることになってしまったんですけど、ウチのボスは軍の退役技官なんで軍に顔が利くから、誰か顔見知りの軍人に個人的に頼むって言ってたんです。今日の朝、いきなりボスからドライバーが来るって言われて」
「―――えーっと、つまりは、その乗り心地なんかを聞かせてもらえたらうれしいなって話です」
「この構想が上手くいけば、軍の輸送物資は今までよりもずっと安定して供給できると思うんです。私たちはなんとしてもこの車を軍に納入したい。軍上層部と迎合し合っているメーカーの廉価版ではなくて、真に使えるものを。――身内に軍人がいる人間は多いんですよ」
「お願いできますか」
彼は真面目な顔で頷いた。真面目な顔をすると、ただの人の良さそうな顔に精悍さが加わって、彼がハンサムだったことを気付かせた。この青年に長年時間をかけて作ってきた車を託すことになると思うと知らず胸が熱くなっていた。

―――全ての弁当が食べ終わる頃、待ちに待ったボスからの合図、試運転の開始が告げられた。
詳しい説明はしなかったし、求められなかった。取扱説明書を読んでから運転する軍人は少ないし、そう言われて頷いた。実際に運転してみてどうか、が重要だと思った。ハボック少尉はにこやかにオフロードコースに出ていった。

冷静でいられたのは、初めの数周だけだった。


「ボス! マスタング大佐!」
想定外のレコードに思わず桟敷席によじ登った。しかし、特等席に座る2人はレコードを知らないせいか、冷静に双眼鏡でハボック少尉の運転を眺めていた。
「どうでしょうか? 奴はちゃんと役に立っていますか」
「――ちょっと信じられないことになってるんです! 最高速度が試算していた速度よりすっと速いんです! 装備しているメーターを振り切っています!」
「それは素晴らしいですね」
「私たちの予測範囲を超えています! ドライバーの腕が良すぎるんですよ。信じられない!」
「マスタング、ハボック少尉の運転能力は軍の中ではどのくらいなのか?」
「――まいりましたね。正直言って分かりません。言えることは、軍でも奴ほど身体能力に長けるものを探すのは難しいということぐらいでしょうか」
「なるほど。では、軍の中でもトップレベルの人が運転していると考えようか。こんな機会は二度と得られるか分からない。たくさんデータを取らせて貰おう、いいか?」
「もちろん。時間まで乗せてやってください。体力が有り余っていますので。こうやって時々発散させてやらないと」
2人はそれでもやはり冷静さを失うことはなかった。

ハボック少尉は予定していた二時間みっちりと集中して、どこかにぶつけたりすることはなく運転し終えた。車から降りるとき、さすがに足元がふらついたが、降りたときも乗ったとき同様に満足そうな笑顔だった。降りた時の第一声は、楽しかった、だった。

慌しく立ち去るときにはもうハボック少尉の足元にふらつきはなかった。マスタング大佐に手を引かれて、猛然と走って行くその後ろ姿はまるで授業を抜け出したハイスクールの学生のようで、誰ともなく笑い声が上がった。
見送った彼の背にはもういつかのときのような寂しさが欠片もなくて、何故か安堵の息が漏れた。



 + + +

ストップが掛かると、すぐにエンジニアたちがオレを物陰に呼んだ。そこには大佐が待っていた。オレは何が何やら分からないまま、エンジニアの人たちや責任者のおじさんみたいなおっかなそうな人にたくさん礼を言われて、追い立てられるようにそこを立ち去った。
入ったときとはまた違う場所から工場を出ると、大佐がオレの手を掴んで、また複雑怪奇な細い道を走り抜けて行く。結構速く。大佐は面白そうに、急げと言って走った。オレは時々多々良を踏みながら走る。手を捕まれたまま走るのは走り難かったが何かこれはこれで楽しかったからそのまま手が振りほどけないように注意して走った。
細い路地を抜けるとそこは大通りで、目の前にバス亭があった。1分も待たない内にバスが来た。どうやら大佐はこれに乗る気で急いだらしい。また、バスで移動なのかと思うだけで楽しくなって笑った。

「このバスに乗るためにあれだけ急いだんスか?」
「――それだけじゃないがな」
大佐がオレの耳元に顔を寄せて小声で話す。バスには乗客なんてオレたち以外いなかったのに。いつもよりずっと近いその顔にデートなんだなあと唐突に意識した。
「今後、軍に納入するかどうかというのに、あそこに現役の軍人が出入りしていることが外部の人間にばれたらやばいだろう? あそこはなんだかんだと人が出入りが多い。協賛が多いからな。お前があの車から降りたとき、もう既にスポンサーたちが敷地内に入っていた」
「―――それは…」
談合してると言われかねない。っていうか、これはそもそも談合? だってなんにしろ、大佐が深く関わってるのは間違いない…。
「お前の言いたいことは分かる。が、ドライバーの腕があまりに良すぎたらしい。データが理想的過ぎてあまりに貴重だからと言われてね。ぎりぎりまで乗せておこうと思った。―――みんな、驚いていたぞ? もちろん、私も驚いたがね」
その言い草に思わず笑ってしまった。
「オレも驚きましたよ。自分がそんなに運転が上手だったとは知りませんでした」
「そうか。私の運転手は実に優秀なんだなそうだぞ」
「そう思うなら、もうちょっと丁寧に扱ってくださいよ…」
 ふふふ、とそれは絶対しないとばかりに大佐が笑う。

「―――まあ、この件はこれで終わりだ。後は彼ら次第だろう。どうだ? 面白かっただろう?」
「いつもこんな仕事ならいいんですけどね」
「何だ、お前。ドライバーになりたかったのか」
「誰だって憧れるでしょ?」
「私は後部座席に座るものとして認識していたな」
「あー、アンタはそうでしょうねえ。――でも、あれ、軍用車に採用されるといいっスね。今までのと比べて断然乗り心地良かったです。あのエンジンとサスペンションなら大型車の荷台でも随分乗り心地は良くなると思いますし。それになんかエンジン音が安定してて故障し難そうでした。スピード出して曲がってもタイヤの横滑りもほとんどなかったです。あー、雨の日とかコンディションの悪い日とかはまだ分かりませんけど」
「―――そうか」
「後は道路の舗装がどうとか、言ってましたよ? 錬金術師の出番とかって」
「そうか」
「そうかって、それだけ何スか? なんかもっとこう、食いついてこないんスか?」
長い話になるんだよ。そう言って、大佐はクスと目元を綻ばせた。窓枠に肘を立て頬杖をつきながら、柔らかい表情のまま、長い話なんだと繰り返した。
「お前のお墨付きがあるなら、彼らも安心だろう」

どんな話か聞く前に乗客が乗り込んできて、思わず口を噤んだ。大佐から聞く機会を無くしたと気が付いたのは随分経ってからだった。
200X…。もう何年頃に書いたかはよく分からない><