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東方司令部が市民との親睦を図るため、イベントが催されることになった。
そして、東方司令部中に市民が軍部に親近感を持てるようなキャラクターマスコットデザインとテーマソング、市民と親睦が深まるイベントを考えて提出しろとアンケート用紙が配られた。なんでこんな忙しい月末に、こんなもので頭を使わなきゃならない。オレたちは素直に、やれと言った大佐に向かって盛大にやりたくないとブーイングを上げた。
「気持ちは分かるわ。でも、もう決定したことなの。全て書けとは言わないわ。何か1つ、書いてくれればいいから」
ホークアイ中尉は苦笑しながら、最大限の譲歩をしてくれた。この月末の忙しさを身にしみて感じているのは間違いなくこの人だ。そのホークアイ中尉に、ここまで言われたら、丸めてゴミ箱に入れることはできない。
「――大佐も、このアンケート書いてんスか?」
ホークアイ中尉がその目元を顰めた。この忙しい最中に、わざわざ大佐にサボリの口実を与えたくないと思っていたのかもしれない。
「ハボック、例のアンケート、何て書いた?」
長かった今日の業務の終わりがようやく見えてきた頃、ブレダが2人分のコーヒーを入れて、余裕綽々に声をかけて来た。
「――お前は、どうなんだよ?」
「オレか? オレは、ミス・コンだ。ミス・東方。男のロマンだろ」
「なるほど。そういう手があったか」
「一日東方司令官っていうのと、迷ったけどな」
そのブレダの言葉に、すかさず白紙のアンケート用紙に書き込んだ。一日東方司令官、と。さすが、持つべきものは頭のいい親友だ。ついでに、その手のコーヒーを貰おうと手を伸ばしたがすげなく睨まれる。
その時、ホークアイ中尉が司令室に戻ってきた。すかさず、ブレダがそのコーヒーを渡しに行く。タイミングの悪いヤツだ。
中尉は間違いなく大佐のとこから戻ってきたのだ。その背中にまとっている空気が冷ややかでどす黒い。大佐はこのアンケートにかまけて仕事なんかしてなかったんだろう。一発、その眉間にぶっぱなしたい気持ちを抑えて、歯軋りせんばかりに思いでいる。そんなときに苦いコーヒーを飲みたいはずが無い。挙句の上に、あのブレダの仕事が一段落した桃色の空気はまだまだ仕事が終わらない中尉にとってはウザイだけだろう…。
「――オレに渡しとけばよかったのに…」
案の定、そのコーヒーは手付かずのまま机の上に放置されることになった。
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恐れていたことが目前に迫っていた。それが来るのは最低でも5年経たなければならないから、オレは油断していたとも言える。いや、そんなのとは無縁に生きていくと心に硬く決めていたから、突然突きつけられたそれに正直心底驚いた。
それを突きつけた人は涼しい顔というより、どうだうれしいだろうとばかりに童顔をさらに幼く見える笑顔で言った。私のお陰だな、と。
先日上げた手柄のせいでオレは昇進試験に必要な実務経験を免除されて、昇進試験が受けられることが決まったらしい。それは一体どんな嫌がらせなんだろう。
「―――あのぅ、受けないってありっスか…?」
オレの呟きはうれしそうに笑うマスタング中佐の耳には届かなかった。
声を大にして言いたかった。余計なお世話だ、と。
勉強したくない。勉強しなきゃなんない。勉強しなきゃダメなんだよな。でも、勉強したって受かるかどうかわかんないのに本当に勉強しなきゃダメなのか。落ちるって分かってんならはじめから勉強しなくたって別にいいんじゃないのか。でも、勉強しないと…。
参考書を手にしつつも、それを開けない葛藤の日々が続いた。
鬱々と司令部までの廊下を歩く。その足取りは日に日に重くなっていった。あの扉を開けたら、マスタング中佐がそれはそれはうれしそうに調子はどうだと聞いてくる。調子なんか聞かれたって困る。こんな絶不調なのに。
「ハボック」
呼ばないで下さい…。お願いします……。
「ハボック…」
無理なんですよ…。そもそもオレには士官学校卒業できたのだって奇跡なんスから…。
「――ハボック………」
すんませんすんませんすんません…
いつしか試験の時が迫っていた。寝ることもままならないオレは仕事も勉強も手に付かずに司令室に居座って、今日も中佐に試験を受けるのは無理だと伝えるチャンスを窺っていた。でも、いざ中佐が話しかけてきても、オレはなかなか頭を上げられずにいた。昇進試験に部下が無残な点数で落っこちたらアンタは恥をかくことになるんだろうか。そう思うと喉が震える気がした。
「そんなに嫌なのか?」
大きなため息。
でも、労わるようにぽんと肩を叩かれて、心を決めて顔を上げた。
「――――ひ、人には向き不向きつうのがあるんです…」
「だからと言って、しないと言うわけにも行かないだろう?」
「そんな簡単に言わないで下さい……。そりゃあ、アンタから見たらオレなんて脳みそないも同然なんでしょうけど…」
「はあ?」
「もうダメです。もう無理です。これ以上勉強したら、口からと言わず耳からでも鼻からでも脳みそ解け出してくる気がします…」
「……………」
「そうだ。中佐、ちょっとオレの変わりに試験受けに行って来てください」
「ハボック……」
試験は30時間後に迫っていた。
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(「MY FAIR DOG」の続きらしきもの…:社交界デビュー当日の出来事)
私は胸を撫で下ろした。
やっぱりパートナーはハボック少尉で間違いなかったと思って。
デビュー当日、ホテルを出発する時間の1時間前になってもマスタング大佐は姿を見せなかった。会議が長引いていると聞いた。公務なんだからしょうがないと思っても納得なんかできなかった。今日は私の社交界デビューの日なのに…。
ギリギリで慌しく会場に入るのは嫌だった。だから、会場でマスタング大佐を待てばいいわと何度言っても、父さまも母さまも頑として聞き入れてくれなかった。――マスタング大佐と同伴して会場に入ることが重要なんだ!
そう何度も繰り返された。
注目を集めたいなら、私とハボック少尉がいれば十分なのに…。
どれほど気持ちが焦っても、ホテルの部屋へは戻らない。部屋で待っていたら、折角きれいに整えた爪を噛んでしまいそうだった。それに人目のあるところにいると、周囲の羨望の視線が気持ちよかった。タキシードを着た金髪碧眼で長身なハボック少尉にエスコートされている、私を羨む視線…。
「遅刻なんて恥ずかしいわ…。もう一時間もない……」
ポツリともらした言葉に、ハボック少尉が気遣わしげにその長身を屈めて私を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。軍人は着替えが速いんだ。ちゃんと時間通りにここを出られる。確かにあの人は時間を守らないことが多いけど、女性との約束は破らない」
青い明るい瞳。この瞳に自分だけが映っていると思うといつだって胸が高鳴る。私は自分がこんなにドキドキしているのを知られたくなくて俯いた。
―――ロビーが俄かに騒がしくなる。ホテルの人たちが忙しなく私たちの前を横切って行っくと、すぐに父さまたちが部屋直通のエレベーターで降りてきた。
ああ、やっとご到着だ。ハボック少尉が言った。
私がその言葉にきょとんとして背の高い少尉を見上げると、苦笑交じりにマスタング大佐が着いたんだよと教えてくれた。あの人はハイスクールの同級生のように気安いけど、国軍大佐なのだった。
その人はすぐにたくさんのホテルの警備員たちに囲まれて現れた。その物々しい様子に誰もが大佐を振り返る。出発まで後40分もなかった。
マスタング大佐は私たちに気が付くと近寄ってきた。周囲の人たちと一緒に。
「―――やきもきしたかい?」
「そう思うなら今日ぐらい会議なんかサボってくれたらいいのに」
高らかな笑い声を上げてそうもいかなくてねと大佐が言えば、美人の副官がそんな大佐を急かす。時間がありませんよ、と。
結局、十分に急かすこともできないまま、大佐は副官に引きずられるようにしてエレベーターに入っていった。
その緊張感になさに不安がどんどん募ってくる。
間に合わなかったらどうする気よ!そんな私の不安を察したようにハボック少尉が急かして来ようか?と言ってくれた。何も言わなくても私を理解してくれるパートナーなんてなんて素晴らしいのかしら!
私はもちろん頷いた。
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司令室の隣にどうして大佐の執務室があるのか、今まで特に考えたことはなかった。でも、今ならはっきりと分かる…。
大佐が自分の執務室のドアの角に小指をぶつけた。職務中に例え自分の執務室といえども軍靴を脱いで歩き回るってどーいうこと? 挙句の上に大佐は、そのうめき声に気付いちまって執務室に顔を出したオレに命令した。今後東方司令部のドアは全て引き戸にしろと。そんなのハイ分かりましたなんて言えるかってえの。―――でも、蹲って涙目になりつつも必死にその重要性と必要性を言い張る哀れさに負けて、執務室のドアだけ引き戸にしてやった。大佐はご満悦だった。これで二度とドアの角に小指をぶつけることはなくなると思ってんだろう。でも、二度とぶつけたくないなら靴脱がなきゃいいだけなのに。オレには永遠に頭のいい人間の考えなんか分かんねえ。
そして、ドアを取り替えて5時間後、隣の執務室から激しくドアを叩く音が聞こえてきた。ドンドンドンッ! 次第にその音はドカッドカッと変わった。間違いなくあの人は執務室の中からドアを蹴ってる。
「ドアが開かないっ! 誰だ! こんな低レベルな嫌がらせをした奴はっ! ハボーックッ!!」
隣の司令室にまで響く罵声。事情を知らないで司令室にいる奴らは一体どうしたことかと立ち上がった。事情を知ってる奴らはにやにやと笑った。
「―――さっきそこ引き戸にしたじゃん…」
そんでもってオレは大きな虚しさを感じて肩を落とした。
司令室の隣にどうして大佐の執務室があるのか。それは大佐の奇行をできるだけ人目に付かないように監視するために違いない…。
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突然東方司令部に訪れた、自分よりも階級と年齢が上の支部司令官にあたかも下士官のように使いっ走りされられ基地内を東奔西走していたマスタング中佐が漸くその無意味な仕事を終えて司令室に帰ってきた。しかし、ドアを開けた瞬間、正面にある自分の机の上に積み重なりきらず、床にまで重ねられた書類の山脈を見て、がっくりと肩を落とした。こうなることは想定内だと分かっていてもやはり目の当たりにすると気分は落ち込むと言うものだろう。
「将軍は明日も明後日も東方司令部に視察にお出でになるそうだぞ。なのに、一体、減る気配のないこれをどうしろと言うんだ…」
明日になれば明日の書類が上がってくる。明後日になれば明後日の書類が上がってくる。必要最低限のものだけでも明日までに眼を通さなければ、東部に混乱を招きかねないことは明らかだった。それを十分理解している若き東方司令官はぶつぶつと文句を言いながらも、重ねられた書類の山を崩さないように慎重に自分の席へ収まった。
時間帯はすでに日勤帯を過ぎていたが、司令室で帰り支度をするものは誰もいない。司令官が机に噛り付いているのに自分がさっさと帰るのはいかがなものかと考えていたのは、マスタング中佐がここに座って一週間もしないまでだったか。幾許かの紆余曲折の上、今は自分の仕事が終われば上官を残してさっさと帰ることがここの部署では暗黙の了解になっていた。そして、本日のこの状況は中佐がほぼ一日中ここにいなかったため、自分の仕事が終わっていないことを意味する。
中佐のサインを貰えば帰れるものたちが我先にと中佐の机の前に列を作り始めた。途端にマスタング中佐の片方の眉が跳ね上がった。――私はまだ今日の業務に手も付けていないのに、お前たちはさっさと帰るつもりなのか。決して声には出されなかったが、それは確かに雄弁に伝わってきた。一方、本日の先頭を奪取した、ハボック少尉は勇敢にも声に出して言った。今ならまだデートに間に合いそうなんで、さっさとサイン下さいと。マスタング中佐がそれはそれは嬉しそうににっこりと笑みを浮かべた。少尉はまた振られることになるだろう…。案の定、中佐は笑顔のまま、ハボック少尉の提出した報告書にいくつかの誤字脱字を目聡く見つけて、高々と再提出を宣言した。
「―――なんで、こんなに残業ばっかりなんだよ。ちくしょう。オレは時間内にやることはやったのに…」
がっくりと落ちた肩に、更に丸まる猫背。同期のブレダ少尉がコーヒーを片手に、ぽんとその背を慰めた。
「どこもかしこも残業だ。ウチだけじゃない」
ブレダ少尉は司令室にとぐろを巻く列をかき分けて辿りついたマスタング中佐の机にそのコーヒーを置いた。お疲れさまです。その一言と共に。中佐がはっとして書類から顔を上げた。
「―――ブレダ少尉…」
「砂糖とミルク増量しておきました」
驚きに見開かれる目。しばらくしてマスタング中佐の口からブレダ少尉に、私のサインが必要な書類は机の上に置いて帰ってよしと御沙汰が出た。
中佐はその後はもう誰の書類にも順調にサインをした。刻一刻と司令室から人がいなくなる。誰も彼もハボック少尉以外、ブレダ少尉に礼を言って帰路についた。
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いつもの、大衆酒場を半ば貸切るようにして行われる隊の飲み会だった。あえて言うならいつもと違ったのは、地方から演習に来ていた、イースト・シティに慣れてない壮年の下士官たちが先にその酒場を占めていたことか。
大抵、どの隊も行きつけの酒場があって、街にはさりげない縄張りがある。自分たちの縄張りに見慣れない軍人の顔を見て、オレたちはあれって思ったし、向こうもしまったという顔をした。
もし彼らが入隊1、2年のペーペーだったら、ここでそそくさと店を出ただろう。しかし、彼らはそうではなかった。彼らはいわゆる実戦経験豊富な現場のたたき上げで、実際に現場を仕切っているとも言える存在だった。それはここ数週間に渡って行われた演習でよくわかっていたから、オレたちは彼らに敬意をもって、馴染みの店員に彼らに新しいボトルを出すように耳打ちした。
どうせこれも後からやって来る大佐が払う金だったから寛大にもなるってもんだ。
彼らは自分よりも階級が上で年若いオレたちににこやかに礼を言って、新しいボトルから酒を酌み交わし始めた。
その人はいつものように遅れてやってきた。高級将校用の軍用車が安酒しか出さない酒場の前に停まって、でっかいサイフを下ろして去って行く。もちろん、そのサイフから今夜の飲み代を払う気満々なオレたちは恭しく迎えに出た。たったこれだけでサイフの口が緩くなるのだからしないわけはない。
今日の酒の肴は何が美味い?
アンタ、本当に仕事終わって来てんスか?
ホークアイ中尉の許可はもらってきてんスか?
そんな他愛ないことを話しながら席に着くと、心得た店員がすぐに酒を運んできた。
大佐はそれを受け取って、高々と掲げる。――輝かしい私の経歴と才能に乾杯!と言われれば、オレたちは声を揃えて、輝かしいアンタの給与明細とサイフの厚みに乾杯!と返した。
がたっ、と、カウンターの椅子が大きな音を立てて後ろに引かれた。ガラスとガラスが容赦なくぶつかる音の中でもその音は大きく響いた。
さりげなく視線を向けた先には、地方の軍人たちが一様に席から立ち上がり目を見張って、大佐を凝視している姿があった。それは、まるで偶然珍獣に出くわしてしまった顔だと思った。
「あ、―――」
「―――マスタング大佐!?」
うそだろ、こんな場所に…。困惑と興奮がごちゃ混ぜになっているが、そこにははっきりとした喜色があった。
大佐は、その小さな呟きを拾って、そう、私がマスタング大佐だとも!と機嫌よく声を張り上げた。もう酔っ払っているのかもしれない。しかし、その言葉で、彼らは手元の酒瓶を手に、顔を紅潮させ緊張した面持ちで大佐を囲んだ。
ここだけの話にしてもらえたら助かるのだが…、今、戦場に駆り出されるならば、我々が現場を仕切ることになる。仕事である以上否はない。命令が下ればどこへでも赴く。
だが、我々としては是非ともマスタング大佐に指揮をとってほしいと思うのだ。あの人の旗下で…。生還率が高いからというよりも、後の世に語り継がれることになるだろうあの人のコマとなって戦ってみたい。
そう言ったら、君は笑うだろうか。ふふふ…。
我々にしてみれば、あの人が上層部に疎まれていることはむしろ歓迎すべきことだ。この国の奥深くに隠され守られてしかるべき存在を前線に寄こしてくれるんだからな。
ということなので、もう少しマスタング大佐を借りさせてもらうよ。こんな機会でもないと自分を売り込めないからね。
彼らは一様に顔を紅潮させ興奮気味だった。
マスタング大佐。
仕事を率先してサボり、部下に言われのない八つ当たりを繰り返し、それを自分の当然権利だと言い張る。―――そんな人の認識をほんの少し改める機会を持ってしまって、オレたちはひどく困惑していた…。
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高らかに笑い声を上げる、ちょっと思いもしなかったほど良く笑う明るい人だった。焔の錬金術師どのは。
マスタング中佐がここに着任して以来、途切れることなく供給される書類の山を見上げつつ、仕事に追われる日々を送っている。そんないっぱいいっぱいの心の潤いは、中佐のお守り役でもある美人の副官、ホークアイ中尉の時折見せる笑顔だった。例えそれが氷の微笑であったとしても、それを向けられるのが自分でない限り笑顔は笑顔であり、美しいものは美しい。それに、その笑顔を見れば、中尉の手を煩わせまいという気持ちが体の底から湧き上がり、仕事をする集中力が増すというものだった。その上、中尉と昼食の時間が重なった際、食堂で同じテーブルについてもいいですかと勇気をもって申し出でれば、思う以上にあっさりと許可がもらえる。勇気を振り絞る価値が大いにあった。この司令室の人間にとって彼女こそが真の上司であり、彼女の厳格さは敬愛に値するものだった。そんなホークアイ中尉に怒られるなんていうことは、あってはならないことだと心に深く誓うにそう長い時間は必要なかった。
つまり、マスタング中佐は司令室の落ちこぼれといえる。まあ、これは親しみがあっていいのかもしれない…。時折、自分の部下たちの、本来自分に向かうべき敬愛を含んだ眼差しが、自分を素通りしてホークアイ中尉に向かうのを面白くなさ気に見てるのに気づいて、思わず頬が緩んだ。確かに、ここの軍人は気持ちの篭った上等な敬礼は中尉にしかしていない。他の部署の者がそれ有様を見ると、一様にぎょっとするが、マスタング中佐は何も言わずにいっつも受け流していた。自分を知っているということなのだろう。それでも時々納得しきれないという風なのだけど。――そんなことはいちいち言うまいと思っている感じだった。もしそれを言ったら小物だけれど、言わないで済ませられるほど大物というわけでもないらしい。その様子は焔の錬金術師といえども上手くいかないことはあるのだと教えてくれた。そんなマスタング中佐の様子にいつも笑いを殺せないハボック少尉だけが、司令室で中佐の鬱憤払いの対象になっていた。
まあ、なんだかんだ忙しい日々だが、上司と部下の関係は良好と言えるだろう。連体感すらあると言ってもいい。
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暑い。それはもう暑い。ただでさえ暑い。その上、大佐が実に情感を込めて暑いとひっきりなしに呟いてくれるから、不快指数はどんどん上昇していった。
「――誰か私の代わりに暑いと言いたまえ…」
「はあ?」
こうも暑いと、いつもの大佐の変な言動に反応するのも鬱陶しくなってくる。例え、それが仕事だと分かっていても…。
「誰かが死にそうなまでに暑いと言うと、自分はそこまで暑くはないと感じるだろう? 今、お前たちは、私が情感を込めて暑い暑いと言うのを聞いて、この暑さを少しでもしのげたはずだ。だから、今度はお前たちの内の誰かが死にそうなまでに暑いと言え」
「…………………」
この人が何を言っているのか、オレにはわからない。でも、向かいの席のブレダも大佐の言葉にぴくりとも反応しなかったから、別にわからなくて問題ないように思えた。だから、無視する。司令室に流れる空気を読んで。
「では、まずはハボック」
「ええー…?」
「言え」
堂々と。室温を3℃ぐらい上げるほど堂々とその人は命令を下した。その気温上昇は致命的に思えたときだった。我らが氷の女王が口を開いたのは!。
「―――マスタング大佐、そこまでおっしゃるほど暑いのでしたら、上着だけでなく軍靴や靴下をまずお脱ぎになったらいいんですよ」
しかし、邪神は懲りずに口を開いた。
「もう脱げるものは全部脱いでる」
「ずっと座っていらっしゃるんですから、ズボンもお脱ぎになって下さってかまいませんよ?」
「…………………」
「あら、下着姿でいるのが恥ずかしいのですか? ならば、ズボンよりも涼しいものをお貸ししましょう。私のタイトスカートですが。動き易いように、大佐の好きなミニスカートに丈を切って持ってきますから、ここでお待ちください」
いいですね。ここで、お待ち、ください。中尉はもう一度そう言ってから、司令室を見回し、冷ややかな視線でその場にいた全員に、こいつをここから逃がすなよと命令して、踵を返した。
「あ、あの、ホークアイ!」
大佐の悲鳴にも似た声が、氷の女王には届くことはなかった…。
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ハボックが分裂した。
まるでポケットに入ったビスケットのように、どんどん分裂していく。あまりに分裂しすぎて中には本当にハボックなのかと疑いたくなるものまで出てくる始末だ。ああ、ハボックが劣化していく…。