+ + +
3日分の新聞紙を水で濡らしておいてください、とハボックが言ったから、ちゃんと一枚一枚丁寧に濡らした。
私は予測していた。これが何に使われるのか。そう、この落ち葉が風に舞うこんな秋の季節に濡れた新聞紙の使い道などたった一つだけだろう。
私は浮き足立つ気持ちを抑え、濡らした新聞紙をバケツに入れた。そして、ハボックの待つ庭に降り立つ…。
「――あ、遅かったっスね!」
ハボックは寒空の下、腕を捲り上げて草を毟っていた。
何故、草を毟るのか。落ち葉をかき集めるのが定石だろうに!
「その辺に置いといてくれればいいっスよ。後はオレがやるんで」
ハボックは土に汚れた手をジーンズで拭いながら立ち上がり、私が持っていたバケツの中を見て私の仕事の完璧さに目を見張った。
当たり前だ。イモ一本に付き一枚。蒸し焼きにするために。これらは焼き芋がホクホクになるかどうかという重要な要素に関わる仕事だ。いや、焼き芋が成功するかどうかそのものと言っても良いだろう。丁寧にもなる。どのイモが自分の口に入るか分からないのだから。
「ちょー、丁寧っスね…」
私は次の行程に入るべく3日分の新聞の枚数分に相当するイモを探した。ちなみに私の家の中にそんな大量のイモはないことは既に確認済みだ。よって、必然的に庭にあることになる、のだが…。
ハボックはバケツの中の新聞紙を一枚手に取って、いきなりくしゃっと丸めた。それは新しい焼き芋の手法なのか。そう思った瞬間、ハボックはその新聞紙で窓を擦った。
「―――あ、本当だ。汚ねえ窓って濡らした新聞紙だとよく落ちる」
ハボックは私に背中を向け、家中の窓を磨き始めた。
+ + +
求めよ、さらば与えられん。では、誰が求めるんだ?
―――オレです。オレだけです。
そうじゃない。俺が言いたいことはそうじゃない。お前は求められたいんじゃないのか?求められて、与えたいと思っているんじゃないのか? 恋愛って、―――――。いや、お前の恋愛はそういうものなのか?
…………………。
いいか、与えるという行為は施しだ。恵み与える行為だ。おおよそ、対等という関係からほど遠い。お前の恋愛はそういうものなのか?
ヒューズ中佐………。
―――何だ?
その声が記憶にないほど優しくて、何故か涙が込みあがった。
奴は強くてタフだ。奴と対等な関係を築こうとすることがどれだけたいへんかは分かっている。だが、常に自分を妥協なく鍛えたいと情熱を抱かせてくれるような恋愛はそう簡単にできるものではない。もし、お前が奴と対等でありたいと思うのならば、の話だが。
―――対等なんて、無理です…。
そうなのか? 社会的地位、家柄、容姿、給与、生活水準……。こんなものは着ている服と同じ程度のものに過ぎないと思うぞ。お前は自分と同じような服を着てる人間としか恋愛はできないと考えているのか?
…………………。
お前は服を着たままじゃないと安心して抱き合えない腰抜けだったか? この恋愛が大切なら、勇気を奮い起こすときが来たんだ。――この恋愛は大切か、ハボック?
感情を押し殺したような静かな声だった。もしくは、全てを許容するような穏やかな声か。とにかく、それは答えないという選択肢を奪っていた。
―――オレの………、オレの持ってるものの中で一番高価で貴重なものです。
そうか。なら、がんばれ。踏ん張るときが来たんだ。
―――すまない。後は任せた。
ちっとも寝た気がしなかったその日の朝、重い足を引きずって入った司令室でヒューズ中佐の訃報を聞いた。
+ + +
その日は風が強かった。並木道を飾る辛うじて残っていた広葉樹の葉が、明日には全て落ちきってしまうだろうほどに。通りに落ちた葉は、強風に拭き集められ結構な量になり、それが強風に煽られて正面から向かってくる。落ち葉は乾燥しきっていて、中々な凶器になっていた。いつもなら歯牙にもかけない程度のことだったが、今日は違った。頭が重い……。
「オイ、ハボック…………」
いつもより半歩ほど歩を進めて私の後ろに張り付く奴。それは良い。もう良い。奴がすぐ後ろにいると私の背が低く見えるとか低く見えるとか低く見えるとかは、もう良いのだ。長い葛藤の後、私はそれを受け入れることができたのだから。
「はい?」
そう、この能天気な声も。
また、突風が吹き抜けていった。硬い落ち葉がべチンベチンと顔に当たって、また風に乗って飛んで行く。
「―――下士官と憲兵たちがもの凄い目でこちらを見てるぞ」
「別にそんなのいつものことでしょ?」
「街のお嬢さんたちだって口を開けて見ていた」
「風邪引かないといいですね?」
また、落ち葉が向かってくる。なのに、私はそれを避けることもできずに甘んじて顔で受け止めた。頭が重い。重いものが頭の上に乗っているからだ。
「ハボック…………。お前は何を考えて、私の頭に手を置いているんだ?」
「はい?」
「だから、手だ。手!いい加減、どけろ!!」
一体、どこの大佐が頭に手を置かれて歩くと言うんだ!このばかもの!
「でも、今日は風が強いから、どけたらスゴイことになっちまいますよ?」
ハボックは私の頭をぐちゃぐちゃにかき回してから手を離した。そして、漸く後ろを振り向けた。そこにはいつもの人を食ったような笑みが浮かんでいる。
「アンタの髪、ぶわーってなって一瞬でぐしゃぐしゃですよ。で、それを結局直すのがオレだってんなら、できる限り乱さないようにしようって気になるじゃないっスか。ね?」
「何が、ね?だ。何が……」
いつもより、ハボックの髪がぶわーっとなってぐしゃぐしゃだったから。群れから外れた勇ましいひよこのようだったから。生意気な物言いすら何だか可愛くて、叱るに叱れなかった。
+ + +
確かにちょっとコミュニケーションを取るのは難しいのかもしれません。その、今までの経験から言うと、ボクたちの使う、いわゆる専門用語(というまでのないものだと思いますが)は聞き慣れない人には外国語のように感じられるそうなのです。
軍に技官として入隊してから、いろんな場所で重宝されてきました。
他の技官の人たちが言うほど現状に不満はないのですが、ボクもまあ一技官として思うところがないというわけではないです。
この国の科学は機械工学と錬金術に方向に偏っています。しかし、そうは言っても機械工学は錬金術ほどの汎用性と華々しさに欠けているためか、どうにも倦厭されがちで理解が乏しく…。日常の瑣末なことは機械工学に頼らざるを得ないのが現状なのですが、重要性に反してどうにもないがしろにされている気がします。
ボクの日常の些細な不満は、ちょっとしたアイディアの理解が得られなくていつも結局は無視されてしまうということです。錬金術に比べたら雲泥の差で理解しやすいはずなのですが。技師の専門機関にいたらこんな不満は出ないと思いますが、現場にもう少し機械工学に理解がある人がいていいと思います。そうしたらもう少し仕事上のことで要領がよくなることが色々増えるの思うのです。
いつもこんな風に思っているわけではありません。これは凄いと思ったアイディアを無視された時とか、作戦中とかに思うだけです。
しかし、これは自分が生死と直接向き合うポジションにいなかったから、どこか人事として考えていたのだと思い知りました。あの時、上官を説得することができていたなら助かる命は多かったのかも知れません。
生死の境目にボクの妹が直面している今、ボクはボクのできる最善を考えて上申してみるつもりです。技官といえども、ボクだって軍人なんですから。
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(注!:パラレルっぽいものです。全員死んでしまったあの世での話になります)
真っ白い世界に落ちた。いや、転がったのかもしれない。分かることは立てるだけの何かが足の下にあるということだけだった。ほとんど白い世界を見渡す。辛うじて付いている濃淡のせいでか上下の感覚は失われてはいなかった。
オレは立ち上がり歩き出した。どこに向かっているのか、自分でも分からなかったが歩みに迷いはない。そして、それを不思議に感じることはなかった。
こんにちは、あの世です。私の言っていることがわかりますか?
「…………はあ?」
その声は突然、斜め上から降ってきた。子どもの声を頭上から聞くなんて程々なくて困惑に眉を顰めた。だが、声は幻聴なんかではなく、確かに繰り返し発せられた。
えーっと、ここは、なんとあの世なんですよ。あの、あの世です。
「はあ……」
よおっく、聞いてくださいね。あなた、死んじゃったんですよ。覚えてますか?
「あー…、そう言えば確かに死んだような気がするかも…」
そろそろ死期が近いとは思っていた。確かに。
そう!そうです!死んじゃったんです。お疲れさまでした。なので、ここはあの世ということになります。まあ、ここは本当に長い時間の中で本当に多くの方々からいろいろな名で呼ばれてましてね。特に、正式な名前はないんですよ。ですから、あの世(仮)なんです。
「あー…、はあ…」
死。死と隣り合わせに生活していたあの頃、一回でも死後の世界など想像したことがあっただろうか…。
正式名称を決めてしまうと、誰の意見を取っただの、誰の意見を取らなかっただのと非常にややこしい問題が生じてしまうんです。ですから、あなたの文化的価値観とか、そんなもんで考えて下さい。
「―――死後の世界って、何だか俗っぽい…」
死。自分の中に、もっと崇高だったイメージがあった気がした。きっとそれはあの人が死者にばかり意識を向けていたからかもしれない。
当然ですね。強いて言うならグレードアップしてると言えなくもないですよ。つまり、なんていうんですかね? ここには有限の大地などないのでスケールが違うんですよ。争いは絶えることはありませんが、争いの火種はぐっと変わります。
「あー、はあ…」
興味なさそうですねえ。あの世があるって体感してるんですよ? 自分より先に亡くなられた方にまた会えるってことですよ? また会いたいような方っていらっしゃらないんですか?
「…………会えんの?」
ええ、まあ、普通に。
「……………………………」
死んだら会えるなんて聞いてなかったし、誰も教えてくれなかった。それとも、ちゃんと勉強してたら学校で習ったんだろうか。ひどく損した気がした。
あ、あそこが記入所です。アンケートに答えてください。
「ちょっと…」
なんです?
「どうやって会うの?」
えーっと、係りのものに、って、私が兼任してるんですけど、その方がどちらにいるのか調べてもらって、歩いていく感じ?
「今、教えてくれんの?」
あっと、記入が全ての先なんです。すみません。
「記入ね。よし、じゃあ記入だ」
はい。じゃあ、鉛筆です。
いつの間にか、オレは鉛筆を握っていた。
お会いしたい方がいらっしゃるんですね?いいですねえ。人ごとながら、私もどきどきします。
「会いたいって言ったらそうなんだろうけど、どっちかって言ったら恨み言が言いたいって感じかも…」
あー、複雑なんですねえ。ふふふふふ。でも、もしかしたら、迎えが来てるかもしれませんよ。
「迎え?」
そうです。先にお亡くなりになった方々があなたを待っているかもしれません。
「あー、でも、そういう人じゃねーから」
そう。そんなことする人じゃない。
ノロケですね。いいですねえ。
こちらです、と渡された用紙は自己評価表と書かれたマークシートだった。
手短に言うとですね。ご自分の人生をご自分で評価してみてください、ということで。えーっと、その評価でここでの階級が決定します。また、同時に次の転生を希望されるときのカルマが決まります。
「ここでの階級って何?何で5段階評価なの?」
あー、お恥ずかしいことに、ここは慢性的な人手不足でして。簡略化を計っているんです。すみません。
「そんなんでいいの?」
まあ、初めの階級なんてね、そんなもんですよ。上に行きたかったらそれなりのことをしたらなれるんで。
「ふうん…」
簡単に考えてみて下さい。例えば、ご自分の人生に悔いていたり、反省されることが多くて、自分自身に罰を望むかどうか。望むのであればどれほどの罰を望むのか。ご自分の人生に満足し、賞賛することが多くて、自分自身に賞を望むのかどうか。望むのであればどれほどの賞を望むのか。ご自分で決める自己決定システムを取っているんです。
「自己申告制なの?!」
ええ、そうです。
「チェックとか入れないの?」
ええ。いちいち見てられませんから。そんなの。それに価値観が多様すぎて、一つの規範によって判断できるものではないんです。ですから、ご自分の人生を振り返って罰を受けるに値するか、賞を受けるに値するか、ご自分で判断してください。―――さあ、さくさく記入してお会いしたい方の所に行きましょう!
「…………ヘヴィだ。地獄へ行くか、天国へ行くか自分で決めろって?」
そんなもんなんですよ、と繰り返し言われた。
+ + +
大佐からカーネーションの花束を貰った。何でオレが今日と言う日に、大佐からカーネーションを貰わなくてはいけないのか。問い詰めたら大佐が言った。――だって、ヒューズが贈れって言うんだもん。二人してこんな好青年をからかって楽しいんスか、ってできるだけ目に怒りを込めて大佐に説教してたら、ホークアイ中尉にもカーネーションを貰った。中尉は言った。――私の母は私が幼い頃に病気でなくなってしまったの。いつも、この日に真っ赤なカーネーションを贈りたかった…。だからって、何でオレんトコに真っ赤なカーネーションを持ってくるんスかね。中尉は笑った。それはもうにっこりと。
――私の身近で最も母に近い役どころの人と言ったらあなたしかいないでしょう?
オレはもう頼まれても司令室でコーヒーを淹れることも、カップを洗うことも、大佐の家を掃除することも、大佐の食事を作るのも、大佐の服を洗濯するのも止めようと硬く心に誓った…。
+ + +
「オレは今は向き合えない。怖いよ、アル…。全てが崩れ落ちていく気がするんだ。―――それだけじゃない。飲み込まれそうな気すらする。でも、それじゃあだめなんだ。それは分かってる」
でも、今なら白を黒だと言われてもそうかもしれないと思いそうだ。
最後の声は独り言のように呟かれたから、ボクは何も言わなかった。
東方司令部を背に日が落ちて赤く染まる石畳を歩く。ボクの足音だけが辺りにカツーンカツーンと音を立てていた。
ボクたちは昔からいつも一緒だった。何をするのも一緒で、お互い一人になるなんてことがどういうことか想像すらしなかった。想像しなきゃならない未来が訪れるなんて考えもしなかった。
でも、今はあの頃のようなお互いを自分の一部のように感じていた頃とは違う。明らかに。石畳に響く音はボクの足音だけだった。金属音の…。
「オレはガキなんだよ。悔しいけど、どうしようもないほどガキなんだ。他人の気持ちとか、そんなのやっぱりちっとも分かってねえんだろうなあって思う」
赤いコートが夕日に照らされ更に赤くなるのを見て、ボクは思う。
ボクが立ち入ることを許されなかった東方司令部の奥の奥で、兄は一体何をあの人に言われたのだろう。この自負心の強い兄に自分をガキだと言わせるなんて。
「―――マスタング大佐ってどんな人?」
何を言われたの。そう言い出せなかったのは、ボクがもう兄の一部じゃないってよく分かったからだ。
「黒だ」
「―――え?」
「全てを内包する黒、だ。―――色料の三原色だよ、アル」
立ち止まって、振り返った兄の金髪が赤く燃えていた。
「全ての色を飲み込まないと色料で黒は生まれない。そういう奴だ」
広がっていく兄との差を感じて、寒さを感じないはずの体が寒さに震えた気がした。
+ + +
人生最大のピンチを人は一体何回、人生で経験することができるんだろう…。オフクロ、オヤジ、結局親孝行なんて何一つできなくてごめん。弟妹たち、本当にできの悪い兄でごめん…。―――あまりに短かった人生が走馬灯のように頭の中を過ぎって行った。
少なくとも今、オレにわかることは、この目の前に広がっているコレが間違いなく人生最大のピンチの一つであるということだけだった。
この世に慈悲というものがあるのなら、どうかコレを夢だと言ってくれ。いや、言って下さい。お願いします。誰でもいいんです。これは何かの間違いだと言って下さい…。今日、すでに数回目になりつつある祈りを込めて目を閉じた。
目を開けたら、目の前の惨状が全部夢でありますように。――って言うか、もうこのまま永遠に目なんか開けたくなかったりして…。
大佐の家のキッチンの、床の上に素っ裸で壁に凭れ足を投げ出し眠っていたオレ。まず、ここに充満している臭いの異常さに気が付いて目が覚めた。猛烈なアルコール臭と、こんなところで何故かのアンモニア臭…。
キッチンの床は一面濡れていた。そして、無造作に転がっているヴィンテージもののワインの空き瓶は数本。そして、――石鹸カスに塗れた黒い体毛……。呼吸が余裕で30秒止まってから、鼓動がどんどん、どんどん乱れていって、オレは自分が何も覚えていないことに気が付いた。
くらりと眩暈を覚えてから、その上、あってはならない決定的なものを見つけてしまった。いや、それが何なのか頭が始め理解していなかっただけで、始めから見えていたはずだ。だって、それはオレの真ん前にあるんだから。そう、テーブルの脚の一本にガムテープで何重にも執拗に固定された、見慣れた白い足が…。
ここにはこの白い足の持ち主と、オレの2人しかいなかった。オレは何も覚えちゃいない。
――そして、オレの現実逃避が始まった。
強盗がやってきて、オレは伸されて、ノビちゃって。大佐はオレの知らない内に拘束されてゴーカンされちゃって、ついでに剃毛されちゃった、とか…? ありえねえって。オレヤベぇ。死刑決定だって。短い人生だったなあ。最後にタバコ一本吸わせてもらえるといいなあ。小便、誰がしたんだろう。大佐のなら、漏らさせたってことだよなあ。オレのなら…、オ、オ、オレのなら、大佐にかけたとか? 縛って、日頃の恨みを小便かけて晴らしたとか。うわあ、ありそう…。
目を開けて、顔を後ほんの少し上げたら、大佐がどんな状態なのかわかる。だけど、そんなことをする勇気なんてちっとも湧いてこなかった。
冷たい汗が背中を伝い落ちて行く。
まだ、目は開けられない。
すべて夢であってくれ…。そしたら、心を入れ替えて大佐の従順なイヌとして仕事に励みますから。だから、お願いっ!! 誰か!
――オイ…、………
静かな、だけど、随分かすれた声が頭上から降ってきて、オレは体の奥底から心底竦み上がった声が出た。ヒィィィィと…。今まで、つらつらと考えていたことが一瞬できれいさっぱりなくなって、雷に打たれたようにその場で土下座した。
「スンマセンでした!! 焼くなり、煮るなり、気が済むまで好きなようにしてくださいっ! でも、命だけはどうかどうかっ! 田舎にまだ親孝行の一つもしていない親がいるんです! 妹も弟も!! 大佐っ! ご慈悲を! どうか、ご慈悲を下さい!!」
「……………」
再びの沈黙に、緊張と恐怖が再び込みあがる。
ああ、もうだめだ。オレの命は尽きたんだ、と思ったときだった。
――起きているのなら、これを…、外せ。――痛いんだ…。
常にない、力のない声に打たれて、勢いよく立ち上がったら、眼下に想像以上の惨状が飛び込んできて気絶しそうになった。
テーブルの脚に固定された白い片足。もう一方は膝を曲げた状態で膝下をぐるぐる巻きにされてテーブルの上に乗っていた。足首にもガムテープが何重にも巻かれてたけど、刃物で切った跡がある。両手首はまとめて、頭の上のテーブルの脚にガムテープで固定されていた。まだ、アルコールが残っているのか体はピンクの色を帯びていた。閉じられた目元は腫れていた。泣いたせいかもしれない。そして、顔面と言わず、体中ザーメンでぬめっていた。そして、やっぱりあそこの毛がきれいなまでになかった。
しばらく酒は飲むまいと心に誓った。
呆然と、言葉もないオレに、大佐が目を閉じたまま口を開いた。――ハボック…? 囁くほど小さな声。次いで、外せと吐息と共に吐き出された。
「は、はい。たっただいま、ははは外します!」
外せるものを探せば、キッチンにオレのナイフが堂々と置いてあった。どうやら、オレのナイフがこの惨状を作ったようだった。
これ以上ないというほど丁寧にガムテープを解こうとしても、素手ではあまりに何重にも巻かれていてびくともしない。キッチンのナイフに手を伸ばして、まずテーブルから大佐を引き離す。膝に巻かれたガムテープにも切り込みを入れた。足からガムテープを剥がしてしまわなかったのはあまりに粘着していて力任せに剥がしたら痛そうだったからだった。強張った身体の至るところに、キスマークと言うより、思いっきり掴んだ跡だと間違いなく分かるうっ血があって、無償に泣きたくなった。
漸くテーブルから解かれて、大佐はゆっくりとテーブルの上に丸くなった。
「―――風呂…」
でも、その声は吐息の如く小さくて、オレの恐怖を煽った。
「はっ、はい! 今すぐ!!」
すぐさま準備を済ませて戻っても、大佐は目を閉じたままテーブルの上に丸まっていた。
「あ、あのはははは運んでいいっスか?」
小さく頷く。
そっと抱き上げたら大佐の身体からアルコールとアンモニアの臭いがして悲しくなった。
一向に目を開けようとしない大佐を抱えたまま湯を張った広いバスタブに入った。両足の間に大佐をゆっくりと下ろす。
大佐は嵐の前のように、恐ろしいほど不穏な静かさを湛えていた。
湯に浸かると、大佐はぎこちない手つきで湯をすくい、まず真っ先に目を洗った。
「あ、ああの…」
――痛くて開けられなかったとか?
「…………………」
無言だった。何回も何回も洗って、無言だった。さすがに不安になってきて、前を伺うと、大佐と目が合った。オレを見て眉間にしわを寄せる。よかった。見えはするんだ。ほっとした。まずは…。
大佐が目を閉じて寄りかかる。
「ああああ、あの、目え大丈夫っスか?」
大佐がゆっくりと体を起こして振り返った。片方の眉だけを器用に吊り上げて。どの面下げて言っているんだと、その顔が言っていた。
「きっ、きっ、きっ、きおくが、な、な、なななないんスけど…」
「―――だろうな…」
そういうと大佐はまたオレを背もたれにして寄りかかった。
「お、怒らないんスか」
「怒るのも、怒鳴るのも、もう、疲れたんだよ、私は…」
足や手に付いたままのガムテープを、湯でふやけてきたのを見計らって外して、筋とか痛めてないか確認のために体中触っても、大佐は借りてきた猫のように静かでオレのなすがままだった。世界で一番凶暴な猫がこんなに大人しいなんて天変地異の前触れに違いない。
大佐は眠そうだった。
実際、中洗ってもいいっスかと聞いても、無言で頷くだけだった。体をひっくり返しても何の抵抗もなくて、あまりに従順だった。これで、おっ勃てたら間違いなくオレは今この場でムスコと切り離される。―――とか思ってても、オレは実際興奮していた。
湯で解すまでもなくそこは湿っていた。指をぐっと押し込めば、体がピクッと反応して、すぐにぐったりと力を抜く。一度指を奥深くまで入れてから、指を2本入れて割り開き、湯を少し中に入れてからかき出すと、湯が白濁色に変わった。大量のザーメン。そして、アルコール臭とアンモニア臭がバスルームに広がった。
「…………………」
考えてはならないことを考えてしまった。つうか……。自分がしたであろう暴挙に眩暈が…。
指一本動かすのも億劫な人に視線を投げるとやはり大佐は目を閉じていて、色濃い拒絶の色を浮かべていた。お前なんか嫌いだと言われている気がした。でも、自分で後始末する気が起きないほど疲れていて、ってことなんだろう。精も根も尽き果てて反応すらほとんどない。
まるで人形のように反応がない大佐の髪と体も洗う。
二度と見ることは適わないだろうつるつるの大佐と、もう次はないだろうこの白い体をこれが最後だと思って丁寧に丁寧に洗った。一つ一つのことが最後だと思うととても愛おしくなる。死刑執行までの最後の望みは一本のタバコだった。
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生きている人間よりも死者の方が、その存在が重かった。
あなたのおかげです。そう目を逸らさずに伝えてくれた者たちの真摯な目より、怨嗟の言葉をのせた、あの赤い目の方が鮮明に記憶に残っている…。
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いいか、重要なことはロイを葬り去った後を想像させることだ。
―――外敵はおろか、国内のテロに対しても抑止力を失い、この国は例えようもないほどの損失を受ける。そうイメージさせて、恐れさせるんだ。
人材っていうのは、これ以後生まれないと恐れれば、実際に生まれない。だが、そんな心配に惑わされなければ、不思議と生まれてくるもんだ。
だからこそ、恐れさせろ。
ロイを失った後、二度とロイに匹敵する能力を持つものは生まれない、とな。