メモログ06
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(現代パラレル・レーサー編)

「おい、お前ヒマか?」
ヒマならちょっと手伝ってくれっと助かるんだけど。そう言われて素直について行ったのは、声を掛けてきたひげと眼鏡の男が話題のチームの顔役だったからだ。
もしかしたらドライバーを探してるのかもしれない。そんな淡い期待を抱くほどガキではないが、何も期待せずにいられるほど年を重ねているわけでもない。ただ、重要なのは実力よりもコネと人脈だと悔しいほど分かっていたから、突然巡ってきたでっかいチャンスを無視するなんてできなくて。
オレはただの観客と関係者をはっきりと分けるセーフティーウォールを飛び越えて、男の立つ、久しぶりのトッラクに足をつけた。遠くを走るマシンの振動が伝わってくるかのような熱い感覚に体が小さく痺れる…。

やっと来期からF1のシートに座れたかもしれなかったのに。ここんとこずっと腐ってた原因がまた頭をぐるぐると回った。
練習生から補欠のドライバーに昇格して、やっとシートに手が届きそうになった途端若い二世ドライバーにその席を奪われ、その翌日解雇された。オレの方が速く走れる。速く走れるのに。腐って腐って飲んだくれていたオレは酔っ払ったまま公道で車を走らせて、パトカーに追いかけ回された挙句追いつかれて、――そして、飲酒運転で大切な大切なドライバーライセンスを失った。路頭に迷うとは正にこのことだった。

インディでメカニックに入ってる幼馴染に当座の金を借りにサーキット場まで足を伸ばした。この時はまだインディで走りたいとか全く考えていなかったと思う。――でも、そこで話題のチームの顔役に声を掛けられて、そう。でっかいチャンスに目が眩んだ。ここのチームのファーストドライバーは女なのだ。ここで実力を示せばシートを奪えるかもしれない。そう思った。

「お前みたいなヤツ、探してたんだよ。丁度良かったぜ」
男はオレを連れてコースの最も高いルーフに向う。そこにいるのは各チームのスポッターだろう。インディのスポッターと言えば引退したベテランドライバーが多く勤めるレースの水先案内人だ。高速のオーバルレースでドライバーの視界はほとんどないと言ってもいい。そのドライバーの目を勤めるのだ。
「―――探してたって?」
そんなレースで重要なポジションを任せてもらえるなんて思いはしないが胸が弾んだのも事実だった。
「煙と同じで高いところが好きな奴がいんのよ。消えちまわないように今日の予選が終わるまで一緒にいてくんねえ?その代わりと言っちゃあなんだが、ここにいる内はウチのパスやるからさ」
コ−ス全体を見舞わせるこんなスタップオンリーの場所にただで、コネもないヤツが入れるなんてありえないことだった。

「――なんで、オレみたいな?」
「金髪好きな奴なのさ。―――ロイ!」
呼びかけられた、その男はその場で一際若かった。そして、ヘッボホンマイクに向かってにこやかに話をしていて、あからさまにひげメガネを無視して見せた。

この今後のオレの人生に大きな影響力をぶいぶい言わせることになる、この人との始めの出会いなんてこんなものだった。



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茹だるように暑い夏の休日。
ハボックは広いリビングの風通りの良い床に張り付いて伸びていた。枕にしている本の値段を耳元に囁いてやればを一体どんな反応をするだろうか。しかし、まあ、その姿は若干好意的に言えば、油断しきった犬のようでもあり、何となく微笑ましかったため、私は何も言わずにいた。でっかい犬は鼻をピスピスと鳴らし、昼寝を勤しんでいる。

太陽が僅かに傾き、でっかい犬の寝ている場所も日差しに晒され始めてた。暑さに眉間に皺を寄せてうーんうーんと魘されていた奴はついに耐えかねて、そこをごそごそ動き出した。今度はどんな涼しい場所に移動するのか。視線を合わせないようにしてその気配を伺っていると、思いがけず、顔を紅潮させ、ソファに座る私の元に近づいてきて、私の足に手を回しぎゅっと張り付いた。そして、離されるかと言わんばかりに力を込める…。
「――暑くないのか?」
こんなくそ暑い夏の最中に、こんなに密着して一体何が楽しいのか。
「暑いに決まってるでしょ!」
「ならば、わざわざ張り付くな」
イヤイヤと首を振る度に、汗で前髪が張り付いた額が私の足にこすり付けられた。
「オイ、汚いだろ!」
まるでマーキングをされている気がした。
ハボックが汚いって…と呆然と小さく呟いたが私は聞こえなかったふりをした。もちろん暑かったために、口を開くのが面倒だったためだ。

ハボックは私の足を離さなかった。暑さのあまり息も絶え絶えになっても…。
いつもより熱を持った汗ばんだ手を剥がそうとすると、ハボックの手がますます緊張して硬く力がこもる。
「離せ」
暑い。暑苦しい。
「――なんでアンタ、そんなに涼しげなんスか」
「精神力の差だろう」
「汗一つかいてない」
「訓練の差だ」
「訓練でそんなもの身につく訳ないでしょ…」
「そんなことはない」
「アンタもこの言いようのない暑さを感じればいいんだ」
「それで、自分がますます暑くなってどうする?」
「嫌がらせのためにはどんな努力も惜しみませんよ!オレは!」
そして、ハボックはまたぎゅうっと手に力を込めた。

「――もっと別なことに努力したまえよ…」
もうずっと以前からこの暑さに何もする気の起きなくなっていた私はハボックを足にくっつけたまま、貴重な休日の午後が過ぎていくのを感じていた。



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東方司令部の訓練場には燦々と日差しが降り注いでいた。書類にサインすることに飽きた大佐が、物好きにも見学に出てきていた。

「暑い‥。暑いぞ、ハボック。――暑いっ!聞いているのかっ!ハボーックっ!!」
大佐はさっきからこれしか言わなかった。まだ、はじめの頃は、辛うじて近くにいるヤツらに聞こえる程度だったのに、今となっては訓練場にいるヤツら全員にまで声が届いているらしく、困惑を隠しきれずにちらちらとこっちを振り返っている。

――そっんなに暑いのなら、さっさと司令室に戻ればいいのに。
「何だ。その目は?」
「――別に、何でもないっスよ」
「言いたまえ」
「――はあ。暑いっスね?」
正午を過ぎて日差しは最高潮に強くなっていた。今日はそれほど気温が上がらない予報だったから外で走っていたのに。ますます暑くなりそうな雲ひとつない晴天を見上げたオレの後頭部に、大佐が投げた中身の入った紙コップが当って、頭から氷水をかぶった。それは、大佐が涼を確保するためサボリのお供にと用意周到に持ってきたもので、思いかけず涼を得てちょっと得した気分になった。
「ちょっと…」

「ハボック、私が暑そうだと言いたい訳か?――そう、確かに、私の方がお前より体脂肪が多いことは誰の目にも明らかだ。ゆえに、お前は私の方がより暑さに弱いはずだと言いたいのだろう?はっ!いい気になるなよっ!」
大佐はそう言うと、走って、司令室に戻っていった。

「あの、ハボック少尉‥‥?」
「気にするな。あれは、東方方面軍司令官、ロイ・マスタング国軍大佐の、いつもの、単なる、八つ当たりだ」
「‥‥‥‥‥」
暑さが増したように感じたのは、気のせいではない、はず‥‥。



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あー、なんつうの?無理?無駄?無謀?
アンタ、よくやるよね。

ソファにだらしなく座った少年は背もたれに頭を乗せて仰け反り、堂々と言い放った。
その部屋の主は少年のその物言いを咎めることはなかった。

彼? 彼は鋼の錬金術師ですよ。

そのたった一言で客は青ざめ、帰って行った。



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さっさと死んでしまったパパの生前を知る人たちは、パパが生きていたらボーイフレンド1人作るのもままならなかっただろうといつも笑う。

エリシアさん、どんな方とご結婚なさるの?
きっとこういう時、パパのような人とと答えるのが模範的な答えだと思うし好印象が得られるのを知っている。だけど、いつもそれじゃあ捻りが足りないと思っていたから。
私をファーストレディにしてくれる人と、と言ってみた。
私としてはなかなか悪くない答えだと思っていたのに、同級生は神妙な顔で頷いて、あまつさえ、がんばってねと言った。

私はボーイフレンドより冗談の分かる友人がほしい…。



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街中の人間が全員下を向いて歩いていた。
久しぶりにイースト・シティに降り立ったエルリック兄弟はその異様な光景を目の当たりにして眩暈を感じた。
子どもも大人も。男も女も。――軍人も。
その変な光景の中に見知った軍人を見つけ、2人は走り寄った。

あー、何で中尉とオレがあの人の後ろを歩いてんと思う?
あの人が落としたものを拾うためなんだぜ?

イースト・シティは東方司令官が紛失し、法外の懸賞金のかかった銀時計を街ぐるみで探していた。



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晴れやかな、澄み切った空のような。
しかし、曇天のときもあり、雨のときもある。ときには、嵐さえ。
移り行くその気性は、止まった時の中で息を潜めていた私に時の経過を教えた。
ああ、いつかは変わるのだ、と…。

たったそれだけで、奴が特別な存在になった。



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―――ハボック? ああ、奴なら今、庭の草取りをしてるよ。
こんなの鶏を放し飼いしとけばする必要なんかないのにとか、そうしたら卵だって買う必要はなくなるのにとか、こんなに広い庭なら鶏の数羽ぐらい飼ったっていいじゃないかとか、ぶつぶつ言いながら、ね。
何も、こんな暑い日に草取りなんかしなくともいいだろうに…。
君もそう思うだろう?

ははは!そうだね。好きにさせるさ。―――ハボーック!電話だ!



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今日はよく舌打ちを聞いた。眉間にいつもより深い皺を刻み言葉少なに指示を与える姿は人を遠ざけ、昼過ぎに空になったマグマップはそのまま勤務時間が終わるまで机の上に放置されていた。帰りの車に大佐を乗っけて走ってても、大佐はずっと固く口元を結んで窓の外を見ているだけで、オレはちっとも楽しくない。
オレは思った。自分の使命は、美味いものをテーブルに乗り切らないほどたくさん作って大佐をびっくりさせて喜ばせることに違いないと!



大佐は帰ってからも非常に不機嫌だった。
玄関前の階段につまずいて転びそうになるし。家に入ると乱暴に上着を脱ぎ捨てて、さっさと書斎に篭ってしまった。もしかして生理なのかもしれない。ならば、しがない男でしかないオレには生理の苦しみなどわかるはずもなく、夕飯の用意を整えることしかできないのだと改めて思った。
いつもはかけもしないテーブルクロスを引っ張り出したり、ランチョンマットを用意したり、庭に咲く花を摘んできたりして、テーブルセッティングをして。自分の甲斐甲斐しさがおかしかったけど、どこかくすぐったくも感じながら、大佐の家に備蓄していた細々とした食糧と、庭の片隅にひっそりと作っていた家庭菜園の野菜を収穫して、腕を縒をかけて作った。

出来立ての料理が冷めないように、書斎で不貞寝していた大佐を引っ張り起こして急いでリビングに連れて行く。ぶすっとしてても、大佐はオレの手は振り払わなかった。イライラしていてもお腹は減ってるらしい。
「ねえ。何、イライラしてんスか? アンタ、今日一日中、そんなんだったし。――ほら、夕飯はカルシウムの多いスペシャルメニューを心を込めて作りましたから、勢いよく食って下さいね!」
んで、さっさと元気になって、オレをかまってくださいよ。
でも、大佐はセッティングしたテーブルの上を冷たく見て、鼻で笑った。
「は!これだから馬鹿は困るんだ。いいか、よく聞け。カルシウムを吸収するにはビタミンDが必要不可欠だ。できたら、ビタミンCやマグネシウムも共に摂取できたら好ましい。なのに、お前の作った料理にはカルシウムの吸収を妨げるシュウ酸やフィチン酸が豊富な野菜が大量に添えられている。しかもその上、アルコールに、糖分がたっぷりなケーキまで用意する始末!――悪意を感じる。私にカルシウムを摂取させようとしているのではなく、むしろ阻害させようとしているのか?これで牛乳まで出されたら辛うじて残っている善玉のカルシウムまで流失してしまうのだ。ああ、お前のせいで明日も私はイライラして過ごさなければならんのか!」

―――結局、人が優しい心で振舞っても、この人が相手だとオレは八つ当たりされるハメになるのだ。やるせない気分でスープ皿から立っている湯気を見つめた。
「じゃあ、何と一緒に食ったらカルシウムは吸収されるんスか?」
「そんなの自分で考えろ!」
「頭が悪いんでわかりません…。教えてください…」
ちょっとだけ大佐のイライラが移ってきた気がした。
日が落ちると少しだけ肌寒く感じる最近、きっとこの暖かいスープの飲んだら、大佐のイライラはなくなってしまうはずだったのに…。
「―――シイタケだ。干シイタケが望ましい。もしくはレバーだ」
「ありがとうございます。干シイタケはこの間大量に買っておいたんでちょっと待ってて下さい」
オレは立ち上がった。特売で買った干シイタケをすり鉢で粉々にしたらすかっとしそうだったから、別にそれをすることに依存はない。しかも、それをこの料理の上にふりかければ、この人の気が済むと言う。そんなの簡単で泣けてきそうだった…。

ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。別にイラついてなんかないし。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。怒ってなんかもない。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。理不尽だとかなんても思ってないし。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。別にムカついてもない。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ。ゴリゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリゴリゴリ…。

鼻息ですら吹き飛んでしまいそうなほど細かくすり潰して満足を感じていた時だった、後ろから猛烈タックルを受けた。その勢いでオレの思いがこもったすり鉢がシンクに落っこちて、さっらさらになった粉末がどばーとこぼれた。そして、突然、攻撃を仕掛けてきた人はそのままオレの腹に手を回してオレの動きを封じようと力を込める。
でも、こんなマネをしたってまだまだ干シイタケはあるのに。無駄なことを…。
「ちょっと、大佐…」
言葉を遮るように大佐の腕に力が篭った。

「―――ハボック…、怒ってるか?」
聞き間違いかもしれないけど、背後からぽそっと小さな小さな声を聞いた。
思い違いかもしれないけど、背中にそっと頬を摺り寄せられる。
さっきはテーブルをひっくり返すほどイラついてたのに、今は借りてきた猫のようだった。やっぱり、この人もオレのあの力作の料理をみて惜しくなったのかな、とか。ケーキに干シイタケの粉末なんかかけたら食えたもんじゃないって思ったのかも、とか。ちょっと思ってしまう。この人のこういう手口にいっつもいいようにされてるって分かってるのに、どうしていつも騙されるんだろう。
「―――これぐらいで怒ってたら、アンタと一緒にいられませんよ。それよりイライラはもういいんスか?」
しばらくの沈黙のあと、大佐はこれまた小さな声で、うん…と呟いた。傍若無人な人のたまーに見れるしおらしいっぽい姿はいつだって可愛らしいものだから、なんとも不思議だ。

でも、明日のために。世のために人のために全ての料理に干シイタケの粉末をかけるけどね。



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その人はどこかの王様のようにソファに寝転がったまま、キッチンにいるオレを呼んだ。ハボ!ハボック!ハボーック!そして、猛烈な笑い声。箸が転がってもおかしいお年頃は結構前に過ぎたと思っていたんだけど、面倒臭がりな人は年を取るのを止めてしまってるのかもしれない。オレはそんな人外な生きものに逆らうようなことはせずに、コンロの火を止めて、リビングに足を踏み入れた。
「何スか…」
その人はソファに寝転がるだけでなく、両腕にエリシアの選んだピンクのハートが描かれたファンシーなクッションを抱えていた。にっこりと目で笑ってても、いつもと同じ断るなら捕って食うぞという雰囲気を湛えて…。
「ハボック、夕飯だ」
夕飯。夕飯なんかいつもこの家ではオレが作っているのに、今更。
「――何でも作りますよ。ええ。この家にある材料で」
「そうだな。お前は何でも作れる。天才だ。天才の私が言うのだから間違いない」
この人の口から馬鹿以外のオレの形容詞を聞くとは思いもしなかったし、想像したことも、夢に見たこともなかっただけに背中に嫌な汗が滲んだ。
「……………で、何が食いたいんスか?」

「オリーブのマリネ、アンチョビの入ったやつ」
「はい?」
「サラミ」
「え?」
「フレッシュミルクで作った、作りたてのゴーダチーズ」
「は?」
「お前の作った料理が食べたい」
「そんなの料理じゃないでしょ?」
「そんなことないだろう?」

大佐は困惑を隠せないオレを見て腹を抱えて笑った。
よく分からないけど大佐はご機嫌で、訳も分からずオレは恐ろしくなった…。



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山となった書類をダンボール箱に入れて両腕に抱えてたから、足を使って執務室の重厚なドアをノックするしかなかった。そんで、執務室から司令官の入ればと言う非常に投げやりな返事にドアを開けてくれることはないと知れば、足を使って入るしかないだろう。オレはダンボール箱を胸に傾けて何とか余裕のできた右手でドアノブを回し、辛うじてできたドアの隙間に足を差し込んで、中に入った。
正面には穏やかな日差しの中、座り心地のいい椅子にふんぞり返って、ニヤニヤとオレを見ている、ヒマを持て余してるその人…。
悪いことが起こる予感をひしひしと感じていた。

オレはできるだけ目を合わせないようにして、ホークアイ中尉の思いが篭っている重いダンボール箱を、慎重に大佐の足元に置いた。
「―――ハボック」
「あ、もうすぐ戻るように言われてたんだったなぁ」
ニヤニヤ笑いに笑顔で返して、背後を見せないようにじりじりと後ずさった。
「ハボック、もう秋だよ」
「戻んないと!」
「さあ、今年は何を編む?今年はかぎ編みが流行りなようだよ」
「詳しいですね…」
去年はちょっとした嫌味の報復で編み物をさせられたのだった。
「グレイシアが教えてくれた。それから、初心者用のかぎ編みの本を預かっている」
「……………………」
後たった一歩で悪魔の住む執務室を出られたのに、白い手がオレを近くに招き寄せる…。



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休日の朝、ハボックが寝室のカーテンを開け放って言った。どっか、散歩に行きましょうよ、と。確かに、秋晴れと呼ぶに相応しい爽やかな朝の光が、ベッドの上にまで差し込んできた。そう、一日中家の中にいるには少々もったいないと感じるほどの。だから、場所によると返した。人ごみの中をいつものように縦列に並んで歩き、オープンカフェで2人でパフェを食べるなんてごめんである。
――じゃあ、イーストパークに行きましょうか?
布団に潜りこんだ私にハボックはやれやれと言わんばかりに言った。
東部最大の面積を誇る公園には、こんな天気の良い日だったら犬を連れた人で溢れかえっているだろう…。大きい犬に、小さな犬が、わんわん、きゃんきゃん。わんわん、きゃんきゃん。わんきゃんわんきゃんわんわんわん…。
私は温いベッドに別れを告げた。

ハボックに腕を引かれて、既に出来上がっていた朝食を一緒に食べる。寝癖が酷いですよとか、そんなに目を擦んないでとか、口元にケチャップが付いてますよとか、どこの母親かと言いたくなるような小言をあーとかうーとかで受け流した。それでも小言は一向に減らなかったため、大皿の上に鎮座するウィンナーに勢いよくフォークをぶっ刺したら、やっとハボックも黙って食べ始めた。
黙々と食べればそれなりの量の朝食もあっという間に胃の中に納まり、私はどんな犬と交流を深めようかと思うとどうにもこうにも待ちきれずに立ち上がった。さっさと片付けて散歩に行くために。

しかし、さあ、行くぞという段階になってハボックがこんなに天気が良いんだから洗濯しないと、と言い出した。しかも、ハボックは私の返事を待たずに、バスの残り湯で洗濯機を回し、掃除機を引っ張り出してきてリビングの掃除を始める。その上、速く終わらせろと言う私にハボックは煙草に火を付け、それは洗濯機に言ってくださいと肩をすくめる有様だった。
犬がいなくなってしまったらどうしてくれるんだ。洗濯機と掃除機の騒がしい機械音に耳を塞いで、これ見よがしにリビングのソファに倒れ込んでも、ハボックは食ってすぐ寝っ転がらないと言うだけだった。
こうなったら1人でイーストパークに行く、と言い出せない自分が実に歯がゆい。基本的に犬は私に近寄ってこないし、懐くこともない。しかし、ハボックがいると犬が自ら寄ってきてじっと私の為すがままに大人しくしているのだ。私は一人で公園に行って犬を追い掛け回したいのではないから、ハボックを待つ以外道はない。でも、出発は果てしなく遠い…。





大佐がソファにうつ伏せで寝っ転がって、ぎりぎりと歯軋りを始めた。掃除機の排気音を越えて耳に届くその速くしろという率直なアピールを背中に感じながら、もう少し意地悪をしたくなってリビングに散らかった本も片付け始める。めったにない待たれる立場に心が弾む。ウキウキと、洗い立ての大佐の下着と自分の下着を庭に並んで干してしまった!

「―――大佐?」
漸く外出の準備ができたのは、朝食を食べ終わってから1時間が過ぎてからだった。ソファで不貞寝を決め込んでる人を起こしに行けば少し呼気が荒くて、額に手を当てると明らかに熱が平熱を越えていた。朝起きたときは具合悪そうじゃなかったのに。
「ハボック、もう、気は済んだのか?」
掃除は終わったけどこれでは散歩に行けない。消費期限の過ぎたものでも食わせちゃったかなとふと思ったけど、腐ったものを食べたぐらいで腹を下すような繊細な人ではなかったことをすぐに思い出した。
「休日に熱出すなんてアンタらしくないっスよ…」
手を白い額に当てたまま言えば、眉間に皺がよる。体調が悪い自覚はあるらしい。開けていた庭に続く窓から入る爽やかな風を途端に冷たいものに感じて、慌てて窓を閉じに行った背中に、犬…、という悲しげな声が届いた。
それでも、公園に連れて行ってはやれない。具合がよくなってから行くという手もあるが、秋の日差しはすぐ落ちる。今から一眠りしたら、すぐに夕暮れだろう。
ソファの上で体を丸める姿が、遠足の当日に風邪を引いて行けなくなった子どものように思えて、可哀想な気分な駆られてしまった。それでも、行けないものは行けないのだけど。

布団と毛布を腕に抱えて、ソファに張り付いたままの人の上にごそっと掛けそっとソファの脇に腰を下ろした。まあ、こんな天気がいい日に家の中でゆっくりくだらない話をして過ごすのも贅沢かもしれない。喋るのはもっぱらオレになっても。
「――そう言えば、もうすぐハロウィンっスね。子どもの頃、お菓子もらいに歩きました?」
大佐が眠るまで、優しい話をしようとハートフルになっていたオレに大佐が潤んだ目を向けて言った。ハボック、犬語で話してくれ、と。

しばらく、葛藤してからいつものように惚れたほうが負けだと感じて、肩を落としてワンと言ったら大佐がそれはそれは嬉しそうに優しく笑うから、どうにも人の言葉を喋れなくなってしまった…。



「ワンワンワンワンワン」
こんなことして、本当に楽しいんですか?
大佐は、ふうんと言った。
「ワンワン、ワンワンワンっ!」
本当に、本当に楽しいんですか!? 国軍大佐ともあろうアンタが?
大佐は、へえーと言った。
「ワン…!」
楽しいんですね。アンタ、マジで…。
大佐が、お前はいいコだなあと言って、そっとオレの頭を撫でた。
「……………、ワン…」
こんな日も悪くないかもしれない…。



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大佐が寒そうに肩を震わせたから、オレは善意でもって自分のマフラーをぐるぐると巻いてやった。しかも、風が強い日だったから、マフラーが吹き飛ばされないようにぎゅっと縛るという心遣い。オレは見た目にも温かくなった大佐の姿に満足感を感じて、振り返った大佐に笑いかけた。―――しかし、オレを見上げる大佐の目には明らかに倦が浮かんでいて、嫌味たっぷりに大きなため息を吐き出す。嫌味と一緒に…。

お前は、だから、モテないんだ。いや、出世と程遠いと言うか、いつまで経っても垢抜けないと言うか…。いや、イモ男のままと言うべきかっ! 寒い素振りを見せた私に自分のマフラーを差し出せたことは良しとしよう。ボロマフラーでもこんな風の強い日ならありがたいものだ。しかし、この巻き方はどうなんだ? お前は私を絞め殺したいのか! 何でこんなにぐるぐる巻きにして硬く縛る! 息苦しいだろう!

善意とか、好意とか。そんなものを平気で踏みにじられることに慣れてしまったオレ。ムカつくけど、ああ、そうですかと右から左へ流せるようになってしまったオレ。―――んじゃあ、モテる、出世頭の、垢抜けて、洗練された男はどうマフラーを使うんスかね?と、大佐の答えがよく聞こえるように耳の穴をかっぽじった。
大佐はオレの善意を両手で解いて、更に口の端をくっと持ち上げた。それは誰が見ても嘲笑のサイン。大佐のトレードマークのようなそれから、ただで教えてもらえると思うなよ!とオレには確かに聞こえた。冷たい風がむき出しの項を撫でて行く。寒さが身にしみた。

大佐はフン!と言って踵を返し、自分でオレのマフラーを巻きなおした。勢いよく、後ろへオレのマフラーを跳ね飛ばしたからフリンジが顔にべちんと当たった。寒い…。
200X…。もう何年頃に書いたかはよく分からない><