メモログ05
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雨の休日。薄暗い広いリビングは少しだけ肌寒く、瞼を重くする。
こんな日は飽きるまでベッドの中でだらだらしたらきっと最高だろうに…。

朝、訳も分からぬ内にベッドから叩き出され、気が付いたらダイニングテーブルでフォークを握らされていた。焼きたてのオムレツに思わず腹がぐーっと鳴ってしまわなかったら、まだ強く出ることもできただろう。ハボックに笑われながらも、作ってもらった朝食を大人しく口に運んだ。
全てを胃の中に収め、片付けくらいはしようと立ち上がれば、そっけなく追い払われて、しぶしぶリビングへ足を運んだ。

夜明け前を思わせる室内の暗さに慣れた目には、リビングのカーテンを引かれた大きな窓から差し込む淡い光すら眩しい。なのに、そこから目を離せずにいると、木々の葉が雨だれに揺れる様を光の中に見た気がした。その上、音まで聞こえてくるような…。
私は催眠作用のように眠気を覚えた。まだ温いだろうベッドに思いを馳せると、もう抗い違いほどに眠くてふらふらとリビングの床に座り込み、ソファにもたれて目を閉じた。

遠くから聞こえる、食器を洗う音に耳を澄まして、雨特有の重い空気に身を委ねる。
しばらくすると、ハボックが洗い物を終えて、足音が近づいてきた。
――あー、大佐、寝ちまったんスか。食って、すぐ寝るから、筋肉よりも筋肉じゃない方が付きやすくなるって言ってんのに。
ハボックは私が眠っていると思って好き勝手言う。
長い足で私を跨いでソファテーブルの上の灰皿と新聞を手に取り、窓の前の明るいところに私に背を向けて腰を下ろした。新聞紙を広げて、その前に胡坐をかく。――パチンパチンと音が聞こえてきた。足の爪を切ってる。その丸まった背中に誘われるまま、私は四つんばいで近寄って、それを背に寄りかかった。
ちょうどよい温もりにまた目を閉じる…。



「ねえ、ちょっと、大佐。オレ、腹減ったんスけど」
「――ん…」
腹って、さっき食べたばかりだろうに…。
「マジで寝るなら、ソファかベッドに運びますから」
「―――……」
「大佐、もう、この体勢、疲れたんスけど」
「―――んー…」
背もたれが揺れて、体が傾いた。ハボックが振り向こうとしたからだろう。しかし、私は床に張り付く前に体を反転させてハボックにしがみ付く。
その背筋の硬さに思わず頬ずりすると、ハボックが口ごもって大きなため息を付いた。
「昼、何でも好きなもの、作ってあげますから。ねえ」
「―――……」
私はまだこのままだらだらしていたい…。
「ミートローフ作って、サンドウィッチにしてあげますから。カスタードクリームも作ってあげますよ。アンタ、パンにべっとり塗って食べるの好きでしょ。ねえ」
「―――んー…」
体が安定しなくてずるずると下がっていった。腕を硬い腹筋に回した。
「嫌ですか?あー、もう、面倒臭えなあ。んじゃあ、ミネストローネにショートパスタたくさん入れて食べます?んで、ガーリックトーストたくさん作って、浸して食べる」
「――んん……」
まだ収まりが悪い。
「食べたいもの、言ってくださいよ。ねえ、大佐」
「――くりー、む…」
ハボックは私の腕を掴むと、強引に背後の私を自分の膝の上に引っ張りあげた。
「あー、シチュー系?クラムチャウダーとか?」
「―――……」
今度は硬い太ももが頬に当たった。
「ねえ、大佐ー。腹減りましたよー。昼メシにしましょうよー」
「――さっき、食べたばかりじゃないか…」
「オレ、若いんで、昼になればちゃんと腹が減るんですよ」
「……………」
昼?――もし、今が本当に昼だと言うなら、お前はずっと何時間も私の背もたれになっていたのか?
「昼にしましょうよ。ねえ。そしたら、3時のおやつにスフレ作ってあげますから」
「……………」
「ねえ?」
「――コーンスープがいい…」
コーンがたっぷり入ったやつ…。
「じゃあ、オレの太ももから手、離してくださいよ」
「―――んー…」
でも、もうちょっと、このまま…。
ハボックが頭上でねえと言葉を続けるのを、遠くに聞いた気がした。



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(マスタング+ホークアイ+ハボック IN 京都)

マスタング、ホークアイ、ハボックの3人が乗った高級車は京都駅に止まり、3人を問答無用に降ろして去って行った。

急遽決まった観光に3人は、桜見物に訪れた列を成している観光客をわき目に見ながら途方に暮れていた。それぞれが手にした貰ったガイドブックに視線がどうにも落ちていく。
時間は限られているがせっかくなら有意義な観光がしたい。――と、思いながらも、3人は右も左もわからず、まずは腰を落ち着けて話し会おうということになった。

しかし、見渡す限りのコーヒースタンドはどこも人で溢れていて、結局3人は人通りの少ない駅構内の隅っこに向かうことにした。
そして、そこで顔を突き合わせガイドブックを開いた。
「さて、どこに行こうか?」
マスタングはまずは見所を知らなくてはと、ガイドブックをめくる。
「あー、やっぱり、京都なら世界遺産でしょ?」
ハボックはどこもかしこも禁煙であることを知っていて、あまり積極的ではなかった。ガイドブックをめくるスピードも投げやりだった。
そんな中、ホークアイだけがガイドブックのあるページを食い入るように見つめていた。
「――甘味ですね」
その言葉と共に、自分が見ていたページをマスタングの鼻先に突きつける。
ハボックはそれを覗き込んだ。

「――ホークアイ中尉」
「問題はどこに行くかです。行きたい店全部へなどとはさすがに限界がありそうです」
ハボックは匂いたってきそうな甘味の写真に思わず、口元を押さえた。もう、それだけで満腹感を感じながら。
マスタングは自分が持っていたガイドブックをパタンと閉じた。
「何店くらいはしごできるだろうか…?」
「午前中の内に3店、午後に4店、夜2店と言ったところでしょうか」
「9店か…。なかなか難しいぞ。ここに載っているだけでも20店はある」
マスタングの言葉にホークアイが頷いた。
「ここは地域を絞るか、行きたい店上位9店を決めるかしかないようです。大佐、ここは外せないという店はありますか?」
「うーん…」

1人乗り遅れたハボックはこのままでは完全に自分の存在を無視されてしまうとにわかに焦りはじめた。この2人が興味を持ちそうな甘味屋以外の観光スポットを探すべく、今度は真剣にガイドブックをめくり始めた…。



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その日は月末という訳でもなく、別に金欠に喘いでいた訳でもない。
ただいつも月末になって金欠でばたばたするのは何だから、ちょっとこの辺りで節約しとくかと言う話に自然になったのだ。
言い出したヤツが誰だったかなんてことは今となっては些細な問題だった。

司令室中の僅かなカンパから、米を買ってきたのはブレダだ。その米を豊富な知識を使って給湯室のガスコンロで炊いたのはファルマンで、夜食にとその米を炊いた鍋を司令室に運んできたのはフュリーだった。
もしこの目の前に広がる惨事の根本的な原因を上げるとしたら、あらかじめ大佐を仲間に引きずり込まなかったことなのかもしれない。貧乏人による貧乏人のための貧乏人救済計画だなんてこだわりは捨て去って、オレたちはいつものように金持ちにへつらうべきだったのだ。そうすれば少なくともこの惨事は避けられたに違いない…。

オレたち4人はただただ固まっていた。白いご飯を頭から被った大佐を前にして…。

大佐がさぼらんとばかりに開けた司令室のドアから、ちょうど良かったとするりと入ってきたフュリーは両手で鍋を持っていて、そして、勢いよく2人は正面衝突した。大佐は尻餅を付いた。頭から白いご飯を被って、頭にごちんと鍋をぶつけて。
そのままの姿勢で微動だにせず、無言で、烈火のごとく睨みつけてくる大佐に怒りの大きさが知れた。オレたちもまた金縛りにかかったように呼吸すらままならず、ただただ微動谷しなかった。ヘビに睨まれた蛙とはまさに今のオレたちのことだろう。

――この呪縛を解いてくれたのは、ホークアイ中尉だった。
司令室に入って来た中尉はこの惨状を見てにっこり笑った。そして、ハボック少尉、マスタング大佐の隣に立ちなさいと言った。オレの頭は正常に働くことを随分前から止めていて、素直に中尉の命令に従った。すると、今度はブレダに、そこの花を取ってくれるかしらとブレダの背後を指差した。その先には花瓶に入った花が確かにあり、ブレダが目を充血させながらも走って取りに行って、中尉に手渡す。今のオレたちには中尉の奇行より、呼吸ができることの方が重大だったのだ。

大佐が怒りまくった視線を徐々に拗ねた色に変えて、中尉に物言いたそうにしていると、中尉は優しく大佐を床から起こして、その手に数本の花を握らせた。
「マスタング大佐、おめでとうございます」
「――は?」
オレたちには何が何だかさっぱりわからなかった。だが、それは大佐も一緒だったようで米粒が大量に付いた顔に困惑が浮かんだ。
青い軍服にも黒髪にも白い飯がたっぷりくっついていて、さっさと落として拭かないと面倒なことになると思った時だった。ホークアイ中尉が大真面目な顔で、結婚、おめでとうございますと言ったのは…。
「よかったですね。そんなにたくさんライスシャワーを受けられて。ハボック少尉と幸せになってください。マスタング大佐、結婚、おめでとうございます」
3回、おめでとうございますと大声で言ってくださった中尉の迫力に押されるようにようにして、司令室中から拍手がまばらに沸きあがった。

司令室は妙な緊張感に包まれていた。



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軍人の多さが目に付く大衆パブでその集団は風変わりだった。いや、平均以上に大きい背丈や胸幅、腕の太さは軍服を着てなくとも軍人特有のものでこの店に相応しかったが、その厳つい奴らに囲まれた人がどうにもこうにも軍人には見えない黒髪の優男だったのだ。しかも、その黒髪が明らかに軍人と思しき奴らを顎で使っていた。
それは異様な光景だった。軍人が勢力を誇るこの軍事国家では。
なのに、店の給仕も他の集団もまるで酒のつまみの一つのようにその黒髪の言葉に耳を傾けいる。時折、何かしらの合いの手や明るい笑いを挿みながら。
パブを充満する楽しい雰囲気につられるように、私もまた彼の声に耳を傾けた。

――1枚のコインの表と裏だ。たった2分の1の確立なのさ。
そんなの頭のいい人間の考えですよ!
それに!金がかかってんのに考えられるわけないです!
――バカもの。金がかかっているからこそ考えるのではないか。お前たちだって掛け算ぐらいできるだろう?
掛け算!?何ですか、それ!
蕁麻疹が出てきましたよ!
――バカ。ハボックすらできるんだぞ。お前たちにできないなんてことはない。
黒髪は、蕁麻疹がでたかのように腕をさすったごっつい岩のような男の頭を乱暴にかき回した。すると、男は自分の頭をかき回す白い手をそのままに子どものように照れた顔で笑った。

――いいか、2分の1と言うのは2回の内、1回ということだ。では、1024分の1と言うのは?
………………。
えーっと、1024回の内、1回?
――そう。考えればできるじゃないか!
笑い声が渦巻く。
――1024回に1回はよく起こることか?
えー、ものにもよりますけど。
簡単には起きないです。普通なら。
――1024は2の10乗だ。1024分の1。これは表が10回連続して出る確率だ。裏が10回連続して出る確率でもある。表が9回連続して出た時、お前たちは10回目も表が出ると賭けたいか?10回目も連続して表が出るのは1024回の内に1回だぞ。
そんなに表が出ることなんてないですよ。
でも、出るかも。
――出たら1024回中の1回だったのさ。32回中1回、64回中1回、128回中1回、256回中1回、512回中1回…。連続して同じ面が出る確率はどんどん下がる。5回連続して出る確率は32分の1だ。どうだ、賭けたくなるか?6回連続して赤がでる確率は64分の1に過ぎないぞ。つまり、6回連続して赤がでない確率は64分の63になるのさ。
あー、32回に1回じゃ出ることもありそうですけど、64回に1回じゃまず出ない気が…。
でも現実問題として、表が5回連続して出るのを待って6回目に裏に賭けてちゃ、盛り上がんねえっていうか…。
――まあ、そうだな。仲間内の賭け事でこんなまどろっこしい勝負をしていたら、私だって殴ってしまいそうだ。
また笑い声が上がった。思わず私の口からも。
しかし、軍人でもない私の笑いを咎めるように見るものは1人もいない。
はじめての街の、はじめてのパブは事の他当たりだったようだ。

――しかし、なにもこれはコインにだけ使える方法論ではない。赤と黒でもいいのさ。
赤と黒!ルーレットですかっ!?
ブルジョアな博打だぜ、オイ!
――こう考えてみろ。給与日前の金がない時、ポケットに入っていたたった5000センズをできるだけ確実に増やしたい。5回連続して赤が出たとき、6回目に黒がでる確率64分の63に賭けるんだ。どうだ?
あー、何かすっごいいい気がしてきた。
金持ちになれそう…。
――そうだろう?よし、実践でもっと詳しく教えてやろう!
黒髪が勢いよく立ち上がるのにつられて、あ、いいなと思わず腰が浮いてしまった私とは対照的に、周りの軍人たちは一斉に腰を引いた。

――金を合法的に手っ取り速く増やしたいんだろう?
あ、えーっと…?
ええっと、いや、その。なんていうか、オレらは自分に見合った博打でいいんで…
その言葉に黒髪は持っていたビールジョッキを派手に音を立てて机に叩きつけた。店中、緊張感が漂う沈黙に包まれた。
――私が直々に金を増やしてやろうと言っているんだぞっ!
その呼び声に答えるものは誰一人としておらず、ますます重い沈黙だけが流れる。
みんなが行かないなら私が一緒に行きたい。でも、厚い肉の壁がそう彼に声をかけることを阻んでいた。

――酒を持って来い。
誰も彼の誘いに乗らなくて、ついに彼は機嫌を損ねてしまった。さっきまであれほど楽しそうに饒舌に話していたのに。
もっと話を聞いていたくて、私は意を決して席を立った。
がたっと椅子が立てた音がこの異様な静けさに包まれたパブにやけに大きく響いた。
すると、彼から目を逸らしていた軍人たちが静かに視線を向ける。その迫力に思わず腰が元の椅子に落ちた。そして、また沈黙だ。



このパブの沈黙を破ったのは、店の前に横付けにされた高級車のブレーキ音だった。
「あ、やっと来ましたよ」
その誰かの声と共に、パブの扉を軽やかに開けて軍人が入ってきた。
金髪の銜えタバコの軍人。
また、軍人だ。
店の軍人たちが姿勢を正し、道を開ける。その道は一直線に黒髪に向かっていた。
そこを長い足で闊歩し徐々に黒髪に近づいていくと、黒髪はあからさまに眉を顰めた。
2人は少し言葉を交わすと黒髪は肩を落とし、そのまま金髪の軍人に引きづられるように店を出て行った。
「また、奢ってくださいね!」
誰かの無責任な言葉に黒髪は振り返らず、片手を挙げて答え店を出て行った。
そして、程なくして車が動き出す音が聞こえてきた。

気が付けば、パブはまた喧騒を取り戻していた。



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「――それの第一義は、その対象を得ることだとは思わない。他者を理解することにあると思う」
東方司令部の奥深い資料室の片隅でその人の声はよく通っていた。大声を出しているわけではないのに、不思議と耳元で話されている気がする。

いつものように執務室から脱走した大佐を探して資料室に入った。その時はまだ気配を消そうとか考えてはいなかったと思う。ただ資料室の鍵が開いていたから、大佐以外の誰か使用しているのかもしれないと思ってできるだけ音を立てないようにドアを開けた。そして、中にはやはり予想通りサボり中の大佐と、何故か年中旅行中の鋼の錬金術師がいた。帰ってたのか。久しぶりの少年の姿を思うと頬が緩むが、2人が珍しく真剣な声色で話していて、オレは声をかけるタイミングを失ってしまった。

「そうだな。例えば、私がどんなに君を愛していたとしても、君が私の愛というものを理解しなければ、君にとって私の愛は愛とは認識されないだろう。よって、私は君に自分を愛してはいないと判断される。他者の愛の形を理解できる者だけが多くの愛を得るだろう。他者の愛を理解できない者が愛と無縁なのではないか?」
自分に向かって言われた言葉ではなかったが、まるで自分に言われているように感じて、オレは2人から隠れるようにして耳を澄ませてた。盗み聞きをしている自覚が息すら潜めさせる。
「――そうなのか?愛ってそういうものなのか?愛はもっと独善的なもんじゃねえの?それが許容されるかどうかって話じゃねーの?例えば、オレがあんたを愛していたとする。オレはあんたの愛を得るために良かれと思うことをする。もし、あんたがオレの愛を受け入れる気があるなら、オレの行為を好意的に思うだろう。他者の自分に寄せる独りよがりな行為を許容するか、しないか。多くを許容できる者が愛に満ちている。つまり、多くを許容できねえあんたが愛と無縁なんだ。あんたは自分の価値観に寄る者しか受け入れようとしていない。誰にも彼にも自分を理解させようって言うのも、独善的な愛のカタチの一つじゃねーの?」
「鋼の。愛の告白と共に渡された花束を受け取るか、受け取らないか。私はそれが愛とは思えない」

愛。どんな話の流れでこんなことを話ているかなんて検討もつかないけど、2人が小難しいことを真剣に話していることだけはよく分かった。
会話の合間の僅かな沈黙がオレの思考を揺さぶる。
オレにとって愛ってなんだろう…。
でも、それは行き成り考えて思いつくものでもなく、肉体労働専門のオレにとってはその壁はあまりに高くそびえ立っていた。
2人の会話は続いて行く。

そして、ついにはこの場にいることすら苦痛を感じはじめて、オレは負け犬の気分で静かに資料室から逃げ出した。



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それはただの単なる車の故障だったが、起こった場所が悪かった。
行くも戻るも中途半端な山の中腹。
別にその場で救援を待っていても良かったのに、後部座席に座っていた1人が早く帰りたいと言い張った。日が落ちるまでに中央へ戻る汽車に乗らなければ、3回目の結婚記念日に間に合わないと…。
しかし、どんなに必死に言われようとも、後部座席に座るもう1人と運転席のオレは心動かされることはなかった。結婚記念日ならば4回目を派手に祝えばいい。それが嫌なら、一日ぐらい遅れたってさほど問題はない。
自分の味方がそう簡単に得られないことを知っていたはた迷惑な愛妻家の行動は実に周到だった。ぼーっと後ろの人の必死な訴えを聞き流して油断してたオレのポケットから、すっとオレの命とも言えるタバコを抜き取ったのだ。
気が付いたとき、それはにったりと笑ったヒューズ中佐の手によって握り潰されて、ついでとばかりに踏み潰された。そして、中佐は言った。――ハボック、お前も早く帰りたいよな?と…。

中佐は最短距離を行くからさと、1人車に残ると言い張った大佐を宥めすかして車道から山中に引っ張り込んだ。そして、出張中の中佐と、大佐とオレの3人は、黙々と昼間でも薄暗い道なき道を歩いて山を下って行くこととなった。



3時間経っても町にたどり着けずに先頭を歩いていたヒューズ中佐に僅かな焦りの色が浮かびはじめると、不満たらたらで歩いていた大佐が目敏くそれを感じ取ってその場にしゃがみ込んだ。
「もう嫌だ。私はこれ以上山道なんか歩かない」
正に駄々っ子だった。
しかし、ヒューズ中佐の事情はまだしも、オレの場合は猶予はない。ニコチンは切れ掛かっていて、そんな大佐の駄々で時間を無駄にはできなかった。
「じゃあ、歩かないでいいっスよ」
そう言えば、大佐はむくれて見上げる。それはもう何歳だかわかんない顔で。
「――お前なんてキライだ…」
益々ふて腐れて、睨み上げる大佐の背後にヒューズ中佐は回り込み、大佐の脇の下に両手を差し込んで持ち上げた。オレは中佐に顎で使われるまでもなく背中を向けて背を屈めると、中佐が大佐をオレの背中に乗っけた。
「よし。さあ、行くぞ!」
「――うス」
オレたちは各々の目的のために走り出した。背中で大佐が容赦なくオレの髪をぎゅっと握って大声で悪態をついていたが、オレが岩場をジャンプすると無言になった。
どうやら、舌を噛んだようだった。



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その朝、黒髪の中に白髪を見つけた。
たった1本の白髪…。
最近、生活が不摂生だったし…、――それはいつものことだけど。
とにかく、私はショックだった。

そんな動揺覚めやらぬ内に、眩しいほどの金髪を持つ男が迎えにやってきた。呼び鈴を連打されて玄関を開けると、朝日に照らされたハボックが驚きに目を見開いて立っている。あれ、起きてたんスかとその顔には露骨なまでに書かれていたが、私はそんな阿呆面より輝かしい頭に目を奪われた。
ああ、この頭なら白髪が1ダースあっても気付けまい。
しかし、それは良いことなのか、悪いことなのか。考えどころだろう。
「あのー、オレの頭なんか付いてます?」
その声に僅かながらも困惑の色を聞き取って、探究心が湧き上がった。金髪を有する人間にとって白髪は一体どれほど動揺を誘うものなのか?
「――白髪を見つけた」
ハボックは私の言葉に更に呆けた顔をして、人差し指で鼻の頭を掻いた。
「あー、白髪っスか?」
「白髪だ」
「えーっと、白髪?」
「そうだっ!白髪だっ!!」
「はあ……」
自分の前髪を上目使いで見上げたハボックは、器用に息を吹き上げて金髪の前髪を揺らした。やや寄り目になったファニーな顔で…。
「でも、別に、白髪なんて金髪と大差ないっしょ?」

今日は仕事なんかしたくない。と言うか、むしろ家から出たくもない。



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(sbmoB evoL)

路地裏の一匹の猫に意識を奪われたのは、来る日も来る日も仕事の予定しかなくて、殺伐とした生活がこのまま永遠に続くのかと半ばあきらめに近い気持ちでいた時だった。
猫なんて至るところにわんさかいるのに、その時、その猫に目が留まったのはどうしてだろう。――今思えば、泥にまみれて足を引きずってても、耳をぴんと立てて堂々とオレの前を横切った姿が凛々しく見えたからかもしれない。オレはその時、あまりものを考えずに目の前から続く猫の足跡について行った。
猫は後ろを振り返らずに歩く。どこにオレを連れて行くんだろうと思うと久々に足取りが軽く、わくわくしてた。

帰っても冷めた朝飯の残りを食べて寝るだけのオレは驚くほど辛抱強く猫に付いて行くと、はじめは後ろを付いていくオレのことなど全く歯牙にもかけてなかった猫が数回振り返った。その目が明らかに迷惑そうだったけど、やっと猫に自分の存在を認められた気がして嬉しくなった。――にやけたオレの顔を見た猫は歩みを速めた。

オレの行動を見ていたヤツがいたら、猫を追い掛け回したと言われるのかもしれない。猫はオレを振り切ろうとばかりに、薄暗い路地裏から街頭の灯った大通りに飛び出し、――ドンという嫌な音と車の急ブレーキを掛ける耳障りな音、次いで罵声がオレの耳に入ってきた。
猫。あの泥に汚れた猫は。
車から降りた男は舌打ちと共に足で歩道に蹴り上げた。
ぐったりと石畳の上に倒れたあの猫を…。
歩道にいた人たちが足を止めて遠巻きに見ていた。でも、その男が車に乗り込み去っていくと街はもうあの猫のことなど忘れてしまったかのように誰もが足早に過ぎていった。あんなにも凛々しかったのに、オレみたいに見向きもされない存在になってしまった猫…。上手くいかない。何をしたって上手くいかない。もうちょっとわくわくした気持ちを味わっていたかっただけなのに。

オレは小さな小さな猫を抱き上げた。まだ残る温もりに、涙が溢れてこぼれた。
病院に連れて行ってやりたい。だけど、オレにはそんな金はなくって。この街は金のないヤツには本当に冷たくって。
「――ごめん。オレのせいだよな。ごめん…」
家にあるなけなしの薬をあるだけ使ってやるから、こんな街でこんな風に死んじまうな。革ジャンに小さな体を包んで、人の流れに逆らうように帰った。



郊外の倉庫街の、ボロい倉庫の半地下部分がただ同然に借りているオレの住処だ。配管がむき出しでよく頭をぶつけそうになるけど広さが自慢だ。小汚いベッドがポツンと置かれてるだけで、そんなもの無用な広さだったが。
ベッドに革ジャンごと猫を置いて、ベッド下の段ボール箱に入れっ放しになっていた薬を引っ張り出した。痛み止めと解熱剤しかしかなかったけど、ないよりはマシだ。
猫の小さな口をこじ開けて、あるだけの錠剤を口の奥に突っ込んだ。力ない小さな体は大した抵抗もなく飲み込んでいく。ちょっとほっとして、明日の朝には元気になることを願って同じベッドに入った。何かの温もりを感じて寝るなんて久しぶりだった。

――が、朝が来て隣にいたのは泥にまみれた素っ裸の男だった。オレは文字通りベッドから飛び起きた。汚いベッドを更に汚くして見ず知らずの男が体を丸めて顔を真っ赤にしてけほけほと薬を吐き出して痙攣を起こしていた。意識はない。そっと額に手を当てたら微かに目が開いたが、その焦点は合っていなかった。ヤバいほど熱が高い。――解熱剤…、と思っても昨日の夜全部飲ませたことを思い出した。
「―――せめて1錠残しておけよ…」
そんなことを思っても後の祭りだった。見ている内に男の呼吸はどんどん苦しそうになっていって、オレはなけなしのタオルをささやかなキッチンで濡らして頭に乗せてやった。それでも、苦しそうな様子は変わらない。
でも、だからってここにいてこれ以上のことをできることはなかった。オレは仕事場の医療室に行って薬を貰ってくることが最善に思えて、大してものを考えず慌てて家を開けた。



仕事が終わって、走って帰ったらベッドの上にはぐったりとした猫が一匹。アレ、と思ってベッドの毛布を捲ってみたらその上にいた猫がころんと転がって、ドスンと床の上に落ちた。その明らかに、ちっこい猫が落ちたにはありえない音。――屈んでベッドの向こうを覗き込んだら、今朝見た男がそこにいた。どんな手品なんだと言いたかったが、身動き1つしない男に突然不安になって慌てて抱き起こした。熱は朝より高くなっている気がした…。



良く分からない内に変な生き物が住み着いた。

喋ることができて、人間に変身できる不思議な猫。
でも、何でもオレのせいで、ちゃんとした人間に変身はできなくなってしまったらしい。黒い髪を掻き分けてにょっきと生えている黒い猫の耳に、白い尻から生える長い黒い尻尾。難しいことを言ってここにいる権利を主張した変な猫に、なんとなく心が浮き足立っていた。この猫はあの時どこに行こうとしていたのか。――それが分かる気がしたからかもしれない。



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「うなぎが食べたい」
雨が続く薄寒い日の午後の司令室、その人は書類を片手に頬杖をついて誰に言うでもなく呟き、オレは唐突なうなぎという単語に思わず手を止めた。
うなぎ。確かオレの知ってるうなぎは田舎の川を遡上してくるにょろにょろしたヤツだ。油がのって揚げてもシチューに入れても美味かった。捕まえるのがなかなか難しくて、子どもの遊びには丁度良かったっけ。とにかく夢中になって日が暮れるまで取って取って取り捲った記憶がある…。
「うなぎが食べたい」
大佐がまた実にはっきりと言うと、隣でブレダが下っ腹を押さながら呻き声をもらした。
――くそっ!うなぎ食いたくなるじゃねえか!
昼飯を食ったばっかでよく言うぜ。
「うなぎが食べたい。―――あの香ばしくも甘い匂いを立たせた、あめ色に輝く蒲焼…。白いライスはあのソース色に色を変え、蒲焼が乗せられる瞬間を今か今かと待ち構えている。ああ、山椒のスパイシーな香りがあの甘い匂いに絡んだあの独特の……。ああ、うなぎが食べたい」
あくまでも独り言とばかりに誰とも視線を合わせずに言うだけ言うと、大佐は新しい書類に手を伸ばした。大佐の新たな嫌がらせに司令室はどよめいていた。

それでも平和な本日のお勤めがようやく終わって、軍の誇る高級車に大佐を乗っけてでっかいお家に帰る途中、どうにも気になっていたことを聞いてみた。
「うなぎの蒲焼ってなんスか?」
オレの知らないうなぎの食べ方。
昼間、大佐がはっきりと独り言を言った後、司令室は大佐に呪いの魔法を掛けられたようにみんな一様にぶつぶつとうなぎうなぎと呟いていて、それはどんなか聞ける雰囲気ではなかったのだ。
「オレ、うなぎって揚げる煮るかしたのしか食べたことないんスよね。田舎じゃよく遡上したうなぎを取りに行きましたけど」
「お前、土用の丑の日を知らなかったのか?」
「――土曜の牛の日?」
何それ?
「知ってて知らないふりをしているんだと思っていたぞ。だから、うなぎ食わせろと言わなかったんだとばかり…」
「はあ?」
大佐は背後でむむむと声を漏らして、しばしの沈黙の後、言った。
「よし!車を回せ!私が美味いうなぎを食べさせてやろうじゃないか!!」

「………ホントにうなぎ食べたかったんですね、アンタ」
オレの言葉が聞こえてても嬉しそうに笑ったままの大佐をバックミラーに見て、そんなにうなぎというものは美味いのかと思った。
200X…。もう何年頃に書いたかはよく分からない><