メモログ04
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考えるんだ。
考え、そして、自分の中に構築していくんだ。
解るか?
今のこの一瞬が全てだと思うところには、何も残らない。
しっかりと構築されなければ、全てはいずれなくなってしまう。
それがどんなに大切なものであろうとも、人はそれを記憶に留めておけないんだ。



オレはアンタの言ってることが理解できない。
アンタはそれを解っててそれを許容する。
いずれ解るときが来ると、言いたげに笑みを浮かべて。
アンタのベッドの中での睦言は、時々静寂過ぎてまるで遺言のようだった。
アンタのいない世界に1人生きるオレに向けられた言葉のようにいつも感じていた。



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(ハボック小隊とマスタング中佐)

東方支部から、東方司令部にテロ鎮圧の応援要請が入った。しかし、その応援要請に何かしら思うところがあったようなそぶりを見せたその人は、眉間に皺をよせ、オレに本隊が現地に入る前にちょっと先に行って様子を偵察しろと言った。





2台の大型車に分乗し、その現地に到着して、もう1台に乗っていた隊員の第一声は実に気が抜けていた。
「―――あー、あのですね、隊長?どうしようもない、致命的なミスと言うか、何というか。取り返しのつかないことって言っても、不可抗力であってですね。不運な事態とも言えるし‥‥‥」
「何だよ、ハッキリ言えって」
遊びに来てんじゃないんだぜ。
なのに、普段は仕事に手を抜かない隊員は、困ったように肩を竦めるだけだ。
「‥‥‥‥‥」
「あん?」
辺りに生ぬるい沈黙が流れた。

「オレたちは、全く、これっぽっちも悪くはないですよ。ええ。そうです」
今度は、別な隊員が黙り込んだ隊員を庇うように言葉を重ねた
「だから何だよ?」
隊員の目が、チラリと自分たちが乗ってきた大型車に流れた。
「―――あ、」
「あ?」
「阿呆な‥‥‥」
オレはその形容詞が実に似合っている、いや、定冠詞になっていると言ってもいい人物を1人知っていた。
「――阿呆な、じ、上司?」
「あ、それです。それ」
自分の顔が青くなったのを感じた。勢いよく、血の気が下がって行った。嘘だろうと呆然とつぶやく。



不吉な予感のまま、困惑しきった隊員たちが囲んでいる大型軍用車に走れば、サーっと隊員たちが避けて行った。まるで、不吉なものから遠ざかるかのように。そして、口々に、オレたちは悪くないと言う。
―――何を言ったところで後の祭りだ。後発で来る予定の人が、こんなところで惰眠を貪っている!
荷台の隅で、銃器の入った木箱に寄りかかりながら眠るマスタング中佐に、誰もなす術などなかった。

「ちょっと、アンタっ!マジで、何やってんスかっ!!」
そのオレの怒号に漸く反応した中佐は、目を擦りながら、あくびをしてみせた。
中佐の第一声は、もう、着いたのか、だった。



「アンタね!そうじゃないでしょ!まさか、黙って来たとかなしですよ?」
「‥‥‥‥‥」
「カンベンしてくださいよ、全く!やりたい放題し過ぎっスよ」
「うるさい。もう、来てしまった以上、仕方があるまい?」
「アンタのワガママ、咎められねえヤツらに言ってどうする気なんスか?それに、何だかんだ言ったところで、来る気だったくせに。どうして、たった2、3時間我慢できないんスか?」
珍しくオレの言葉に反論できない中佐は項垂れてしまった。
中佐が俯くと、オレにはそのつむじしか見えない。思わず大きな溜息が出た。
デスクワークに飽き飽きして、思わず飛び出したのだろう。しかも、オレのとこの部隊だ。この人には慣れてるヤツらばかりだ。比較的、中佐にとってもワガママが言いやすいのだろう。完全に萎縮してしまう部隊がほとんどの中で、ウチのヤツらは、この人のことを困った人と認識してる程度だ。

静かに諭されれば、いつものように煙に巻くこともできず、中佐は自分の非にぐうの音も出ない。マスタング中佐の落ちた肩とつむじが滅多にないほど、オレに同情心を湧き上がらせた。
「反省してくださいよ?」
オレの言葉に、中佐が無言のまま首肯する。
「ホークアイ中尉がいらっしゃるまで、オレの命令に従ってください」
「―――わかった。中尉はやっぱり、すごく怒っているだろうか」
その姿は、まるで怒られ過ぎた子供のようにしょげ返ってしまっている。2、3時間が我慢できなかったほど、外に出たかったという気持ちがありありと伝わってきた。

自由がほとんどなく、一日中、軍に拘束されているような生活を送っているような人だ。立場上、仕方がないと言っても、無理が利くなら、無理を通さなければこうして外の空気を吸うこともままならない―――、そう思えば何とはなしに、その頭を撫でて、慰めの言葉一つも言いたくなる。しかし、それは憚られるので、別なことを言った。
「まあ、アンタの言う通り、来ちまったもんはしょうがないっスから。さっさと降りてください。偵察に来たんでしょう?アンタ、自ら?」
中佐はやっと頭を上げて、にぱっと笑顔を向けた。その笑顔が、妙にいじらしく、幼くて、オレは思わず言ってしまった。
「―――中尉には一緒に謝ってあげますから。ほら、降りて」



途端に、この顛末を見ていた隊員たちから、一斉に長い溜息が吐き出された。周囲を見渡せば、皆、一様にその顔に落胆の表情が浮かんでいた。
「隊長、信じていたのに!」
その隊員の言葉に、いやーな気分を抑えて中佐を振り返ると、そこにはいつもの人を小馬鹿にした笑みが浮かんでいた。

「ほらな、私の言った通りだったろう?さあ、金を出せ」
「中佐、こんなトコに金なんて持ってきてませんから」
「理解ある上司である私は、来月の給与から天引きしといてやろう」
「それは止めてください!―――踏み倒せないじゃないですか!」
「ご自分の童顔をああまで武器にするなんて反則です。あんなの隊長じゃなくたって引っかかりますよ!」
「ふっ、甘いな!こんな時じゃなくて、いつ、この伝家の宝刀を使うんだ。一寸の虫にも五分の魂だろう!」

中佐は軍用車から降りると、そのまま、行くぞとだけ言って口を開けたままのオレの脇を通り過ぎた。隊員たちも、中佐に続き、口々に、天引きはカンベンしてくださいとか言いながら通り過ぎていく。

一陣の風が吹き抜けていった。自分はどうやら、賭けの対象にされていたようだった。おそらく、一緒にホークアイ中尉に謝るかどうかで。



マスタング中佐は、この車は乗っ取られた―――、そう言って、ハボック小隊が乗っていた軍用車に堂々と乗り込んだのだった。



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白くて、たっぷりとフリンジのついたマフラー。

ちょっとした嫌がらせで、ハボックに編ませたそれは、ことのほかいい出来で、この冬一番の私のお気に入りだった。わざわざ最高級のメリノウールを取り寄せたかいもあり、やさしい肌触りが心地よかった。
その温かさをし知っていたからこそ、久方ぶりに司令部に訪れたアルフォンス君が、自分の鋼の体の冷たさが部屋の暖かさを奪ってしまうことを気にして、部屋に入るのを躊躇ったとき、差し出せたのだろうと思う。ただの気休めに過ぎなくとも、完全なる自己満足と言われても、優しさは心に温もりを生じさせることは確かなのだから。

それに、このマフラーをアルフォンス君にあげても、私の分はまたハボックが編めばいいから、全く惜しくはなかった。初めて編んだマフラーでこれだけのものを作れるのならば、次に編ませるものはもっと複雑なパターンのものでも構わないだろう。

そう、次のマフラーの構想を思えば、快くこのマフラーを渡そうじゃないか!

以前、毛糸を取り寄せたときに、いろいろな毛糸の種類を知った。その中で私の興味をもっとっも引いたのが、ロムニー羊の、艶の美しい、黒に近いチャコールグレーの毛糸だった。しかし、手紡ぎ糸で量産されておらず、その時は品切れで手に入らなかったのだ…。

「――気にすることはない。持って行きたまえ」

この冬二本目の、私のマフラーは、私の白いマフラーにちょっと羨ましそうな目を向けていたホークアイの分と一緒に、お揃いのものをハボックに編ませるから。

アルフォンス君は戸惑いつつも頷き、私の白いマフラーを巻いて旅立っていった。



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「アンタ、んな格好で何してんスか?野郎の着替えなんか見て楽しいんスか?」
「――お前だってよく私の着替え見てるだろう?」
「いや、それは、だって、ほら、ね?」
「何が、ね?だ。何が」

わずかに開いたドアからもれる、微かな明かりが差し込んだ部屋でざくざく着替えをしていた。そしたら、不意にドアが大きく開いて、廊下から差し込んだ明かりが人影に遮られた。ドアに目を向ければ、風呂上りのバスローブ姿のままの大佐が、腕を組み壁にもたれかかるようにして立っている。その不躾な遠慮のない視線にさらされ、居心地が悪くて、ふざけた言葉を言ったら、予想外の大佐の返答におやっと思った。
もしかして、誘われてんのかな、と。

楽しいっスか?と聞けば、楽しいぞと返ってくる。
まるでストリップショーでもしてるみたいだと思いながら、大佐の絡みつくような視線を感じて、ズボンを下ろした。――そしたら、スポットライトが当たったかのように、部屋の明るさが増した。大佐がそこから姿を消したから、だった。

明らかに、確かに、発情していたのに…?
それとも、もしかしてもう待ちきれないとかで、ベッドに行ったとか…?
悲しいかな、邪険に扱われることに慣れきっているオレは、寝室よりも先にリビングを覗きに行った。――そして、大佐はもちろんリビングにいて、ソファに寝転がってつまらなそうに本を読んでいた。この切り替えの速さは、一体、どういうことなんだろう?
「あのー、大佐?」
大佐は本から顔をあげない。オレは途端に手持ち無沙汰になって、どうしたものかと大佐の前に座った。
「どうしちゃたんスか?」
オレと一緒に遊んでくださいよ?

分厚い本を2、3ページめくってから、やっと大佐が口を開いた。
「――パンツ…」
「はあ?」
「支給された、その、洗いざらしの、お前のパンツ…」
「オレの、パンツがどうしたんスか?」
大きなため息と共に、大佐がオレを見て言った。
「著しく萎えてしまった……」

「――パンツ、買ってきます」



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――もうだめだ。
オレは考えることを放棄した。
これ以上考えたって、いい考えなんか浮かぶはずもないんだから。
足元にあった手ごろな石を拾った。
慣れないことをするから、こうも全てが八方塞がりになっちまうんだ。
行動あるのみ。そう、もう、突き進むしかない。オレはもう後には退けないんだから。
これ以上、ぐちゃぐちゃ考えるのは性に合わねえ。

深夜2時過ぎ、覚悟を決めて深呼吸を1回。
後のことは考えない。今は、保身なんて考えない。
目を閉じて、何度も何度も自分に言い聞かせた。

オレは、大佐の家の、明かりの灯っていない部屋の窓に狙いをつけて石を投げつけた。静寂に満ちた高級住宅街に、ガラスが割れる音が殊のほか大きく響く。そして、あらん限りの声で叫んだ。

「大佐っ!」



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それは慌しい日常の最中のことだった。もちろん、私自身が慌しかったということもあったが、それ以上に街の中、国中が慌しさを湛えていた。
そう、まだ長年続いた東部内乱が終結して半年も経っていない。
内乱で疲弊した国力は四方を囲む他国にとって絶好の好機に目に映るだろう。まるでそれを隠すかのように、この国は連日連夜華やかなパーティを繰り返した。数々のオペラ座では毎夜仮面舞踏会が開かれ、貴族の大邸宅では常に豪奢な馬車や高級車が列を成す。
軍閥の家に生まれた私がこの騒ぎから逃れるすべはなかった。ただこの狂乱から目を逸らさず、耳をふさがず、他国の高官に最も豪華なドレスを着て私の最も華やかな笑顔を振りまく。この国は内乱ぐらいで揺らぎはしないと思わせるために。
「――とんだ、茶番だわ…」
昨日着たドレスはもう2度と袖を通すことはない。使い捨ての高価なドレスはまるで国家錬金術師のようで、そのドレスの成れの果てを想像する気は起きなかった。
鏡の中の私は疲れて果ててまるで老婆のように見えた。今日も自然に化粧が濃くなっていく。笑顔を浮かべれば、化粧がよれてしまうほどに。そんな自分の顔があまりに滑稽で、思わず笑ってしまった。――途端に、涙がこぼれて厚く引いたアイラインを溶かした。
「――変な顔…」
叫び出したかった。でも、ここで我を忘れることはできない。私は私なりに最善を尽くさなくてはならない。

そのとき、家人が来客を告げ、ドアをノックした。
私が答える前にその客人はするりと部屋の中に入って来てしまう。
その無礼な行動も、その笑顔1つで許せてしまえるお得な人。今日も悪びれない笑顔が顔に浮かんでいて、私もつられるように笑顔が浮かんだ。
内乱終結直前に負った大怪我でずっと入院していて、やっと先月退院を果たしたこの人は、軍内での新たなポストが未だ決まらず飼い殺し状態が続いていた。ヒマで何をするでもない日常をふらふらと華やかなパーティをハシゴして歩き、数々の場所に浮名をばら撒きながら。
「ロイ……」
私の、結婚前提な男の親友は家人に信頼が厚かった。着替え途中の適齢期の娘の部屋に2人きりにさせてもらえるほど。
家人はドアを閉め、去っていった。

ロイは鏡台の前に座る私の前に膝を付くと、ハンカチーフで私の分厚い化粧をきれいさっぱり拭い取っり、顔面を揉み解す。
「リンパマッサージと言うそうだ」
そして、たっぷりのクレンジング剤でもう一度化粧を落とされてから、たっぷりの化粧水を施された。
乾いた肌に浸透していくように、心が潤っていく。

内乱から帰ってきたロイは静かに笑みをたたえていることが多くなった。そんな顔で見知らぬ無数の取り巻きに囲まれているロイは私の知らない人に見えて悲しかった。
また、涙がこぼれた。すると、ロイがぎゅっと頬を横に摘む。
「――い、い、ちゃい、わ、よ…!」
途端にロイは私の頬から手を離して、腹を抱えて笑い出す。
「何よ!そんなに笑わなくても良いじゃない!」
「あははははは!あははははは!不細工だな!!」
その聞き捨てならない言葉に立ち上がり、バカ笑いを続けるロイの胸元をぐっと掴みあげた。それでも、ロイは笑い続ける。
「パーティ続きで情緒不安定なだけよ!笑うな!」
「あははははは!あはははははっ!」
それでも、笑い止まないロイにつられて、ついには私も笑いが込みあがってきた。
「――ふふふふふ、ふふふふふふっ!!」
そのまま、2人して床に転がって笑った。何が面白いと言うわけじゃなく、ただ競い合うように自棄になって笑った。

「もう、こんな茶番は終わる。グレイシア。ヒューズの奮闘が実を結びそうだよ」
床に大の字になったまま、ロイは突然そう言った。マースは情報将校として、かつてないほど忙しい時間を送っていた。内乱から帰ってきたときよりも、まるで別人と思えるほどに、ずっと彼の雰囲気は荒んでしまっていた。
それを悲しいとは思わないけれど、自分にできることが連日パーティに出て笑うというささやか過ぎることだけで、自分にいらだっていたことは確かだった。
「きっと、奴は君にプロポーズするはずだ」
この水面下で行われている苛烈な情報戦で勝利を治めた功労者が軍閥の娘と結婚すれば、階級がまた上がる。かつて例がないほどのスピードで中佐に昇進だろう。
マースのそういう計算高さは私には当然のことだった。頭の悪い男と結婚するなんてまっぴらごめんだった。
――愛だけでは物足りない欲深い女であることに、私は恥じたりしない。
「じゃあ、やっとヒューズ中佐ね。あなたと同じだわ」
「癪に障ることにな」
内乱に乗じた多国間問題が終わる。そうすれば、この床に転がっている人の新しいポストもいよいよ決定することになるだろう。東部に左遷されるという噂が今、一番有力視されている。遠くに行ってしまう…。また、涙が込みあがってきた。

ロイは不意に立ち上がって、鏡台の上から化粧品を持ってきて床に広げ、私を手招きした。どうやら化粧をしてくれる気らしい。
興味を引かれて、そろそろと近寄っていくと、きちっとベースメイク用品を手に取られていた。肌が荒れていることを指摘されているような気がして、むっとしたら、またロイが声を立てて笑った。

また、虚栄に満ちた夜が近づいて来ている。



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珍しく士官学校の時にタバコを分け合った面々と、大佐のお供でやってきた中央で顔を合わせた。オレもヤツらも上司の会議が終わるまではささやかな自由時間を約束されている。が、だからと言ってなんかするという特に甲斐性を持たないオレたちは手持ち無沙汰になってただ喫煙所に向かった。

お互いの近況報告は次第に愚痴交じりのものになっていった。
女の尻しか見てない上司。金を数えることしかしたがらない上司。将来を有望視されている将校をいじめることにしか生きがいを見出せない退役間近の上司。――そんで、お前は?と話を振られて、一瞬言葉に詰まった自分を責めたい。

「――オレは今、東方司令部で上司の機嫌を取るために自らコーヒーを入れる人間になってしまったんだ」
「おー、お前、変わったなあ。あっんなに上司にへつらうの嫌がってたのに」
「オレは悲しいぜ!ハボック、せめてお前だけは硬派でいてほしかった…!」
あの頃、オレは若かった。阿呆なことに突っ張ってただけだ。今なら喜んで、どんな阿呆な上官にだってコーヒーぐらい入れてやるのに。
「おい、ハボックの上司ってアレだろ?焔の錬金術師。――硬派、貫いて燃やされたら笑い話にすらならねえ」
「――やっぱ、怖い人なのか?」
怖い?怖いねえ…。まあ、確かに怖くはあるんだけど。
オレの上官は幸か不幸かこの国で知らない人がいないほど有名人だった。漸くそのことに気が付いたヤツらは好奇心を隠しもせず好き勝手なことを言いまくる。
「少なくとも、一日一回はケシ炭にしてやると言われてるな」
「コーヒー入れなかったら、ケシ炭にされるのか?!」
「いや、もっと恐ろしい目にあわされる」
「………………」
3人はオレの言葉に息を呑んだ。何か恐ろしい想像をしているんだろう、その顔色がにわかに青くなっていった。

「仕事をサボって、部下に残業を強制するんだ」
それでなくとも東方司令部の残業率はダントツ1位で、休みの多さはダントツ最下位なのに。ああ、恐ろしい。
「上司のサボリのツケを部下が払うなんてあっちゃあなんねえだろ。オレはあの人がまじめに仕事をしてくれるなら、喜んでコーヒーぐらい入れてやる」

オレの言ったことがイマイチ理解仕切れていないような顔をした3人が口を噤んでいるうちに、タバコを一本吸い終わってしまった。
そのときちょうど大佐が喫煙所に顔を出した。
オレを見つけて、飼い犬を呼ぶように手招きする。会議が予定よりもずっと早く終わったらしく、大佐の顔にはにこやかな笑顔が浮かんでいた。
実にご機嫌なことですばらしい。
「ハボ、美味いもの食わせてやるぞ!」
オレは、突然現れた高級将校の存在に硬直している3人にじゃあなと言って席を立った。背後で、慌てて立ち上がって敬礼する音が聞こえた。大佐がいつものように鷹揚にかまわないと言っても、ヤツらはそのままの姿勢で固まっていたが、オレは大佐の腕を掴んでその場を強引に離れた。

「お前の知り合いか?なら、一緒に誘ったほうがよかったか?」
「別に。名前も覚えてないような知り合いっスよ?」
大佐はオレの言葉に肩を竦めただけだった。



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エルリック兄弟が旅の土産を持って東方司令部にやって来た。
――まあ、バッタもんだろうけど、面白いだろ?
そう言って、珍しくも兄弟がそれを1人ずつ手渡して行った。
それは大玉のキャンディ。市販のものと決定的に違ったのは、その包み紙にそのキャンディの効用が書かれていたことだった。
兄弟は渡すだけ渡すと、用も終わったのにこれ以上いてたまるかと足早に東方司令部を去って行った。

残ったのはそれぞれの手の中に、1つのキャンディ…。

「大佐、なんの飴玉もらいました?」
「――素直になる飴って書いてあるな」
「へえ!オレは頭の良くなる飴っスよ」
「‥‥‥中尉は何だったかい?」
「口数が増える飴です」
3人は手の中のキャンディにじっと視線を落とした。



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「お前らっ、覚えてろー!!」

それは大佐にあるまじき陳腐で使い古された捨て台詞だった。しかし、その揚げ足を取ろうとする者は誰一人この場にいなかった。つまり、そんなことする余裕など何一つなくオレたちはこの場から逃げ去ることに夢中だったのだ。
逃げるとき、真っ先にファルマンが飛び出したとか、ブレダが大佐に体当たりをかましたとか、フュリーが大佐の背中を踏んで行ったとか、自分が踏んだものが大佐の利き腕らしかったとか、今はそれどころじゃない。

錬金術とは違う、信じられないような数々の現象が目の前に広がっていた。――辺りかまわず浮かび上がって飛んでくる無数の分厚い本とか、窓なんか開いちゃいないのに、激しく翻っているカーテンとか、雹が降っているわけでもないのに、ぴしっとひびの入るガラス窓に、頭上の電球とか、………。
玄関のドアを開けて、とにかくこの呪われた家から飛び出そうとしたオレは思わず、何の因果か振り返ってしまった。きっと、絶対、振り返っちゃいけなかったのに……。

廊下に見るも無残に踏み潰された大佐の背後に、白いワンピースの、つばの大きな帽子をかぶった女性が半分透けて浮かんでいた。

ああ、幽霊見ちゃった…!

オレは急いで玄関の扉を閉めて鍵を掛けた。
門扉の外では、横付けされていた車にちょうどブレダたちが乗り込んだところだった。それに辛うじて乗り込むと、強引に車が動き出す。

東方司令部についても誰もが恐怖で無言だった。



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自分のものに名前を書くのよとエリシアに言った日の夜、マースがロイを家に連れて来た。

私はロイが家庭を持つ気はないと本人の口から聞いてしまっていたため、家族の一員のように彼を迎え入れられることをいつもうれしく思う。マースも、エリシアも、私も、童顔で傍若無人なこの人のことが大好きなのだ。――私の場合、単純に顔がよくてモテモテなこの人にエスコートをされる問答無用な1人であることに快感があるからということは否定できないのだけれど。ふふ。

マースはリビングにロイを置き去りにして1人書斎に引っ込んだ。私は温かい手料理をロイに食べてもらいたくて急いで料理のラストスパートをかける。気が付いたら、私の後ろで手持ち無沙汰にうろうろしていたエリシアがそこから姿を消していた。
料理の手を休めてリビングに顔を出すと、エリシアがソファに横になって眠ってしまっていたロイの上に馬乗りになっていた…。――ペンを持って…。
「あら、まあ。エリシアったら」
かなりお転婆に育ちつつあるわねと、自分の娘ながら嫁の貰い手がいささか不安に感じつつ、エリシアに好き勝手されているロイを覗き込んだら、その白い顔に大きくエリシアと描かれていた。思わずその様に無言になってしまった私に、エリシアが怒られるかもしれないと感じたかのように口を尖らせて言った。
「――エリシアのなのっ!」
そう昼間、私はエリシアに自分のものに名前を書くように言った。だから、ロイに自分の名前を書いてしまったエリシアに思わず笑いがこぼれた。また、全く起きる気配すらないロイに対しても。

「ん、どーした?」
リビングに下りてきたマースが私の背後からロイを覗き込む。
エリシアはますます咎められそうな気配を感じたのか、ロイを取られてしまうと感じたのか、ぎゅっとロイに抱きついてもう一度、エリシアのー!と声を上げた。
途端に、マースが渋い苦い顔をする。
「別に、嫁に行くと言っているわけじゃないわよ?」
それでも納得いかないと言わんばかりに、マースは顔を顰める。エリシアはますますぎゅっとロイに抱きついた。

私は食事の準備にさっさとキッチンに戻った。
しばらくすると、エリシアに根負けしたマースがキッチンにいる私にすら聞こえる大声で宣言を下した。
「――よし、わかった。カメラを持って来る。エリシア、本日からロイはお前のものだ!」
途端に、エリシアの甲高い歓声が家中に響く。

かくして、ロイはエリシアのものとして、ヒューズ家に認識されるようになった。熟睡したまま顔に落書きされたロイと、満足そうに笑うエリシアの2ショット写真がマースの手によって、職場中にばら撒かれることになるのは間違いない。



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昨日、中央から視察に来る将軍が嫌煙家だと言われ、大佐にタバコを没収された。
護衛を兼ねて同行させられたオレの顔色がどんどん悪くなっていき、微かに手が震えて、頭痛に顔を顰めているのを、大佐にまるで物珍しい動物を観察するように見られていると感じたのは、あくまでもオレの被害妄想だと迂闊にもそのときは思い込んでいた。―――やっとその将軍が中央に帰って行った後、ホークアイ中尉が大佐を咎めるまでは。
中尉は言った。ハボック少尉で遊びすぎです、と…。しかも、その中央から来た将軍は嫌煙家どころかむしろ愛煙家だったと言う。道理でタバコ臭いと思った。

つまり、唯の単なる大佐のヒマ潰しのお遊びで、オレは一日中禁煙を強いられたのだ。
にも関わらず、大佐は中尉の言葉にすら軽やかに笑い声を上げ、面白いものを見ることができたと言って、さっさと執務室へ消えていった。
司令室に残されたオレは歯軋りと共に盛大に大佐を罵っても、誰も彼も同情に満ちた視線で相槌を打つだけだった……。

そして、その翌日である今日、ホークアイ中尉から1枚のディスクを渡された。――大佐と一緒に見たら面白いと思うわ、ぎゃふんと言わせることはできないかもしれないけれど、と。昨日の大佐の悪行を知っている中尉がわざわざ用意してくれたものだ。きっと大佐の悪行を懲らしめるものがこのディスクの中に入っているに違いない。
オレは浮き足立つ気持ちを抑えて、必死に仕事を終わらせた。



大佐を家まで送って、そのまま大佐の家に上がって。オレは大佐を着替えに急かしてリビングから追い出し、勝手にソファとテレビを映像鑑賞に適した場所に移動して、コーヒーを入れにキッチンへ向かう。

ちょうどコーヒーを入れ終わった頃、大佐が着替えて顔をキッチンにひょっこり出した。その顔には、突然、模様変えされたリビングにもの言いたげな色が浮かんでいた。
「あー、大佐、映画見ましょうよ。映画。たまにはいいでしょ?」
オレはそれを適当にあしらい、リビングに移動する。もちろん、コーヒーはオレが持ってだ。たった30歩も歩かないうちにコーヒーが半分になってたらやるせないから。

怪訝そうな顔をする大佐をソファに座らせ、電気を消してからオレも並んで座った。そして、手元に置いておいたリモコンで、すでにセットしていたDVDの電源を付ける。
ホークアイ中尉は何を用意してくれたのだろうか。
テレビは静かに映像を写す。――映画会社のオープニングに、隣の大佐がびくりと体を震わせた。
「――あ、………」
それは有名な映画だった。『忠犬ハチ○』。死んでしまった飼い主の帰りを待ち続けた犬の話。昔、見たことを思い出しながら、なんとなく懐かしい気持ちになっていた。そのまま2人して黙って映画を見てると、中尉の貸してくれたディスクは2本目の映画に入った。次は、南極に置き去りにされた犬2匹が生き延びようとする『南極○語』……。このラインナップに、思わずちらりと片膝を抱え込んで隣に座る大佐を盗み見た。

「――――――――――――――――――――――――は?」

そこには白いシャツの袖口で滂沱のように流れる涙をしきりに拭う大佐がいた。
テレビの中では犬が吹雪の中を駆け抜けて行く。その白い明かりが確かに、大佐の涙に濡れる頬を照らしていた。拭っても拭っても、大粒の涙が頬をこぼれ落ちていく。
白い頬は袖で拭いすぎたせいか、赤くなってしまっていた。
「あのー、大佐?何、泣いてんスか?」
「―――な、泣いて…、な、ヒック、なんか、ない」
涙を拭いながら、しゃくりあげて大佐がこの期に及んで、泣いてないとか主張した。
「ハ、ハボ、ちり、ヒック、ちり、がみ取って…」
また、大佐がごしごしと目元を拭った。

大佐はボックスティッシュを胸に抱えて、鼻をかみつつ、涙を拭って、映画から顔を逸らさない。
オレはなんだかもう映画どころじゃない気分だった。
大佐を引き寄せて背後から抱き込んでも、大佐はオレにされるがままで、オレにもたれながら、ぐしぐし涙を拭って、映画を食い入るように見ている。
「――服で顔を拭いてたら、真っ赤になっちゃいますよ」
「泣いて、ヒック、ない」
ず、と大佐がまた鼻を啜った。
オレは激しくドキドキする自分の鼓動に目眩を感じていた。

ディスクには映画が2本、入っていただけだった。『南極○語』が終わってエンディングに入ると、大佐はソファの上で体を動かしてオレにぎゅっと抱きついた。肩を震わせたまま。オレはただその背を大佐が寝付くまで撫でていた…。
2200X…。もう何年頃に書いたかはよく分からない><