V-01
はやる気持ちを抑えきれず、プラットホームを足早で駆け下りた。思ったほど混雑していない舞浜駅がオレをにわかに焦らせる。オレが手に入れたチケットは入園前にチケット引き換えしなくてはならないものでチケット引換所が混雑していたら、ますますインパークの時間が減ってしまうのだ。今夜のカウントダウン・プレビューナイトは既に一時間前に開園していた。一歩でも一秒でも早くと、隣を歩く大佐の背をそっと押して先を急いだ。そんな余裕なく進むオレの肩を、大佐がとんっと叩いた。―――急ぎすぎた! そう思って振り返った瞬間、そこには紅潮した頬があって。
「―――ハボック」
ほら、と指差された天井に素直に目を向けると、時計が形がハートやクラブ、スペード、ダイヤになっていた。他の駅とは異なる些細な発見に、ここはもう舞浜なのだとオレに教える。焦る必要はないのだ、と。
「知りませんでした…」
オレの呟きに大佐がにこっと笑った。楽しそうに。嬉しそうに。
電車を降りた瞬間から、もうあの国の魔法がかかっているのかも知れない。
改札口を抜け右に曲がり、街灯の明かりに沿ってゲートに向かうペデストリアンデッキを歩く。風が強く冷めたかったから大佐がそっと肩に触れるぐらい近くにいて、柵を飾る小さなモチーフのキャラクターの名前を次々と上げていった。
風が吹き抜けて行く度、大佐が口を噤み、その白い首筋を寒そうに竦めるから、中に入ったら、真っ先に帽子かマフラーをプレゼントしようと思った。
+++
チケット売り場は閑散としていた。もちろん入場ゲートも。呆気ないほどすんなりと中に入り、ニューイヤーの垂れ幕が掛かったワールドバザールの入り口をくぐると、その奥に幾重にも重なる人の影を見た。シンデレラ城前が凄いことになっている…。
――これからパレードをご覧になられる方は、アドベンチャーランドでご覧下さい!
無数のキャストたちが沿道に立ち、メインのパレードルートであるシンデレラ城前に最早空きスペースがないと繰り返して、間接的に人払いをしていた。確かに今からこの人混みを割って入っていくことはできまい。
「えーっと、どうします? アドベンチャーランドに行きます?」
ハボックが予想以上の人出に尻込みして言った。
確かにそれもまた一つの選択肢だろう。しかし、海に隣接する舞浜は風が強くとても寒かった。そして、食事を取る時間すら惜しんで仕事をしていた私は非常に空腹だった。パレードを見終わってから食事を取るならば、恐らくそのまま閉演時間を迎えてしまう可能性が高いと言える。それはこの折角のインパークでどうだろうか。
「そうだな…」
問答無用の人の流れに流されて左に曲がると、インフォメーションボードが目に留まった。
今回のインパークはあまりに予想外だったため、前回のときのような綿密な予定は立てることなどできす、私たちはパレードの開始時間すら知らなかった。
「あ、カウントダウンパレードって20:20から21:10までなんスね」
「50分間か…」
その時、ちょうどハボックの腹がぐーっと鳴った。見上げるといつもの猫背が更に申し訳なさそうに丸まってしまっている。
「―――だって、その、カレーの匂いがすっげーいいんですもん…」
「カレー?」
その言葉に思わず周囲を見渡せば、確かにカレーの匂いが漂っていた。カレー味のポップコーンのワゴンが近くにあるのだろう。それを買ってアドベンチャーランドに行くのも良いかもしれない。しれないが、私はもうちょっとしっかりしたものが食べたかったりする。
そして、この思いがけないインパークを実現させてくれた空腹のハボックに心置きなく飯を食べさせたいし、大いに報いたい。
そう願う私の前にはパレードルート沿いにある白い温室のような大きな建物がある。恐らく、クリスタルパレス・レストランだろう。あそこで空腹を十分に満たし、もうじき訪れるパレードをぬくぬくと見るなんてどうだろうか。
「―――ハボック、あそこはクリスタルパレス・レストランだったか?」
「そうですけど…」
「お前も私も空腹だ。あそこで夕食を食べながら、パレードの動向をチェックするのはどうだろう?」
「えー、きっと、ちょー混んでますよ…」
ハボックは消極的だった。だが、嫌と言わなかったのだから私は気にしない。行ってみなくては分かるまい。私は白亜のクリスタルパレス・レストランに向かった。
+++
大佐は意気揚々とクリスタルパレスに行った。なんというか、そこは非常に憧れの場所だった。真っ白で豪華な宮殿のようなレストラン。こんなところで大佐と結婚式を挙げたい場所ランキング上位にいつもランクインしている。
大佐がすっと足を踏み出したスロープの下にオレは立ち尽くした。パレードルート沿いにあるこのレストランに、パレード開始直前に入ろうとする酔狂な客はオレたちだけのようでそこだけすっぽりと空間が広がっていた。それが更に寒さを加速させた。
夢と魔法の国は、実はなかなかお金が掛かる。欲しいものが山のように湧いて出てくるから。ここでごそっと金を使ってしまうと他に何も買えなくなるどころか、大佐に借金を申し込むことになりかねない。オレの気持ちを他所に、入口の外で待機していたキャストが大佐のところにすっとメニュー表をもって近寄ってきた。
「ビュッフェ形式になっていますが、よろしいですか?」
「もちろん」
「一名様でございますか?」
「いいや、二名だ」
「ご確認してまいりますので、少々お待ち下さい」
キャストが大佐を外に残したまま中に入って、すぐさま戻ってきた。
「すぐにご利用できます。どうなさいますか?」
「もちろん、よろしく頼むよ」
そう言って、大佐は振り返らずさっさと中に入っていった。憧れのレストランは、いや、ここに限らず、ワゴンやセルフ式のレストラン以外のレストランでの平均価格を大体調べていたオレははっきり言って入りにくい。オレの懐はいつものように寒いものになっていたから…。
「ハボック?」
一旦中に入った大佐がドアを開けてオレを呼んだ。
「―――ハイ…」
だって、金ないんだもん、とか。オレみたいな貧乏人には入りにくいんスけど、とかは、いろんなものを盛り下げるから言えずにスロープに一歩足を踏み出した。金貸して下さい、と言う時間が確実に来ることに心がますます凍える…。
あんなにがんばって溜めたオレの金はあっさりとオレの手から離れてしまっていた。オレがこのペアチケットをカードで巻き上げると、巻き上げられた奴は彼女に合わせる顔がないと言って泣き崩れ、酒場のテーブルの立ち上がって首を吊ろうとした。
奪ったチケットを使えるかどうか分からない罪悪感もあってオレは、一緒に手に入れた跳ね上がった掛け金をほとんどそいつに渡してやったのだ。これででっかい石のついた指輪でも買ってやれと言って。――そして、それを今後悔する小物なオレ…。
V-02
はじめて入ったクリスタルパレス・レストランは本当にパレードルートのまん前だった。
壁一面のガラス張りからパレードルートがよく見える。でも、案内された席は窓から最も遠い4人掛けの席だった。もっと窓に近い席はないのかな、と大佐が往生際も悪く笑顔で尋ねると、キャストは窓寄りの席はもう随分前に埋まってしまいましたと当然の答えをにこやかに返して去っていった。
―――窓から隔てて7席分。案内された席をしばらく無言で見つめてから、じっくりと見つめてから、大佐とオレはパレードがよく見えるように並んで座った…。
「えーっと、ここってビュッフェなんでしたっけ?」
「そうらしいぞ」
テーブルのすぐ前を子どもがジュースを手に駆けて行く。
折しも、その席は店内でもっとも大きな通路沿いにあった。ちらりと隣に視線を向ければ、大佐が正面を向いたまま静かに固まっていた。こんな席でディナーを取ることなんて、大佐にはそうない経験だろう。
「えっと、じゃあ、さくっと取りに行きましょうか。腹減りましたし…」
「―――――そ、そうだな…」
貧乏人には緊張をさそうクリスタルパレス・レストランであっても、この庶民的な席のおかげで何とか自分を取り戻せそうだった。金はないままなんだけど…。
+++
「うおっ!すげえ、プレートに耳がついてる!」
そうだな。プレートがミッキーの形になっている。
「うおおお!肉がたくさんっスよ!!」
そうだな。牛に豚に鳥に種類が多い。
「うおー!魚も!!」
そうだな。サシミはないがマリネが豊富に用意されている。
「パスタも、ライスも、すっげー種類!!すっげえ!!!」
そうだな。バリエーションが豊かだ…。
軍の食堂にはありえない華やかなビュッフェにハボックは一々感嘆の言葉を上げては、自分の皿に取り分け、ついでとばかりに私の皿にも乗せて歩き回った。
混雑した店内で、優に頭1つ分は飛び出た大男が子どものように目を輝かせて素直な感想と感嘆を漏らす度に、周囲の人たちが微笑ましげに私たちを見つめて前を譲ってくれる。その優しい瞳はまるで、さあ、心行くまでお食べ、と言われているようで私を居たたまれなくさせた。普段まともなものを食べていないと思われている気がしてならない…。
そんな羞恥に震える私の前でハボックは既にスペアリブやローストビーフが大量にのったプレートにいかに多くのハンバーグとエビフライを積み上げるか腐心し始めた。
「―――ハボック、何もそんなに山盛りに…」
「だって、いくら食べてもいいんスよ!」
そう言って更にその上からこぼれんばかりにカレーを掛けると、ちょっと置いてきますねと言って、私の手にあったプレートを奪って長い足で去っていった。
「………………」
ハボックの言動に周囲の人たちの微笑みが深まったような気がした。
無言で立ち尽くす私にキャストが新たなミッキー型のプレートを手渡し、デザートも充実していますのでと教えてくれた。確かに疲れで眩暈がしそうな今、甘いものを補給することは必要不可欠なことだろう。私は素直にデザートのコーナーに歩を進めた。――決して、その温かな視線から逃れようとした訳ではない…。
私はチョコレートケーキとプリンをそっとミッキーのプレートに乗せ、早々に席に戻ったが、ハボックは忙しなく大量のミッキーをテーブルの上に並べていく。
通路を通り過ぎていく老若男女たちの驚いた視線がどんどん私の食欲を奪っていった。
「これで全種類ですよ!」
ハボックが9枚目のプレートを意気揚々と手にして戻ってくる頃になると、夕食は別にポップコーンでも良かったかもしれないと思うようになっていた。パレードは期待とはほど遠い彼方にしか見えない。前に来たときは沿道で見ることができたのに。
ハボックが席に着くと、人の頭越しに見えるパレードルートの明かりがふっと消え、窓の外が暗闇に包まれた。パレードが訪れる合図だろう。だが、ハボックはそんなことにすら気付かず、目の前のミッキーに夢中だった。果てしなく遠いパレードに、テーブルの上に所狭しと並んだ数々の料理と、隣の空腹で食べ物のこと以外を考える余地もないハボック。
こいつにたらふく飯を食わせようと思ってここに入ったのに、何となく面白くなくて、投げやりな気分で口を開いた。元取らないと、とか考えているのだろうハボックに、だからそうがっついて食べるなと言いたかったのかもしれない。
「―――ハボック、良いことを教えてやろう。実はここの会計は前払いだった」
外に灯る松明が強風のせいで大きく傾いでいた。
店内の人の動きが俄かに慌しくなる。外に出て行こうとする人たちが、すぐ前の広い通路を駆けて行くために外の様子が十分に見えない。窓際に立ち寄って行く人たちもいた。そうしたら、もうこんな後方にいる私たちにはほとんどパレードの影も見えないだろう。
「はい?」
おざなりな返事に隣に顔を向ければ、ハボックは予想通り目の前の山盛りのプレートをただもうがつがつと食べているだけだった。
ものすごい勢いでプレートが空となり重ねられていく。私はその食べっぷりを呆然と見入ってしまった。誰もがパレードに心を奪われていて。ハボックは目の前の食事に目を奪われていて。なのに、私だけが今この時にパレードでも食事でないものに心を奪われているのだ! この夢と魔法の国の魔法に、私一人だけ掛かりそびれている。
不意に笑い出したい感情に駆られた。
「ハボック。―――今日、インパークできて本当に嬉しい。私は可能なら開園前にここに来てチケットを買い求める列に並び、無事に二枚チケットを得てから、お前を呼び出そうと考えていたんだ。もちろん、仕事がそう簡単に終わらなくてこんな時間になってしまったがね」
漸く青い瞳がテーブルの上のミッキーから私へ向けられた瞬間、歓声がレストラン内に上がった。パレードが正面のルートに入ってきたのだろう。
ハボックはその歓声につられるようにぱっと視線を窓に向けた。
そんなに簡単にハボックの視線を奪われて。それが面白くなくて。
冬でも日に焼けて小麦色のままの頬に顔を寄せ、キス。
瞬時にハボックが、頬に手を乗せて、私に顔を向けた。
漸く取り戻した青い瞳に映るのは私ただ一人。
ハボックは瞳に私を映したまま、驚きに目を見開き、小麦色の頬をじわじわに赤く変えていく。存外、こいつはカワイイ奴なのだ。
歓声に沸く店内で、今度は声を上げて笑った。
+++
不意打ちのキスに言葉を失うオレを見つめて、大佐は笑った。イタズラに成功した子どものようにそれはそれは嬉しそうに。
「セントラル駅でお前に会えたとき、柄にもなく胸に込みあがるものがあった」
笑みを深めて、大佐が笑う。
「どんな方法で今日のこのチケットを手に入れたかは知らないが、今のお前を見ていると推して知るものがある」
そんなに金がないように見えますか?――そう、口を開きかけたオレの口にそっと白い指が触れた。
「ハボック、私も何かしたい。お前を喜ばせたいんだ」
「………………」
「私には何ができる? 金はあるが、時間がない私に何ができる?」
黒い瞳が笑みを湛えて、今、この時だけは、このオレだけを写してる。
更なるイタズラを仕掛けようとする子どものように大佐が無邪気に笑うから、オレは柄にもなく高鳴っていく鼓動に翻弄されっぱなしで。
「………………」
外を通っていくパレードの太鼓の音が聞こえてくる。でも、店内にはクラシック音楽も流れていて、その不協和音がより混乱を誘う。
そっと白い指が離れて、大佐が小さく首を傾げた。さあ、どうする? そんな言葉が聞こえてきそうだった。
店内はたった数分前とは一転して、人が少なくなっていた。店内にいた多くの人たちはパレードを見るために外に行ったらしい。静かになった店内でオレは逸る鼓動にうろたえながら声を潜めて言った。
「―――こ、ここに一緒にいれるだけで十分っスよ。オレは…」
忙しいアンタが無理を重ねて時間を作ってくれた。それだけでもう十分報われた。
「奢りたい。ハボック…」
じっと見つめられて。囁くように言われて。気が付けば、頷いていたオレ…。
うんうんと、にこやかに頷く大佐の顔を見て、この人の前では格好なんか付かないことを本当に思い知る。大佐に奢られることに最早抵抗はないけど、せめてここ夢と魔法の国の中では世知辛い収入差なんか関係なくいたいと、オレは思っていたのだろうと思う。せめて、ここにいる間は、って。そんで、大佐はそんなオレのちっぽけな矜持が気傷つかないように言葉を選んで、いつもと同じように奢ってくれると言う…。
「――さあ、スターがお出ましだ!」
さっきまでとは打って変わって閑散としているレストランでは、パレード沿いの窓際の席も空いていた。なのに、オレたちはこの席に並んで座り、パレードを見送っていた。
やがて、パレードはミッキーを乗せた山車を迎える。
彼はクリスタルパレス・レストランにいるオレたちにすら手を振ってくれた。
V-03
パレード最大の山場である、カウントダウンはレストランの中で迎えた。
キャラクターを乗せた山車が止まると、太鼓のリズムは速さを増し、ライトが一斉に消えた。そして、遂には太鼓の音も消える。外ではたくさんの人たちがカウントダウンに声を発しているのだろうか。しかし、その歓声が店内まで入ってくることはなかった。店内には相変わらず、クラシック音楽が流れている。
ここに入店するときは、カウントダウン・プレビューナイトと銘打った日にインパークできたのだから、カウントダウンまでには外に出ようと思っていた。だが、ハボックがテーブルに所狭しと料理を並べたのを見て早々に考え直した。いつも時間に追われて過ごしているのだ。せめてこんな日ぐらい食事ぐらいは急き立てずに食べさせたい。そう。心置きなく、ゆっくりと。
強風に煽られ続けている、パレード沿いに灯る松明の炎を見つめている内に、またパレードが動き始める。
+++
胸が一杯だった。別に食べ過ぎたわけじゃないし、胃がもたれてる訳でもない。敢えて言うなら、ずっと粗食に耐えてきた胃袋に、突然何の準備もなく高級な肉が入って消化不良を起こしたような感じ、に近いかもしれない。
嘗てないほど大佐の愛を受けたオレの心は、はち切れんばかりに満たされていた。
今、オレは猛烈に幸せだ。すれ違う人全員に宣言してもいい。
胸が苦しくても、息苦しくても、根性で目の前の料理全てを食べ尽くし、ドリンクコーナーも全種類制覇すると、大佐が出ようかと言って立ち上がった。
向けられた黒い瞳が穏やかで、思わず目を逸らした。窓の外に見えるどんなにたくさんの電飾で飾られた山車より、大佐の方がきらきらと光り輝いて見えて眩しかった…。
レストランを出ると、外は、想像通り人という人に溢れ、想像以上に風が強く寒かった。それでも、たくさんの人たちが終わりを感じさせないパレードに大きな歓声を上げる。それに誘われるように人混みに塗れて、オレはそっと白い手を取った。だって、手袋すらしていない手が寒そうだったから…。
大佐は繋いだ手を振りほどくことも足を踏みつけることも舌打ちすることもなく、小さく目を見張りオレを見上げて、くすっと笑っただけだった。
「―――さ…、寒そうなんで………」
繋いだ手からこの激しい動揺がバレてる気がして、ぱっと視線を外すと、前方には白いでっかい猫が手を振っていた。
でっかい黒い猫は隣で大人しい。
こっちは化け猫なのに、どうしてオレは今更手を繋ぐだけでこんなに緊張するんだろう。どうしてオレは手を繋ぐことにいちいち口実を探すんだろう。
一度繋いだ手を自分から振りほどくことはできなかった。冷たい手はオレの体温を移して、ほのかに温もっていく。たったそれだけのことが、オレを例えようもないほど幸せにしていた。
白いでっかい猫が山車の周りを一周して、またオレたちの前に姿を現すと、今度は投げキッスを繰り返した。そのサービスの良さに思わず手を振って応えると、不意に背後から甲高い声が上がった。―――あーん、見えないよぉ! 思わず大佐と顔を見合わせた。すぐ後ろには若いカップルいて、背伸びをしては体を左右にスイングし、遠くに見えるパレードをオレ越しに見ようと奮闘していた。
大佐がまたくすりと笑った。お前の後ろにいたんじゃ、ジャンプしたってパレードは見えまい。そんな笑顔だった。大佐はすっと二人から身を引くと、あっさりとパレードに背を向け、人垣から抜け出てしまった。オレの手からするりと抜けて。
慌てて追いかけて人混みから抜け出ると、吹き抜けていく風が一層冷たく感じた。
「さあ、もう時間がないぞ! アトラクションだ!!」
時間は21:00を差していた。閉演まで後僅か1時間半だった。
大佐はアドベンチャーランドからウエスタンランドへ、ずんずんと歩いて行く。向かう先はシンデレラ城前と違って格段に人が少なかった。しかも心持ち暗く、風はますます強さを増していく。オレは重要なことを思い出した。
インパーク前、舞浜駅からペデストリアンデッキを下ってくるとき、大佐に帽子かマフラーをプレゼントしなくてはならないと心に誓っていたんだった。
「―――ちょっと待って下さい」
「何だ」
ちょうど沿道に帽子を扱うワゴンを見つけて、大佐の二の腕を強引に引っ張ったら、大佐がバランスを崩して、たたらを踏んだ。それでも、構わず引きずった。
ワゴンには誰もいなかった。
帽子のワゴン。普通の毛糸の帽子から、毛糸のぼんぼんがてっぺんに付いた帽子や、キャラクターのマスコットの付いた帽子まであった。でも、鮮やかにオレの目に入ってきたのは、頭をすっぽりと覆ってしまうヘルメット状のファーの帽子だった。それにはでっかいネズミの耳が付いていた。
さすが夢と魔法の国。
あご紐にはファーのボンボンまで付いている。
もう、これしかない。絶対これしかないだろう!これだ!!
「オイ………」
「これにしましょう」
しかも、黒だ。黒がいい。
フックから一つ手に取れば、その感触がふわふわで心が和んだ。
「これを買います。これならオレでも何とか買えますし。でも、これ買っちゃたらもうすっからかんなんですけどね。へへへ…」
キョロキョロと周りにキャストを探すと、すぐさまどこからともなくキャストが近寄ってきて、無事に買うことができた。
サイフが本当に軽くなった今、オレは開放感に満ち溢れていた。
もう何も恐れることはない。だって、もう金はないんだから。
「アンタ、寒そうだから。その、プレゼントです」
「……………………………」
無言の大佐に、ふわふわでもふもふのあの耳の付いた帽子をすっぽりとかぶせて、ボンボンの付いた紐をあごの下で蝶々結びをすれば、思ったとおり!思ったとおりだった!!
顔のところだけぽっかりと開いた部分から、ちょろちょろと見える黒髪すらオレのハートをぐっと掴んだ。今日ここに来れて本当に良かった…。
「んじゃ、ホーンテッドマンションに行きましょう!!」
「―――――よし!行くぞ!!どこにでも、行ってやるぞ!」
大佐はノリノリだった。もちろん、オレもノリノリだ!
V-04
女の子の悲嘆に暮れた声を契機にパレードに背を向けた。
それはパレードの最後を見送りたくないと思っていた私に丁度良いタイミングだった。パレードの終わりは一抹の寂しさが付きまとう。特に、こんな寒い日には一層寂寥感が増すことだろう。そして、隣のハボックは人間の繊細な機微に疎い。共感も共有できない奴の隣で寂寥感を一人抱くのは本意ではなかった。特にこの場所では。それぐらいならば、二人でこの冷たい風に吹かれている方がよほどマシだろう。
賑やかな人混みを抜けて、人の姿が疎らな通りに向かう。ハボックが寒そうに首を竦めた。
「さあ、もう時間がないぞ! アトラクションだ!!」
勢いのあるアトラクションに乗り、気分を高揚させて、束の間と言えども寒さなど忘れようではでないか。そして、それでも強風に吹き付けられる度に、二人して身を寄せ合い暖を取るのも一興だろう? ハボック、閉演までの僅かな時間を有効に有意義に過ごそう。
―――なのに、ハボックは私の出鼻を挫くかのようにちょっと待ってと言い、私の腕を掴んで、ずるずると力任せに引きずった。
強引に連れて行かれたのは帽子専門のワゴンだった。ハボックはその一つ一つを手に取ってじっくりとじっくりと吟味し始めた。
思わず、そのハボックの真剣さに一歩身を引いた。
「これを買います。これならオレでも何とか買えますし。でも、これ買っちゃたらもうすっからかんなんですけどね。へへへ…。プレゼントです………」
そして、ハボックはそのワゴンの中から、変な帽子を一つ意気揚々と購入した。
前にここに来たときは、耳の付いたカチューシャだった。今度は耳の付いた帽子なのか? しかし、今日はとても風が強く寒かった。ハボックが選んだものはフェイクファーでできていて、すっぽりと頭を覆う実に温かそうなものだった。ハボックがそれを手に取った時からでちょっといいなあと思ってしまったのも事実で、思わずされるがままに被らされてしまった。
実際、それは温かかった。しかも、顔を隠す。こんな珍妙なものを被っている人間が私であると気が付くものは皆無であろう。あー、まあ、いいかも…。そんな気になってしまった。それに、同じものをかぶっている人間は数多い。そして、自分の耳がすっぽりと覆われてしまうのも魅力だった。誰が何を言っていてもいちまいよく聞こえないのだから。
「んじゃ、ホーンテッドマンションに行きましょう!!」
「―――――よし!行くぞ!!どこにでも行ってやるぞ!」
逡巡は一瞬だった。これでもう人目など気にならない。
+++
大佐はホーンテッドマンションより近かったウエスタンランドのビックサンダー・マウンテンに向かった。だけど、そこは強風のため中止になっていた。大佐はこういうこともあるだろうと快活に笑い、ならば、クリッターカントリーのスプラッシュ・マウンテンだと言った。ウエスタンランドからクリッターカントリーに向かうルートはその途中にパレードルートの一部が重なる。もしかしたら、パレードが見れるかもと淡い期待を一瞬持ったけど、パレードはすでに終わっていた。人が方々に動いていた。俄かにアトラクション乗れんのかな、と不安になる。もう閉演まで1時間もない。
ちらちら見え始めたクリッターカントリーから今、正に、はみ出そうとしている人の列はスプラッシュ・マウンテンに続いているのだろう。待ち時間はそれ相応だ。
とっとことっとこ半歩前を歩くネズミの耳の付いた黒い帽子を被る、オレの大佐は列の手前で意気揚々と左に曲がった。まるで目の前の列が目に入っていないかのように。
「並ぶならそっちじゃないでしょ?」
「は?」
大佐が驚きに目を見開いて振り返ると、顎の下で蝶々結びしたファーのボンボンが大きく揺れて、オレの二の腕をぽんっと叩いた。あああああっ…!
「―――ハボック?」
ぞくぞくぞくっと背筋を駆け上がる快感に身を震わせると、大佐が不思議そうに首を傾げた。本当に不思議そうな黒い瞳になんとか自分を取り戻す。
「―――――――そ、そ、その、目の前の列がスプラッシュ・マウンテンの列でしょ?」
そう言って、目の前の列を指差せば、大佐がはっとして列の最後尾に顔を向けた。そして、キャストの声が聞こえる。ただいまの待ち時間は50分です! 大佐がまた勢いよくオレを振り返った。その度に大きく揺れるボンボンにオレの視線は釘付けだ…。
「ではホーンテッドマンションだ!」
オレは大きく頷いた。それはオレの第一希望だった。それに、そもそもオレは何をおいてもそこに行きたかったのだ。ホーンテッドマンション。2人掛けの席で暗闇を行くのが男のロマンを駆り立てる、あのホーンテッドマンション。いよいよあのホーンテッドマンション。でも、ホーンテッドマンションにも45分待ちの掲示が出ていた。
「45分!? よし! 止めだ!!!」
「えっ!?」
大佐の決断は速かった。
「並んでいたら、閉園だろう?」
「えー……」
「別なものに乗りたい」
この際もう乗れれば何でもいい。折角来たのに。何も乗らなかったという事態はなんとしてでも避けたい。でも、お土産も買いたいんだ。ハボック………。
皮ジャンの袖口を摘まれて、少し潤んだ黒い瞳に見上げられたら、ただただ頷くことしかできなかった。二回もここに来れて、二回とも本命のアトラクションに乗れないなんてと思いながら、ハボック、と懇願されると、もうどうでもよくなってしまうから恋って不思議だ。
「はあ…」
大佐は目に付いたアトラクションを順々に指差していく。
「ダンボだ!」
「40分待ちっスね」
「コーヒーカップだ!」
「35分待ちです」
「カルーセルだ!!」
「55分待ちって」
「……………」
この先にはぷーさんのハニーハントがある。ここの待ち時間が短いなんてことはないだろう。途端に、大佐の足が止まった。
「―――お前はアトラクションに乗りたくないのか…?」
見る見るうちに耳の付いた頭が下を向いて、きゅっと握りこぶしを作ってしまう。くるくると回るカルーセルの光とそれに乗る子どもたちの楽しそうな歓声の中で、その姿はまるで小さな子どもが悲しいことを耐えるような仕草に見えてしまった。この夢と魔法の国で最も不釣合いな仕草。オレの適当な物言いのせいだ。
焦ってキョロキョロと周りを見渡すと、閑散としているありがたいアトラクションが目に飛び込んできた。
「そ、そんなことないっスよ!―――ーピ、ピピピノキオにしましょう。ね? 5分も並ばなくて済みそうですよ!」
「そうか…」
冷たい手を握って項垂れたまま大佐を引っ張って、ピノキオの冒険旅行のゲートに近づいた。少しでも早く乗るために、足早になってしまったことは否めない。
「きっとピノキオ楽しいですよ? どっかアンタに似てるし。ね?」
「…………………………」
でも、大佐は黙ったままだった。
V-05
美味しい話が大好きで、人の忠告には耳を貸さず、ウソを付くと鼻が伸びる。数々の困難を乗り越えて、やっと優しい心根を手に入れた少年。ウソを付くと鼻が伸びるのよ。そう、子どもの頃、誰だって1回は言われてる。――人の迷惑なんてそっちのけな大佐とどこか似てる気がして、そんなことを言った。
ただそれだけだったのに、大佐はピノキオのアトラクションから出ても黙ったままで、じっとくるくると回るカルーセルを見つめていた。
そっと窺い見た黒い瞳はカルーセルの光を反射してきらきらと輝いていて、まるでガラス玉のようだった。かぶりものと相まって人形じみてて、妙に話しかけづらい。
「―――その、ピノキオ、好きじゃなかったですか?」
子ども向けのアトラクションだとは思うけど、子どもだけのために作られたものじゃないから大人だって十分楽しめるとオレは思う。オレが未だに子どもだって言われたらそうかもしれないんだけど。
たくさんの人たちが足早に過ぎて行く。
そんな喧騒の中で、不思議に『星に願いを』の優しいメロディを耳が拾っていた。
知らず、手がポケットに突っ込んでいたタバコを掴んだ。
でも、それをここで火を付けることはおろか、ただ銜えることすらできない。思わず大きなため息が零れた。
「―――少し、子どもの頃を思い出した」
数回の瞬きの後、大佐が呟くように言った。
「ウ、ソを付くと鼻が伸びる、って?」
オレは大佐の頬に落ちた睫毛の影にすら視線を奪われて、搾り出すように言った。
「私はお前とは違って、嘘を付くような子どもではなかった。それに、もし嘘を付いたとしてもばれてしまう嘘は付かない」
「はあ…」
「彼は友だちのコオロギに石を投げつけて殺してしまうんだよ。怒りの衝動のままに振舞って」
「そんなシーンありましたっけ?」
無性にタバコが吸いたくなった。まるでそのコオロギになった気分とでも言うような、嫌な感じがじわりと溜まってくる。
「―――私が読んだ本にはあった」
「はあ」
「私はどう客観的に考えても、ピノキオと似ているとは思わない」
「………………」
「ハボック。一体、どこが似ているのか説明してみせろ」
そう言うとこ、とは言えずに、オレは失言でしたととだけ言って謝った。
大佐はそうだろうと頷くと、漸く歩き出した。つまり、大佐はオレに石をぶつけなかったことで、自分とピノキオは似てないと証明してみせたのだった。
ただしおしおと大佐の後ろを付いていくオレ。
大佐はトゥーンタウンの前を左に曲がって、プーさんのハニーハントの向かいにできている長い列の最後尾で立ち止まった。その列の先には甘いポップコーンの匂いがする。
「ここには並ぶんスね…?」
「ああ」
いつものように腕を組んで、胸を張って、さも当然とばかりに言い放つ。
「あー、まあ、いいんスけどね。オレはまあ…、ええ……」
ポップコーンと言えども結構並ぶ。オレはこれで本日のカウントダウン・プレビューナイトのインパークの終わりを感じた。それでも、甘い匂いに堪えきれないで笑顔がこぼれる大佐を見てれば、釣られて、オレにも笑みが浮かんだ。―――それはこの国の魔法。仏頂面なんかしていられない。ポップコーンのためのインパーク。それでこの人のこんなに嬉しそうな笑顔を見れるなら十分じゃないかとどこからともなく聞こえてくる。
結局、ポップコーン1つをストラップ付きのスーベニアカップで、30分並んで買った。もちろん、それにはプーさんの柄だった。
「ハボック、ほら、頭を下げろ」
にっこり笑顔で言われて言われるままに頭を下げると、そのスーベニアカップを首に掛けられる。
「うん。よく似合う。好きなだけ食べて良いぞ!」
「はあ、あ、ありがとうございます」
胸元から立ち上がってくる甘い匂いと大佐の笑顔が、首からポップコーンをぶら下げた大男のマヌケな姿のことなんか忘れさせる…。
大佐は、よし次だ!と言って、スペースマウンテンを指差した。
でも、ここで時間切れだった。時計は22時半、閉園時間を僅かに過ぎていた。トゥローランドの手前で曲がってシンデレラ城前を通ってゲートへ向かわなければならない。
トゥモローランドでソーダ味のポップコーンも買ってやろうと管を巻く大佐の肩をそっと押してシンデレラ城へ体の向きを変えると、大佐がぴたっと立ち止まった。往来の真ん中で。
「―――ハボック?」
そっちは違うだろうと言わんばかりに、ものすっごい不思議そうに見上げられた。
「もう、―――時間ですよ」
閉園の時間は過ぎていた。帰る時間だった。大佐は東部に。オレは中央の研修施設に。
「まだシラタマシルコもトシコシソバも食べてないのに?」
「何スか、それ?」
「ガイドに載ってた」
ほらと見せられたのは、キャストに貰った今日のパレードルートが描かれているガイドだった。その裏に、カウントダウンのスペシャルメニューが載っている。シラタマシルコもトシコシソバも夕飯を食べたクリスタルパレス・レストラン脇のスタンドで販売していたらしい。でも、もうパーク内ではどのスタンドも後片付けをしていた。
「そういうのは先に言ってもらわないと…」
きっと、ポップコーンが買えたのも幸運だったのだろう。スタンドの一部はもう既に片付けを済ませていたし、ワゴンのほとんどはシートが掛けられ誰もいなかった。
オレたちを通り過ぎていくたくさんの人たちの手には大きな袋がいくつも下がっていた。それを大佐の視線がオレ越しに追う。今日、オレたちはお土産一つ買ってない。食事をして、オレは大佐にステキな帽子を買い、大佐はポップコーンを買っただけだった。
「ハボック…」
シンデレラ城前を照らすいくつもの松明が風で大きく煽られていた。こんな風の強い日に松明は危険だろうに。そんなことがふとオレを現実に立ち戻らせる。
「―――そうだ。今日、どうするんスか? ここら辺で一泊、って無理ですよね。どこも満室だろうし。それに、ホークアイ中尉が許してくれないっスよね。東方司令部に電話したら、フュリーが言ってましたもん。もう中尉が未処理の書類をアンタの机の上に重ねてるって。今からなら東部行きの最終乗れるかな。つうか、始発で帰る気っスか?」
「…………………」
「あー、そうだ。来るとき、舞浜駅で帰りの切符買っとけば良かった。駅、きっとすげえ混んでるはず…」
「―――お、お土産はどうする?」
「あー…。通販とか?」
「帰らない。私は帰らないぞ!最後までここに残る!!」
しゃがみこみそうな気配を感じて、ぎゅっと握られた冷たい手を取った。
「えーっと、ワールドバザール? ボン・ヴォヤージュならきっとまだ買い物できるかも」
「ハボック…」
「急ぎます?」
オレは帰りの切符代も持ち合わせてなかったことを思い出した。まるで灰かぶり姫のように、帰りはここを逃げるように立ち去らなくてはならないのだ。でも、オレは灰かぶり姫のように1人で帰る訳じゃない。彼女も王子様の手を引いて帰れば良かったのだ。そうすれば、帰りの道中だって楽しかったのに。
大佐が頭を左右に振って、帰りたくないと声もなく言う。
カップルに、ファミリーに、子どもたちのグループ。どの顔にも笑顔が浮かんでいた。
「行きましょう。ここのキャストの人たちも年越しの準備に忙しい」
オレたちも忙しい。でも、アンタがいれば別にそれで構わない。オレたちに掛かった魔法はきっとここを出ても消えはしない。そんな気がして、優しい笑顔で帰りましょうと言えた。
大佐があご紐を解いて、フェイクファーの帽子を脱いだ。
強風に黒髪が煽られる。まるで松明のように。
「―――お前は頭が寒いからそんなことを言うんだ…。風が冷たいのがいけない…」
言外に頭を下げろと睨まれて。でも、眼差しは思いのほか甘かった。もう少し、もう少しだけ、ここで2人浮かれよう。ここはそう言う場所なのだから。そんな声にならない声に、大人しく頭を下げた。
「始めから、一緒に帽子を被れば良かった」
まだ温もりのある帽子を被らされて、少し調子に乗って、じゃあ、それは次に、と言ったら意外にもああとしっかりと頷かれて、思う。―――ほら、やっぱり魔法は解けない。きっと、ずっと。
その時、閉園のアナウンスが入って、辺りから漣のように拍手が沸き起こった。