舞浜ラプソディU
U-01

「あのー………」
いつものように適当なノックをして返事を待たずに入ってきたハボックは、ダンボールに入った忌々しい量の書類を机の脇に置くとさっさと立ち去らず、そこでもじもじと物言いたげな素振りを見せた。
水を向けてほしいということはありありとわかる。が、いつにも増して速いペースで運ばれてきた書類の山が癇に障ったため、少し冷たく、――用が済んだのならさっさと出て行きたまえと言ったのだ。ペンでドアを指し示せば、ハボックの著しい落胆が伝わってきて、更に調子に乗って言った。
「私は忙しい。頭にヒヨコを飼っているようなお前には分からないかもしれんがな!」
執務室に入ってきたときのハボックの暢気で牧歌的な雰囲気は払拭された。
すかっとしたし、すっきりした。私は笑い出したい愉快な気分になった。

「………………………」
沈黙の執務室にくしゃりという小さな音が大きく響いて、次いでハボックがグスと鼻を啜った。大きな手に握り締められたものは雑誌の切り抜きか何かか。
私を見つめる青い瞳が湿っぽく揺らいで、思いがけず私は動揺してしまった。
「――な、なんだ?」
「………………、………………………………、………………」
開かれる口からは声らしきものがでることはなく、すぐ噤む。そして、じっと見つめる。湿っぽく、じめじめと。
せっかく晴れやかな気持ちになったのにあまりの居心地の悪さに、言うまいと思っていたことを言ってしまった。言いたいことがあるなら言えばいいだろうと。

途端にハボックがごしごしと目元を擦ってから、しわくちゃになったチラシをそのまま机の上の書きかけの書類の上に置いた。
「――じゃあ、言いますけど。東京ディズニーシーが5周年なんスよ」
「―――は?」
「5周年です。5周年ですよっ!」
「………………」
「行かなきゃ、大佐。スケジュール、調整しといてください。――あ、そうだ!今からじゃホテルミラコスタ予約取れないかも…。大佐の権力でなんとかなりませんかね?」
「―――お前、私の地位を何だと思っているんだ…」
「こんな時に使わずしていつ使えって言うんスか。んじゃ、そういうことで!」
ハボックは言うだけ言って軽やかに去って行った。

今度は私がじめじめしてきた…。


    +++


強引に取り付けた一泊デートの約束。本当はあんまり乗り気じゃなかったことは分かってるけど、デートらしいデートがしたくってどうにも譲れなかった。

仕事が多くて、遊びらしい遊びもせずにそろそろ三十路を迎える人を東京ディズニーランドに連れて行ったのは去年の9月だった。
「あいつ、遊びのために遠出なんて一回もしたことないんだよ」
ヒューズ中佐にそう言われて、ごそっと手渡されたレジャーランドのパンフレットは見た目以上に重くて。中佐がオレに何を望んでいるかは本当のところは分からない。でも、遊ぶことにあまり縁がなさそうな不憫な恋人のためにオレにできることなら何でもしたくなってしまった。
取り戻せないものを取り戻せるかもしれない、そんな可能性を秘めている夢と魔法の国に行こうと数あるレジャーランドの中からディズニーランド迷わず決めたんだった。
――でも、結果と言えば散々足るもので…。大佐とデートという状況に夢中になってはしゃいでしまったのはどちらかと言えばオレの方だった。
今度こそあの人を完璧に楽しませてやる、東京ディズニーシーで。
そうリベンジを誓って、舞浜から帰ってきたのだ。

今年の予定も9月。
アルコールが飲めること。
恋人仕様なこと。
……………、後、何が勝因になるだろう?綿密な予定を立てないと、今度こそは。


    +++


9月4日に開園5周年を迎え、しかもその日に新しいアトラクションが登場する。
その名も「タワー・オブ・テラー」。
ハボックが怖がりそうなアトラクションだ。奴は去年行ったディズニーランドでもホーンテッドマンションに二の足を踏んでいた。ならば、今度は是非ともここには行かなくてはなるまい。
ディズニーシーにくまのプーさんはいないがその代わり人魚姫のアリエルがいる。ミッキーマウスと一緒に写真を撮ってもらったお礼に、今度はハボックとアルエルの2ショット写真を撮ってやろう。名案だ。
ハーバーショーのレジェンド・オブ・ミシカも外せない。盛大なる炎のショーは私に何かしらのインスピレーションを齎すはずだ。
混雑に対する対策も必要だった。ディズニーランドではファストパスの利用が実に功を奏した。今度はシングルライダーも使用して、全アトラクション制覇もいいだろう。
フードも重要な要素だ。どんなフレーバーのポップコーンがあるか調べないとならないし、チュロスにクリームチーズブラウニーにチミチャンガ、うきわまんにギョウザドッグもまた実に興味深い…。
ハボックにはホタテの形のパンズのハンバーガーを食べさせよう。夜はレストランを予約してショーを見ながらのディナーもいい。が、ハボックのことを考えたらビッフェ形式だろうか。

あ、そうだった。ホテルの予約をしなくてならなかったんだ。今からでも空きはあるだろうか。せっかくだから、贅沢にイルマニフィコスイートにしようかな。
私は席を立って基地外の電話に向かった。


    +++


あの人はちょっと強引に決めたディズニーシー行きにどう思ってんだろう。思えば思うほど、落ち着かなくなってきた。数少ない休日にゆっくりしてたいなら、わざわざ人混みの中に引っ張って行くのは気が引ける…。ディズニーランドに行った時だってちょっとしたことによくぷりぷり怒ってたし。オレは別にあの人を怒らせたいわけじゃない。

不安でデスクワークがはかどらないオレは大佐がどんな風なのか、執務室を覗きに行った。小さく開いたドアからは誰の姿も見えない。それはつまりいつものようにサボり中だということで。あの人、本当はヒマなんじゃないのかと思ってしまったり時々する。うん。
そっと主が不在の部屋に入って、せめてサイン済みの書類を持って行こうと書類で溢れた机の上に手を伸ばした。
突発的に立ち上がったことを示すような途中で途切れた変なサインの書かれた書類に、変な動物が落書きされた書類…。この変な動物はもしかしたらくまのプーさんなのかもしれない。あまりにへたくそな落書きに思わず優しい気持ちが込みあがって、汚い机を片付けたくなった。
一緒に夕飯を取れるように、仕事が少しでもはかどってほしくて机の上を片付けて……。オレは見つけてしまった。書類の間に付箋の張られた青い東京ディズニーシーのガイドブックを!!
「―――なんだ。ノリノリなんじゃん」
楽しみにしてんのはオレだけじゃないじゃんか。
なんだ。
なんだ!素直じゃないんだから、もう!
ガイドブックを手にとってぺらぺらと捲ってみると食い物中心に付箋が貼られてて、絶対うきわまんを頬張る大佐を写真に収めようと心に決めた。

9月が待ち遠しくなってきた。


    +++


電話予約を済ませて、ひっそりと執務室に戻ってきたらハボックがソファに座って真剣に青い表紙の本を読んでいた。
私が購入した東京ディズニーシーのガイドブックだ…。
「あ、大佐どこ行ってたんスか。こうも頻繁にサボっちゃさすがのオレも黙認できませんよ」
そんなことを言いながらも視線は本に向いたままで、ページを捲る。
アンタ、アリエル好きなんスか?フトモモないのに?
けっこう激しいアトラクション多いんスね。一回転とか平気っスか?
ギョウザマンって一体…?
誰ともなく呟きながら、またページを捲くった。
「――お前こそ、上司の前でそこまで堂々とサボってるなよ…」
ハボックははいと言って、またページを捲った。

こんな調子で9月に一緒に休暇を取らせてもらえるのか、著しく不安になってきた…。


U-02

危惧していたとおり9月は予定が立て込み、私は早々に行くのを諦めた。
9月が駄目なら10月がある。9月には9月のプログラムがあるのだろうが、10月にも10月のプログラムがあり、私たちを満足させてくれるはずだと確信があった。
1回行ったことがあるだけのテーマパークは知らぬ内に私の信頼を勝ち得ていた。



騒がしい司令室。目の届くところで仕事しろとばかりにホークアイに執務室から連れてこられて、期限の迫った書類を持った部下たちに便利使いされながら、目の前の書類の山を切り崩していく。そんな忙しい仕事の合間、数枚の書類を手にそいつは私の机の前に立ち腰を屈め、小さな言葉で言った。
「ねえ、大佐。アレってどうなりました?」
「アレ?」
「アレですよ。アレ」
アレ。アレアレアレ。さて、それは何だろう?
ペンを置いてハボックを見上げると、その青い瞳が思いのほか真剣で少しだけ椅子を後ろに引いた。するとハボックが机に身を乗り出してアレですよと繰り返した。

アレ…。―――ああ、アレね。今年の解禁日は11月16日のアレ。
去年も解禁日に司令室に振舞ったアレ。
うん、アレね。アレ。
「―――ああ、今年の出来も良いそうだ。つぼみの付きはじめは遅かったらしいが7月の猛暑で何とか盛り返したらしい。収穫量は去年に劣るそうだがな。早々に予約しておいたぞ。ちゃんとお前の分も」
私ができた上司で嬉しいだろう?
にこっと笑ってみせると、ハボックもにこっと笑った。そして、ぺこっと頭を下げる。
「あ、どうもありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
しかし、ワインが届くのは11月だ。
私は再びペンを握り、読みかけになっていた書類に意識を向ける。
「――って、そうじゃないっしょ!アレですよ!」
「は?ワインは飲まないのか?」
「飲みますよ!」
「そうか」
「はい」
なら、何の問題もないじゃないか。
さっきからずっとこちらに視線を向けているホークアイ中尉の手前、私は一枚でも多く書類を仕上げたいのだ。ハボック、分かってくれ。私は心を鬼にして顔を上げず、しっしとハボックを追い払った。なのに、机を覆う影はなくならない。
だが、私は無視した。

「――――あの、大佐、本当にアレは?」
「しつこい」
ホークアイが見てるだろう。
「大佐…」
そんな声を出すな。あ、鼻を啜るな。
見ては負けだと思えども、散歩に行きたい犬のような風情であろうハボックが見たくて顔を書類から上げたら、ハボックが鼻を袖で拭っていた。その金色の頭に垂れ下がった犬の耳が見える、気がする。
「アレ…」
「し、しつこい」
散歩に連れて行ってやりたくなるじゃないか!
「―――、………………………」
ハボックは机の上にのの字を書きながら、ごにょごにょ、ごにょごにょと漏らした。
「は?」
でかい図体して聞き取れないほど小さい声で喋る奴にほんの少しだけ苛立ちを堪えきれず、倦のある声が漏れてしまった。しかし、勘のよい奴は私のそれをたった一言からでも感じ取り、今度はもう少しはっきりと言った。語尾は擦れていたが。
「ホテルの予約は…?」
「はあ?」
私の言葉に青い瞳が大きく見開かれた。
ハボックはそのまま私から視線を外さず、そんなとか、信じられないとか、ウソだとか小さく小さく呟き、首を3回横に振った。そして、―――大佐のうそつき!アンタが水虫に悩んでるって街中に言いふらかしてやる!と叫びながら、走って司令室を飛び出していった。私の制止を振り切って…。

沈黙と気拙い空気が漂う中、フュリーが無邪気に言った。
「大佐って、水虫なんですか?」
断じて違うとも。私の足は一度たりとも白癬菌に侵されたことはない!しかし、私は、ハボックが水虫なんだ、と言った。気拙い空気がいつもの白けた空気に移り、また司令室は慌しさを取り戻していった。



「ホークアイ中尉…」
「はい」
「君、ハボックに…」
東京ディズニーシーのホテルを10月に予約したこと言っていなかったのか?
確か、君自らが伝えておくと言っていたと思ったが…。
「言い忘れてました。申し訳ありません」
「そうか…。うん。まあ、そういうこともあるよね…」

一緒にTDSに行くかと、彼女に声を掛けた方が司令室内の人間関係がスムーズに行くのかもしれないと思うそんな午後…。
しかし、それから程なくしてホークアイから休憩の許可が下りた。―――ハボック少尉を迎えに行ってあげて下さい。彼女なりに言付けを忘れた責任を感じているのだろう。もちろん彼女の願いに応えることに、私に否はない。



ピークの過ぎた、人の少ない食堂の日の当たらない暗がりの隅っこに奴はいた。セルフサービスの水の入ったコップを前に、いつもより背中を丸め、肩を落とし、銜えた煙草を力なく項垂れてさせて…。
「―――ハボック」
私の呼びかけに、ハボックは首だけを90度動かし私を見るとまたゆっくりとコップに視線を戻した。いじけてます。そう、その姿は雄弁に語っていた。
「10月の最後の週末に予約を入れ直した。ちょっとした手違いでお前に伝わっていなかったようだが。しかし、お前の望み通り、ホテル・ミラコスタに予約が取れた、ぞ」

それは正に後光のような。
立ち上がったハボックの背後から、ぱあ、っと眩しいほどの光が広がり、私は思わず手をかざして、視界を確保した。
「―――そうじゃないかと思ったんですよね!大佐ってほんっとタチ悪いんだから!!」
にこーっとハボックは笑った。楽しみっスね、と言って。



その笑顔が眩しかったからこそ、私は、今、言葉を言いあぐねている…。


U-03

目の前にはテイクアウトされてきた、本店をセントラルに構える有名高級店のお惣菜と最近解禁されたワインが堂々と並び、更にその向こうには笑顔のロイ・マスタング大佐が鎮座していた。不穏な臭いがそれはもうプンプンしている…。



それは10月の末にまっしぐらな頃。
いつもとなんら変わらない朝の司令室で、その人は唐突に今晩オレの家に飲みに行くぞと高々と宣言した。その時からなんか変な感じはしてたけど、オレは長い長い苦闘の経験から火に油を注ぐようなことはせずに、大佐の命令に従順に頷いた。――はあ、こんな風に。
そんで結局、ただの少尉であるオレとは違って、大佐の仕事は山積みで、大佐はサボることもなかなかままならずに終業時間を迎えることになっていた。

「大佐、今日、どうします?本当にウチに来ます?」
ウチにわざわざ来る時間があるなら帰ってでっかいベッドで寝た方がよくないっスか?それでも何か用があるってんなら、オレがアンタん家に行ってメシでも作って、アンタの帰りを待ってますよ?なんなら、ベッドでも温めながらね。
そんなオレの優しい気遣いは、大佐のしっしと野良犬を追い払うリアクションで振り払われた。しかし、今日のノルマの達成に向けて、机に齧りつく大佐の必死さがあまりににじみ出ていたから、オレは肩をすくめて、んじゃ、オレの家で待ってますからとだけ言って先に司令室を出た。何か温かいものでも作って待っててやろうと思った。



その人は終業時間から3時間遅れてやってきた。軍高官用の軍用車のエンジン音がアパート近くに聞こえて去っていく。そして、程なくして慣れた足音が聞こえてきて、オレの部屋の前で止まり、すぐに呼び鈴が連打された。近所迷惑にならないように、オレはすぐドアを開けた。――そう、この人はこの時から満面の笑みを浮かべていたのだ…。

胡散臭い笑みを向かいに見ながら、ワインを開け、まだ辛うじて温かい高級なメシに手を付ける。会話はどうにも白々しく、ワインばかり、杯が進む。

「10月にTDSに行けなくなった」
そろそろ2本目が空きそうな頃に、その人は漸く変な笑顔を引っ込め、トレーに1粒残ったオリーブを見ながら言った。白い指先がそれを摘み上げようとする様につい意識を奪われ、大佐が何を言ったのかオレはイマイチよく分からなく、随分呆けた声が脳天から出た。
「―――はあ?」
大佐はその最後の1粒を摘んで口に入れ、濡れた指をピンク色の舌でぺろりと舐めた。しかも、今度はオレの顔を見て。
「10月にTDSに行けなくなった」
「―――――…」
じっと黒い瞳に見つめられて、小さく動いた喉下から目が離せないことに気付かれた気がして、思わず顔が火照った。見慣れてるっちゃあ、見慣れてるものなのに。どうしてオレはこうも慣れないんだろう…。
「10月にTDSに行けなくなった」
それをごまかすように、同じこと、3回も言わないで下さいよと言ったら、大佐が4回目を言って、漸くオレはその意味が分かった。
それはあまりに一大事な話だった。

「―――仕事っスね…」
全てのお惣菜のトレーが空になったことにすら、何やら心穏やかにいられないような気持ちが湧き上がる。じわじわと、でもすぐにきゅっと胸が軋んだ。オレとの約束なんて大佐にとっては所詮、仕事の次の次の次ぐらいに過ぎないことははじめから分かっていたことだけど。
「仕事?仕事なのか?」
「はあ?仕事じゃないんスか」
仕事じゃないなら、オレとの約束って本当に程度が低いんスね…。
「こんなのが仕事なら、軍人なんか辞めたい…」
「大佐………」
大佐はワインをラッパ飲みして、がばっとウチの安物のテーブルに突っ伏し、ごにょごにょと話し出した。


    +++


マスタング大佐。ちょうどよかった。いや、時間は取らせんよ。ちょっと私の話に付き合ってくれればいいんだ。そこに座りたまえ。

私にはまだまだ幼い、遊び盛りの息子と娘がいてね。しかし、私も忙しい身分だから、家族サービスの一つも二つもできず、どうにもこうにも遊んでやることができないんだ。幼い子どもが私の帰りを夜遅くまで待ち、待ちきれなくて寝てしまった、なんて話を聞けば聞くほど心が痛むというものだ。だが、私の仕事は崇高で責任のある、誰にでもできる仕事ではない。わかるだろう?マスタング大佐。

幼い娘に偶に会うと、一緒に遊びたい泣かれると私も辛くなるものだ…。まあ、こんな気持ちは独身の君には分からないだろうがね。

そうそう、君は10月末にTDSに行くために有給の申請を出したそうだね。下士官たちが噂していたよ。いやいや、なかなか甲斐性がある。恋人のために、有給でデートか…。君ならどうせホテルもスイートで予約しているんだろうね。私も自分の短かった大佐時代を思い出すよ。そう、大佐のときは妻とデートする時間もあったものだ………。今は、大佐の頃からは想像がつかないほど忙しい毎日だがね。

その机の上にある青い本は…。――ああ、ありがとう。これがTDSか。ははは!ファミリーガイドと書いてある。どれどれ………。10月ならハロウィーンの時期か。しかも、末の週末なら仮装ができる日だったか…。

マスタング大佐。これに連れて行ったら娘が泣いて喜びそうだ。そう思わないかね?


    +++


かくして、しがない大佐でしかない私はチケットもホテルの予約も横取りされたのだ。いろんな人脈を使い手に入れた私のスイートルームが…。この日のために、尽くしてきたいままでの努力を思うと実に虚しくて仕方がない。
ハボックはぐだぐだと事の顛末が話し終わったのを確認すると、音もなく立ち上がり私に背を向け、5歩離れた。その先にベッドがなければ、もう一歩私から離れることができただろう。
無力な私は、ハクロ将軍が娘と息子に金の掛かった仮装用の衣装を用意し、TDSに行ってから仮装ができるのはTDLのみだったと分かり、子どもたちにがっかりされてしまえばいいとか、雨が降ったらいいとか、そんなつまらないことを考えて憂さを晴らすことしかできないのだ。
集めた情報をメモしていたガイドブックも無言で奪われてしまった。どのフードがどのフードより美味しいとか細やかだが重要で貴重な、教えてもらった情報を全部書き込んでいたのに。アトラクションの見所も、ショーを見るための穴場も、とにかくアレ一冊だけを持ってインパークすれば良いよおうに準備を整えていたのに。
ハボック、権力に劣る私を笑え。
出来が上々のはずのワインが水っぽく感じてならなかった。
去年行ったTDLは楽しかった。帰りにハボックが駐車場のどこに車を停めたかを忘れて散々な目に合っても、楽しかった。いろんなフレーバーのポップコーンを山ほど買ったのも、ミッキーと一緒に写真を撮ったのも、電飾のパレードも、今思えばどれも楽しかった。でも、もう今年は行けないだろう…。



ハボックが枕の下から私物のリボルバーを取り出し、ジーンズの腰口に差し込んだのが、視界の端に見えた。
「―――大佐、オレ、ちょっとこれから一発ぶっぱなして来ます。絶対、ばれないようにしますから。アンタは司令部に戻ってて下さい」
振り返ったハボックははっきりとした怒気をまとい、そのいつも眠そうな垂れた目をつり上げていた。酔いも冷めるものを見てしまった。
「オイ、ハボック!目がつりあがってるぞ!」
「ええ、こんな時に眠そうな顔なんてできませんよ。アンタがあんなに楽しみにしていたTDSのチケットばかりか、ホテル・ミラコスタの予約まで。階級なんてクソです。許さない。絶対、許さない!」
「ハボック…」
「何でそんなに諦めいいんスか?アンタらしくないっスよ!ムカつかないんスか!」
んじゃ、ちょっと行ってきます。そう言って、ドアから出て行こうとするハボックを慌てて捕まえた。

本当はこのムカつきを酔いのままにハボックにぶつけてすっきりする予定だったのに。先にハボックに切れられて、私は不本意にも冷静さを取り戻してしまっていた。
「――ハボック。わかった。わかったから落ち着け。何とか5周年内の年内に行けるようにスケジュールを調整するから」
ホークアイが。その結果、私は馬車馬のように仕事をすることになるだろうが。だが、ハボックの目だってつりあがるように、やってみれば何とかなるかもしれない。
「年内…?」
「年内だ」
捕まえた背中から、どんどん怒気が抜けていく。このハボックの怒りは私の怒りでもある。いつもの呆けた空気になるまで、背中に頬を預け、腹筋を優しく撫でていた…。

「――なら、いいっス。はい。じゃあ、12月25日までにお願いします」
「25日まで、って…」
「ええ。クリスマスですよ。クリスマス。ハロウィンよりもクリスマスの方が恋人であるオレたちに相応しいでしょう!ホテルもちゃんと予約しておいて下さいよ!夢だったんです。恋人とホテル・ミラコスタからクリスマスディズニーを見るのが…!信じられない。クリスマスに夢と魔法の国に行けるなんて!!」
腹に当てていた手を取られ、強引に体を反転させたハボックに力任せに抱きしめられた。
「オイ」
「大佐、よろしくお願いします」
「―――あ、ああ…」
「えへ、楽しみですね。クリスマスに大手を振ってデートできるなんて。また、金、溜めないと…」
そっと近づいてきた顔につられるように目を閉じて、気が付いた。クリスマスシーズンにミラコスタになんて今更予約が取れるものではないことに。しかし、ものは何でも確認しないことには始まらないのだ。

「どけ、ハボック!電話をして、空きがないか確認しないと!!」


U-04

年末が駆け足で近づいてくる。いや、それは別に年末に限ったことではなくって。7月には7月の忙しさがあり、8月は気が付かないうちに終わっていて、9月には9月の忙しさがあった。10月には一息付けるかと思いきや決してそんなことはなくあっという間に過ぎ去っていったし、どうしようと思いながら焦りを感じている内に11月も終わった。そして、いよいよ決戦の12月がやって来る。



それはいつもの慌しい司令室の喧騒の中。

「あのー…、マスタング大佐……?」
確かに、ホテルの予約も入場チケットの予約も大佐任せにしていた。だって、もう、ただの一般人であるオレができることはなかったから。もう、12月中のホテルは全室満室だったし、もう、クリスマスイヴとクリスマスのチケットは完売だった。その日以外に行くなら、入場制限も掛からないはずだからチケットの予約は必要ない。よって、当日の朝に普通に、入場ゲートの前で買えばいい、し。
こんな状況で、それでも無理を言ったのは大佐が無理を通せるコネと権力を持っているからで。一概に、オレが悪いとはいえないと思う…。

終わりの見えない忙しさに顔つきまで荒んできた気がするブレダが、12月のシフト表を片手に大佐の机の前に立つオレの後ろを邪魔そうに通っていった。舌打ちを一つ残して…。
「そのー…、大佐?」
「用があるなら、さっさと言え」
相変わらず大佐は書類に夢中で顔すら上げない。忙しいからだと思っても、自分が怒らせるようなことをしている気がして、言葉が詰まった。
「そこに立っているだけなら、仕事に戻れ」
素っ気無い言葉に先月の悲しい出来事が頭に過ぎる。―――後回しにされ、どっかに追いやられ、忘れ去られたオレとの約束…。でも、あの時はオレの勘違いだったんだけど。オレはまたを期待して言葉をひねり出した。

「あ、あの、その、どうして。オレの12月、休みないんスか…?」
これじゃあ大佐と一緒にTDSに行けない。何回見ても、裏から見ても、12月のシフト表には大佐と一緒にTDSに行ける時間を作る余地は見つけることができなかった。オレには…。
「―――は?そんなことないだろう。第3週の週末が空いている。そうだ。クリスマス一週間前だが、ホテルの予約が何とか取れたぞ」
確かにその週末は日程の上では空いてるんだけど。
「オレ、第4週の月曜日から出張じゃないっスか。忘れたんスか?中央での研修で、朝早いから前泊しろっていう…………………………」
「あ……………」
しまった。忘れてた。素直にそう大きく顔に書いて、大佐がやっと顔を上げた。
「……………………」
「……………………、あー…、そうだったか…?」
うそ!そんな!信じらんない!アンタともあろう人が!!
驚きに目を見張るオレと、呆然と口を開いたままの大佐。
沈黙のまま、見つめ合うオレたちを慌しい声が引き裂いた。
「大佐!電話です!今、そちらに回しました!」
「あ、ああ」
大佐の視線があまりにあっけなくオレから電話に移された。

また後ろを通ったブレダにどけとばかりに大佐の机の前から弾き飛ばされて、オレはよろよろと自分の席に着いた。
背中に、昼休みがあったらその時話そうと聞いた気がした…。


    +++


あるだけマシな、昼を大分過ぎてからの昼休み。

働きが鈍くなりつつある自分の頭脳を危惧し、15分だけでも仮眠を取ろうと執務室に入った途端、ハボックがサンドウィッチとコーヒーを持ってやってきた。そして、不安に揺れる目で、無言で私を見つめる。

まあ、こいつの言いたいことは分かる。せっかく取れたホテルの予約は駄目になったのだし、いよいよ年内にTDSに行けるかどうかも厳しくなってきたのだ。
だが、たった15分の仮眠を取れば、私ならきっと頭を捻って何か良い案が浮かぶだろう。また、全ての手配を一からやり直すとしても。
「――ハボ。15分後にまた来てくれ…」
私は今自分が一番欲している仮眠を取るためのソファを見つめながら、一分、一秒を惜しむ思いで上着を脱ぎ捨てた。
「また後回し…」
しかし、耳に入った大きなため息を聞こえなかったふりができなかった。
振り返れば、床に捨てられた上着を拾うために丸められる背中が目に入る。
「そんで15分後には忘れちゃってんスか?オレ、がまんばっかっスね」
疑い、不信、失望。そんな類のものを翳っていく青い瞳の中に見て、―――堰が切れたように言葉が溢れた。
「私だって、いろいろ、我慢しているんだ。ハボック。いいか。私だって、我慢しているんだぞっ!」
自分で望んだ我慢といえども、時にそれは酷く堪えるものだった。四肢を絡め取るような深い疲労感とままならない全てのことへの苛立ちを鮮明に自覚する。

ハボックは私の感情を写し取ったかのように不満を溢れさせた。
「オレはいつも我慢しているんスよ!アンタの倍の倍の倍は余裕でがまんしてんスよ!がまんがまんがまん。いつだってがまんっス。そもそも7月に行こうって話しだったのに。それを8月、9月、10月って思ってがまんして、でもクリスマスに行けるんだからって、言いたいことも言わずに大人しくがまんしてたんスよ、オレはっ!!」
「我慢か。そうだな。私はいつもお前に我慢をさせるし、これからも我慢させるだろう。―――我慢は嫌いか?ハボック」
「―――嫌いです…」
「よし!ならば別れよう。ハボック。私はこれからもお前に我慢することを求めるだろうし、お前は我慢が嫌いだ。もう、これしかあるまい!」
「ちょっと!ちょっと!なんでそう極端なんスか!別れませんよ。別れません」
「出て行け。何か言いたいことがあるなら、15分後に聞こう」
「そ、その、次の約束を下さい。その時を夢見て、指折り待ってますから…。へへへ。ちょっとだけ本当に行けるのかなって思って、不安になっただけっスから。本当です」

約束をする度に嬉しそうに輝く顔を見て。
約束を破る度に落胆してがっかりする顔を見て。
もう約束はしない。したくないんだ。ハボック。

私は何も言わなかった。
無理やり浮かべたハボックの笑顔を見て、更に、もう何も言えなくなった。

思えば、このとき私の方がよほど余裕がなかったのだろう。疲れが言葉となり、態度となり、容赦なくハボックに向かった。再び翳ったハボックの瞳を見て漸く気が付いた。


U-05

金はある。何ヶ月も浮かれて溜め込んだ金がある。あの夢と魔法の国に行って、あのネズミより艶やかな黒髪のあの人にあれやこれや奢ったりするための、金がある。
掛け金はどんどん跳ね上がっても、オレは眉一つ動かさなかった。むしろ笑い出したい衝動に駆られる。オレの手持ちのカードはただの10のワンペア。オレがこの勝負に勝つにははったりをかまして、全員に勝負を下りさせるしかない。金はある。たんまりとある。今、オレにないのは時間だけだった。





あれから、大佐とオレはTDSのことを話題にすることはなかった。忙しかったということもあるし、半分以上行くことを諦めてしまっていたということもある。ただ、あの衝撃的な大佐の別れよう発言は15分後にもう一度執務室に入ったら何故か無かったことになってて、オレはそれだけで十分な気になってしまっていた。そう、あんな恐ろしい話を聞くぐらいならTDSには行けなくてもいいかもと思ってしまっていた…。
年末に向けて、どんどん忙しく慌しくなっていく時間をこなしながら、ちょっとした時間を見つけては、大佐と極々他愛無いことを話しては笑った。整理のつかないオレの気持ちを残して、時間は容赦なく過ぎて行く。街のイルミネーションも、同僚たちのクリスマスの予定も、大佐の揺るぎない真っ直ぐな後姿も、オレを置き去りにして。

そして、12月第三日曜の夕方、中央に出張へ行った。1人で。たった1人で。しかも、泣きたい気持ちを堪えながら行ったその出張は、趣旨も重要性もよく分からないもので益々泣きたくなった。確か要人警護の演習講義ということで東西南北からわざわざ人を集めたはずだったのに、肝心の中央にやる気がなかった。演習の教官が決まっていなかったり、講義の部屋が決まってなかったり、とにかくめちゃくちゃだった。
年末前でクリスマス前だからこんなこともあるだろうと、オレ同様田舎から出てきた奴らは中央の怠慢に寛大で、突如できた中央での休みを堪能していた。昼近くから会議室の一室に集まりお互いの近況を話し合って、午後は適当に体を動かして解散。これが重要な出張の実態だった。しかも、出張予定日数の終了間際に手の空いた教官と空き部屋が見つかったから、出張期間をのばしてカリキュラムを消化すると言われた。オレ以外の奴らは中央でクリスマスを過ごせると拍手喝采だった。田舎の彼女を呼ぶとか言ってる奴もいた。

どうしてこんなことでオレのTDSのクリスマスデートがダメになったんだろう。
どうしてこんなことであの人との貴重な休みがダメになったんだろう。
今も忙しく仕事をしているだろうあの人のことを考えれば眩暈を感じずにいられない。
仕事仕事仕事。そう、基本的にあの人は仕事が嫌いじゃないから今の状況にそれほど疑問を感じてない。それは別にいい。別にいいんだけど、遊ぶことだって人間には必要なんだ。大佐のばか…。

時間を持て余した田舎ものたちに付き合って、まだ日も高い内から繁華街を飲み歩く。2軒目の店で、熱のこもった声が立ち上がりカードが始まった。きっかけはその中の数人が中央に呼び寄せた彼女とデートするための軍資金を増やそうというノリだったと思う。オレは特に興味もなく、それを横目にちびちび酒を飲んでいた。

暫くしてゲームは、彼女がいない奴らがこぞって参加し、そのデートの軍資金全部を奪って飲んでやろうという展開になっていた。さっきよりは随分マシな展開に少しだけ気分が浮上していくのを感じながら、今度はその白熱した空気を肴にする。そんな中、掛け金がなくなった彼女持ちの1人が起死回生を狙って、あるペアチケットをテーブルの上に投げ入れた。12月29日の、TDLのカウントダウン・プレビュー・ナイトのペアチケット。
そう。オレはすっかり忘れていたけど、クリスマスが駄目なら、カウントダウンがあったんだった。

再び熱いものが体の奥底から湧き上がってくるのを感じて、オレは席を立ち上がった。





大きな荷物を抱えて足早に歩き去っていく人という人。寒さを堪えるように外套の襟を立て、迷いのない足取りで通り過ぎていく。みんな、新年を迎えるのに相応しい場所に急いでいるのだろうか。
日の落ちた寒さがセントラル駅をいつもより殺伐としたものに見せて、酒場での熱気が刻一刻と抜けていく。いつもならこんなことはできないと分かっていながら、全てを酔いのせいにして、オレはいつもより人の多いセントラル駅で公衆電話にかじりついていた。東方司令部への電話が込み合っているせいで繋がり難くくても、根気よくダイヤルし続ける。たった一本の電話線があの人の下まで通じていると思うと、何か冷静でいられなくのを感じた。そして、何十回目かでやっと司令室に繋がった。


    +++


あ、ハボック少尉。一体、どちらにいたんですか?すっごい剣幕で大佐が探してましたよ。3時間前まで。いえ、もちろんボクも探しましたけど。

大佐ですか?いませんよ。それより、ハボック少尉。大佐、凄いんですよ!天変地異の前触れかもしれませんが、今年の大佐の仕事は本日29日で終わったんです!!信じられますか?もちろん、今、ホークアイ中尉が来年用の仕事を用意して大佐の机の上に重ねてますけどね。でも、とにかく今年の分は終わったんですよ!

大佐ですが?まあ、こういうことで大佐は3時間前に帰りました。早退です。

家?大佐ですか?えーっと、どうでしょう。家にはいないと思いますけど。今日の中央行きの汽車の切符を手配をしてましたから。えー?そろそろそちらに着いてもいいんじゃないですか?

あ、そうだ。ハボック少尉。今、どこにいるんです?


    +++


東部からの汽車はほとんどが21番線に到着する。突然、ずっと塞がっていた視界が開けたかのように、人を避けつつ掻き分けながら走った。3時間前に司令部を出たというなら、そろそろこっちに着いていてもいい頃だったから。
何のためにセントラルへ来たのかは分からない。誰かに呼び出されたのかもしれないし、ただ気まぐれに来たのかもしれない。ここで大佐と会うことができても、会うだけになってしまうかもしれない。それでも、11日ぶりにあの顔を見れると思えば、足は忙しく前に進んだ。



汽車の去ったホームに、見間違えることはない、その真っ直ぐな黒髪を風に乱すその人を確かに見つけて駆け寄る。正に犬のようだと思いながら、ここで名前を呼ぶわけにはいかないしと自分に言い聞かせて走る。走って、その腕を引いて、振り返らせて、酔いが覚めた。その見上げる黒い瞳が大きく見開かれて、オレを、映す。

お前は本当にすぐ分かる…。ため息交じりで言われるのはいつものことだった。そして、オレはいつだって肩を竦めるだけで、煙草を止めることも控えることもなかった。でも、今日は違う。こんな風に後ろから腕を引いたって、大佐はオレを見上げたまま。―――あ、そんな大佐の驚きが小さな声になってオレを震わせた。
「ハボック」
ただ頷けば、大佐の眉間に皺が寄り、口元がきつく結ばれた。黒い瞳が一瞬だけ下に行って、またオレを捉える。
「ハボック、―――何かこれから予定でも?」
オレは首を横に振って、風に乱れた黒髪を整えた。いつもしていることが、この人と向き合っていることが、本当に久々な気がして何も言えないほど胸が熱くなった。口を開いたら、言葉以外のものも外に出てしまいそうだった。
「そうか。それは何よりだ」
大佐は着いて来いとだけ言って走り出した。





人混みを避けて、疾走。まるで、書類の山に追われているかのように。
でも、オレは気が付いてしまった。前を行く大佐がセントラル駅の最深部のホームに向かっていることに。そう。そこはケイヨウ線。あの夢と魔法の国に続いている場所。そして、オレの懐には今日の入園チケットが2枚入っている…。

「―――入園に規制が掛かっていると聞いた。だが、せめて外から花火でも見ないか」
何でとか、どうしてとかはもうどうでも良くって。痺れを切らしたのはきっとオレよりも大佐の方が先だったということで。ほんの少しできた自由時間に、チケットもなく、オレが捕まるかも分からず、いちかばちかでセントラルに来ちゃって。

相変わらず、前だけを向いて紡がれた言葉に、オレは精一杯顔が緩むのを堪えた。
この人はオレが今日の入園チケットを手に入れたことを知らない。
2006/07/30〜2006/12/19

V-1へ続きます!