舞浜ラプソディW
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下調べはそれなりにしていた。それが人気アトラクションだと言うこともちゃんと知っていた。今回の目的の1つは間違いなくそれに乗ることでもあったのだから。しかし、それがどのくらい人気なのか、正確に把握することを怠っていた。何故なら、そのアトラクションは登場してすでに半年を過ぎている。十分に混雑するだろうが、度を越えた混雑になるなんて、一体誰が想像するだろう。その点で、私たちは既に同じ落ち度があったと言える。



オープンゲートと同時に走り出す人という人。それは既に見知ったものになっていた。私もハボックも背後の人波に押されるようにして走り出す。ゲート前に燦然と座すモニュメントは帰りにじっくりと見なくてはならないと心に留め、立ち並ぶメディテレーニアンハーバーの南ヨーロッパ調の建物を潜り抜けた。
眼前に広がるハーバー。その背後に堂々とそびえ立つプロメテウス火山。ミステリアスアイランド。ああ、間違いなく私たちは東京ディズニーシーに来たのだ。不意に、猛烈にダッシュしている若者たちを呼び止め、この感慨深い気持ちを伝えたくなった。またこの夢と魔法の国に来ることができたのだ、と。
「えーっと、右にします? 左にします?」
そんな私の感動に無頓着な同行者が背後やや上方から気忙しく問いかける。手に持ったパンフレットを早速広げ、きょろきょろと左右を見比べるハボック…。
立ち止まった私たちとは異なり、人の流れは9割以上がこの分岐点で迷いなく左に曲がって行った。右に曲がるものは皆無と言って良いほどだった。
左に曲がれば、その先にはアメリカンウォーターフロント。タワー・オブ・テラーが待っている。
右に曲がれば、その先にはミステリアスアイランド、センター・オブ・ジ・アースや海底2万マイルといったファストパスが設けられている人気アトラクションがある。更にその先には大人気のマーメードラグーンが位置する。そして、それらに待ち時間も少なく、立て続けに回れるだろう。
私の考えを読んだかのように、ハボックが右折することを提案した。もちろん、私は特に反論もなかったため、その提案に頷いた。

右回りは極端に人の姿が少ないこともあって、パンフレットを見ながらどの順番で回ろうかと話し合い、ゆっくりとミステリアスアイランドへ向かった。ポップコーンのフレーバーが7種類もあることや、絶対に食べたいフードは何か、夕食はどこで食べるか、話が尽きることはなかった。思えばこの時が最も平和的だったのかもしれない…。



まずはじめの躓きは、真っ先に並んだセンター・オブ・ジ・アースがインパーク15分で調整中の札が出たことだろう。私たちは列の半ばで退出することを求められた。しかし、アトラクションが再開した折には優先的に乗れるチケットを貰えたため、少しだけ得した気分になったのも事実だ。
そして、意気揚々と隣接するアトラクション、海底2万マイルへ。―――それはなんと言うか、海のない国に生きている私たちにとってはエキセントリック過ぎた。今日という日の一番はじめに乗るアトラクションとしては、特に…。
それでも、気を新たに次に向かおうとしたら、予想外にも絶対食べたいフード、ギョウザドックを早々に見つけてしまった。予想外。想定外。そう、このとき私たちは朝食を食べ過ぎていて、ちっとも食指が動かなかったのだ! そして、ハボックがさらりと言った。ここにギョウザドックあったんスね、ここなら分からなくなることもないんで昼過ぎにでもまた来ましょう。私は迂闊にも、その軽々しい言葉に軽々しく頷いてしまった。

その後、私たちは道順に沿ってマーメードラグーンに出た。まだ人影は多くない。いや、このエリアの人気を考えたらほとんどいないと言っても過言ではないだろう。じゃあちょっと様子でも見てみるか。そんな気持ちで建物の内部に入った。
ここで私の興味を引くのはなんと言っても、アリエルが登場するマーメードラグーンシアターだ。しかし、ここにはファストパスがある。別に今すぐに並ぶ必要はなかった。ファストパスを取って、後から悠々と来ても良いのだ。
だが、ここは本当に人がいなかった。建物に入った途端、キャストの声がよく響いて聞こえるほど。
マーメードラグーンシアター、第一回目がまもなく始まります! ご覧になられる方はお急ぎください! 
なんと言うタイミング! 
ハボックもそう思ったのだろう。私を振り返った目が俄かに驚きと興奮で彩られていた。私もまた同じような目をしていただろう。私たちは頷き合い、その扉を潜った。
円形のシアターの席は感動的なまでに選びたい放題だった。迷わず最前列に座り、頭上で繰り広げられる、まるで私たちだけのために供されているかのような、アリエルの可憐なパフォーマンスに酔いしれた。手が赤く腫れあがるほど拍手をして堪能する。―――気が付けば、入園して既に2時間が過ぎ、11時を回っていた。
そこで漸く、私たちは今回の目的の1つであるタワー・オブ・テラーへ向かったのだ。暢気にも!



アメリカンウォーターフロントまでメディテレーニアンハーバー沿いを歩き、ポンテ・ベッキオというここで最も大きい橋を渡って向かった。眼前に高々と聳え立つタワー・オブ・テラー。それは160分待ちを表示していた。しかも、頼みの綱のファストパスはこの時点で既に発行規定枚数を発券し終え、これに乗るには地道にこの列に並ぶしか方法はなくなっている始末。
160分並ぶということが俄かに非現実的で信じがたく、思わず悪あがきだと思いながらも、キャストに尋ねてみる。
今日は終日この待ち時間はほとんど変わらないと思います。
予想通りの言葉だった。それでも、少しでも待ち時間が減る可能性のある時間帯を尋ねれば、キャストはやや躊躇いながらも応えてくれた。ショーが行われる時間帯ならば気持ち減るかもしれない、と。
私たちに与えられた選択肢は3つあった。160分並ぶか。ショーを見ずにやや待ち時間の少ないときに並ぶか。それとも乗らないか。
ハボックはタワー・オブ・テラーを見上げたまま、強い口調で言った。乗らないってことは考えられないっス、と。
私も同感だった。しかし、私はショーを観ないということも考えられなかった。
さて、どうするか。しばし躊躇する…。
「どうします?」
「並ぶしかないだろう。だが、せめて100分を切ってから並びたい」
それが無理でも、せめて2時間ぐらいの待ち時間で乗れないだろうか。ハボックが頷いた。

アラビアンコーストに向かった。14時からメディテレーニアンハーバーで始まるショーまでの時間をここで楽しむのだ。ここではマジックランプシアターを見ることに決めていた。ファストパス取ることも考えたが、待ち時間がたった25分ということもあって、並んで観ることにした。些細な待ち時間は異国の装飾品の中の隠しミッキーを探すことに費やした。
コメディタッチの舞台。アリエルの舞台とはまた違って味わいがあった。その舞台後には隣接するキャラバンカルーセルのジニーの席に座りたくなるほど。もちろん、私はそれを果たした。
また、ここのフードコートは大きく、実に異国情緒に溢れ、そこから漂ってくるカレーのにおいと相まって魅力たっぷりだった。まだ空腹とは言い難かった私たちはここで夕食を取ろうと話し合い、そこを後にした。
ショーを堪能するために、ショーの開始の30分前にはメディテレーニアンハーバー正面に向かおうと決めていたのだ。そして、最前列でショーの開始を待つ。その最中、雨が降り出した。天気予報を裏切り、雨は次第に雨脚を強める。挙句に風が強くなってきた。海に接岸している場所だけに天候の不順は仕方がないのかも知れない。ショーは開始時間直前に中止になった。
これならタワー・オブ・テラーに並んでおけば良かった…。そんなどうしようもないことを思って、ため息が零れそうになる。
インディ・ジョーンズ・アドベンチャー・クリスタルスカルの魔宮は設備点検で運営中止期間中なのは事前に知っていた。センター・オブ・ジ・アースは朝一番でストップしたまま、再開する目途は立っていない。そして、雨は降り始め、風は強まり、昼のショーは中止になった。夜のショーも中止の可能性が高い。タワー・オブ・テラーは開演当初から100分待ちを切らない勢いで回転し続けている。いや、落ち続けているか。今後はますますタワー・オブ・テラーに人が集まるだろう。待ち時間がこれまで以上に伸びることは明らかだった。ハボックにも思いつくほど。
「これなら、タワー・オブ・テラーに並んどきゃ良かった…」
ハボックのぼやきと大きなため息は、ショーの中止に残念と声を上げる、多くの人たちのざわめきの中でも、はっきりと私の耳に届いた。
「……………………」
なんという無神経な奴!

雨の中、人の流れに乗って、近くのショップに入り、ビニールの青いポンチョを2つ買った。傘を持つ習慣はない。軍人の習い癖だった。だが、雨に濡れて、より一層の寒さが増してきた中、それも悪くない気がした。
お揃いのポンチョを着て、ショップの軒先でマップを広げる。変更続きの今後のスケジュールを確認するために。
「……………………」
雨は止む気配どころか、弱まる気配も見せない。風は強くなり、木々が撓んでいる。足元も濡れきっている。ハボックはスニーカーだから靴下まで濡れていることだろう。どこかで靴とスニーカーを買い、温かいカフェに入って履き替え、一服しても良いかもしれない。ディズニーランドとは違ってこちらは飲酒が可能なのだから、探せば一軒ぐらい喫煙できるカフェもあるだろう。
そう。念願の夢と魔法の国にいるのに、これしきのことに挫けていてはならないのだ。落ち込んでいる場合ではない!
気持ちを新たに奮い立たせたところにハボックが口を開いた。濡れたマップを丁寧に拭って、これまた丁寧に折り畳み、ポケットにしまいながら。
「ここでじっとしてるのもなんなんで、ちっと動きましょう」
大いに賛成だった。ここにこうしていたら、気持ちまで凍えてしまいそうだった。

迷いなく歩くハボックに付いて行った先は、アメリカンウォーターフロント、タワー・オブ・テラーの前だった。待ち時間は依然として160分。ハボックの歩みは止まらない。私はその文字を前に、そのままその流れに従ってその列に並ぶことに躊躇した。足が止まってしまった。何の心構えもなくそこに並ぶには突然過ぎた。
しかし、ハボックに躊躇はなかった。一歩前で立ち止まり、振り返ってへらりと笑う。何でもないことだと言わんばかりに。
「オレ、ここに並んでますから、アンタはアリエルと2ショットでも撮りに行って時間潰してて下さい」
そんで頃合を見計らって戻ってきてくださいね。アンタ、そういうの得意でしょ? ハボックはマップを私に預け、そのまま建物の前に九十九折になっている長い長い列の最後尾に走っていった。


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そこの待ち時間は依然変わらず160分だった。今回のインパークでこれに乗らずに帰ることは考えられなかった。でも、常日頃、その存在が優待券代わりになってる大佐がこんな長時間、しかも雨の中で並ぶなんて考えられなかった。何かにつけてはタワー・オブ・テラーの前に来ても、大佐はこの長い列に尻込みするだけで、並ぼうという意思を全く感じさせない。それでも、オレはこれに乗りたかったから、大佐の分も大人しく並ぶことにした。それに、白い顔はこんな寒い日には一層白く見えて寒そうだったから。途中で大佐は横入りしてくればいい。そう思って。
「オレ、ここに並んでますから、アンタはアリエルと2ショットでも撮りに行って、時間、潰してて下さい。そんで頃合を見計らって戻ってきてくださいね」
そう言って、タワー・オブ・テラーの前で別れた。列の最後尾に並んで、青いポンチョ姿がしばらく考え込んでから、それでも踵を返すのを見てほっとする。アリエルのところなら室内でここよりはまだ温かいだろうし。でもその前にどっかカフェにでも入って温かいコーヒーでも飲んでしっかりと暖を取ってほしかった。
「あ、しまったな。コーヒーでも買いに行くんだった…」
オレもコーヒーぐらい用意すればよかった。でも一人で並んだ以上、列を離れるわけには行かなくて。

思わず零れた一言に思いかけず反応があった。前に並んだ3人組の女の子たちの一人が振り返り、少し躊躇いがちにそれでもはっきりと言った。――よかったら場所取っておきますよ、と。この3人組も並んでから、コーヒーでも買ってくれば良かったと思い立ったらしい。
私たちも一人、お使いに出るので、よろしかったら一緒に行って、ここに戻ってきませんか。
その夢と魔法の国に相応しい善意溢れるお言葉に甘えて、コーヒーを買いに出た。

ハボックさん、タバコ吸うんですか?
うん、そう。わかる?
はい。ええっと、吸って行きますか?
―――いいの?
ええ。もし建物の中まで列が進んでしまっても、ケイタイがあるんで連絡つきますから、大丈夫です!
あー、じゃあ、お言葉に甘えて…。
善意を袖にするものじゃないし。何よりヤニ切れでもあったから、ありがたく一番近い喫煙所まで向かった。
お一人で、ってことはないですよね…
まあね、遠方から、さすがにここに一人で来るのはちょっと。――連れがこんなに長時間並ぶのに耐性がないんで、オレが先に並んでようって思ってね。
ハボックさんって、彼女思いなんですね!
―――いやあ、彼女じゃないんだ。わがままな上司でね。
上司?

これ以上は笑ってごまかした。話がややこしくなるから。そんな他愛もないことをつらつらと話して30分。女の子のケイタイが鳴った。どうやら友人がそろそろ戻って来いコールをくれたらしい。ヤニも十分補給して、コーヒーを買い、またタワー・オブ・テラーの長い長い列に戻った。このタイミングで大佐と合流できたらこれ以上ないラッキーだと思って周囲を見回す。でも、あの人は見える範囲にはいなかった…。
一緒にコーヒーを買いに行ってくれた女の子はその細い肩を寒そうに震わせて、どうします?と問う。加えて、建物の内部の列から一生懸命に手を振る女の子たち。どうにも、ここでしばらくあの人を待つとは言い出し難かった。必ず来ると言えるならまだしも、来ない可能性だって十分ある。あの人のことだからいろいろ面倒になって、オレが一人で乗って出てきた頃合に合わせてここに来る気もした。だから、まあいいや仕方ない。そう思って、一人、列に戻った。


    +++


突然、一人になってしまった。さっきまで気にならなかったポンチョを打つ雨音がやけに大きく聞こえてくる。
別に160分の列に並びたくないと言ったつもりはなかったが、身体は正直に嫌がっていたのかもしれない。そういう私の本音に聡い奴はそれを十分把握して行動に移したのだろう。しかし、なんだかんだ言っても、ここは夢と魔法の国なのだ。長時間並ぶのもここならば楽しいに違いない。それにタワー・オブ・テラーに160分も並んで乗ったと言えば、あの髭と眼鏡の奴を大いに驚かせることができるだろう。
「―――よしっ!」
私は心を決めた。
私だってその九十九折に並んでやろうじゃないかっ!

列の中で頭一つ以上飛び出したその目立った姿を確認して、その果てしない列に並ぶ私たちを助けるアイテムを求めに踵を返した。コーヒーにポップコーン。できれば二種あればより好ましいだろう。そして、ハボックに防水加工を施された靴と、靴下を。
辺りを見回して、ショップやレストランが立ち並ぶ場所を探しているうちにメディテレーニアンハーバーまで行ってしまった。しかし、そこまで行けば、最も見つけ難いと考えていた靴と靴下を意外にも真っ先に見つけることができた。
ピンク色のデイジーの靴下と、ブーツを選んだ。さすがにこの天気でキャラクターのクロックスのサンダルを履かせたらいじめになり兼ねない。ブーツは全く期待していなかったが、イーストでも手に入るか分からないほど非常に良いものを買うことができた。すぐに使用すると言って、簡易包装にしてもらう。傘も二本購入した。道を行く人たちが傘を差して歩いているのを見て、ポンチョより温かそうに見えたのだ。それにここは夢と魔法の国。聞き手を開けておくなどという必要はないのだから、傘も悪くない。
ポップコーンのワゴンも比較的簡単に見つかった。しかも、ストロベリーとペッパーの二つ。雨で並ぶものがいないからすぐに買うことができた。
なかなか見つからなかったのが、コーヒースタンドだった。立ち止まってはマップを開いて確認している内に、それは雨に濡れてぼろぼろと崩れていく。結局、コーヒーは自力で見つけることができず、キャストに尋ねて、買うことができた。
結構な大荷物に加えて傘を差し、熱いコーヒー二つを持てば、ゆっくりと歩くことしかできなくなった。
列はもうどのくらい進んだろうか?

それでも30分で済んだ買い物に満足して、タワー・オブ・テラーまで戻ってくると、予想する列の場所に優に頭一つ以上高い姿が見つけられない。まさか、もう列が建物の中にまで進んでしまったか? しかし、それはどうにも考え難く、しばらくその姿を探してタワー・オブ・テラー前の道路に立ち尽くしていると、キャストが心配気な顔で近寄ってくる。
お連れ様をお探しでしょうか。
さすがキャスト。正にその通り。私たちのように一人が並んで一人が買い出しに出かけるなんて良くあることなのだろう。頷くと、キャストはどうされますかと、今後の指針を示してくれた。まず一つは建物内部に入る際に合流を図るのが常であるため、しばらくここで待つか。もしかしてすでに内部に入ってしまったことを考え、雨も降っていることもあり、内部のゲート前で待つか。
しかし、このキャストは私たちがここに来た際もここに立っていた。ならば。
「連れは190センチを越える大男なのです」
そう告げる。キャストは察しよく頷いた。
お一人様でしょうか。
それにも頷く。そうすれば、笑顔で、まだそれほど背の高いお一人の男性はここを通ってはいませんと教えてくれた。
ハボックは要領よく、タバコを吸いに行ってから並ぼうとしているのだろう。ならば、奴が戻ってくるのを待って、共に列に並べば良かった。建物の外の九十九折りがよく見える場所、タワー・オブ・テラー前の広場のベンチに座り、どこぞに行っているハボックを待つことにした。

そして、そこに座って30分が経った。ハボックの姿形は影すら見えない。頃合を見計らって戻ってきてくださいと言っておいて、奴は私を待たずとっとと内部へ進んでしまったのだ。しかし、今更、キャストに内部のゲート前で待たせてほしいと言い出すのも気が引けた。この列にはじめから並んでいる人たちを見れば。
コーヒーは飲み干した。冷めてしまう前に。しかし、私がここで待っていたことを知らしめるためにハボックの分は手をつけなかった。ポップコーンも半分を食べた。残りの半分に手を付けなかったのはハボックのためではない。単に美味しくなくなってしまったからだ。雨の中、傘を差してベンチに座り、コーヒーをすすりながら、ポップコーンを食べる。時間が経てば、ポップコーンはいとも容易く雨に濡れて萎れてしまった。それでも、手持ち無沙汰でその萎びたポップコーンに手が伸びる…。
1時間が経過した。何か我慢比べをしている気がして、意地でもここから動くまいと心が頑なになっていく。並んでいる最中に、いやもしかしたら喫煙しに行ったときに、奴は運良くファストパスを譲ってもらったのだろう。そして、やはり160分なんか並んでいられなくて、それを使ったのだ。私に黙って。ならば、そろそろ出口かひょっこりあのマヌケな顔を出してもおかしくない。私をここに待たせておいて自分だけタワー・オブ・テラーに乗るとは! なんということだ!! 怒りに身を任せていれば、1時間半があっさりと過ぎていった。


    +++


タワー・オブ・テラーに乗ってる人たちの絹を切り裂くような悲鳴がひっきりなしに聞こえくる。ファストパスで列をショートカットして入ってくる女の子がその悲鳴に心底脅えて、仲間の静止を振り切って列を飛び出して叫んだ。私は絶対乗らない! 否応なく高揚感が高まってきた。
そのまま、内部のゲートを越える。ここを過ぎたら、もうこの列で大佐と合流することはできない。でも、ここまで並んで乗らないとか、もっと待つとかは考えられなかった。こうなったらさっさと乗って、どこかで不貞腐れているだろうあの人を探してご機嫌取るのが一番な気がして。乗っちゃおう。女の子たちに礼を言って、シングルライダーを使った。


    +++


さもしいまでに憤りに満ちた私の前を通り過ぎて行く無数のカップルたち。ちらりと私を見ては、こそこそとつぶやきあう。あの人、独りなのね。喧嘩でもしたんだろ。だから、あんなところで独りでポップコーン食べて? 悲惨!
そんな会話はもっと声を潜めてしてくれ。
しかし、その内容は一概に間違いとも言えず、寒さが身に沁みた。このままここにいてそんな視線に晒されるのも、似たような会話を聞くのも物悲しくて、ついに重い腰を上げた。メディテレーニアンハーバーでも一周してこようと思った。

今は折りしも、シーズン・オブ・ハート。愛に包まれたこの海で、大切な想いを伝えたい。そういうテーマを掲げられたシーズンだった。
メディテレーニアンハーバーには愛をテーマに掲げられたフォトロケーションが数多く設置されていた。午前には。昼を過ぎてまもなく雨と強風のために大半のものが撤去されていた。朝はそれらをなんとも思わなかったのに、なくなると途端に寂しさが湧き上がり、大切な機会を失ってしまった気までする。キューピットの門、スウィートハート・ファウンテン、ゼウスの口、告白の橋、求愛のバルコニー、ハートのテラス、ロマンスの泉…。
ハートのテラスに結ばれていただろうにこの強風に煽られて飛ばされてはぐれた、愛のメッセージカードが一枚、誰かの足跡を付けて道の上で雨に濡れていた。誰の目にも留まらなかったハートのメッセージカード。それを見つけてしまったからには、せめて破れないように注意深く救出してやった。キャストを探した。きっとキャストならこれを無碍に捨ててしまうことはない。
しかし、キャストをすぐに見つけることができなかった。目を凝らしてキャストを探す。傘や合羽、ポンチョの中にどれ一つとして一つで動く影は見当たらない。―――私以外。私だけが今ここでたった独りだった…。
不意に、恥ずかしくなった。夢と魔法の国の愛のシーズンに、ハボックを信じることができず、たった独りでここにいる私が。まるで誰にも見向きもされない、この手の中の今にも破けそうなハートのように思えた。

インフォメーションセンターによって、メッセージカード渡し、またアメリカンウォーターフロントに戻った。ここで、私がそこ以外のどこに行けばいいというのか。
同じ場所に座る。ハボックとここで分かれて既に3時間が過ぎようとしていた。依然としてハボックの姿はない。見える範囲の列の中にもいないし、出口近辺にもいない。もしかしたら、奴は何かしらの事故に巻き込まれ、タワー・オブ・テラーに並ばなかったのかもしれない。しかし、だからと言ってどこを探せばよいのか。そう、奴を探してこのパーク内をふらつくより、ここで待つことが確実だろう。何よりここで待ち合わせたのだから。ハボックがここに戻ってくることを信じて待つべきなのだ。


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ああ、最高! もう一回乗れないかな! 160分待って、十分に高まった期待感を十分に満足させる、たった3分間。タワー・オブ・テラーの高揚感を残したまま、足取り軽く出口を越えた。
外はまだ雨が降っていた。寒い。しかも、この中から機嫌の悪いあの人を探さないとならないと思うと例えようもなく寒く感じた。ここは夢と魔法の国なのに、これからオレは罵られていじめを受けるのだ。濡れたポンチョを着込むと骨の髄まで凍るような寒さが襲った。

タワー・オブ・テラーの入り口前の広場のベンチに、雨の中、一人で座っている影があった。影というにはその存在感は妙に大きくて人目を引く。こんなとこに独りで。なんで寒そうな。しかも、傘を目深に差して、顔だけでなく上半身まですっぽりと隠した姿が辺りを拒絶するかのように見えて、一層寒さを醸し出していた。ベンチに立てかけられた、使うもののない傘もより悲しさを強調している。独りになってしまったことを表して。
前のカップルも同じものを見ていた。喧嘩して独りになっちゃったんだわ。こんなとにまで来て喧嘩か。よくやるよ。私たちは気をつけましょうね。当たり前だ。こんな夢と魔法の国に来てまで、恋人と喧嘩するなんて。
まるで自分のことのように思えてしまった。もしくはこれから自分に起こることか…。そうしたら、こんな風に言われるのかと思うと居ても立っても居られない。平謝りして許してもらおう。そうしよう。
そう思った瞬間、傘が傾いた。
下世話な気分で、どんな顔の男なのか、見てやろうと傘が傾ききるのを待った。
「あ………」
そのフラれ男は見慣れた顔をしていた。自分の上司にびっくりするほど瓜二つ。しかも、笑顔で…。
「―――楽しかったか?」
声まで一緒だった。

さすがのオレもここで楽しかったなんて言える心臓は待ち合わせていなかった。言い訳も謝罪も言えなくて固まるオレに差し出される、冷え切ったコーヒー。ほんのちょっと触れただけの大佐の指先が冷え切っていた。爪の先が青い。
「……………………」
タワー・オブ・テラーの悲鳴は途切れることがなくここでもよく聞こえる。それは今のオレの心境だった。叫んで、落っこちたい。奈落の底まで。
「ど、ど、どどのくらい、ここで待ってました、か…」
「……………………」
「30分ぐらい? 1時間ぐらい?」
大佐は応えなかった。ただ肩を竦めるだけで。
オレはそれ以上問いただすことができなかった。
「お前を見つけ損なってな」
その一言にこの人がオレをちゃんと待っていてくれたことを、来てくれてたことを知った。

オレの気持ちを他所に、その人はオレに傘を渡し、大きく伸びをする。そして、オレを見てやっぱり笑顔で言った。さて、次はどこに行こうか、と。その唇は色をなくしていた。
言葉もないオレのことなどお構いなく、大佐はいつもとなんら変わりない。足、冷たくないか? そう言われれば冷たいとしか応えられないほど冷たかった。雨でびしょぬれで靴下まで濡れているんだから。頷く。
「だと思って、靴と靴下を買ってきたんだ。ほら、やろう」
「―――はあ、あ、ありがとうございます…」
「トイレにでも行って履き替えてこい。見ているだけで寒そうだぞ」
これは一体どういうことなのだろう。本当にこの人はうちの大佐なのだろうか。実は違うんじゃないのか。もちろん、そんなこと言えずに、手渡れる袋を受け取って言われたとおりにトイレに走った。アンタの方が寒そうだと思っても。

それは普通の、帰ってからも履けるブーツだった。靴下はピンクだったけど、ブーツを履けば見えることはない。しかも、サイズはぴったりだった。あの人がオレのサイズを知ってることが驚きで、それを言えば笑われる。お前が私のサイズを知っているように、私も知っているだけだと…。


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すっかり陽が落ちて暗くなると、タワー・オブ・テラーに灯った青い明かりが不気味に辺りを照らす。そして、轟く悲鳴。それを聞く度、一刻も早くここから立ち去るべきだと思った。履き替えた靴下とブーツもの履き心地の良さもまたそれを掻き立てる。
脱いだ冷たいポンチョをびしょびしょの靴と靴下を入れた袋に詰めて、傘を差す。まるで沖に打ち上げられた魚のようだと思った。息苦しさが消えない。雨に打たれて風に吹かれて熱でも出した方がまだ生きた心地がするだろうと思った。言わなきゃいけないことはたくさんある。どうして、大佐を待たずにタワー・オブ・テラーに乗ってしまったのか。この人だってこれに乗るの、楽しみにしていたのに。どうして待てなかったのか…。

一歩、前に出た大佐が振り返る。青い傘がくるりと回って跳んだ飛沫が、オレの顔をぴしゃりと打った。
「ハボック、腹、減っていないか」
「へ?」
「朝に食べてから何も食べてないだろう? 腹は減ってないか?」
「あー、そう言えばそうですね。減ってきたかも…」
「私はポップコーンを食べたが、もう腹ペコだ」
お腹の辺りを押さえて、眉を下げ、笑う。お腹へったと繰り返して。
「――じゃあ、うきわまんですね!」
挽回のチャンスが早々に来たらしい。オレは大佐との距離、たった一歩を詰めて高々と言った。うきわまんは今回のインパークで絶対食べなければならないと決めていたフードだった。ポートディスカバリーで食べられるという。大佐が、そうだろうそうだろうと、今度はにぱっと嬉しそうに笑った。

タワー・オブ・テラーを背に、ハーバーに掛かるでっかい橋を渡ってポートディスカバリーへ。だけど、うきわまんはなかなか見つからない。人気アトラクションのストームライダー、アクアトピアの周りを数回往復して歩いても見つけることができなかった。頼みの綱のキャストすら、雨の中、傘の影で見つけられなかった。マップは大佐に預けている間にぼろぼろになってすでにその役目を終えている。
どちらともなく腹がぐーっとなった。腹の具合にあまり猶予はなかった。ならば、ちゃんと場所がわかってるギョウザドックを食べようと、直線距離ならすぐそこの場所でも道に沿って歩けばそんなに近くないミステリアスアイランドへ。そこには長い長い列ができていた。しかも45分待ちとまで表示が出ている。その先には一つのワゴン…。
時間は18時を回っていた。ディズニーシーはディズニーランドと違って閉園時間が早い。しかも今日の閉園は20時だった。夜のショーもこれからだ。ここで45分待っていたら、閉園まで後一時間になってしまう。そう簡単に、さあその列に並ぼうという気にはなかなかならなかった。
「ハボック、少し早いが夕食にしないか。アラビアンコーストのカスバ・フードコートに行ってカレーを食べて、アトラクションを回ろう」
例えば、これからアラビアンコーストに行って、カレーを食って、急いでメディテレーニアンハーバーに戻ってくる。――急いでも30分は掛かるだろう。そしたら、粗方、ショーが良く見える場所は人で埋まってしまう。アトラクションにまで行ってたら、もうショーは終わってるだろう。だったら、何かホットドックでも買って、食べながら場所取りをした方がいいんじゃないか…。
「でも、19時ごろからショーでしたよね。アトラクションに行ったら見れなくなるかも知れないですよ?」
「ショーは行われるか、分からない」
「でも…」
この人が楽しみにしてるショーが万が一にも見れるなら、ちゃんと場所取りしたい。

結局、今ここでアラビアンコーストに行かなかったら、そこで飯を食うことはできないだろうからと、急いで行って食べてくることになった。そして、道々会ったキャストにショーが行われるか、確認して、もし行われる可能性が高いなら場所取りに行き、行われないならアトラクションに行く。まだ乗っていない人気アトラクションがあった。ロストリバーデルタのレイジングスピリッツ。一回転するジェットコースターだ。
アラビアンコーストのフードコートは驚くほど人で溢れていた。手にトレーを持って、空いている席を求めて右往左往する群れ。雨だから人がここに集まることは当たり前なのかもしれない。それでも、急いでいて、かつ腹が減っていたオレたちは誰も居ない隣のカウンターサービスに迷わず移動した。すぐに食べられるからいいじゃないか。そんな軽い気持ちで。
そこはピタサンドの店だった。他にも何か食べられたのかもしれないが、薦められるまま、ホットコーヒーとそれを頼んで、やっぱり誰もいない大きな庇の下の雨が凌げるだけのテーブルに座った。そこは風が勢いよく吹き抜けていって、ホットコーヒーが見る見る内に頼んだ覚えのないアイスコーヒーになっていく…。
「……………………」
しかも、買ったピタサンドは非常に季節感に相まって冷え切っていた。肉も野菜も、ピタサンドの皮すら。それでも、空腹には勝てなくて冷えたピタに食いつく。向かいの大佐の顔は白いまま、小さく震えていた。
「――くっ!」
でも、それは寒さで震えているわけじゃなかったらしい。大佐が堪えきれず、笑い出す。くしゃっと、子どものように。
「人がいないことにはちゃんと理由があるんだな。こんな寒さの中でこんなに冷え切ったものを食べるなんて、私たちだけだろう!」
大佐はよく分からない理由で楽しそうに笑い出した。

冷たい食べ物でも胃に入れてしまえば、体温が上がる。体温が上がれば、心に少し余裕が生じて、周囲に対する注意力が戻ってきた。キャストを見つけて、ショーは行われるか、尋ねる。でも、返ってきた言葉は望んだものじゃなかった。
申し訳ありません。まだ不明です。
その情報だけじゃこれからの行動が決められない。せめてもうちょっと分からないのか。そう問い詰めようとしたのを大佐の声が留める。
「もし雨が止んだら、ショーは行われる可能性がありますか?」
この程度の雨でしたら通常ショーは行われます。問題は風です。風が弱くならなければ、ショーは開催できません。

メディテレーニアンハーバーにどのくらい人が集まっているのかは分からないけど、今からハーバーに行けば、最前列は無理でも十分良く見える場所でショーを見ることができるかもしれない。でも、オレはそう言うのに一歩出遅れた。
「じゃあ、ハボック、レイジングスピリッツに行こう。私もジェットコースターに乗りたい」
大佐がそう言うなら。

隣のエリアのロストリバーデルタへ。ここは木々が一際多く植えられていてうっそうとした中に遺跡が見える。レイジングスピリット。階段状の遺跡から水が流れ落ちて、その水の上には炎が灯る。どうしてスかと専門家に問えば、大佐はここでそういうことを話すのは興ざめだろうと言って教えてくれなかった。本当はその原理が分からなかったのかもしれない。
その隣の、今日は調整中で中止になっているインディ・ジョーンズ・アドベンチャー・クリスタルスカルの魔宮のライトアップを見ながら、レイジングスピリットの列に並ぶ。
風はさっきよりも弱まってきた。メディテレーニアンハーバーではショーが行われてる気がした。もし行われてるなら、花火で空が白むはずなのに辺りを覆う木々がそれすら隠して、オレの気をそぞろにさせた。

40分を待って、一回転して出てきたら、やっぱりショーが行われていることを知った。マーメイドラグーンを小走りで急いで抜けて、ミステリアスアイランドを越えるとメディテレーニアンハーバーの周りにはたくさんの傘が重なり合っていた。音楽が聞こえる。誘われるように、人垣の後ろに近づいた。
水面の大きな山車が形を変え、炎を噴いた。もう一つは水を。色とりどりの船。暗闇の水面に炎が円を作る…。―――オレは見えた。その幻想的なショーのクライマックスを。前にどのくらい傘があっても、オレの視界を遮ることにはならないから。でも、隣の、その人は身を屈めて、無数の傘の間から見ようと身体を揺らしていて。
「あの、肩車します?」
笑われただけだった。オレ的にはかなり本気だったのに。

ショーは本当にクライマックスのクライマックスだった。最も大きな山車が水面に沈んでいくと、傘は徐々にばらけて行った。船が列を成して引っ込んでいく頃になると、漸く前に何の障害もなく見ることができた。でも、もうキャラクターの後ろ姿も見えなかった。
閉園まで後30分と迫っている。
こんなとき、何を言ったらいいのだろう。無言のまま人の流れに沿ってミステリアスアイランドに向かえば、そのにあったギョウザドックのワゴンが無常にもすでに店仕舞いしていた。


W-05

上手くいかない。尽く。オレはタワー・オブ・テラーに160分待って乗ることができたけど、大佐は180分、風に吹かれて雨に濡れて待ったのに乗れなかった。これだけは食べようと話し合ってたギョウザドックはタイミングを逃して食べられず、うきわまんに至ってはそれがどこで売っていたのかすら分からなかった。ショーだってこれだけは外せないと言ってたのに、結局見れなかった。雨は降るし、風は強いし。キャラクターにだって会えない。
全ては朝、メディテレーニアンハーバーの前で右に曲がるか左に曲がるか迷ったときに、左を選ばなかったことが元凶に思えた。そして、それを選んだのはオレだった。こういうカンは人一倍いい方だからって、思い上がってたのだ。ちょっと考えれば、あそこで左に曲がって、タワー・オブ・テラーのファストパスを取るのが定石だったのに。ちょっと待てば、大佐が左に曲がろうと言ったはずなのに。
「……………………」
この人はタワー・オブ・テラーの前で3時間近く待たされたのに、ちっとも機嫌を損ねたそぶりもない。―――だから、オレは謝るタイミングすら図れないでいる…。
「ハボック、もう一度、レイジングスピリットに乗りに行かないか?」
ショーを観てた多くの人たちはアメリカンウォーターフロントに向かっていた。今から並べば、閉園までにタワー・オブ・テラーに乗れるのかもしれない。でも、乗れないかもしれないという思いがあって、アメリカンウォーターフロントに行こうとは言えず、頷いた。


    +++


マップがダメになってしまった今、どの建物がどんなアトラクションで、ショップでレストランなのか分からなかった。雨も寒さもあって、閉園を待たずにここを去った人は思った以上に多いのだろう。1時間前とは違って、周囲の人影は疎らだった。レイジングスピリットもほとんど並ぶことなく乗ることができた。
今度こそ一回転するときは目を開けていようと思ったのに、やはりそれはできなかった。



アトラクションを降りて、出口を越えると、そこには誰も居なかった。もう閉園を向かえたかのように思えるほど。
そして、漸く雨が止んでいた。傘を閉じる。
うっそうと茂った木々の中、雨音にかき消されていた鳥の声を聞いた。本物の鳥なのか。それともテープなのか。思わず辺りを見回す。そんな静寂の中、ハボックがぽつりと呟いた。
「怒ってますか?」
そんなことを尋ねられる気がしていた。もうずっと前からそう言いたそうな顔をしていたから。しかし、だからと言って、自ら怒ってないと言うのは、逆に怒っていると言っているようにも感じられて、水を向けられるまで何も言うまいと思っていた。
「――私が怒っているように見えるのか?」
「見えません。でも、怒ってなさそうに見えて、怒ってることよくあるでしょ、アンタ」
「おい。お前なあ」
ハボックは、何も言えずいた時間に比例して頑なに、疑心暗鬼に囚われていた。
「よくわかんないから聞いてんじゃないっスか!」
一際、大きな風が吹き抜けた。辺りの木々を大きく揺らし、その葉に貯めた雨粒を、正に狙ったかのようにその真下にいたハボックの上にざーっと落として。
なんてあまりに散々な!
「だって! オレ、よくわかんないスよ! 頭悪いし!」
しかし、これぐらいの不運では、ハボックの勢いは止まらなかった。
「ハボック、私は、怒ってないぞ?」
本当だった。怒っていたのは精々100分程度で、もうあの頃の怒りは消え失せている。二人なら別にショーを観ずとも、人気のアトラクションに乗れなくとも、食べたいフードを食べられずとも、計画が上手く行かないことにすら、十分楽しいと知ったのだ。
「アンタが静かに怒ってそう言うの、普通です」
頭からびしょぬれになっても拭いもしない奴の二の腕を取って、一歩前に出させる。それだけでもう木々の下ではなくなり、風が吹く度、不用意に濡れることはなくなる。たった一歩で。
「怒っていない。それとも、お前は、私に罵れと言っているのか? この夢と魔法の国のシーズン・オブ・ハートのときに?」
ちっとも納得いかないとばかりの、びしょぬれでしかめっ面の顔に手を伸ばして、拭う。一瞬驚いた顔が、また何かを堪えるように顔を顰めて、まるで飼い犬のようにその手に頬を摺り寄せた…。しかし、それはほんの一瞬だけ。離れていった温もりにより心を残しているのは私の方だろう。

「―――オレは、ここは夢と魔法の国だから、アンタがしたいこと全部叶えたいと思ってたんです。でも、ここに来るとそういう大切なこと忘れて、オレは自分のしたいことをしちゃって…。オレは、アンタには、タワー・オブ・テラーに少しでも楽に乗ってもらいたかった。アンタに、夢中になって遊んでもらいたかった」
ハボックがごしごしと顔を擦る。
「私は、結構いつだって夢中になって遊んでいると思うのだが、そう見えなかったとは意外だ」
夢中になって遊んでいる相手がいるからこそ、夢中になって遊べるのだろう。怒ったり、寂しくなったりするのもまた、夢中になって遊んでいる証拠だと思うのだ。
「―――だが、ここで私が魔法に掛かるには、一人ではダメだったということを私は知ったよ。ハボック、また、私とここに来てくれるか?」

辺りには、不思議なほど誰も居なかった。口を噤めば、茂ったジャングルの道で鳥の声しか聞こえてこない。
閉園の時間をそろそろ迎えるだろう。閉園のアナウンスが流れるはずだ。
最後のアトラクションになると分かっていて、敢えてタワー・オブ・テラーではなく、このレイジングスピリッツを選んだ理由は単純明快だった。こここそがこのパーク内でゲートから最も遠い場所に位置している。ここからならゲートにたどり着くまで最も時間が掛かり、最も長くここにいることができるのだ。
キャストも少しぐらいは多めに見てくれるだろう。今はシーズン・オブ・ハート。恋人たちが愛を確かめ合う時間ぐらいは。
そんなことを考える自分がいじらしくて頬が緩むと、やっとハボックの顔にも釣られるように笑顔が浮かんだ。
「オレでいいんですか?」
もちろん! 雨の中、お前のことを考えていた180分もそう悪いことじゃなかった。だから、また来よう。
頷いて、手を差し出せば、少し驚いて目を見開きつつも、重ねられる大きな手。貸切と錯覚してしまいそうなこの場所で、声を潜めて笑い、できる限り遠回りをしてゲートに向かった。
2008/09/15〜2008/09/20