LOVE BOMBS
V-01

その子は憧れだった。その子たちは私の憧れだった。

昔から、私はぱっとしない男だった。プライドが高かった。努力をすることは能力のない人間のすることだと思うほど、プライドが高かったのだ。だから、私は努力などしなかった。いつか開花するだろう己の才能が明日開花すると信じていた。私は失敗を恐れていた。たった一度の失敗にすら恐れをなして挑戦することを放棄していた。そして、行わなければ失敗することはなく、私のプライドは守られ続けた。友と呼べる学友はいなかった。私につり合う存在がいないのだから仕方がないと1人でいることを受け入れた。自ら、誰かに話しかけることはなかった。
つまり、私はぱっとしない男だったのだ。自意識過剰で臆病で内向的な男だったのだ。あるいはそれは思春期特有の熱病みたいなものだったのかもしない。しかし、学生という時間が終わりを告げたとき、私の手の中にあったのはガラスの靴ではなく空の財布だった。もし私がもっと自意識過剰だったならば、もし私がもっと臆病だったならば、もし私がもっと内向的だったならば、私はそれらを己の才能として受け入れることができたのかもしれない。
しかし、私はぱっとしない男だったのだ。明日の糧を得るために。いや、得られなかったらと考えて恐怖に震えたのだ。そして、人の言葉に追従することを覚え、日銭を稼いだ。明日もまた明日に必要な金を稼ぐために、誰かが白を黒と言ったらそれは黒になり、右を左と言ったら左になった。どこにでもいる普通でありきたりな男。それが私なのだ。

だが、そんな己に疑問を抱くことがついぞなくなって、漸く私は己に出会うことができた。もしくは、周囲のありきたりな男たちに自分を見ることができたのか。ありきたりなどこにでもいるぱっとしない男。だから、良いと思った。だから、受け入れられると思った。長い時間を得て、私は自分の思考を紙に写し取ることを生業に選んだ。



私がその子に出会ったのは街の片隅にある小さな図書館だった。彼は誰とも違っていた。彼からは抑えられんばかりの才能が滲み出ていた。埃が堆積するただの図書館が特別なものに感じてしまうような目に見えないものを私は確かに見た。
それから、週末になると、彼をその図書館でよく見かけるようになった。時には、友人を伴って。彼らの話し声は私のほかは司書しかいなかった図書館ではどれほど潜めても耳に届いた。私は彼らの話に耳を傾けることを楽しんだ。そう、華やいだ青春のとき。私にはなかったものだが、そんな空気を疑似体験し楽しんだ。私は私の想像の中で、彼らと席を並べ、対話を繰り返していた。
彼らがこんな小さな図書館で何をしているのか、私が興味を抱くにはそう時間はかからなかった。

どうする?
どうもしないだろ。片っ端から読んで行こうぜ。
まあ、それに異存はない、が…。
が?
話は書けるだろう。たぶん。きっと?
何だよ、自信なさげだな。妹が泣くぞ。
うるさいな。お前、邪魔だからもう帰れよ。
つれないこと言うなよ。俺とお前の仲じゃねえか。
ヤメロ。気持ち悪い。
気持ち悪いなんてヒドイわ!ロイさんったら!

いつも軽やかに話し、机の上に高々と重ねた本を読んでいた2人。
―――下手な鉄砲も数撃っちゃあ当たるって言うからな。とにかく思いつくだけ書いていこうぜ。スクエアの眼鏡をかけた少年の言葉に彼は頷いて、手元に用意した紙に何やら書き込んで行く。
いつしか彼は本を読んでいる時間よりもペンを握っている時間の方が多くなっていった。そして、そのペンの進みは淀みなく、黒く埋まった紙は次々と重なって高みを増す。
少年が書いていたものはレポートでも何でもなく、物語だった。
ぱっとしない男への最初で最後の一世一代の幸運はその時訪れた。風が吹いたのだ。彼が書いた無数の紙を巻き上げて。紙吹雪のように部屋中にそれが舞った。もちろん私の場所へも。彼の、溢れんばかりの才能を写したかのようにそれは私には光り輝いて見えた。私は興奮を必死に抑えて、周囲に散らばった紙を拾い集めた。それは自分には無縁だった才能の欠片でもあったのだ。手が震えた。純粋に感動を覚えて。
「あー、すみません。ありがとうございます」
「いや…」
これをきっかけに私たちは図書館で会うたびに挨拶を交わし、言葉を少しずつ交わすようになって行った。

季節が変わっても、2人は図書館へ訪れた。知らず内に私たちはお互いのことを話し合うようになっていた。そして、彼は言った。妹のために絵本を作りたいんです。その言葉に私は一も二もなく頷いた。
――丁度良い。小さな出版社に知り合いがいるよ。口を利こうか?
これこそが。このために、私は生きていたのかもしれない。彼らのために自分が何かできることがうれしかった。

2人は顔を見合わせ、驚きに目を見開く。その後、お願いしますと、膨大な量になっていた少年が書き溜めたものを私に渡した。たくさん絵本を読みましたが、結局俺たちには、どういうのが絵本に向いているのか判断がつかなくて…。



それを受け取ったこと。
それが世界に対してあまりに瑣末な私の運命を狂わせた。


V-02

規則と伝統に縛られた学校に寄宿舎
毎週届く妹から手紙
穏やかな風に揺れる木漏れ日の光
割れた眼鏡
落葉を踏みしめる音
フィボナッチ数列を再現する美しい冬枯れの木立ち
外気と変わらない図書館の室温
手書きのクリスマスカード
幼いままの妹の面影
炎上する飛行機
サイレンの音
責任をなすりつけ合う大人たち
妹のために書いた、誰かの名前で出版された本

私は何を書こうとしたのか。私は何を妹に贈ろうとしたのだったか。

記憶を辿るのは、驚かせてやりたいなと思ったためだ。あの金色の髪の間からぴんと立った耳をへなへなと伏せさせるのだ。ハボックはたっぷり驚いた後できっとうれしさを隠すように眉を顰めてから、私に礼を言う。そうしたら、お前が続きを読みたいと言ったからお前のために書いたんだと言ってもっともっと困らせてやろう。

かつてこの家はとても静かだった。時折、どんな時間にでも掛かってくるあの電話すら鳴らなければ。今はハボックが不在であってもそれなりに賑やかだ。電話は以前と同じように騒音を齎していたが、その主な変化は私自身によるものだった。
例えば、朝、ハボックが慌しく洗濯し洗濯物を庭に乾してから仕事へ行く。もちろん、彼はそれを取り込むのも自分でするんでといつも言ったが、私は3時過ぎにはそれを取り込むことを心がけた。ハボックが帰ってきたらすぐに散歩に行くために。そのために私は自ら率先して家事を手伝った。たったそれだけの決め事で家の中に音が生まれる。たったそれだけのことで音を意識する。自分の足音。風が窓を叩く音。道を行く誰かの話し声。―――ハボックが門扉を開ける音…。
この世界はこんなにも煩雑な音で満ちているのに、私は静寂の中に息を潜めて生きていた。ハボックがこの家に来るまで私は世界を閉ざしていた。

ページを捲るように、記憶を辿ればそれはあまりに簡単に思い出せた。

私は兄として、病気がちで家の中で過ごすことしか知らなかった小さな妹に、まだ見ぬ世界の素晴らしさを教えてあげたかったのだ。だが、私にとって世の中は不条理で理不尽で憤りに満ちていた。そんな私があの時一体何を伝えることができただろう。
ハボック。彼がいつも掃除を欠かさないリビングには埃一つなく、ソファに座っても、床に寝転がっても快適だった。レースのカーテンが記憶にあるよりもずっと白かったり、窓から見える庭にいつの間にか雑草の隙間にたわわに実ったトマトやきゅうりが生えていたり、気が付けば家中の本棚の本がアルファベット順に並んでいたり…。
ハボックの帰りを待っている時間は、ハボックが仕掛けたものたちを発見する時間でもあった。楽しさは日常の中、そこかしこに散らばっている。
妹よ、今、私は変な生きものと共に暮らしている。そう。私の想像など全く及びもしない生きものと。彼の為すことやること言うこと全てが興味深く、一分一秒と時間が過ぎて行くことすら穏やかで優しくくすぐったい。笑い出したくなるほど楽しい。今、私はハボックの施してくれる楽しさの中で暮らしている。

妹よ、兄はいつもお前に笑っていてほしかったのだ。笑ったときだけ、白過ぎる頬に赤みが差すから。もっと多くのことに世界に目を向けて欲しかったのだ。驚いた顔を見たかった。驚いて歓声をあげる姿が見たかった。
あの家は兄には息苦しいものでしかなかったけど、お前にはどうだったか?
あの家はお前をこの家のように優しく包んでくれたか?
私はハボックが私に施してくれる優しさの幾分かでもお前に渡すことができていたか?

開いた窓からするりと入ってきた一匹の翅の黒いトンボが、床に寝転がっていた私の上を円をかきながら飛び始めた。ぐるぐると、ぐるぐると、回る。
「―――早く出て行かないと、ハボックが帰ってきて飛び掛るぞ?」
私の親切を解しなかったトンボはすっとリビングを出て、廊下に行ってしまった。
ハボックが帰ってきたら、犬型にして家中トンボ探索をしよう。こんな家の中にいては短い命の中で番の相手に出会えない。もちろん、ハボックには飛び掛らせないように言い聞かせなくてはならない!

今なら書ける気がした。あの時書けなかったことを。今、私は心から言える。楽しいこと。素晴らしいこと。―――生きていて欲しかった。今、やっとそう思える…。
時間はゆったりと過ぎ、リビングが薄闇に包まれて行く。
そろそろ、ハボックが帰ってくる時間だった。久しぶりに妹を思って泣いた。


V-03

おかえり、ハボック。―――そう言ってドアを開けてくれる機会は、あの人の仕事らしきものがはじまってだいぶ減った。でも、その変わりオレのために外灯が点されている。それはまだ外灯が必要ない、陽が沈むのが遅い夏から続いていた。電気代のムダでしょうに。そうぼやきつつ、あの人のおかえりをいつも聞いていた。



その日、仕事から帰ってきたら、あの人がいなかった。
外灯は点されていなかった。ドアが開けられることもない。何処にもいない。書斎にも、納戸にも、本棚の間にも、クローゼットの奥にもいない。いつものようにダイニングのテーブルに置かれた交換日記にも何も書かれてなかった。何より家の中にあの人の気配がなかった。こんなことこの家に住み始めて初めてだった。

あの人も、オレも、子どもじゃないし…。
それにちょっと出かけてて直ぐ帰ってくるから、書置きのメモもないのかもしれない。なら、今日はオレがあの人におかえりと言って玄関を開けたらいい。自分のアイデアに浮かれながらもいつもと違う家の中の雰囲気に落ち着けなくて大量のカレーを作ってしまった。
でも、玉ねぎを刻んでても、にんじんを炒めてても、一向にあの人は帰って来なかった。カレーが出来上がってしまっても…。迷子になっているんだ。きっとそうだ。絶対そうだ。オレはエプロンを置いて、家を出た。迷子のあの人の匂いを追って、一緒にカレーを食べるために。

犬型にならなくとも、もう身近になった匂いは意識を集中しさえすればどこからでも感じることができた。
それは確かに家の前の道から大通りを通って、更に奥の高級住宅街に向かっていた。匂いはあちらこちらにぐるぐると嗅ぎ取れて、はっきり迷ったんだと教えていた。家とは反対方向の、遠い住宅街。あの人はあまり外に出ないから、方向違いをしてしまったんだろう。全く仕方のない人だ。用事があるならオレに言ってくれればいいのに。
日は傾き、街が夕焼けに赤く染まっていく。
随分前にこんな鮮やかな夕焼けを、あの人と一緒に見たことを覚えている。
家路に急ぐ人たちの忙しさに急かされるようにして、迷子のあの人を跡を追った。



その人の匂いは、見慣れたでっかい家よりもっとでっかい家の中に続いていた。家の周りを高い柵が囲む、金持ちの屋敷。尻込みしながら柵越しに覗けば、大きな窓からその人の姿を見つけた。たくさんの人たちと豪華な食事をしている姿を…。
昔、故郷を飛び出してくる前は、もちろん豪華な食事なんかじゃなかったけど、オレもあんな風にたくさんの家族と賑やかに夕飯を食べた。それからずっと、オレは野良犬のような生活を繰り返した。痩せすぎた体はあの人のとこでやっと元に戻ったけど、汚れを落としたって、字を覚えたって、野良犬は野良犬のままなんだ。
――たった1回、あの人がオレに黙って他人の家で飯を食っただけなのに、どうしてこんなにもだめな気がするんだろう。呼び鈴を押して、あの人を呼んでもらえば普通に会えるのに…。でも、会ったらオレは何て言えばいい?
家にいなかったから追いかけて来ちまいましたとかってか。
明るい光の下にいるあの人と、日が落ちた薄闇の中にいるオレの間を隔てているのはただの鉄柵だけじゃない。それはずっと分かっていたはずだろう?
オレはあの家であの人が帰ってくるのをただ待ってれば良かったのに。
あの人はちゃんと帰ってくるし、夜遅くには必ず帰ってくる。
あの人の家はここじゃないんだから。

あの人の気配から一歩一歩遠ざかって帰る道のりは途方もなく長く感じた。



あの人は帰ってこなかった。その日も。次の日も。また次の日も。
それでもオレはでっかい家に1人、今日は帰って来ると信じて待った。
そして、静かすぎる夜中に突然、あの人の知り合いを名乗る奴らがやって来た。そいつらからは確かにあの人の匂いがして、オレは、あの人に頼まれたと言ったそいつらがあの人の書斎から何もかも持って行くのを、ただ見てることしかできなかった。
あの人はここにもう二度と帰って来ることはないのかもしれない。
ここで待っていても、もう無駄なのかもしれない。
オレはあの人の新しくできた家族に入れてもらえなかったのかもしれない。

それでも、帰ってきてくれると藁にもすがる思いでオレは待った。
あの人が出て行けとも何も言わないかったのをいいことに、この家で…。
1人だと掃除も洗濯も炊事すら面倒だったけど、あの人がいつ戻ってきてもいいように掃除を欠かさなかった。貯金も少しずつだけど溜まっていった。
それでも、どうしようもなく寂しくなると、あの人のいる家まで行った。
姿が見えなくても、近くに来さえすれば気配を感じることができるから。

気が付けば、本屋に夢中になって読んだ本の最新刊が平積みになっていた。
でも、もう、そんなことどうでもよかった。


V-04

――うっすらと積もった埃を吹き飛ばすほど大きな音が廃墟のような家に響いた。電話が鳴ったのだ。机と本棚だけになってしまったあの人の書斎の机の下に、犬型で丸まっていたオレは毛を驚きに逆立てて走り出していた。オレを呼ぶあの人の声を聞いた気がして。

毎日何回も掛かってきた電話は、あの人がこの家からいなくなってから鳴らなくなった。あの人に掛かってくる電話で、あの人はこの家にいないんだから当たり前だ。でも、それでも、電話が鳴ったってことはこの家にオレがいることを知ってるってことであって、それを知っているのはあの人だけで…。でも、オレはうるさい電話の前で小さな期待と大きな不安に立ちすくんでしまった。

受話器に伸ばした手が情けないほど震えていた。
あの人がオレを心配して電話を掛けてくれたのかもしれないと思いながら、一方で受話器を取らなければ、出て行けと言うあの人の声を聞くこともないと思っていた。
帰ってきてくれるかもしれない。またこの家に2人で暮らせるようになるかもしれない。
そんな未だに縋り付いてる微かな希望さえ、この電話を取ってしまえば失ってしまうかもしれないのに…。
突然、電話がオレの弱さを嘲笑うように途絶え、唯一の希望を見失った絶望的な気持ちになった瞬間、また鳴り出した。
受話器を取り上げなければ、自分はもうここにいないと言っているも同然で。
受話器を取り上げなければ、ずっとこのままで、あの人は帰って来なくて。
怖かった。怖かったけど、このままでもいられないから、挫けそうになる自分を叱咤して漸くそれを握った。

震える手で取り上げた受話器からはあの人とは似ても似つかない声がした。でもそれは1度聞いたことのある声で、あの人をロイと呼ぶ…。
何でオレしかいないこんなとこに電話なんかかけてくるんだろう。それとも、あの人はオレと話をするのさえ嫌になったのか。出て行け、たったそれだけでも声すら聞かせてくれないのか。

引きつる喉はわなわなと震えるだけで、言葉を成さない。なのに、その男は無言のままのオレに話しかけてきた。
「―――お前、ハボックか? ジャン・ハボック?」
「――…………」
「ハボックだな。ロイと一緒に住んでる奴だろう?そこにロイはいるか?帰ってるか?帰ってきてんなら、今すぐ電話口まで引っ張って来い。風呂だとか、トイレとか関係ねーから。とにかく今すぐフルチンでも構わねーから連れて来い。―――オイ、オレの言ってること分かるか?それともお前本当に犬なのか、って、オレはなに犬に向かって犬かなんて聞いてんだよ!オイ!」
「―――え……?」
何でオレを知ってる?
だが、湧き上がる警戒心は勢いを失い、意識は男の言葉を必死に辿っていた。耳を受話器に押し付け、言葉以外のものすら聞きのがさないように神経を澄ます。
「いないのか?いないんだな?いつからだ?」
「――は?」
何でそんなことオレに聞くんだ。
いないって当たり前だ。あの人は別なとこにいるんだから。
オレが知りたいことはそんなことじゃない。
「ロイはどこだっ!そんなことすらわからねえのかっ!ずっと一緒にいたんだろう!お前っ!」
「―――何で、…」
アンタがそれを聞くんだ?
もどかしさに苛立ちすら感じ始めていたところに、突然の恫喝。オレは混乱していた。
強烈な舌打ちを受話器の向こうに聞いた。

何が何だか全く分からないオレに、男はいらだちながらも事の経過を話してくれた。
突然掛かってきた電話は旅行に行くとだけ言って切れ、それから連日掛かって来る電話は、一言二言今日はどこそこにいると言っては唐突に切れる。そして、再度出版社に持ち込まれたある本の原稿…。

「――旅行?」
この家からたった一時間も歩けば着くような場所に?
「漸くしゃべったな、わんころ。ロイは旅行になんか行ってないんだろう?」
「――近所に旅行なら行ってますよ。あの人はでっかいお屋敷に住処を変えたから。書斎のもの何もかも持ってって…」
オレには何一つ連絡なんてしてくれないで、あの人は出て行った…。
「近所って、もしかして……」
男はそこで言葉を詰まらせた。



「―――ハボック、そこで待ってたって、ロイは帰ってこないぞ。帰ってこれないんだ。帰りたくともな。オレはそこに行く。ロイが待ってる」
長い沈黙の後、男は1人納得したように言って電話を切ってしまった。
よく分からない。あの男が言ったことはよく分からない。でも、よく分からないなりに分かったことがある。

――あの人が待ってると言うなら、オレは千夜すら駆ける。
玄関を開け、闇の中に飛び込んだ。


V-05

そもそも彼は藁をも掴む気持ちだったのだろう。それとも、私の隠しようもないほどの好奇心を哀れんでくれたのか。

いつものように図書館で出会った彼らはいつもとは異なりひどく暗く深刻な表情をしていた。だが、理由を尋ねれば、訳を話してくれた。自分に言い聞かせるように、長く重い沈黙を経てから。
―――難治性の心臓病の妹のために、今すぐ大金が必要なのです。助かる手立ては心臓移植しかありません。しかし、家にある何もかもを売り払ったところで、妹の入院代にもならなくて…。
絶望に彩られた表情。しかし、私は瞬時に行幸だと思った。分厚い曇天の微かな切れ目から差し込む一筋の光明の如く。何とかすることができるかもしれないと思った。なんとかなるという確信があった。いくら現金を積んだとしても得られないほどの彼の才能を知っていた。興奮を抑えきれずに、雲を掴むような話に聞こえるかもしれないが、と自分の考えを話した。自分が彼のために役立てることが嬉しかった。



「現金が必要なんです。現金で、大金が、今すぐに必要なんです」
自分の衣食住を支えてくれる、小さな出版社へ彼の書いた原稿を持ち込んだ。私は自分の判断が間違っていると思わなかった。ありきたりの、どこにでもいる人間の一人である私だからこそ分かることがある。これは万人に受け入れられる本になる。いや、世界はこれを、彼を、待ち望んでいた。その彼をこの私が世界に紹介するのだ。何て光栄なことだろう。
彼が書き溜めた膨大な量の物語のほとんどを読んでいた私が、一際長く未完のものを、その中から選び、借り受けてきた。絵本にするには長すぎるが、児童文学書としては丁度良く、私はこれに一番胸打たれていた。
突然な申し出をした私を編集長は怪訝そうに見たが、ついぞそんなことを言ったことがない私の真剣さを汲み、何も言わずに分厚い原稿に手を伸ばしてくれた。
編集長の無関心な態度は数ページを捲る内に一変し、一息に読み終わるやいなや少しも興奮を隠さず、デスク脇に無造作に置かれていたコートを掴んだ。
「君の言う、大金はこの出版社では用意できない。大手出版社に持ち込もうっ!」
私が想像していた以上に、話はスムーズに進んだ。スムーズに進みすぎた。気が付いたときは、あまりに多くの人が関与していた。そして、彼が必要とした金額が全額用意されていた。

これを書いたのは誰だ?
そう1回でも問われれば、私は間違いなく彼の名を言っただろう。彼の名を語ることができる自分に誇りを感じながら。だが、その問いは発せられることはなかった。その時は訪れなかった。
想像以上に大きくなり始めた事態をただ見ていることしかできなかった私は、それを誰が書いたのか、自ら言い出すことができなかった。そして、気が付けば、二度と彼の名を口にすることができなくなっていた。


「イレギュラーなことをした。私がというより、多くの人たちや会社、出版社が…」
いつもの図書館の、古い机の上に現金を置き、そう言った。彼は真剣な表情で一言一句私の言葉を聞き逃すまいとして、耳を傾ける。これほどまでに私の人生の中で私が意味を成したことがあっただろうか。
「だが、これは間違いなく君のものだ」
信じられない…。その呆然とした呟きに、分かってしまった。彼は私のことを全く当てにしていなかったのだ。私は彼の信頼に値する人間ではないことはよく理解していたつもりだったが、それを目の当たりにして、ひどくがっかりした。彼のことを、彼らのことを友と思っていたのは自分だけだったのだ。裏切られた思いだった。
「ただ。―――今後、君と私の仲を口外しないで欲しい。君に迷惑が掛からないように…」
彼は幾度も礼を言って、頭を下げた。

私は何も言えなかった。彼の家族の乗った飛行機が着陸に失敗し、炎上して生存者ゼロとニューズで見ても、彼に連絡できなかった。そして、私の名前で彼の書いた本が出版された。私の世界は一夜にして大きく変わった。



あの日から、10年が経った。たった一度の過ち。それはあまりに大きく、私を苛む。軋みを上げる心を抱える日々。果てしない泥の海を一歩一歩這いずりながら、どこに向かっているのかすら分からず手足を闇雲に動かす日々。―――もういいじゃないか。もうあれは私が書いたことにしてしまおう。嘗ての日々はすべて私の空想の中のことで、あれは本当は私が書いたものなのだ。あの少年は私自身だったのだ。
漸く、漸く一筋の光明を見たと思った。全てに終止符を打とう。この悔恨の日々から開放されよう。10年経ってやっと、そう思えた。
繰り返し繰り返し、読み返し、あの話の終わりを書く。あの日以来、たくさんの手紙を貰った。続きを早く書いて欲しいと熱望する手紙に、何回も読んだと感動を伝える手紙。セリフを全部覚えてしまったという手紙もあった。しかし、どれだけ繰り返し読もうが、私には叶うまい。私こそがこれを誰よりも多く、気が狂わんばかりに繰り返し読み返している。もう開放されたかった。もう多くのことから開放されたかった。だから、私の全てを賭して続きを書いたのに…。

晩秋の中、突然、彼が訪れた。その手に一束の原稿を持って。それは私があの本の続きを出版社に持ち込んで、音沙汰なく数ヶ月経ってからのことだった。


V-06

それを書き上げたのは街路樹が色付いてからだった。今年の夏は暑さが長引き、秋の気配は例年よりも幾分遅く到来していた。
ハボックとの散歩で歩き慣れた通りは赤く色付く木々が多く連なっていたが、歩を進めていく内に足元が黄色に色を変えていく。今まで足を向けたことのないこの通りは街路樹にマロニエが植えられており、時折はらはらと落ちてくる葉は全て黄色だった。木々を見上げれば、秋晴れの青空を背景に、掌よりも大きな葉の隙間からたくさんの丸いマロニエの実がぶら下がっている。それはまるでクリスマスツリーのオーナメントのようだった。
今年のクリスマスは大きなツリーを買って、たくさんのオーナメントで飾ろう。そのツリーの前には、ハボックの作ったたくさんの料理とお菓子を並べ、グレイシアやエリシアを招待するのだ。生まれ変わったわが家に。そして、2人にいよいよハボックを紹介しよう。彼女たちはきっと私同様に声もなく驚いてから、ハボックと共に暮らす私を存分に羨むはずだ。ふふふふふ。―――節約が大好きなハボックといえどもクリスマスぐらいは大目に見てくれるだろう…。
そんなことを考えながら歩けば、どうにも目的地とは違う方向に向かってしまった。いつか、ヒューズに番地を聞いただけの、今まで足を向けたこともない目的地。

予定よりも時間がかかって辿りついたそこは、高く無骨な鉄柵がぐるりと囲む、広い庭のある大きな家だった。庭には針葉樹が植えられ、街中とは異なり暗緑色を成す。しばし鉄柵沿いに歩いて辿りついた門扉のインターホンを鳴らし、名を名乗れば家人によってつれなく門前払いを受けた。――主はお約束のない方とお会いになることはありません、と。それでも、忍耐強くインターホンを鳴らし続け、この家の主人の古い知人で彼に名を伝えて欲しいとしつこく頼み込んで、漸く渋い顔の家人によって門扉が開けられた。
だんなさまは人が良すぎる…。
そうすれ違う家人たちに呟かれ、ゆすりやたかりに来た人間のように見られながらも、華美な一室に通された。足首まで埋まりそうな毛長の絨毯に、金糸の刺繍が施された壁紙、細工の細やかなアンティーク調の家具類…。なんとも居心地が悪くて、原稿を置いてさっさと帰ろうと思った矢先に、男が息を切らして扉を開けた。
一瞬、その入ってきた男が、自分の待ち人かどうか分からなかった。男は記憶の中にあるよりも随分老いて見えた。それほど長く、男の望んだ通り、男と関係を絶っていたことを知った。そう言えばこの男とは図書館以外で会ったことはなかったなと、ふと思った。背景が無数の本とは違ったから、一瞬男が分からなかったのかもしれない。
結局無用になってしまったが、この男はあの時必要とした現金を全額用意してみせた。しかも短期間で。もしあの飛行機が炎上していなかったら、妹は男が用意した金で、心臓移植を受けて一命を取り留めていただろう。妹の命に比べれば、男のしたことなど些細なことに過ぎないのだ。あれから長い月日が経った今、男を糾弾する気は失せていた。だが、礼を言う気にもなれず、私はかつてのように男に原稿を差し出した。

男はその顔を哀れなほど真っ青にし、次いで真っ赤に変え、再び青くなり、大きく震える手で私が差し出した原稿を受け取ると、すぐさまその場で読み始めた。
これでもうこの件は終わりだ。これでもう遺恨を残さない。男の手元には多額の金が入り、ハボックがこの本の新刊を手に入れる。私はこれからのことを考えて、節約を心がけて生きて行く。
夢中で読み進めていく男の姿に何も言わず退出しようとすると、家人に見咎められ、男が読み終わるまでその場にいることを余儀なくされた。

ゆっくりと一文字一文字噛みしめるようにして読み進めていく男。最後の一枚を読み終えた瞬間、男は勢い良く私を振り返り、握手を求める。面白かった! 率直な感想と共に。
その後、男の冷めやまぬ興奮のまま是非にと、夕食の席に誘われた。その熱意と勢いは否と言うことを許さず、私は頷くことしかできなかった。しかし、男の妻や子ども、数多くの家人がいる前で、何を話して良いのか分からない私は、私同様に何を話して良いのか分からずにいる男に、勧められるまま、とにかく杯を重ねていくだけだった。気まずい場の空気に止めるものはいなかった。そして、私は次第に上体を真っ直ぐに保っていられなくなるのを感じていたが、その時はもうどうにもすることもできなかった。



家人たちの絹を裂くような悲鳴で目が覚めた。しかし、そんなことよりも寝具の肌触りがいつもと違うことの方が重大に思えて、暗闇の中、目を凝らした。すると、寝具ばかりか天井もまた見慣れたものと異なっていてひどく戸惑った。しかも、隣りにあのふさふさできらきらのハボックの姿がない。
もしかしてもう家を出てしまったのだろうか。朝に会えないとなると一日を通してハボックと話す機会は激減してしまうのに。なんてことだろう。せめて、行ってらっしゃいの一言だけでも言いたかった。まだ家を出て間もないと期待して、慌ててベッドから起き上がり、立ち上がろうとすると、足がもつれて無様にも床に転んだ。床がすごい速さで回り始める。いや、床だけでなく、壁も、思考すら…。私は遠心力で飛ばされないように、身体に力を入れ、小さく丸まった。
ここはあの男の家だった。昨夜、飲みすぎ酔いつぶれて、客間を借りることになったことを思い出した。扉一枚隔てた騒ぎは益々大きくなっていったが、酔いもあって他人事以外の何ものでもないように感じられた。
自分が明らかに酔っ払っていることを自覚すると、やがて全身に感じていた遠心力がみるみる内に小さくなっていき、這い蹲いながらも、何とかベッドに這い上がることに成功した。ベッドの中はまだ温もりが残っていて、ボーっとしていると、自然に目蓋が重くなっていく。そんな夢現の中、カチリと小さな金属音が聞こえたような気がした。だが、それが何であるか分かる前に意識は深く沈んでいった。

次の目覚めは頭を強引に絞られるような痛みでもたらされた。明らかに自分の呼気がアルコール臭く、二日酔いだった。部屋は暗く、まだ朝は遠い。―――だが、ウチは朝が早い。今の時期はもう薄暗い頃から起き出す。私はしばらくしたら二度寝を決め込んでしまうが、ハボックはそのことに不平を言うことはなかった。何故なら、ハボックは私が二度寝をしていることを知らないのだから。
ハボック。さすがに今回の無断外泊は奴も何かしら口うるさく言うだろう。情けないとか、みっともないとか、信じられないとか…。嫌な感じだ。
今から急いで帰れば、ハボックが起き出す前に帰れるだろう。そうしたら、適当なことを言って、奴を言い包めてしまえば良い…。ゆっくりとベッドから起き上がり、床に足をつけるとひやりとした冷気が立ち上がり、ベッドから出る気概を挫こうとしたが、なけなしの根性を奮い立たせて腰を浮かせた。
――そう言えば、夜間に一度、目を覚ましたか。その時はあまりに酔っていて、立つこともできず床に這いつくばってしまった。久しぶりの深酒。荒んでいた時期はもっと浴びるように飲んでも、こんな風に腰砕けにはなりはしなかったのに。
「―――ふふふ…」
笑うと容赦なくその振動が頭に響いてより一層頭痛を酷くした。明らかに飲みすぎで、頭の回転が鈍かった。
そう言えば、ハボックとは酒を飲んだことがなかった。奴は、アルコールは贅沢品だからと言って、買ってくるようなことはしない。今度、無理やり飲ませて、どんな風になるのか調べなくてはなるまい。自分の考えがあまりに素晴らしく思えた。そうすると、もういても立ってもいられないほど早く帰りたくなった。寒さも暗さも、ベッドの温もりすら私を足止めするには、些か魅力に欠いた。

―――私を呼ぶ声を聞いていた。いや、それはまだ残る酔いのせいに思えて、気に留めていなかった。しかし、それはどれほど小さくとも明らかに私の名を呼んでいた。酔いのせいではなかった。
「マスタングさん…」
井戸の底から呼ばれたかのように暗く湿った響きを帯びた声。室温が急激に下がったように感じて、思わず二の腕を擦った。なんてことはない、暗闇の中、ドアの前に女性が立っていただけだった。その手にトレーを持って。昨夜夕食の席で紹介された、男の隣りに座っていた女性。男の妻だった。
「朝食を…」
目が合うと、夫人はベッドサイドに立っていた私に音もなく近づき、トレーを持ったまま、じっとベッドを見つめた。しかし、手を差し出してそのトレーを受け取ろうとしても、それを渡すことはなく、ただ夫人はベッドを見つめるばかりだった。部屋にはテーブルは置かれていなかった。ベッドで食べることを促しているのだろう。夫人の雰囲気に圧されるようにして、腰がベッドに落ち込んだ。そして、まだ温もりの残るベッドに戻ると、膝の上にトレーを置かれた。
「どうぞ…」
ちらりと夫人を見上げると、彼女はじっと私の手元を注視していた。その無言の圧力にスプーンを手に取る。

トーストもスープも全く冷え切っていた。この人は一体いつからこの部屋にいたのだろうか。全く気が付かなかった。暗闇の中でこの家の夫人に見下ろされて冷え切った朝食を取る奇妙さに、夢中で腕を動かした。一向に部屋は暗いまま、薄闇にすらならない。頭痛がひどかった。


V-07

「―――何故、あなたはここへ来たの?」
冷えたカフェオレを全部飲み干し、体の芯から冷えると、夫人が話す意思をもって話しはじめた。その声は変わらず暗く響いたが、消え入るような小ささではなくなっていた。
夫人はこの体たらくな私の無礼を責めているわけではないようだったが、その言葉には棘が含まれていた。もしかして、この家はウチよりもずっと朝食の時間が早く、その時間になっても部屋を出て来なかったことに憤りを感じているのか。それとも、やはり勧められるままに、酔いつぶれてしまうほど飲んだことに苛立ちを感じているのか。私は口を噤んだまま、夫人を見上げた。その質問の真意を探るために。

「何故? 何故、あなたはそんなにも無神経なの? どうしてそこまで自分の才能に無頓着でいられるの…」
ヒステリックな言葉ではなかった。だが、感情を抑えた分だけ、危うい均衡を感じた。何か。それをはっきりさせるにはひどくなっていくばかりの頭痛が邪魔をした。
「――無神経?」
「あなたがもっと…。もっと、自分の価値を知っていてくれたのなら、こんなことにはならなかったのに」
暗闇の中でも、その瞳から涙が零れたのが分かった。だが、彼女の言葉は淀みない。その涙はいらだちと怒りの結晶なのだろう。
「人間なら誰しも間違うことはあるわ。でも、何故、あなたはそれを許してしまったの? 何故、彼を正してくれなかったの?」
その言葉で彼女が何を言っているのか漸く分かった。夫人は男がしたこと知っている。
「彼はただ一度の過ちのためにずっと、ずっと…。10年も苦悩の中にいるのよ。一夜として心安らかに眠れた夜はないわ。悩み続けてきたのよ。もういいでしょう? あれはもうあの人の本なのよ。それでいいでしょう?」
10年。妹が逝ってしまってから、もう10年…。あれから男はずっと後悔をしていたと言うのか。あの時。そう、あの図書館で妹のことを語ったとき、笑い出さんばかりに喜んで、私に任せてくれないか、きっと大丈夫だと、そう言った男。だが、男はそれでもあの時必要な現金を用意して見せた。
「あれは、彼の本だ…」
あれから、私が書いたものは全て、あまりに彼の作風に似すぎているという理由で世に出るきっかけを失った。あれは、もう彼の本としか言えない。
「どうして? どうしてあなたはそんなに簡単に言ってしまえるの? どうしてそこまで自分の才能を蔑ろにできるの…」
人の才能なんか羨んでどうなる。自分の能力すら御することができずにいる私たちが。
「あなたのように才能に満ち溢れた人は、それがどれほど稀有で貴重なものか、省みることがないのね。それが当たり前のように、呼吸をするかのように、そこに意識することなくあるのだもの。その貴重さに気が付くのはいつだって、才能のない人間なんだわ!」
勝手な話だ。しかし、私が彼らを理解しようとしなかったように、彼らもまた私を理解しようとしていない。それだけの話なのかもしれない。しかし、私には、夫人の言葉が、10年、加害者でいることにもう耐え切れなくなったという訴えにしか聞こえなかった。

「――才能を蔑ろにしているというのならば、それは彼も同じなのではないか? 私の書いたものを自分の名で発表したことで、最も蔑ろにされたものは何か? それは今まで彼が書いてきたものであり、彼がこれから書いていくものではないのか?」
「あなたと一緒にしないでっ!」
彼女の甲高い声が鈍く二日酔いの頭に響いた。
「あなたは、私が自分の才能を大切にしていれば、彼が盗作することはなかったと言う。ならば、私はこう言おう。彼がもっと自分の才能を大切にしていたら、私の書いたものを自分の名で発表しようとなんて思わなかったのではないか? 自分の才能を軽視しているのは私だけではない。彼もまたそうだ。そして、あなたもまた、彼の才能を軽視している。だからこそ、私に向かって、彼が盗作した責任を私のせいだと言えるのではないか?」
「………………………」
暗闇の中でも、夫人が体全体を震わせているのが分かった。
不意に、彼女を見上げていることが辛くて、自分の手元に視線が落ち込んだ。眠い。それなのに、手先がひどく冷たい。不思議に思っている内に、視界がぶれはじめた。

「――あの人、ピストル自殺を図ろうとしたわ。あなたのせいで。あなたが無神経にあの人の前に現れたから。あなたは初めからいなかったのよ。あなたはあの人の空想の中の少年に過ぎないの。もうそれでいいでしょう?」
あまりに眠くて、口を開くことはおろか、目を開けていることもままならない。上体があまりに重くて支えていられずに傾いた。目を閉じているのか開いているのか良く分からない曖昧な視覚の中で、この部屋に窓がないことを知った。今、何時か。それすら聞けずに、意識に紗がかかる。
夫人は私がもう動くこともままならないことを見届けてから、部屋を出て行った。カチリと小さな音を拾う。外から部屋に鍵を掛けた音だった。その小さな金属音は前に聞いた。家人の金切り声を聞いた後に。あの悲鳴は男が自殺しようとした場面を発見した家人が上げたものだったのか。



いつも夢現の中にいた。
思考はその存在すら定かではなく遠い。誰かに言われるままに動いた。
今が何時なのか。今日は何日なのか。私の曖昧で漠然とした意識はかろうじてそこにのみ収束していた。きっと心配している。でも、誰が心配しているのか、思い出せなかった。


V-08

才能は容赦ない。何故、私はこの続きを自ら書けると思ってしまったのだろう。

彼は最後に会ったときとあまり変わっていなかった。それが恐ろしかった。あの時の姿のまま、私を罵るでなく、全てを見通したように透明な黒い瞳でじっと私を見つめて、同じように原稿を差し出した彼が。
手が震えた。いや、身体が震えた。喉の奥が引き攣れて詰まった。彼は時間を巻き戻し、私にもう一度やり直すチャンスを与えようとしているのかもしれない。あの原稿を読まなければ、この原稿を受け取らなければ、こんなにも悩むことも苛まれることもないことはわかっていたのに。しかし、私は直感していた。彼が差し出したそれが、私が誰よりも希求したあの物語の続きであることを。それがあると知って読まないでいるなんてできなかった。受け取らないでいるなんてできなかった。
そして、あまりにあっさりと手渡される原稿の束。一枚目に書かれた文字にすら浮き足立って、原稿に集中し出す意識。この10年で何も学べなかった私…。
彼はどこからか知ったのかもしれない。私があの話に続きを書いて出版社に持ち込んだことを。あたかも自分が書いたかのように、続きを書いたことを。しかし、今はそんなことはどうでもよかった。彼の書いた物語に心が躍り始めていた。



彼にはすまないことをした。私たちには話し合える共通の話題などありもしないのに、夕食に誘い、全く弾まない話題の気まずさに酒を勧めて、酔い潰してしまった。気が付けば、彼はテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。でも、丁度良かった。私はもう彼の顔を見たくはなかった。彼の才能を、自分の才能のなさをもう知りたくなかった。
それを二度読むことはなかった。それを二度読む勇気はなかった。それを自分の視界から消してしまいたくて、出版社の宛名が書かれた封筒に入れて封をした。明日になれば家人がこれを出版社へ届けるだろう。原稿以外は何も入れられなかった。私にはこれを書いたのが誰であるのか、10年経って尚、書くことができなかった。
死はいつも身近にあった。それは救いであり、安らぎを意味した。もう悩むことはない。誰かに非難されることを恐れることもない。それだけが私のしたことを許す。書斎で一人、私に安楽を約束するものが入った引き出しに手を掛けた。もう疲れた。この先もまだこの罪を背負って生きていかなければならぬことに。もう…。―――だから、今、この時に引き金を引いたのに、長年頼みにしてきた拳銃まで私を許さないとばかりに、目詰まりを起こした。何回引き金を引いても、そこから私に救いが訪れることはなかった。

絶望の中でドアが開いた。ゆっくりと。妻がいつもの薬をもって来てくれる時間だった。彼女は私の手の中にある銃を見て、悲鳴を上げた。甲高い悲鳴。均衡を失い床へ落ちる手の上のトレーとグラス、私の才能のように砕け散るグラス…。まるで映画を見ているような気持ちでそれを見た。
彼女は知っていた。私がした過ちを。死にも見捨てられて、もう救いすら見失った私は彼女が家人を呼ぶ悲鳴にも似た声をただ聞いていた。



穏やかな日差しが差し込む、白いリネン類で統一されたベッドに横たわり、まどろみの中で彼女がずっと手を握ってくれる。それがもう何も残っていない私の形を留めた。小鳥の鳴き声すら聞こえない、静かな朝だった。
「―――これはきっと代価なのだろう。あの時、些細な勇気すら奮い立たせることのできなかった私に対する…」
「あなたはその代価はもう十分支払ったわ」
「………………………」
「あなたは疲れているのよ。急に彼に会って。あなたはとても疲れているのよ」
「――そうだろうか…」
「今日はもう寝ましょう。大丈夫よ。大丈夫。私がいるわ、あなた。大丈夫よ」
子守唄のようだった。銃すら私を見限ったのに、お前はまだ私を許してくれるのか…? 強く、確かに握られた手の温もりだけが今の私には全てだった。

静かな日々だった。彼の本が私の名前で出版され、世間的にはとても賑やかになっていたが、私たちの周りは驚くほど静寂に満ちていた。

いつもベッドサイドに置いていた薬がなくなっていた。常用していた睡眠薬…。いつからその瓶を見ていなかったのか覚えてはいない気がした。
「――薬を、どうした?」
どうしてそんなことが気になるのか。震えそうな声を抑えて訪ねれば、妻は当たり前のように言った。
「10年も、あなたは一夜にして安眠できた日はなかった。飲ませたわ。彼に。もう、ずっと彼は寝ていたらいいのよ」
「彼はまだこの家にいるのか…?」
「ええ」
「―――、…………………」
続きを飲み込んだ。それは言ってはいけない気がした。良く見れば、彼女の顔色は土気色をしていた。まるで死人のように…。
2007/09/01〜2008/02/13