LOVE BOMBS
W-01

ひやりとした。それが冷たさだと気が付く前に、鋭い痛みが走った。―――痛み。それが思考も体の境目も曖昧だった私の意識を咎めた。それが朦朧とした意識の中で私を正気に戻した。

無数の針が体の中を穿つ。体の中が焼け爛れる。
それは口に入れられたものからもたらされていた。首を振ってそれを吐き出そうとしても、頭はぴくりとも動かない。いくつかの影が私を覗き込み、いくつかの影が私を押さえつけていた。
喉を焼く熱い液体を嚥下する。それはむせても口から溢れても続いた。喉だけでなく食道も胃も肺も体中が熱く、鋭く痛んだ。しかし、痛みが強ければ強いほど、長ければ長いほど、意識は鮮明になっていく。
今、何時だ? 今日は何日だ? 何故、私はこんなことに拘っている? 応える声はなかった。私がちゃんと声に出して発していなかったからなのかもしれない。
気の遠くなるほどの時間が経過し、いつしか私を覆う影はなくなっていた。

部屋に一条の明かりが差し込んでいた。それはドアが開いているからだ。重く、なかなか言うことを聞かない四肢を引きずってベッドから這い上がった。息をする度に体中が軋しみ、一呼吸毎に覚悟を要する。途方もない時間がかかって壁伝いに部屋を出た。そこは非常に明るく、全てのものの境界が混ざり合い、網膜を白く焼いた。あまりの眩しさに目を開けていられない。頭痛まで覚え、身体が傾ぐ。その度に何かに引きずられるようにして、背を押されるようにして、転がるようにして歩いた。

外は暗かった。夜だった。本物の。やっと目が開けられる。朧げな視界の中でも、そこだけに吸い寄せられるようにはっきりと分かった。鉄柵の門扉が開いている。帰ろう。帰らないと。心配している。心配させてしまった…。
冷たい外気が気持ちよかった。熱を持ち、じくじくとも痛みはじめた体の中を冷やしたくて大きく口を開いた。耳鳴りがひどかった。視界はぼやけ、身体中が軋み上げる。身体は相変わらず信じられないほど重く、一歩足を前へ踏み出すには何かに掴まってないと膝が崩れた。
これならなめくじのように這った方が速いのではないか。硬い地面に膝や手をぶつける度にそう思った。それでも、不思議にここで歩くのを止めようという気持ちにはならなくて、擦れた自分の笑い声を聞いた気がした。

顔を伝う幾筋もの滴を拭うのはもう諦めた。切りがなかった。腕を持ち上げるのが辛かった。地面が少しだけ柔らかくなったように感じて、体の底から湧き上がった欲求に素直に、膝を折った。少しだけ痛みも衝撃も和らぐ。
「ああ、一息だけ…。ほんの、少し、だけ…、休憩、だ」
しかし、立っていても歩いていても座っていても、痛みはそう変わらない。ならば、一歩でも先に進みたい。そう思っても身体を起こそうにも、それは鉛のようにぴくりとも動かなかった。
「困っ、たな…」
誰かが、子どものいたずらのように、ここで休むことを許さないとばかりに、小さな礫を投げつけた。遠くにざーっと砂を零した音が響いていた。

犬がいた。黒い犬。ハボックを知っているかもしれない。そうだ。ハボックだ。私の、家族…。
「―――君、今日が、何日か、知って、い、るか…?」
もちろん、返事は返ってこない。それが普通なのだ。ふふふ。もう、笑いは声にならなかった。喉を静かに振るわせるだけ。この方向で合っているか。私たちの家に帰っているか、尋ねたかったのに。
「ハ、ボック…」
顔と言わず全身を打つ礫は、次第にその数と大きさを増し、私を苛んだ。音が大きくなっていく。それ以外の音をすべて奪うかのようだった。

痛みが霞んでいく。意識と共に。世界が、私が悪いと責めているような気がして悲しくなった。


W-02

別になんてことない、会社の金で旅行ができる程度の出張だった。誰が行ってもいいような。それはオレだけじゃなくて、会社の人間もみんなそう思っていた。だからこそ、出張先のホテルに伝えられていたことづけは存外にいい加減だった。―――マスタングさんが旅行に行ってるそうですよ。その翌日からは、どこそこにいるそうです。そんな一言のことづけ。
疑問はなかった。そもそも、ロイは俺に何も言わないで家を空けたら後でごちゃごちゃ煩いからせめて一言言っておこうと思っていると思っていたし、詳しく言葉を重ねないのは実にロイのいつもの俺に対する態度だった。
喋って家事をする実に珍しい犬を飼って、旅行にでも行こうって気になったんだな。じゃあ、しばらくはちょっかい出さないでやろう。
そんな愛に溢れる気持ちのまま帰ってきて、会社にあの本の続きが新たに届けられたことを聞いた。だが、それは改稿ではなく、全く新しいものだったという。そして、ロイからの電話の詳細を知った。



大通りでタクシーを降り、そこからは走った。天気予報は終日晴れだと告げていたのに雨がぱらぱらと落ちてきて、眼鏡を濡らし視界を遮った。天気予報なんか素直に信じた自分に舌打ちを零す。しかし、傘を差しながら走るのも滑稽に思えて、これでよかったのだと思い直した。

その家は以前から知っていた。今の出版社に入って、まず真っ先にしたことはあの男の住処を調べることだった。
家を広い庭ごと覆い隠すようにうっそうと針葉樹をたくさん植え、更にその周囲を高い鉄柵が囲む。幾度見ても、まるで人の目から隠れるように作った家だという印象が拭えなかった。事実そうなのだろう。男は自分のしたことを世間から隠してのうのうと生きている。
木々の間から、屋敷に灯るわずかな明かりが窺えた。深夜といえどもまだ寝静まるには早い時間だ。静か過ぎる。門扉の外灯は灯されていなかった。一定の間隔に並ぶ街灯の明かりだけが申し訳程度に辺りを照らしていた。

人影があった。開かれた門扉の前、鉄柵を握り締めて立ち尽くす背の高い、この寒空の下でジーパンに半そでのTシャツ姿の青年。息を詰め、じっと目を凝らすように家の中を見ていた。驚きはしなかった。奴がロイの飼ったという犬だろう。もちろん、ロイ自慢のふさふさできらきらな尻尾なんかどこにもありはしない、ただの人間だ。俺からの電話の後、すぐさま家を飛び出したのだろう。
「ジャン・ハボックか?」
奴は頷くことも振り返ることもなく、あの人がいないとだけ呆然と呟いた。
「あの人はここから出て行った…」
「―――何で分かる?」
まるで見ていたかのように語られる言葉。
「あの人の気配がもうこの家にない。昨日ははっきりとあったのに」
その言質に、まず正気か疑った。
「雨が…。雨が、あの人の匂いを消す。アルコールのせいだ…」
「アルコール…? お前、夢でも見てるのか?」
ロイの犬が漸く振り返った。その目にはっきりと怒りと焦燥感が滲んでいた。暗闇の中でもそこに濁りは感じない。それでも、その言葉を鵜呑みにすることはできなかった。気配だの、匂いだの。こいつはロイがこの家に入るのを見ていたわけではないのだ。
「ロイがさっきこの家を出て行った? 根拠は何だ? お前はそれを見送りでもしたのか?」
鼻で笑ってやれば、一瞬開けた口を閉じて、悔しそうに歯噛みする。
「……………………」
俺に示せる根拠がないならそれまでだ。ロイが泣いて嫌だと言っても、あの家に二度と入れはしない。愛玩動物でしかないのなら、本物の犬の方がなんぼもマシだ。

開いたままの門扉を潜った。後ろ暗い人間の住む家だ。無防備に門扉が開かれていること自体、異常なことだ。確かに、ロイはもうここにはいないのかもしれない。
「根拠はあるっ…!」
背後からぶつけられた声は半ば擦れ、雨音に押されていた。
「――それは何だ」
振り返れば、奴は依然、門扉の前で拳を硬く握り締めていた。挑戦的に俺を睨みつけるその目が青白く光る。
「それを知ってどうする」
「ここにロイがいないと言うなら、じゃあ、どこにいるってんだ? どこを探せばいい?」
「………………」
「その手がかりはこの家の住人が知っている。俺は俺のもっている情報からここへ来た。根拠の示せないお前のもたらした情報など信頼に値しない。ならば、やはり、ここの住人に聞くしかない」
「オレは探せる…」
ならさっさと探せ。
「俺に根拠を示してみせろ」
ロイと一緒に暮らしておきながら、突然いなくなったロイに置いていかれたとばかりにメソメソしていた分際で。この俺に噛み付くってんなら受けて立ってやるぜ。
歯軋りをするように、低い唸り声が威嚇する。まるで犬そのものだった。だが、奴は自分の怒りを静めるように数度大きく息を吸って吐いた。――その瞬間、ゆらりとその輪郭が揺らめいて、周囲に小さな風を起こし、雨を巻き込んだ。それはたった一瞬で奴の姿を隠すほど勢いを増して、たった一瞬で消え去った。
「!!」
静寂の中、奴が立っていた場所には、犬に似ていたが犬と言うにはあまりに大き過ぎる生きものが一匹佇んでいた。座高だけで優に俺の背ほどもある。その毛は長く、夜目にも輝いて見えた。
「これが根拠だ。人間。いいか、オレは犬じゃない」
挙句に、人の言葉を話す。
犬ではないが、犬に似たもの。気配や匂いを探れると言う。ロイは犬を飼ったとうれしそうに言ったが、やっぱりそれはウソだったのだ。こんなの犬じゃねえ。

「―――ならば、迷子のロイを捜すのがお前の役目だ。俺はこの家でロイに何があったのか知る。それが俺の役目だ。分かるか、わんころ?」
俺の言うことに不承不承に頷いて、奴は飛ぶように暗闇の中へ消えて行った。
「確かに人間じゃねえわな…」
確かにあれならロイでも飼えるだろう。掃除もできて、料理もでき、働くことだってできる。しかも、リードにつながれて散歩もできるし…。


W-03

踵を返し、暗いアプローチを歩いて、大きな玄関扉を力任せに蹴り開けた。すぐさま家人が駆けてくる。それをひと睨みすると、全員が何も言わずに一斉に腰を引いた。それが間違いなく後ろ暗いことがある証明だった。家人の後ろに騒ぎが気になって隠れていられなかった男の顔を見つけた。
「―――久しぶりだな。10年ぶりか」
男は顔を蒼白にさせた。しかし、声を震わせながらも、家人を下がらせた。自分のしたことを、家人といえども、知られるわけにはいかないとばかりに。

通された一室は吐き気がするほど華美に満ちていた。絨毯もシャンデリアも家具も、壁に掛けられた絵画すら値の張るものだった。男はそんなもので飾られた一室へ俺を通すことに何の感慨も抱いていなかった。
「ロイはどこだ」
男は、縦とも横ともなく、ぎこちなく首を振る。自分は関与していないと言いたくて失敗していた。
10年前、この男は、ロイの妹の手術に必要な高額な費用をわずか一週間足らずで全て用意してみせた。だが、その金額はこの男が今日までに手に入れた額に比べれば微々たるものに過ぎない。あの時、男はこれから手に入れる莫大な財を知っていたから、あれほど簡単に金を差し出すことができたのか。この男は、ロイが書いたものを読んだ時から、それを自分のものとするチャンスを狙っていたのか。

「―――わ、私は、悪くない…。彼は、ど、どうして、あんなにもあっさりと自分の作品を手放す? どうして、私に罪を重ねさせようとする? どうして、彼は…」
「………………………」
男の第一声は自分のしたことに対する弁解だった。
男が自分の不安に注視していられるのは、すでにこの家にロイが不在で、ロイを軟禁していたことを責められる不安がないからか。男の妻は俺の言葉に警戒するようにじっと俺を見て、男に寄り添って立っていた。
出版社に送られてきた、あの本の新しい原稿は間違いなくロイが書いたものなのだろう。男の言葉は、ロイが書き上げた原稿をここに持ってきたと言っていた。
無言の拒絶に、男はその目に絶望を映して、俺の腕を掴む。
「私は悪くない。悪くないんだ…」
その縋り付いてくる思いごと、その手を振り払った。

「ロイをどうした。――大量に酒と睡眠薬を飲ませて、監禁か。それで、雨が降るこんな寒い夜にロイを家から連れ出したか」
言葉を変えて問えば、青さを超えて土気色になっていく顔。全身を強張らせ、不自然なほど大きく見開かれた目に、色濃い恐怖が映し出される。男の全てが俺の言葉を肯定していた。
「この人は10年、まともに眠れなかったのよ!」
「だが、こんなでっかい家で暮らしている。家人を山のように雇い。俺はあんたがあの本でいくら懐に入れたか、知ってるぜ?」
もし、ロイの書いたもので得た全てのものにあんたが手を付けなければ、まだあんたの言葉を聞く気になれたかもしれない。だが、あんたたちはそれをその苦しみの代償として当たり前のように使っている。
「私は悪くない。私は苦しんできた。私は死のうとまでした。私は悪くない。何度も何度も言おうとしたんだ。でも、言えなかったんだ。言えなかったんだよ! 言うことが許されなかったんだ! ―――私は、こんなに苦しんでいるのに、なのに。彼がっ…。私は悪くないんだ…。そうだろう…?」
「違う。あんたは言わなかったんだ。この生活を捨てることができなかったんだ。今ある賞賛を失いたくなかったんだ」
「あなたに何がわかるの!? この人は死のうとまでしたのよ! あの人がこの人を殺そうとしたも同然よ!」
50歳を前にして白さが目立つ髪。黒いくまを刻み、血走った目。口の端に泡を吹いて、繰り返す。自分は悪くないとばかり。

「酔ってこんな寒空の下で眠りでもしたら、命に関わる。俺にわかることはあんたたちがロイを殺そうとしていることだ。自分の罪が露見することを恐れて。しかも、周到なことに、奴の家から根こそぎ原稿類を持っていった。盗作の証拠を消し去ろうとした」
「―――なっ!」
息を詰め、身体を大きく震わせたのは男の妻だった。この女にとってもこの10年は長いものだったのか。
「奥さんに心当たりがありそうだぜ」
家人に聞けば明らかになる。軟禁も盗みも家人に知られずにできるものではない。いや、家人を使って行った可能性もある。

10年ぶりに対峙した男は、自分の罪が露見することを恐れて、恐れ、慄き、疲れ果てていた。すでに苦悩の中で思考も知性も手放している。狡猾さも矜持もここにはなかった。それは思い描いていた姿とはあまりにかけ離れていた。

「私は悪くない…。――でも、もう私の書いた本は誰も読んでくれない。出版社は見向きもしてくれない…。誰もが彼の才能を私に求めるんだ。私は、私は…」
思えば、この男とこれほど言葉を交わしたことがあったか。学生の頃、街の図書館で挨拶をする程度の関係だった。俺はこの男のことを人伝いに聞いたことから推測する程度にしか知らない。それはこの男にとっても同じだろう。いや、この男の方が何も知らないのかもしれない。
「――ロイの書いた他の膨大な話も、誰も読むことができない。『どこが同じと言うわけではないが、どこか…。しかし、間違いなくあの本と似ている。似すぎている。作風が似ているのか。これでは盗用と言われ兼ねない。面白いと思う。売れるとも思う。だが、すまない。これをうちで出版することはできない』。ロイに無断で持ち込んだいくつもの出版社でそう言われて、追い払われた。――誰もがロイの才能に見向きもしない」
「っ!」
男ははじめて知ったとばかりに息を飲み込んだ。その目に涙が浮かぶ。そんな…。それはもう声になっていなかった。崩れ落ち、蹲って、世も末もなく子どものように声を上げて泣きじゃくる…。それを見て、むしろ俺の方が泣きたくなってきた。

「あんたがしたことの意味を変えることはできても、あんたのしたことは変わらない。あんたがしたことが帳消しになることはない。そういうルールの中で生きているんだ。あんたがロイの書いたものを自分の名前で発表した。それが変わる未来なんて永遠に来ないんだよ」
「あの人が悪いのよ! あの人が悪いのよ!」
顔を覆う男に、髪をかき乱す女。
「―――あんたが本当に救われたいと思うなら、考えられうる最悪の事態を受け入れろ。それだけがあんたを救うんだろう…」
これ以上言う言葉を知らなかった。



男の家を出れば、まだ外の方が明るく思えた。雨はまだ止まない。むしろ、雨脚は強くなっていた。なのに、肌を切り裂くような、外気の冷たさが心地よかった。
思う存分、10年分、罵るつもりだった。ロイの分まで言いたいこともたくさんあった。なのに、それができなかったのは、彼らがあまりに惨めで哀れだったからか。
そこに悪意があったわけでも、出し抜こうとしたわけでもなかったのかもしれない。男も女も普通の人間で、今にも身に余る悪事に押しつぶされんばかりだ。こんなにたくさんの家人を雇うような暮らしではなく、普通に暮らしていれば、善良なただの人間だったろう。
何が、男の運命をここまで狂わせたのか。
「くそっ! やけに冷たい雨だぜ…」

茂ったままの街路樹が、僅かな街灯の明かりすら遮り、街を一層暗くしていた。


W-04

その家の中にあの人のはっきりとした気配を感じることができなくて。感覚を尖らせてやっと強いアルコール臭の中に、微かにあの人の匂いを捕らえることができた。
雨が降っていた。形振り構わず家を出たときから空は重くて、雨が本降りになることを教えていた。外に付いた匂いは雨が強ければ流されてしまう。そして、アルコールを意識すればするほど感覚が鈍くなっていく。
柵を握る手に力が篭った。思わず握りつぶしてしまいたくなる。本当にこの家にいないのか。いないなら、どうして家に帰ってきてくれない? どんなに意識を凝らしても、感じ取れるものに変わりは無かった。
名前を呼ばれたのはそのときだった。
ジャン・ハボック。
あの人以外にオレの名前を呼ぶ声。その気配は雨の中でも十分強く鋭い。それにかき消されてしまいそうなあの人の、微かな匂いに集中した。
「あの人がいない…」
どこに行ったかはわからない。でも、あの人はこの家を出た。頼みの匂いはどんどん雨にかき消されていく。
「あの人はここから出て行った…」
男がその気配を一層尖らせた。
「お前、夢でも見てるのか? ロイがさっきこの家を出て行った? 根拠は何だ。お前はそれを見送りでもしたのか? ―――はっ!」
「………………………」
心底バカにして、鼻で笑って。あまりにあっさり、男はあの人のいない家の門を潜った。そこにある境界線なんか感じることもなく、越えて。犬に過ぎないオレのことなんか忘れて、どんどん遠ざかって。男の威圧感よりも鋭さよりも、根本的に違うものに打ち負かされそうで。悔しくて。悔しくてっ!
根拠を示せと言われて、怒りのまま勢いでメタモルフォーゼして見せた。化けものと罵られてもどうでもよかった。化けものでなければ、あの人を探せない。もう人型でも、犬型でもあの人の匂いを追う自信はなかった。でも、久々に本体に戻れば、匂いよりも微かな気配を家とは違う方向の市街地に感じて。
「オレは犬じゃない」
オレはわんころなんかじゃないんだ。

雨を切り裂いて駆ける先に待ってる、あの人が。



あの人は、散歩のときはいつも家から最短のコースで公園に向かって、同じように犬の散歩にきた人たちと軽く挨拶を交わす。時には挨拶だけじゃなくて、ちょっとしたことを話すこともあった。
雨が降ると散歩が億劫で。飼い主の心、飼い犬知らずと言いますか、雨が降っても犬というのは散歩に行きたがって、お互い苦労しますね。
―――全く、そうですね。
散歩が終わったら、今度はこの泥んこになったこの犬を洗わないと…。うちのは短毛種だからまだいいですが、あなたは大変でしょう? それほど美しい毛並みを維持し続けるのは…。
雨が降っても散歩に行きたがるのはオレじゃないし、オレのこの毛並みをきれいに保ってんのはオレ自身だ。帰ってすぐ人型になって風呂場に直行して…。決して、にこやかにそうですねなんて言ってる人が苦労してるわけじゃない。
そんな堂々とウソつかないで下さいよと、わんと一鳴きすれば、あの人がいけしゃあしゃあと言った。―――はははは、好きでしている苦労さ。気にするな。ハボック。
ここに集まる人たちは、話の終わりには必ずと言っていいほど、結局は犬好きの性ですねと言ってはひとしきり笑い合った。つまり、公園はあの人をいっぱしの飼い主気分を味わせてくれる場所なのだ。

公園を一周して、時々三周ぐらいして、それでも公園に名残惜しそうにする人はちょっと遠回りするルートを選んで、家までの帰り道とした。川沿いの歩道。古い教会。美味しいドーナツ屋さん…。
そういういつもの散歩コースの途中に、庭をオープンガーデンにしている川沿いの家がある。その家の庭はいつもいろんな種類の花が絶えず咲き、あの人もオレも思わず足を止めて見入ってしまうほどだった。そして、オレはこの家の庭を見るたび、うちの庭をもう少し何とかしないといけないと思うものだった。
そんなある日、その庭のオーナーである、ふくよかなおばさんに強い口調で呼び止められた。あなたよ、あなた! そう、その手に持ったスコップできょとんとしている人を差して、庭の奥から草花を掻き分けて、オレたちに向かってくる。
そのおばさんは、オレたちの前で息を整えてから言った。
「あなたね? あなたでしょ。この辺りで犬の糞をそのままにして行ってしまうマナーのなってない飼い主は!」
「は?」
「その手ぶらの様子が何よりの証拠よ」
そんないい加減な人間に犬を飼う資格なんてないわ! 犬だってこんな人間に飼われるのはかわいそうよ! ちゃんとマナーを守りなさい!
おばさんは勢いよくまくし立てた。
確かに、この人が犬を飼うのは無理だと思う。この人に飼われた犬はかわいそうだとも思う。でも、まあ、オレは犬じゃないし、これは散歩ごっこだから。うん。でも、オレのことを犬犬言う人は、おばさんの言い分に全く全てを否定できない心当たりがあるようで、はた色が悪いのはよくわかった。
「ハ、ハボックは糞を所構わずするような犬ではありません。なので、その、この辺りで糞をそのままにして行く飼い主は私ではありませんよ」
引きつり気味の笑顔じゃあ、ごまかそうとする気満々に見えなくもない。案の定、おばさんは眉を吊り上げた。
「まあ! 言い逃れする気なの!?」
「彼はとても賢いのです。決まった場所でしか排泄しません。こんな野外でするようなことは、絶対、ないのです」
途端に胡散臭そうに視線を投げ付けるおばさんに共感が芽生えた。だって、そうだろう?犬を散歩に連れて行って、ションベンもクソもさせないって。しかもこの人は絶対と言い切ったし…。
「――わん…」
適当に謝っちゃって、さっさと帰りましょうよ。
そう心を込めてわんと言うと、おばさんが大きく頷いた。
「ほら、ハボック君だってそんなことないって言っているじゃない。あなた、こんなに賢い犬を飼っているのだから、そんなウソをつくのはどうかと思うわ」
「今、ハボックは絶対しないと言ったのですよ。ハボック!」
「――――わん…」
まあ、確かにしませんけどね。
「ほほほほほ! とてもそうは聞こえないわ! むしろ、あなたを咎めようとしているようよ! いいえ、諭しているのかしら! 賢い犬ね!」
「わん」
当たり前だって。
「ハボック!」
「――――――わんわんわんわんわん…」
あー、もう。はいはいはい。

それから、この家の前を通るたび二人は些細な言い争いをするようになった。道順変えないんスか、と聞いてもあの人は頑なにいつもと同じ散歩コースを歩いた。おばさんもオレたちが庭の前を通るたび必ず呼び止めては小言を言った。
でも、時々お茶とかお菓子とかが出てきたり、その庭で採れたきゅうりとかトマトとか、かぼちゃとかをくれた。野菜は取り立て30分以内に食べるものなのよ! いつだって小言は欠かさなかったけど、あの人はいつもそれを楽しそうに聞いていた。つまりは、あの2人は何気に気が合ったということなのだろう。人間はどうにもまどろっこしい。

何で、今こんなことを思い出すんだろう。



その人は光の届かない暗い裏路地のゴミ捨て場で、ゴミに埋もれて死んでいた。冷たい雨の降る寒い夜だった。抱き上げた身体はもう冷え切っていて、鼓動はなかった。
黒い髪に付いたゴミを取る。それは何かの麺で摘むとぼろぼろと崩れ、一層髪にこびり付いては、この人を汚した。何回摘んでもそれは変わらなかった。でも、諦める気にはならなくて。もう目は開かない。白い額にも、白い頬にも、砂が跳んでいてざらついていた。それが気に入らなくてくり返し拭う。くり返しくり返し、拭う。

この人は明るい笑い声の似合う、ハンサムな人で。家にクリーニングを取りに来てくれるあの子も、街頭で花を売るあの子も、揚げたてのドーナツを売ってるあの子も、みんなこの人が大好きだった。あの小言を欠かさないおばさんだって、この人が大好きだった。
こんな惨めに、野良犬のように死ぬような人じゃない。こんな風に誰にもみとられないで、一人寂しく死ぬような人じゃない。

許せなかった。雨が止まないことも、この人を汚すものも。何一つ許せそうもなかった。助けてもらって、居場所をもらって、なのに間に合わなかった自分が、許せそうもなかった。


W-05

自分の家同然に、電気という電気を付けて、風呂に湯を貯めて、濃いコーヒーを入れた。
久しぶりのこの家は、前に来たときに比べ薄っすらと埃を被っていた。書斎にはハボックの言葉通り、書きかけの原稿はもちろん本までない。ただ机の上に一本のペンが所在無く転がっているだけだった。
リビングのテーブルにはあの本が無造作に置かれていた。この家にこれがあるとは思わなかった。

玄関フロアで二人を待つ。キッチンから漂ってくるコーヒーの香りに頭が冴えていく。長くは待たなかった。門扉の開く音を拾って玄関を開ければ、その腕にロイを抱えたハボックがゆっくりと向かってくる。ちゃんとロイを探し出すことができたのだ。しかし、安堵はなかった。外灯に照らされたハボックの、何の感情も浮かんではいない顔を見れば。
「すんません…」
小さな声に、逸らされる視線。
間に合わなかったのだ。だが、それはお前が謝ることじゃない。頭を横に振った。

立ち尽くしたまま微動だにしないハボックをリビングに追いやって、タオルを用意する。お互いびしょ濡れだった。タオル一枚を自分用にソファに投げて、一枚はハボックの肩に、ロイの分はソファに置いた。
長い夜になりそうな予感に、せっかく入れたコーヒーを取りにキッチンへ。戻ってくれば、ハボックがロイを抱いたままソファに座って、砂の付いたロイの顔や手をタオルで拭っていた。
昔、うだるように暑い日、あの話だけ終わってなくて最後はどうなるのかと聞いたことがある。――楽しくて、どきどきして、思わず家を飛び出したくなるような感じだ。それは体が弱いこともあってなかなか家から出たがらない妹に贈る兄からのメッセージだった。でも、お前、そんなこと感じたことあんのかよと意地悪く問うと、肩を竦めて見せる。ないから書けなくて、あんなところで止まっているんじゃないか。そう言われて妙に納得したっけ。
ロイに付いた汚れ一つ許さないとばかりに、無心でロイをタオルでごしごし拭くハボック。向かいに座ってそれを見ていれば、楽しくて楽しくて仕方ないという時間がここに確かにあったことが手に取るようにわかる気がした。

「――これ、どうした?」
テーブルの上の一冊の本を手に取って、薄っすらと積もった埃を拭った。俺にとってこの本はロイの本以外の何ものでもない。こんな風に見向きもされないで放って置かれるのは寂しさが募る。
「買いました…」
「もうこれが読めるようになったのか? 速いな。ロイが読めって?」
「――いえ、友だちに借りて」
「面白かったから、自分で買ったのか?」
「うス…」
「ロイは何て言ってた?」
「別に、ふーんって…」
面白い。そんな言葉を聞くことすら、ロイには久しぶりだったろう。だから、続きを書こうって気になったのか?

「さて、何から、話そうか…」
ハボックがゆっくりと顔を上げた。

―――ロイと寄宿舎で出会ったこと、ロイの妹のこと、ロイが書いた多くの物語、図書館で出会った男…。ロイの家族が乗った飛行機の着陸の失敗。心臓移植の順番が繰り上がって泣いて喜び天に感謝するレシピエントたち。莫大な保険金…。いや、話が進みすぎたな。
ロイの両親は治療に必要な莫大な医療費を用意できなかった。子どもの心臓移植なら普通は国が全額保障するもんだが、当時、大統領が病気で突然辞任して、政府がまともに機能しなかった時期があってな。その間にこの全額保障するっていう法律の期限が切れて、無効の期間があった。
金がないと手術が受けられない。でも何をしたってその金が用意できない。ロイの親は諦めた。でも、ロイは諦めることができなかった。その金をどうにかして用意できないか奔走した。
そんな中、事情を知った図書館で会った男が何とかなるかもしれないからと、ロイが妹のために書いた原稿全部を自分に預けてほしいと申し出た。ロイは躊躇しなかった。どんな藁でも縋れるものには縋ろうと決めていた。だが、予想だにしないことが起こった。男が本当に全額用意してみせたんだ。これで手術が受けられると思った矢先だった。その手術をうけるべき存在がこの世からいなくなったのは。
その後は、その事故の後始末に巻き込まれて、満足に眠れない日が続いた。いつその本が発売されたのかは知らない。気が付けば、その児童書の話題が街に世界中に溢れていた。世間の関心は生存者のいない飛行機事故なんかより、大ヒットの児童書の続きに移っていった。そして、漸く生活が落ち着きを取り戻しそうな兆しを感じて、その話題の児童書を読んでみようかって思って…。

「お前、あの家の表札見たか?」
「―――いえ…」
「この本の作者と同じ名前が書かれてるんだぜ」
ロイの思いがたくさん詰まっているこの本に自分の名前を書いた男は、その罪に溺れ、潰れかかっていた。
「この本って……」
鋭く息を飲み込む音が耳に届き、頷いた。
「本当は作者の名前にロイ・マスタングって書かれるべきなんだ」
「じゃあ、オレ……。続き書けって、あの人に………」
「感謝してる奴は世界中にいるぜ? きっとお前に言われなかったら、ロイは続きを書こうとしなかっただろう。世界中の人間に代わって俺が礼を言うよ。―――ありがとう…」
ハボックの青い瞳が揺らぐ。ロイを抱く腕に力がこもるのがわかった。
確かにお前に言われもしなかったらロイは続きを書かなかった。続きを書かなければ、ロイがあの男の家に行くことはなかっただろう。しかし、ロイがこの続きを書けると思うほど幸せであったことが嬉しい。それが何であれ、形になったことが嬉しい…。例えその死に方がどんなに惨めであろうとも、ロイの短い人生は惨めなものでも、不幸なものでもなかったことの証明になるのだから。
「――字なんか、読めないままでよかった…。続きが読みたいなんて言わなければよかった…。そうすれば、この人は、あの家に行くことなんかなかったのに……」
「そう言うな。お前ぐらいはそう言ってやるな」
「でも、もうこの人は笑わない」
「新刊ちゃんと読んで、笑ってやれ」
それが弔いになる。それをロイが望んでいる。

窓の外が白んでいた。晩秋の朝だ。陽が昇ってくるまでにはまだ間がある。今日は行うことが目白押しだ。それを思うと、すっかり冷め切ったコーヒーを飲む気になれず、喉を焼く熱いコーヒーを入れるために立ち上がって、ハボックに背を向けた。―――正にその時、背後から爆発的なエネルギーに当てられた。突き抜けていく。一瞬、鼓動が、呼吸が止まった。鋭い痛みに胸を押さえて振り返れば、ハボックが立ち上がっていた。相変わらず、ロイを抱えて…。
「―――何で? 何でっ、アンタはっ、そんなに落ち着いていられる!? 許せるのかっ! 悲しくないのかっ!」
全身から迸った怒りはまるで太陽が昇ったように、室温を一気に上げた。燃え上がるような怒り。こいつは今まで静かに静かに歯を食いしばって耐えていたらしい。
「……………。死んじまったものはどうすることもできない。俺は死人を生き返らせる方法を知らねぇんでな」
「っ!」
こんな日に罵り合う気はない。睨みつければ、ハボックがびくんと跳ねるように大きく身体を震わせた。依然抱えたままのロイの腕が、その反動で下に落ちた。
「!?」
下に落ちたって? しかも、今、その腕は俺の目の前で揺れている。ぶらぶらと…。
「おい、何でだ? もう10時間以上経ってるだろうに、死後硬直がないぞ? 本当にロイは死んでんのか!」
ハボックの気持ちを尊重して、ロイの死を確認しなかった自分の間抜けさに舌打ちする。そう。こいつは人間じゃないのだ。人間の死亡状態を知らないのは大いにありえた。
「………………」
ハボックは眉間に皴を寄せてぱくぱくと口を動かし、変な顔をしていた。ロイの死のショックでシナプスが半分以上死滅して、脳の機能が停止しそうなのかもしれない。しかし、そんなことに構ってはいられなかった。慌ててロイの腕を取れば、それはやっぱり冷たくてそこに期待した脈はなかった。呼吸もない。目をこじ開ければ、瞳孔も散大している。だが、角膜の混濁はない。――仮死状態なのか? 柄になく緊張に震える腕を自覚して、一縷の望みを掛けてロイの身体をひっくり返せば、そこには明らかな死斑が浮いていて、やっぱりロイがすでに死んでいることを知ら示していた…。こんな日に罵り合う気はなかったが、罵倒したい気分にはなってきた。
「―――おい…」

「あーっ!!」
ハボックは自分の言語野が大丈夫であることを証明した。だが、そんなことを喜ぶ気持ちはもう微塵もなかった。
「オレ、………」
「オレ?」
「人間じゃなかった…」
「ああ?」
「あの、ヒューズさん! 時間を下さい! もう1回、オレに。この人を生き返らせることができるかもしれないっ!」
「………………」
死斑が浮いていて、でも死後硬直はなくて。ロイは明らかに死んでいるのに、仮死状態に似た明らかに変な状態にある。それは何故か。俺にはその理由が思いも付かなかった。そして、目の前には思いも付かなかった変な生きものがいる…。いつしかハボックの頭には犬の耳が2つにょきっと生えていて、それが勢いよくぴんと立っていた。
「故郷に行きます! 何とかなるかもしれないっ!」
ハボックはどうやらショックで今まで繋がってなかったシナプスが繋がったらしい。何かを思い出したようだった。その目がきらきらと輝いている。
「あ、ああ……」
その変わりように押されて。ハボックの言ったことに耳を疑って。とにかくもう言葉が出なくって、勢いに押されて頷いてしまった…。


W-06

男は、電話をかけてきたときの、あの家の前での、鋭く尖った気配を、オレの腕の中のこの人のこの姿を見て、氷を融かすように解かした。すんません…。その言葉にすら、首を振る。オレのせいじゃないとばかりに。
穏やかなものすら滲ませて、語られるこの人との過去。オレが知らなかったこと。知ろうとしなかったこと。目の前のいろんなことが楽しくって、それしか見ようとしなかった。それがこの人を死路へと向かわせたのに、男がオレを責めることはなかった。むしろ、その言葉は優しく、オレを労い、慰めすら含んでいた。
「どうして…」
どうして、オレを責めない。罵らない?
口から零れた一言が、何かの堰を切って、何かが止めどもなく溢れ出す。でもそれに言葉が追いつかなくて、男を睨みつけた。それで、やっと男の気配が斬りつけるように尖って、少しだけ地に足が付いたように感じた。ボコボコに殴られたかったのかもしれない。でも、オレを殴りつけたのは男の拳ではなく、感情を押し殺した声だった。
「死んじまったものはどうすることもできない。俺は死人を生き返らせる方法を知らないんでな」
その言葉に、強く。強く、胸が跳ねた。何かを知らせるように。たぶん。そう。オレは、それを、知っている。それを、できる場所を、知っている…。勢いよく動き始める心臓。それはあまりに急過ぎて、目眩がした。

逸る鼓動。興奮。指の先まで脈打って篭る熱。
一分でも一秒でも早く、それを知ってる場所に行きたかった。だったら、本体に戻って夜通し全力で駆けるのが一番だから。ヒューズさんに頼んで、本体の背にあの人を括り付けてもらった。山を越えても、川を越えても、解けないようにしっかりと。そして、家の掃除とか戸締りとか頼めるだけ頼んで、挨拶もそこそこに家を飛び出した。

街を越えて、山野を越えて。
どれほど速く駆けて風を巻き起こしても覚めることがない熱を感じていた。それに浮かされるように駆ける。身体が驚くほど軽かった。
生き返えらせる。たぶん、そういうこととはちょっと違うのかもしれない。でも、もしかしたらオレが知らないだけで、本当に生き返らせていたのかもしれない。
一族の中には伴侶として人間を選んだものは少なくなかった。むしろ、一族の血が濃くなりすぎないように歓迎されていたようにも思う。集落で人間を見るなんてことは珍しいことでもなんでもなかった。でも、オレは不思議に集落の中で人間の死を覚えていない。人間はオレたちと明らかに寿命の長さが違うのに。ガキの頃はそれに何の疑問もなかった。今になってもそれがどういうことなのかはわからない。でも、たぶん、これでいいんだという確かな何かがあった。
この人を生き返らせることができるかもしれない。できるだろう。できるはずだ。興奮で視界が赤く染まる。オーバーヒートしそうな予感にスピードを上げた。疾風で頭が冷えて、少しでも冷静さを取り戻せるように。
景色は見る見るうちに変わっていく。太陽が地平線に沈むのを見ながら、太陽が水平線から昇るのを見ながら、駆けた。山深くなっていく。何の特徴もない山々に囲まれた、人里離れた山の中の更に山の奥にある集落が、一族が暮す里だった。



そこにはまだ陽が高い内に着いた。ここを出て行ったときと何の変わりもなかった。人も家も。違うのは、古い石造りの家に絡みついた蔦の量と色ぐらいだ。
集落の中で最も高い場所ある、蔦に埋もれきった一際古い家も、何の変わりもなかった。人型になって、背負っていた人を括りつけていたシーツを解き、腕に抱いてから、その門扉を開けた。この全員顔見知りの集落で鍵をかける家なんて一軒もない。
「おい、ばーさんっ!」
昔、世話になったばーさん。親父と喧嘩が絶えなくて、すぐ家を飛び出したオレをいつも招きいれてくれた。もちろんその目的は説教だったんだけど、この集落を出て行くまでは、随分それに救われた。

昔のように勝手に家に入れば、チキンを焼いているらしく、家中に香ばしい匂いが漂っていた。ばーさん一人が暮す家だ。リビングより先にキッチンのドアを開ければ、記憶通りの姿が記憶通りの格好でチキンを焼いていた。
「―――なんだい。メシどきに来やがって。ハラが減ってるなら自分でトリを絞めてきな」
振り返ることもなく返ってきた言葉も昔と一言一句同じだった。思わず、時間が巻き戻っていきそうな気分に駆られ、腕にかかる重みを再確認する。固く閉ざされたままの瞳。何のためにここに戻ってきたのか。この人がいなかったら帰ることはなかった。
「ハラは減ってねえ! おい、ばーさん! この人間、生き返らせてくれ! できんだろっ!」
「………………」
小さな身体が身動ぎ、ぎこちなく振り返える。目を見開いてオレを見上げる瞳には驚きがあった。このどれだけ生きてるのかわからないばーさんの、こんな顔ははじめてで、また心臓が激しく動き始める。今度は悪い予感に冷や汗が…。その皴の浮いた口がゆっくりと開いて、何かを言おうとした。
できるとしか聞きたくなくて、それ以外の言葉は何一つ理解できない気がして、慌てて先に口を開く。
「できるかできないかだけ言ってくれ!」
「………………」
「おい!」
「そりゃあ、そう言われたら、できるとしか言えないが。お前…?」
「じゃあ! 四の五の言わずに、生き返らせてくれ! 何でもする! 頼む!!」
小言も説教も今は何も耳に入らないから。まずこの人が生き返らないことにはオレは何もできないから。この人が生き返るために必要なものがあるって言うなら、オレの命だって、何だって、差し出してやるから! 頼む!
ばーさんはオレの抱えた人をじっと見つめてから、オレをもう一度見上げた。その目にはもう驚きの色はなく、いつもの何かを問い正すような色が浮かぶ。昔はこれが苦手で、真正面から見たことはなかった気がした。でも、今は違う。その視線から逸らしたりはしない。
「………………」
「ばーさん!」
「――山の頂にある泉にその人間を沈め、泉をお前の血で満たせ。新月の晩にガムルがその人間の魂を冥界から連れてくるだろう」
ああ、ほら! オレは正しかったんだ!
頷いて、目に付いた鉈包丁を一本借りた。

頂に泉のある山は一つしかなかった。ここらで一番高い山。でも、今までの行程に比べるまでもない、ほんの僅かな距離。
頂上に向かう一本道は枯れた川の跡のような岩場が続く。そこを登れば登るほど、周りの木の高さは低くなっていき、低木を過ぎたらもう草しか生えてなかった。頂には、草に囲まれた直径5mぐらいの溜め池のような丸い泉があった。
この人が出会ってすぐに買ってくれた靴を脱いで、澄んだ泉に入る。膝上程度しかない浅い泉の底に、冷たい身体をそっと横たえた。

手入れが行き届いた鉈包丁を両手に持って、胸に突き刺した。でも、勢い良く血が噴き出すのはほんの数秒だけで血の勢いはすぐに弱まって、一分も経たない内に完全に止まる。これぐらいの傷じゃあ、身体の再生能力の方が断然強くて、泉が赤く染まるには程遠かった。何度も胸に鉈包丁を突き刺した。眼下に沈めたその姿が、意識が朦朧として見えないのか、血で泉が濁って見えないのか、よくわからなくなるまで。そして、身体が傾き、そのまま泉に沈んだ。


W-07

陽が落ちるのが早くなった。そう思いながら、心持ち急いで帰ってきても、優に町から片道2時間掛かかる道のりだった。帰ってきたときは既に夕刻で、空気は冷え切っている。あったかいメシを鱈腹食いたい。切実にそう思って、集落に足を踏み入れた途端、方々から声が上がった。
「ブレダ、聞いたかっ!」
変化の乏しい集落にしては珍しいほどにざわついていた。顔を合わせるもの全てに、そう声をかけられて俄かに辟易する。俺はたった今、帰ってきたんだよ。そう言えば、頼みもしないのに誰もが先を争って説明してくれた。
―――突然集落を出て行った、あの、ジャン・ハボックが、突然帰ってきたんだ! 血相を変えて一直線に長のところに行って。その後すぐ、人間と鉈包丁を持って山に登ったんだ。泉に入る気だぜ!
確かに奴は同時期に生まれたこともあって、この一族の中では最も歳が近い。だが、今となっては奴の顔を見なくなった時間の方が長くなっていた。まあ、そうは言っても、妙に長い寿命を持つ俺たちにとって時間の概念は随分間延びしたものだったが。事実、奴がここから出てったのが、つい最近のことのようだった。
―――しかも、あのジャン・ハボックが、既に死んでいる人間を連れてきて、長に、『この人間を生き返らせてくれ。できんだろう』って言ったらしいんだ! これってどういうことか、お前ならわかるか?
なんでそんなことをわざわざ長に聞く? 恐らく、その場にいたもの全てが、この話を聞いたもの全てが、我が耳を疑い、そう思ったに違いない。そりゃそうだ。奴の親父さんやお袋さんが聞いたら、顔を真っ赤にして恥ずかしがるだろうし、奴の兄弟たちはべそをかくだろう。どうしてうちの兄はそんなことをわざわざ聞くんだと。それはここではそういう常識だった。
だが、奴の幼馴染と認識されている俺としては、それほど驚くに値しなかった。なんて言ったって奴はプライマリースクールすらまともに通わず、集落に居つくこともほとんどなく、ここから飛び出して行ったのだから。一族のなんたるやを知らないままでいることの方が、むしろ当たり前な気もした。
神話にも出てくる冥界の番犬ガルム。俺たちはその高次生命体の血を引く一族だ。もちろんそれを証明することなどできないが、この身に宿るいくつかの超常力がそれを完全に否定できない根拠にしていた。
その一つがこれだ。限られた命しか持たない種族である人間を生かすこと。この身に宿る、有り余る生命力の成せる技だった。しかし、もちろんそれは万能なものでも、全ての人間に使えるわけじゃないが。
そんなことを何も知らないハボックは、長の言葉通り、山に登り、人間を泉に沈め、己の身体に何度も刃を突き立てたという。意識を失い、泉に倒れるまで。



集落は様々な憶測や噂話が飛び交い、落ち着かない日々が続いた。そして、待ちに待った新月の夜、好奇心を抑え切れなかった集落の多くのものが息を潜めて静かに山に登り、泉に向かった。
口伝では、一族の呼び声に応えて、新月の夜に冥界の番犬ガルムが人間の魂を冥界から連れて来ると言われている。しかし、その姿を見たものは一人もいない。俺たちが見ることができるのは、ただ暗闇の中、闇夜に紛れた黒い犬の、足跡らしい新円の波紋が泉の水面にひとりでに生まれるところだけだ。



月の光も星の光も届かない暗闇の中、程なくして、泉が波打った。泉の中に淡い光が灯る。そして、それに呼応するように泉の中央が盛り上がり、湧き上がった。その固まりは括れ、流れ出る二本の帯…。
泉に灯った淡い光は、泉を包み込むように、畔にまで溢れ出すように、俺たちがいる場所まで仄かに照らすほど、その大きさと強さを増す。眩しさに、思わず目を細めた。


    +++


熱い。まるで細胞の一つ一つが震えているようだと思った。耐えられないほどの熱ではない。しかし、身体の内側から高まるそれは確実に高揚を誘った。
くすぐったいのかもしれない。そう思ったら、途端にくすぐったい以外の何ものでもない気がして、笑い出したくなった。すぐにそれだけでは間に合わなくなった。叫びたい。叫び出して走り出したい。何かが。私を突き動かす何かが、衝動が、溢れている。溢れ出す。
ああ、私はそれを知っている…。
エネルギーだ。私を目覚めさせるエネルギー。
私の奥深くに巣食っていた、目に入るもの全てに感じていた憤りが、不満が、苛立ちが。期待することを止め、心を閉じ。虚しさも、悲しみも、寂しさも。私を形作る全て要素が一つ一つ離れていく。昇華されていく。そして、ぽっかり空いたそこに入り込むエネルギー。
熱い。律動する。くすぐったい。
波紋の揺らめきが、外側からの熱を生む。光が。熱い。
指が私の肩を掴み、私の肩が形を成した。
顔が見たい。触りたい…。その思いが私の肩だけでなく、腕を、手を、指を成した。真新しい腕が迷いなく明るい方向へ伸びると、私の肩を掴んだその指の先が、形を成した。その手を、その手首を、その腕を、その肩を、その胸を、その顔を…。
この顔がずっと見たかったのだ。辿る。唇を。日に焼けた頬を。すっと通った高い鼻梁を。硬く閉ざされた目蓋を。開けばいい。そう思った瞬間、金色の睫毛が小さく震えた。また何かが溢れ出す。―――私はもうすぐそこに青い瞳を見るだろう。それは、いつだって私に空の高さを教えるのだ。
「ハボック」


    +++


白い光の中でまた水面が波打った。その波紋が消える前に、そこから透明な腕が伸び上がり、そのまま真っ直ぐ、湧き上がった水の固まりに触れた。
その指がそれを辿る度、そこがただの水の固まりから、頭部にその輪郭を変えた。頬が、口が、鼻が、目が、その形を成していく。それは頭部だけではなく、身体中に、背、胴、腕、足、全てに及んだ。
形を取り戻して、色を成す身体。
間違いなく知ってる顔だった。幾分、でかくなっているが。
肉を取り戻し、力を得た腕が泉の中から引き抜かれる。自分の命をもって再生し復活させた命を、黒い髪に白い肌の人を、掬い上げて。

その人はその瞳に、じっとハボックを映していた。笑っていた。笑い声など聞こえてないのに、思わず誘われて笑い出したくなるような、明るい笑い声を聞いた気がした。
もう透明ではない腕がハボックの首に回り、引き寄せて、頬を寄せる。それはまるで労うような、慈しむような仕草だった。
「…っ!」
ハボックが力任せに抱きしめる。大きな肩が小さく震えていた。嗚咽を堪えているようにも見えた。そんなハボックの背を、その人の手が慰めるように何度も撫でる。その途端、ハボックの感情が溢れ出した。
「ロイっ! ロイっ! ロイっ…!」
胸を打つ、万感極まった声。ここにいた頃は、いつも苛立って乾いた目をした奴だった。無闇に尖がっていた奴だった。だがどうだ。抱きしめる腕の強さも、その声も、もうあの頃の面影を覘かせるものは何一つない。奴はここを出て街で暮らし、一人前になって帰ってきたのだ。誰に何と言われようと、ここを出たことを無駄にはしなかったのだ。

しかし、その思いに返ったのは、とりわけ冷静な声だった。しかもその落ち着いた声はよく響いた。泉の畔にいた俺たちにもはっきりと明瞭に聞こえるほど。
「―――ロイ?」
ハボックの腕の中でその人が小さく身じろげば、ハボックが慌てて腕の力を緩める。
「ロ…」
その人はハボックを見上げて、小さく首を傾げた。
「………………」
見詰め合う、というには、それはちょっと甘さが足りなかった。その人は決して睨んでいる風ではないのに、ハボックは蛇に睨まれた蛙のようなあり様でぎこちなく、その視線から目を逸らして、言い直す。
「―――マ、マスタングさん。マスタングさん」
二人の力関係がはっきりと伺えた瞬間だった。
肩を竦めて、別にロイでいいぞ、と力強く返ったその言葉に、ハボックは肩を落として、いえ、はい、その、とごにょごにょと呟いただけだった…。

ハボックのその情けない顔をよく見る前に、泉に灯った光が消えていった。闇が完全に戻る前に、それぞれが手に持ったランプに火を灯して畔を示せば、二人が漸く振り返る。口々に上がる、おめでとうという言葉に自然に二人の顔に笑みが浮かんだ。ハボックがそのわけを知らないだろうに、ありがとうと連呼して、ロイと呼んでマスタングさんと言い直した人の手をしっかりと握ったまま泉から上がる。
あ、ブレダ、オレの靴、知らない? 
そんな暢気なことを言いながら。


W-08

集団の最後尾から揺れるランプの灯りを視界に入れて、山を下る。

草むらを掻き分けて靴を捜し、右往左往するハボックをじっと見てるのもなんだからと、頂まで登ってきたものたちは、靴探しを手伝わされた俺を残して早々に一人二人と下って行った。それでも、ハボックと、ハボックが連れてきた妙に顔の造りの丁寧な人間に興味は尽きないらしく、背後に聞き耳を立てて何とか聞こえるだろう距離を保とうとした歩みは、随分と遅かったが…。

「アンタ、死んだんですよ」
「ふうん?」
「――ちょっと、もう、それだけなんスか?」
「でも、生きているじゃないか」
それよりここはどこなんだ?
その当然の疑問にハボックは答えなかった。
「それはオレが生き返らせたからです!」
「ふーん」
返答は明らかに冷ややかだった。ハボックがその当たり前に抱く疑問に答えなかったからだろう。俄かに共感を覚えた。
「それだけスか? 何で生き返ったのかとか興味ないんスか?」
「では、説明を受けたいのだが…」
賢明にもその人はそれをハボックに求めなかった。チラリと二人の三歩後ろを歩いていた俺に視線を向ける。だが、頭の悪いハボックはそれに苛立った声を上げた。
「オレに聞いて下さいよ!」
「――じゃあ、どうやって生き返ったのか、教えてくれ」
「さっきの泉にアンタを沈めて、そこをオレの血で満たして、新月の晩まで待ったんです!」
「………………」
それは説明になってないだろう、お前。
相変わらず、ハボックはとり頭のままらしい。それを十分理解しているらしい人は、俺に向き直って言った。説明を願えますか、と。ハボックが盛大に顔を顰めた。
「ちょっと!」
だが、岩場の続く山道で転ばないように周りに気を配りながらする話でもないんでと言えば、あっさりと頷かれ、集落に灯る明かりが眼下に見えるまで黙々と歩いた。三分に一度、その人は岩場に足を取られて体勢を崩し、一分に一度、ハボックが背負いますよと声をかけては断られることをしばし繰り返しながら。
その内、この二人の会話に聞き耳を立てていた集団は長い縦の列になり、俺たちの声が届く範囲にいる者たちは随分その数を減らしていた。



山道が岩場から階段交じりの平坦なものに変わると、暗闇の中にあっても黒い髪と瞳をもった人が振り返った。身体中から好奇心を溢れさせて。ハボックも釣られるように振り返った。その目は余計なことしやがってと雄弁に語っていた。
ハボックを完全に無視して、二人に並び、あー、ちゃんとした原理はよく分からないんですがね、これは一族に古くから伝わる方法で、とまず前置きを置いた。
「俺たちの生命力は人間とは比べものにならないほど強い、です。人間だったら致命的な傷を負っても再生するほど。一度死んでも自然に生き返るほど。――そもそもエネルギーの根源が人間とは異なるんだと思います」
ハボックがうんうんと何度も頷いた。これはさすがのハボックといえども知っていたらしい。それは何よりだ。
「ここは国境の山の中で、一族の暮す集落です。ハボックがここに死んだあなたを連れてきました。6日前のことです」
死んだ?
頷く。魂が失われている人を一族のものが見間違えることはない。俺たちは嗅覚が効く。
そっと目を伏せる人。自分の死に思い当たることがあるのだろうか。ハボックが心配そうに覗き込んだ。しかし、それはほんの一瞬だった。すぐその目が俺に続きを促す。
「――ハボックがさっき言った方法であなたは生き返りました。ハボックが強引に仮死状態に陥ったことで発散された爆発的なエネルギーを受けて、あなたの全ては泉の中で分解され、ハボックの再生力を受けて、再度、あなたも構築されたんです」
「………………」
黒い瞳がハボックを見上げた。
「それは、あなたを構成する全ての要素がハボックの属性を帯びたことを意味します。単純に生き返ったとは言えません。あなたの心臓が動いているのは、ハボックの生命力に反応しているからなんです。これはハボックが生きている限り、あなたの心臓もまた動き続けるということで……」
先を言い淀んでも、理知的な黒い目は取り乱すこともなく、先を促した。ハボックは何でそこで躊躇うのかときょとんとした顔をしてる。奴はやっぱりわかってなかったのだ。だが、それでも一応あくびもしないで聞いている分、奴の成長を感じた。
「あー、我々一族は、これを異種族間結婚の通過儀礼として行っているんです。ずっと、古くから。伴侶が我々と同じ寿命を生きることができるために」
「えええっ!?」
ハボックが山の中に轟く、素っ頓狂な声を上げた。
ああ、やっぱり。こいつ、本当に知らなかったんだ。こんな当たり前のこと。これで一族の一員を語るのは問題じゃないのか…。
「ハボック、お前は一応話しに聞くところによると、それにちゃんと則って、異種族間結婚の通過儀礼の手順を踏んだ。人間を連れて、長に会い、その了解を得て、命を捧げた。ただ、古い儀式をまましたんだ。今はあんなの苦しいから楽にできる方法があるんだよ」
「ええー!!」
「人間を伴侶に迎える一族のものはみんなしてることなんだ。人間が俺たちと同じ時間を生きることができるように」
呆けた顔で陸に打ち上げられた魚のように、口をぱくぱくとさせて必死に酸素を取り込もうとしてたから、その生命維持活動口を挟むようなことはしなかった。

そんなマヌケ面を晒している奴とは一転して、自分が死んだことすらまだ釈然としてないだろう上に、突然こんなことになって復活を果たした人は、唇に人差し指を当てて考え込んでいる。もしかして、ハボックとのこれは不本意なことになるのかと思いつつ、こんな感じですけどと問えば、その人は晴れやかな笑顔でそんな考えを払拭してみせた。
「ならば、それは遅かれ早かれの問題ですね。問題はありません」
そう言い切られるのもまた予想外で。
「え? えーっと、ハボックの生命力に反応しているって、物理的に、こいつの近くいないと心臓止まるってことなんですけど?」
今更それは困ると言われても、それを解消するにはもう死しかない。だから、困惑されるならこれぐらい軽く、問題ないと言われた方がいいのだろうけど…。
「近くとはどのくらいでしょう? いつも手を握ってないとダメなほどですか?」
岩場を過ぎてからまたハボックにしっかりと握られた手を持ち上げて。
「――そんなに近い必要はないですよ…」
でも、ハボックは顔を赤くしながらも、その手を離そうとはしなかった。どうやら、ハボックは、この人を伴侶に迎えることに異存はないようだった。

「その、ちゃんと理解してますか?」
ハボックはそろそろと白い顔を覗き込んで問う。わかってますか。いいんですかと。俺的には、お前の方が分かってんのか、聞きたいぐらいだった。
「理解しているぞ。共に生きて、共に死ぬということだろう。違うのか?」
まあ、そうなんスけど…。ホントに? ホントのホントに? ホントのホントの、ホントに? オレでいいんですか? もう片方の手も取り、両手をしっかりと握り締めて、顔を近づけて、くどいまでに聞き返す。
「お前。出会って一日も経たないうちに私に求婚したくせにどうしてそんな及び腰なんだ」
ハボックが仰け反った。
その言葉に、俺も仰け反った。
「求婚!? いつっスか!」
「覚えてないのか? 本気で?」
「…………………」
「本当に?」
「…………………」
「ははははは! 離婚決定だ。これで私たちはただの犬とその飼い主だ。そして、お前とはもう二度と同衾しない」
「えー!!」
手を離せ。我慢できない。
そう、あくまでも軽やかに言って、ハボックから自分の手を取り戻すと、その人はふんと大きく鼻を鳴らして、一本道の山道を足早に下って行く。
うな垂れ、立ち尽くし、今にも崩れ落ちそうなハボックなど放っといて、追いかけた。なんとなく聞きたいことが山ほどあった。



改めて名乗れば、その人は機嫌を損ねているようではなかった。むしろ笑いを堪えているかのように、楽しそうですらあった。山道脇の雑草を一本、手に持って、左右に振り、鼻歌交じりで。
「えーっと、あなたはハボックと会って、一日も経たない内にされたプロポーズを承諾したんですか?」
「面白そうだと思ったんだ」
「…………………」
眼下に広がる、集落の灯りに目を奪われたままの、率直で、淀みない返答。思わず、視線をマスタングさんに留めると、漸く振り返った。少しばつの悪そうな顔で。
「私は少し投げやりだった。いろんなことが煩わしく、どうでもよかったことは否定できない」
「だから?」
だから、ハボックのポロポーズを受け入れた? ハボックはあなたの暇を埋めるだけの、どうでもいい存在なのか?
少しだけハボックが不憫に思えて、その言葉尻が強くなったことは否めない。しかし、マスタングさんはそんなことに気も留めず、また眼下の灯りにその黒い瞳に映して、口を開いた。
「私にとって驚きは久方ぶりだった。面白そうだとか、楽しそうだとか、そういう感情を意識したことも。ハボックにとって記憶に残らないほど些細で何気ない言葉は、私には慈雨のように乾いた心に沁みて、今も尚、忘れることはない。ハボックのいない生活を送ることは、出会って一日も経たないうちにできなくなっていた。――荒んだ生活を送っていた自覚がある」
「…………………」
正に、取り越し苦労。この人はちゃんとハボックを思っていたのだ。
つまり、ことの顛末は、自分の一族について何にも知らなかったハボックが何も知らないまま伴侶と決めた人の死に慌てて、故郷に行けば何とかなるかもしれないと考えて帰ってきた、ということなのだろう。
ハボック、親父さんとかいなくてホントよかったなあ。ハボック一家は幸か不幸か、この長男の一大事に旅行に出かけていて、集落に不在だった。

「我らが一族へようこそ。歓迎します。あなたのような頭の良い血が一族に加わる思うと、とてもうれしいです」
心を込めて本心から言うと、マスタングさんも少し声を改めて言った。
「私も君たちのような一族に加わることができて、とても嬉しく、光栄に思うよ。歓迎してくれてありがとう」
それは新月の晩の、足元を照らす僅かなランプの明かりの中にあってすら、晴れやかに感じるほど明るい声だった。


W-09

脈打ってる。笑ってる。透きるほど青白く、冷たかった身体は色を取り戻し、しっかりと血の気が通っていた。でも、繋いだ手からは、オレの、言葉にならない溢れる思いは全然、全く、微塵も伝わらず、あっさりと血の気の通わない言葉で振り解かれた。その上、オレを置いて足早に山を下って行く。
感動的な再会とかはどこに行っちまったんだろう。あの人を生き返らせるためにオレが仮死状態に陥ったと知った時の、あの、もの言いた気に揺れた瞳はどこに行っちまった? 見間違いだとは思いたくなかった。
軽やかに遠ざかって行く後ろ姿を見てると、全身から力が抜け出て行きそうなほどがっくりするものがある。でも、不思議にそれだけだった。オレの知らない家で知らない人たちに囲まれてたあの人から一歩一歩離れて行ったときの、どうしようもなさがない。一緒にいるのがブレダだからか。――いや、違う。
あの家で暮らしはじめて、いつからか、あの人に呆れた顔を向けられるのが怖くなった。愛想付かされるんじゃないかって怖くなった。でも、今はそんな顔をまじまじと向けられても、ちっとも怖くない。
あの人の、白くて指先まで整った手とは異なる、ただ大きいだけのオレの手に、あの人の温もりが冷めることなく残っていた。
ブレダから再生したと、オレの命であの人が生き返ったと聞いた。――手も身体も、特に何か変ったわけじゃないのに、あの人とオレを繋ぐ何かがはっきりとあった。オレの命であの人が生きている。あの人にオレが求婚してたかとか、あの人がオレの身に覚えのない求婚に応えてくれてたとか。そういう曖昧なものじゃなくて、もっとはっきりとしたものであの人と繋がっている…。あの人の気配。あの人のにおい。それ以上にはっきりとした鼓動。闇夜にあっても光り輝くように確かなもの。これがオレの命にあの人の命が反応しているということなのか。

オレはあの人のことを何も知らない。知ろうとしなかった。知ってしまったら、自分があの人の知り合いの一人に過ぎないことを知ってしまいそうで、目の前のことしか見なかった。
自信がなかった。劣等感がずっとあった。字が読めるようになったらなくなると思ったそれは、むしろ字が読めるようになって、大きく膨らんでいった。自分がいかに何も知らないか、分かってしまった。
でも、もうそれじゃいけない。何も知らないままじゃ、この繋がりもいずれなくなってしまうだろうから。
今のままではいられない。たくさん話をしたい。たくさん話を聞いてほしい。これまでのことを。これからのことを。もっと、もっとあの人のことが知りたかった。
鼓動が大きく胸を打った。まるでオレを励ましてくれるように。それでいいと言ってくれてるように。


こそこそと幼馴染と話すあの人を見ても、わけの分からない焦燥感はなかった。ただ、あの人の隣にいる肉厚なブレダが分厚いコートを着てるから余計に、白いシャツだけの後ろ姿が寒々しく見えて、いても立ってもいられなくなった。
――必要以上にブレダがあの人に顔を寄せるのも癪に障った…。

「どうして、ハボックは一族の異種族間結婚の通過儀礼を知らなかったんだ? そんなことあるのだろうか?」
「それは単に奴が知ろうとしなかったからです。根本的に勉強するってことに耐性がないんです。ペンを握って机に座ることがまずダメで」
「――なるほど。それには少々心当たりがある」
「…………」
「奴は親父さんにこのまま字が読めないままでいいのかって怒鳴られて、ここを飛び出したんです。字が読めなくたって生きていけるって怒鳴り返して…」
そんな、バカな! 
振り返った白い顔にはそう、大きく書かれていた。
「一族のことは小さい頃から長の家で、口伝で教えられます。昔話のように、夜毎。でも、こいつはそれを勉強会の一つだと考えて一回も出なかった。しかも、字も読めないままプライマリースクールに通うことになったから、すぐに登校拒否です」
「プライマリースクール!?」
驚愕に彩られた顔に返す言葉が見当たらなかった。
たくさん話をしたい。聞いてほしい。でも、知ってほしくないこともある…。

「ブレダ、コート、脱げよ」
調子に乗って無用なことまで話すブレダの襟首を掴んで、とりあえず二人の会話を断ち切った。
「あ?」
「いいから!」
そんなもん着なくたって寒くないだろうに、格好付けやがって。なのに、ブレダは奪われまいとして両手でコートを押さえにかかる。力で奪えってんなら望むところだ。
だけど、手に力を入れた瞬間、今までそんな目でオレを見たことなんかなかった人が、冷たい目をオレに向けた。
「ハボック、ブレダさんが寒いだろう…」
幼馴染なのだろう? そんなこと言うんじゃない。
諭すような、呆れた声だった。でも、そんなこと言うこの人だって、親友のヒューズさんに対する仕打ちは年季を感じるほどなかなかなものがある。だけど、聞き捨てられないのはそんなことじゃなかった。
「――ちょっと、ブレダさんって何スか? こいつ、オレとタメですよ」
呆れた顔は変わらない。こんなことを言ってるからだと分かてても、止まらなかった。
「だから、呼び捨てにしろとでも?」
「オレん時ははじめっから呼び捨てだったじゃないっスか」
「お前も私のことをアンタとか言っていたじゃないか。それにさっきも言ったが、私のことは好きなように呼んだらいい。マスタングでもロイでも、な」
「…………」
好きなようにってことはこの人のことをマスタングさんとか、ロイさんとか、ロイとかロイとかロイとか……本当に…? チラリと顔色を伺うと、その人は大きく頷いた。
ついに、この人をロイと呼ぶ、呼べる日が来たのだ!
でも、いざ呼ぶとなると照れちまってなかなか言えなかった。動悸だけが速くなって、思うように声が出ない…。
その沈黙に、その人が肩を竦めた。もちろん、マスタングさんでもいいぞ。そう言って。
大きなチャンスは非常にあっさりと去っていった…。
それでも、ファミリーネームでさえ言い難かったからちょっとは前進かもしれない。オレにはこれから長い時間がある。きっそその内、名前を呼べる日が来るだろう。来るかもしれない。来て欲しい。来るといいな…。

ブレダが無言でコートを脱いで、オレに差し出した。その視線にたっぷりと同情を込めて。でも、それは見なかったことにして受け取り、寒そうに見えるシャツだけの肩にそっと掛けた。寒くないからいらないとあっさりと断られたけど…。

「あー、そうだ。里に戻ったら、ヒューズさんに電話しないと…」
満足に説明もしないで出てきたから、きっと心配してる。一日でも早く、一分でも早く、この人からの電話を待ってるはずだ。でも、そんな当たり前のことを言ったら、怪訝そうな顔をされた。
こんな山奥に電話があることが不思議だったらしい。しかも、集落に電気も通ってて、下水施設がちゃんと整って、トイレが水洗だと知ると更に目を丸くして驚いた。なんかちょっといろいろ知ってもらう必要があると思う…。
オレたちは人間たちと多くの接点を持たないように暮らしてるだけで、別に文明と切り離された未開の地に住んでるわけじゃないのだ…。



里に下りると、ブレダとはさっさと別れて、一目散にばーさんの家に向かった。そして勝手知ったる家で、電話を使う。家主に挨拶もしていないのにと渋る人に、寝てんの起こすのも何なんでと電話を押し付けた。
「心配してます」
誰がとは聞かれなかった。でも、釈然としない様子で、眉を顰める。もう一度、心配してますと繰り返した。
アンタの親友は、アンタの危機を察して駆けつけた。アンタの死に責任を感じてた。死んだらどうにもなんないって言って、もしとか、でもとか言わないで、目の前の現実に向き合ってた。オレとは違う…。
「いつの間にヒューズと仲良くなったんだ?」
仲良くなったとは思わない。これから仲良くなるとも思えなかった。でも、言葉を交わすきっかけを聞かれたら、ただ一つだけだ。
「アンタが死んだからです」
途端に黒い瞳に影が落ちた。それを隠すように瞳が伏せられて、睫毛が目の下に淡い影をつくる。
「――傷は、もう治ったのか? 痛い思いをして仮死状態に、死んだと聞いた…」
「痛かったですけど、痛くなかった。本当です。アンタが突然いなくなっちまって、死んじまって。オレは助けてもらったのに、何もできなくて。そっちの方がずっと痛かった…」
生き返ってからこの人は、それはもうにじみ出るほど楽しそうで、それに水を差すようなことはしたくなかった。だけど、生き返ったからと言って、死んだことが帳消しになるわけじゃない。例えこの人がそれを望んだとしても、鼓動のない、冷え切った身体を抱き上げたときの記憶が、それを許さなかった。
「…………」
「どうしてアンタは死んじまったんですか? アンタはあのでっかい屋敷から帰りたくても帰れなかった?」
アンタの口から聞きたい。
「――長い話しだ。しかもつまらない…」
「ヒューズさんの電話の後でいいです。知りたい。話してください」
それでも、朝になってからかけると言い張る人に首を振って、もう一度、電話を押し付けた。


W-10

そもそも、何が原因だったのだろう。
あの時の記憶はあまりに朧げだった。ただ耐え難いほど眠かったことを覚えている。それでも、あの家を出た。そして、私は眠気に負けて、どこかの道端で眠ってしまったか。それしきのことで人の命は簡単に失われるものなのか。
加害者は誰だ? 被害者は誰だ? ――私が悪かったのだ。そう言ってしまえれば簡単だった。しかしそうではない。私だけに罪があるわけではなかった。あの男だけに罪があるわけでもなかった。
何故、死ななくてはならなかったか。私の罪。あの男の罪。それを量るには、再び対峙しなくてはならない。あの男とだけではなく、自分自身の過去とも…。それはどうあっても楽しいことには思えなかった。
ハボックはそれに繋がっている電話を受け取らないことを許さなかった。今、生きているのだから、もうそれでいいじゃないか。そう言いたくなる…。しかし、この命はハボックが自らの命をもって生き返らせてくれたのだ。生き返ったからといって、死んだことをなかったことにはできない。



私から奴に電話をかけることはほとんどない。が、全くないわけではない。そのうちの貴重な数回、私は奴を待ったことはなかった。1コールか2コール目が鳴り止まないうちに受話器が上げられる。そして、それは今回も変わらなかった。違うことと言えば、こちらの話を無視して話し始めないことか。息を詰めて、受話器に耳を押し付けている気がした。
「…………」
隣でハボックがぽんと肩を叩いた。ほら、何か言ってと促す。受話器から、息をのんだ音を拾った。
「――ロ、ロイ?」
ヒューズの常にはない緊張を感じて、不意に笑い出したくなった。
「ああ。私は生き返ったようだぞ」
「…………」
たった一言で、奴の言葉を奪ったかと思うととても気分が良かった。その気分に素直に従って、笑った。――本当だ…。受話器から聞こえてくる声は呆然としていて、一層可笑しくなった。
「しかも、私はもう人間ではないらしい。妖怪の一員になったんだ」
「!」
「この素晴らしさに免じて、お前を見取ってやってもいいぞ。お前の子孫ももれなくな」
「ロイ……お前、本当にロイか? 俺の知ってるお前って奴はそんなこと言う奴じゃなかったぞ…」
「生き返ったんだ。楽しくて仕方がない。その上、生まれ変わるときにハボックが混ざったから、少し頭が悪くなったんだな」
「なるほど…」
「ヒューズ、今のは明らかに冗談だろう。失礼な奴だな」
隣でハボックが大きく肩を落とした。その丸まった背を二度ほど叩いて慰めると、大きく背中が余計に丸まってしまった。それすらハボックらしくて、楽しくなった。

唐突に思い出した。
「ああ、そうだ、新刊読んだか?」
「――あー……」
なんて、気のない返答! 例え何であれ、私が書いたものを真っ先に読んでは誰よりも辛く、誰よりも甘く批評することを自負して憚らない奴が言葉を濁すなんて全くもっておかしい。
「もしかして読んでないのか!? ――もしや出版されてないとか…」
「出版はされている。発行部数が何かの記録を樹立しそうらしいぜ」
「それは何よりだ。で、何故、お前はそれを読んでいない?」
「ロイ…。それどころじゃなかっただろう? 普通なら親友の遺稿同然だぞ。そう簡単に手に取ろうと思えるか」
「友だち甲斐のない奴だな」
遺稿同然というなら、真っ先に読むのが筋というものだろうに。
「ロイ!」
電話口でがーがー喚く声が煩くて、受話器を耳からできる限り遠ざけた。それでも声が届くのだから驚きを通り越して呆れる。

「ハボック、お前は読んだか? あの本の新刊」
「――まだですよ」
「…………」
あの本の新刊。――何故、それで話が通じるのか。
そう、ハボックは先ほど、どうしてあの本の続きを書く気になったのか、私に尋ねなかったか…。
思わずまじまじと受話器を見つめてしまった。
「ヒューズ! もしかして、ハボックに言ったのか? あの本を書いたのは私だと!」
よくも私の計画を台無しにしてくれたな!
「だって、お前、死んじまったんだもん! せめて俺から言ってやろうと思った。ハボックが知らないままじゃ、お前が死んでも死に切れないんじゃないかと思ったんだ!」
「私が言って驚かそうと思っていたのに!」
「なら、死ななきゃよかったのに!」
あ、よくもそれを言ったな!
淀みも切れ間もなく続く受話器から聞こえてくる声に腹が立って、いつものように受話器を叩き付けると、ハボックが大きなため息を付きながら受話器を持ち上げてダイヤルを回しはじめる。
幼馴染なんでしょ? そんなこと言わないでくださいよと、どこかで誰かが言っていたことを言いながら、受話器を渡された…。



二度目の電話。受話器から聞こえてくる声はもういつもの調子を取り戻したヒューズだった。改まった声に、これから何を話すのか教えるところまで。浮き足立った気持ちが凪いでいく。
「ロイ」
「――もう、人の名前でものを書きはしないと決めたよ。ちゃんと自分の名前で自分の考えていることを書こうと思う」
もう時間を無為に過ごすことはしない。自分の能力に真剣に向き合ってみようと思う。
「ふうん?」
「いろいろ反省した。こういうことは一度死ななければわからないことだろう」
責任の所在をうやむやにしてはならない。それを怠ったことが今回のことの発端の一つになったのだろう。いくつか記憶に残っている、男の妻の言葉は私にとって晴天の霹靂だったことは確かだ。
「―――そうか」
「ああ」
真贋も区別できない社会に唾棄すべく、文字を書き続けた。どれほど美しい字面を並べたところでそれは怨嗟の言葉でしかなかった。しかし、そんなものが売れれば売れるだけ溜まっていった澱は、ものの見事に昇華された。

「ロイ。たぶん、俺たちはもう少し社会を、大人を信じることが、必要だったんだ」
「…………」
それでどうなったと言うんだ。社会を信じていたら、妹は成すすべなく死んでいたのに。それでもお前は信じるべきだったというのか。私よりも何も信じていないお前が。
「ロイ、それは目に見える大きな変化じゃないかもしれない。だが、変化をもたらす要素になるんだ。関係性だよ。信じることでそこに関係が生まれるんだ。俺たちはそういうことをもっと学ぶべきだったんじゃないか。人間一人ひとりができることなんて結局、手の届く範囲に過ぎないのだろう」
「――私はもう人間ではなくなった」
「ああ、それは失礼した」
「ふふふふふ…」
「ロイ、俺たちの手が届いた範囲は大きかった。その上、俺たちが手を繋げばそれは顕著だった。だから、まるで全てに手が届いているような気になってしまっていたんだ。何でもできるってな。でもそうじゃなかった」
「…………」
「お前は生き返った。俺は自分の浅はかさを学んだ。敗者復活戦の権利を得たようなもんだろう。だから、ロイ、俺たちは過去から目を逸らさず、やり直せることはやり直そう」
負けることなど考えもしない奴だった。実際、こいつが負けたところなど見たこともない。常に人の前に、常に人の上に。そして、それを当然のこととしていた。
「お前、変わった。そんなこと言う奴じゃなかった」
「俺が変わったって言うなら、それはお前のせいだ」
死。俄かに信じられなかったことが、その言葉で一層重く圧し掛かる。確かに私は死んでいたのだ。でなければ、こんな言葉をヒューズの口から聞けるはずがない。
「―――、そうか…」
ハボックに伝えてといてくれ。愛玩犬より役に立たないと思っててすまなかったって。
「ちょっと!」
すぐ傍でこの会話をハボックが耳を澄まして聞いていることを分かってての言葉。そして、そして予想通りの反応に、受話器から聞こえてくる大きな笑い声。随分久しぶりにヒューズの闊達とした笑い声を聞いた気がした。

帰ったら、男と話し合うことを約束した。あの時、私が何を思っていたのか。あの時、男が何を思っていたのか。まずはそれを知ることからはじめなくてはならない。



翌朝、漸く家主と挨拶をすることができた。ハボックの言うばーさんという女性は、この一族の長だった。彼女もまた笑顔で私が一族に加わることを歓迎してくれた。
ハボックの家族は旅行に行っていて不在だったこともあり、その日から、族長の家でお世話になることになった。そして、望めば一日中、誰もがこの集落にいた頃のハボックの逸話を教えてくれた。まるで家族の一員のように、私を迎え入れてくれた…。


W-11

集落に穏やかな春の気配が季節を先駆けて訪れていた。

ばーさんの石造りの家の中庭で暇な奴らに囲まれて、注がれるままにハーブティを飲み続ける人。常に笑いが絶えず、それは家の外にまでも風に乗って聞こえてきた。
「何か生き返ってから、あの人やたらめったら明るくって…」
それが悪いとかじゃないんだけど、二人っきりで話す時間すら満足になくなってしまった。話したいことが山のようにあるのに、いつも誰かがあの人を取り巻いてはそれを邪魔する。ここにいるときぐらいいいじゃない。そんな言葉にあの人もまんざらじゃなさそうに頷くから、その集団に近づくことすら簡単にはできなくなってしまった。
「ハボック、そうじゃない。あの人は晴れやかって言うんだ」
「それのどこがどう違うんだよ」
その、オレは知ってる風な口を叩くな! あの人はオレの番の相手だぞ! 睨みを利かせても、どうにもブレダには通用しない。軽く肩でいなされて、ブレダもまたあの人とおしゃべりするために中庭に入っていった。
お前も来ればいいだろ? 
その軽い一言がどうにも我慢できなくて思わず中庭まで追いかけると、よく通るあの人の声が耳に届いてきた。

きっかけは犬でした。ハボックが路地裏を犬型で徘徊しているときに出会いました。ちょうど犬を買いに行こうと思っていたので、とても魅力に感じましたよ。それは間違いありません。もちろん人型の、金髪も温かそうで眩しかったです。青い瞳も魅力的でした。
ええ、真面目に働いています。決して手を抜いたりせずに、誠実な働きぶりです。掃除も洗濯も炊事も買い物も。ここを出て一人、挫けることも多かっただろうと思いますが、変に捻くれることがなかったんだと思いました。ええ、そうです。彼は読み書き計算とできるようになったんですよ。
ふふふ。どうでしょう。私はきっかけを作っただけだと思います。ハボックは自ら教会で開かれている勉強会に通い、そこでしっかり勉強していました。

愕然とした。オレはそこで語られていた話の内容をはじめて知って、中庭に入ることができなくなった。
あの人は集落の奴らに問われるまま、オレのことを何でも話していたのだ。オレはここに長居し過ぎたことを知った…。



深夜になって漸く人がいなくなった。夕飯も大人数で食べて、その後も長々と居座っていた奴らはあの人が大きなあくびをすると続きはまた明日と言って次々に帰っていった。その後あの人は家主のばーさんとたっぷりおしゃべりしてから、オレが薪をくべて沸かせた風呂にはいって、客間で就寝に至る。そこでやっと二人きりになれた。
濡れ髪のままにベッドに転がって眠っちまいそうな人からタオルを受け取って、真っ直ぐな黒髪を拭う。
「帰りましょう」
そう単刀直入に切り出した。
途端にいやいやと首を振られる。
「せめて、お前のご両親に挨拶がしたい」
そこまでここを気に入ってもらえるのは悪い気分じゃなかったけど、オレがいたたまれない。ここにいればいるほど、アンタはオレのことあれやこれやと話すし、その内、きっとオレのあることないこと吹き込む奴らが出てきそうで…。
「そんなの待ってたら、数年ここにいることになっちゃいますよ」
「後、数日もしたら帰ってくると聞いた」
「誰にですか?」
「族長やブレダさんに」
「奴らのことは信用できません!」
それにブレダにさんはいらない!
「では、みんなが言っていた」
「…………」
どれだけこの人をここに留めておきたいんだ。
粗方水気が取れてタオルをサイドテーブルに置く。乱れた黒髪を手櫛で整えれば完成だ。
「オレを信用して下さい。この一族は旅行に行くとなったら数年単位なんですよ。あと余裕で3年は帰ってきません!」
でも帰りたくない。まだここにいたいんだ…。
真っ黒な瞳を少し潤ませながらオレを見上げる、その目はいつだって実に雄弁だった。でも、ここで負けたら本当にこの人はここに居ついてしまう気もして頷くことはできなかった。胸がキリキリ痛んでも頷けない。
「か、帰ってきたら、電話で連絡してもらいましょう。そしたら、またここに来ればいい。ね? そうしましょう? あー、ヒューズさんが留守番してくれてて、うちを掃除してくれてますから、まずは一旦帰りましょう?」
ヒューズに留守番? 掃除?
その一言でぱっと目の色が変わった。はっきりとした好奇心が浮かぶ…。
「ヒューズに掃除を頼んだのか?」
「――ええ。快く頷いてくれましたよ…」
「すごい奴だな、お前。奴は昔からそんなことはしないで生きてきたんだぞ」
ああ、それならアンタと同じですねとは、何とか言わないでいられた。言ったが最後、へそを曲げてずっとここにいるとか言い出し兼ねない…。せっかく風向きが良くなってきたのに。
「ちょっと家に帰ってみたくなった」
「でしょ? んじゃ、帰りましょうね」
膳は急げで、その手を取った。今、すぐに帰るために。
「え?」
黒い目が見開かれる。今からか? 動揺を隠せない人を強引に立ち上がらせて、ドアに手が伸びた瞬間、思いっきり腕を引かれた。

少しだけ非難を込めて振り返れば、眉を顰めた人が、挨拶もしないでかと言う。別れの挨拶なんかしてたら何週間もここにいるはめになりますよと同じように眉を顰めて言うと、黒い瞳がもの言いたげに揺れた。
ここで何スかと聞いたら、後一日ここにいたいとか言われて、オレはそれをダメだって言えなくて、ずるずると一週間ぐらいここにいるはめになって。でも、じっとオレを見上げる瞳を結局無視することができなくて、敗北感に見舞われながら何スかと言ってしまうオレ。
その一言に、この人はほっとしたような顔を見せる。ああ、ほら、これでダメだなんてオレには言えやしない…。

「お前は私でいいのか?」
「はい?」
一瞬、何を言われているのか、分からなかった。それぐらい唐突だった。マヌケ面で聞き返すオレに、この人は真剣な顔をしてくり返す。
「お前は私が伴侶で構わないのか? お前が泉でしたことは生涯に一度だけの業だと聞いた。しかも、お前ほど早く婚期を迎えたものはいないとも。――考えさせて欲しいと言われても困るがな。今後の生活のことを考えて、聞いておきたい」
私がどう思っているかは既に伝えているだろう? しかし、私はまだお前が何を思っているか聞いていない。
言ってなかったとは思わなかった。でも、この人が聞いていないというならそうなのかもしれない。それに何回言っても構わなかった。オレの気持ちに変わりはない。
「――もっと。もっとちゃんとプロポーズするつもりでした。オレは稼ぎも十分じゃないし、字も読めなかった。それでどうやってプロポーズしろって言うんスか」
「お前は覚えてないだろうが、お前は稼ぎがなくても、字が読めなくても、私を養うと言った。そして、それを行った」
「格好付けたいじゃないスか。一世一代の舞台ですもん」
「稼ぎがなくたって、字が読めなくたって、お前は十分格好良いだろう?」
「あー…、それはどうも…」
犬になれるからでしょ? 
まあ、そんなところだと思いつつ、礼を言えば、いいえ、どういたしましてと笑顔で返る。
「私と共に生きて欲しい」
「その、オレが言いたいって…」
「お前の言葉を持っていたら、埒が明かない。それこそ余裕で数年はかかりそうだ」
「…………」
あ、酷いこと、真顔で言われてる。
「ハボック」
しかも、言ってる本人には酷いこと言っている自覚がなかった。その目はどこまでも本気で真剣だった。でも、まあ、オレよりもこの人の方がいつだって男前だから。
「――えーっと、はい。こんなオレでよければ、どうぞよろしくお願いします」
「私こそ、こんな私だがよろしく頼む」
もっと格好良くバシッとプロポーズするつもりだったのに。でも、こんなのがオレたちらしいのかもしれない。それに格好良い悪いなんて大きな問題じゃなかった。ずっと一緒にいる。この約束の前には。

声を潜めて笑い合う。それから、二人でドアを開けた。



誰に見送られるでもなく、深夜にひっそりと集落を抜ける。前にこの集落を飛び出したときもこんな感じだった。でも、今回は一人じゃない。手に手を取って、誰にもばれないように息を殺して。
まるで駆け落ちでもしているみたいだな。
その人の言葉に、正に駆け落ちしてる気がしてきた。今ここで集落の誰かに見つかったら、問答無用で連れ戻されてしまいそうだし。でも、誰にも邪魔させる気はない。新しい生活を送るためにも、全身全霊をもって辺りの気配を探った。



2008/02/26〜2009/03/12

ここでLOVEBOMBS本編は終わりとなります。
タイトルは「愛の迷惑行為」という意味があるそうで、
いつもより過剰気味な愛情表現を意識して書いていました。
またこの作品には連載当初から多くの励ましをいただいて、完結に至りました。
本当に本当に感謝しています。

願わくば、読んでくださった方にとって少しでも面白いものでありますように!
更に、このハボ犬を書くきっかけを下さったRさまに感謝しています。ありがとうございました!
そして、この作品を読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。
お疲れさまでした! 次に向けて頑張ります!!!
  鳶