春だから
03

 この形勢を逆転させるには、大佐の気持ちを奮い立たせる必要があった。ハボックごときに言いくるめられるなんて、大佐の階級が泣きますぜ。そのために必要なキーワードをいくつかくり出せば、途端にハボックが眉を顰めた。大佐の気持ちを奮い起こすキーワードは同時にハボックの気持ちを消沈させるキーワードでもある。
「大佐、シシ肉は美味いんですよ。シシ肉を食べたって言ったら、ヒューズ中佐に自慢できますぜ。ヒューズ中佐はきっとすんごく羨ましがるでしょうね。目に浮かびます」
「む」
 それは魅力だなあ。そう文字が、顔に浮かび上がりつつある。そして、その文字がきっと俺よりはっきりと見えるんだろうハボックが、早々に、実にあっさりと諦める。大佐が命令を下す前に、大きなため息と共に吐き出した。
「分かりました。んなに今食いたいって言うなら、地元の猟友会にいいシシ肉がないか聞いてあげましょう」
 それは正直、盲点だった。そうだ。そういう手があったんだ。こいつにわざわざ獲らせる必要は必ずしもない。こいつは俺の持ってはない、美味いシシ肉を手に入れるツテをたんまりと持っていたんだった。あー、そいつはいい。大佐も付いて行くとかないし、リスク回避も完璧だ。これで解決じゃないか。よし! さすが俺だ! 後は大佐がうんと頷くだけでいい。しかし、今度は肝心の大佐のノリが悪くなっていた。
「大佐?」
 ハボックを見上げる、大佐の眉間のしわがまだ深くなっていた。
「ハボック、実家では狩猟免許を取っていたのか?」
「ええまあ。田舎のガキは普通持ってると思いますよ。キジバトとか鹿とか良く獲りました」
「ふうん」
「猪も鹿も数が増えると牧草地を荒らすんで、駆除目的もあって取らせられるんですよ」
「へー」
 狩猟それ自体に興味があるわけじゃないと、その適当な相槌が教える。それでも、何かしらに興味があるからこそこの話を引っ張ってんだろう。それが何か、凡庸な俺たちには想像も付かない。まあ、あんま大したことじゃないんだろうけど。
「えっと、あの?」
 ハボックが慣れた調子で真意を質せば、大佐が明後日の方を向いたまま口を開いた。
「春山、いいなあ…。きっともう咲いてる花もあるんだろうなあ。お弁当を持って山歩きなんて楽しいだろうなあ。おかずはから揚げとテリアキハンバーグで。そうだ、おにぎりがいいなあ」
「えーっと、寒い山ん中だと、米はボソボソになるから食えたもんじゃないですよ」
「ふうん」
「あー、じゃあ、こういうのはどうです? まだ春先って言っても芽吹くのは先ですから、散策に来てる人も少ないでしょうね。ハイキングコースをのんびり歩いて、見晴のいいとこで火を起こして、ヌードルを食べる。アツアツで美味しいですよ」
「ヌードル!」
 我が意を得たり! ハボックを視界に入れた、大佐の目が輝き出す。ハボックが調子に乗って、「せっかく火を起こすなら、なんか用意して、向こうで作りましょうか?」と大佐の遊びたい心を猛烈に刺激し始めた。
「何が作れるんだ?」
「まあ、大抵のものは?」
「む、そうか…」
「大佐が食べたいものを言ってください。できるだけ希望に沿えるようにしますんで。あ、でも、無理なのは無理って言いますからね」
「分かった。――では、ピザは?」
「大佐が窯を錬成してくれるなら、できると思いますよ?」
「!」

危険なことになりつつあった話題の終着点が着実に変わりつつあった。美味いシシ肉を食べることから、大佐とハボックのハイキングデートプランへ…。
「その火で、シシを焼きましょうぜ…。スペアリブとか、ジュワって、きっと美味いですよ」
「シシかあ…」
大佐の心は既にシシよりも、パエリアやミネストローネや焼きリンゴに向かっていた。わざわざ野生の猪を獲って食べるなんて面倒臭そう。だったら、ヌードルの方がいいなあ。大佐の思っていることが手に取るように分かった。ハボックが更にダメ押しのように、ダッチオーブンを持って行きましょうとか言いやがってる。困った。これは困ったぞ!

 この絶体絶命の窮地を救ってくれたのは、昼休み5分前に颯爽と司令室に戻ってきた、微かに硝煙の臭いをまとうもう一人の上司だった。納得のいく射撃訓練ができたんだろう、その額に僅かに汗を滲ませ、充足に満ち足りた笑顔を浮かべていた。そして、その爽やかな笑顔のまま、「あら、いいわね、シシ」とおっしゃった。
「そんなに美味しいなら食べてみたかったわ。狩猟シーズンって、そんなに厳密だったかしら?」
「ホ、ホークアイ中尉…」
 この中尉の一言。ワイルドカードさながらの、形勢逆転を生み出す。勝負はついたも同然だった。そっと胸を撫で下ろす。
 そこに透かさず、司令室の端からファルマンが分厚いファイルを抱え走り寄ってきた。そのまま、大佐の机の前、つまり、俺たちの隣に並んだ。
「一般的には、ハボック少尉の言うとおり、狩猟シーズンは、11月中旬から2月中旬のようですが、地域によって幅があるようですな。それでも3月に掛かっているところはないようですが。しかし、例外はあるようです。個体調節や駆除目的の申請があれば、随時狩猟は行っているようです。この場合、主に地元猟友会に依頼するようですが、時にはスーパーバイザーに依頼することもあるようです。軍への依頼も過去記録されています。現在、東部郊外の一地区からシシ個体数増加による駆除依頼が出ているようです。それから、シシの繁殖は12月から約2か月間というのが一般的なようです。――私も、僭越ながら、美味しいシシ肉を食べてみたいです」
 ファルマン。つまり、お前も暇を持て余して、俺の話を聞いて、さっきからがさがさと資料をあさって調べてたんだな。だが、実に有益な情報だ。ありがとう。
「そう、何事にも例外はあるのよね。ハボック少尉」
 ホークアイ中尉はファルマンに対し大きく頷いてから、ハボックに視線を向けた。
「――イエス、マム」
「個体調節で駆除した個体を食べてはいけないという決まりはありません」
「はい…」
「楽しみね」
 大佐、おでこが真っ黒ですから食堂に行く前に、確認してちゃんと落としてくださいね。北側のトイレの手洗い場に確かたわしが置いてあったと思います。では、お先に休憩をいただきます。そう言ってホークアイ中尉は司令室を去って行った。俺たちはその後ろ姿を見送る。見えなくなっても、見送った。単に振り返りたくなかったから…。背後から、春の日差しに相応しくない、暗く、沈んだ重い空気が漂い出していた。

「あー、大佐。俺たちと一緒に留守番して、ハボックの帰りを待ちますか? 大佐んところでするバーベキューもきっと楽しいですよ」
「春山は…?」
 私のピザは? その問いに返る答えはない。中尉のたった一言、たった3分で形勢が覆る、この現実を前に。
「ハボック、大佐が春山に行きたがっている。連れてってやれや。大佐の好きなものばっかり入れて、弁当も作れや。あー、向こうで火を起こしてなんか作るんでしたっけ? ハボック、ちゃんと用意してやれよ」
 でも、あくまでも目的は猪。最終決定をされた、その覆らない事実に、大佐が真っ黒な額を押さえたまま、机に突っ伏した。まあ、これすらいつものことと言えば、いつものことだった。
2014/03/31