02
近くで見ると、その額には書類の文字がはっきりと転写されていた。机に突っ伏し、書類に顔を押し付けて長時間居眠りしていたことの証しだ。
後ろを付いてきたハボックが、大佐の机の前に並んで立つとおもむろに手を伸ばして、その大佐の額をゴシゴシと擦った。そんな唐突の行為にも大佐は嫌がらす、ハボックの成すがままだ。むしろ、そのハボックを見つめる目には感謝の念まで感じられる。ああ、文字が写ってたか、ありがとう。みないな…。だが、ハボックが素手で擦ったから、転写した文字は大佐の額に黒く伸びて広がっただけだった。ハボックもこれ以上擦っては逆効果だと手を引っ込める。濡らした雑巾でも持ってこないとこれは無理だろ、と思ったが敢えて違うことを言った。俺の怒りは大佐のその間抜けな顔を見ている内に萎んでいっていた。
「俺の上申書に何してくれてんですか」
しかし、大佐はそっけなく、俺をちらっと見て再提出と一言。これに関してはもう言うことはないとばかりに、ハボックに向き直って、椅子に深く座りなおし、背もたれに身体を預けた。
「三つ足というのは、トラバサミのような罠に掛かって自力で脱出した際に片足を無くした個体のことか?」
「ええ、そうです」
「美味しいシシ肉かあ」
どうやら大佐は俺たちの会話をはじめから盗み聞きしていたらしい。上申書は腑に落ちないが、話の流れ自体はそう悪くはなかった。大佐がハボックにびしっと言ってやれば、ハボックは、じゃっと言って、ひとっ走りして獲ってくる。俺はそのおこぼれに預かればそれでいいのだ。
「ハボック、ほら、大佐さまも食いたいってよ」
「えー…、本当っスか?」
それでもハボックは煮え切らない。「大佐はシシ肉とかより、菜の花のパスタとかがいいでしょ?」と、国軍大佐さまに対して草食を勧める有様だ。そう言われれば、大佐だってシシ肉への興味は増すと言うもの。案の定、「よし。それなら、私も一緒に行ってやろう」と言い出した。
ハボックめ、お前がとっと行くって言わないから、マジで面倒な事態に発展しかけてるじゃねえか。俺は、ただの美味いシシ肉が食べたいだけなんだよ。
「えーっと、大佐は待ってましょうよ」
「何故だ、ブレダ?」
「何かあったら、ハボックが大変でしょう?」
イノシシに直撃されたとか、熊に齧られたとか、遭難したとか、いかにもありそうでしょ? そうしたら、東方軍が出動するとかいう話に発展し兼ねないし、下手したら、中央に報告ってことも考えられる。大佐だって、ただの遊びに一個小隊が出張るとか嫌でしょ?
しかし、大佐はにこっと笑顔で言った。言ってみせた。
「大丈夫。そんなのいつものことだ。な、ハボック」
何、達観したことを言ってるんですか! そう突っ込んでしまう一瞬手前で、それは自分の役割じゃないことに気付いて口を閉じる。なにに、その役目を負ったハボックが「はあ、まあ、そうですね」と頷いた。
「!」
その返答に大佐が満足そうに頷いた。――沈黙。ハボックは悟りを開いてしまったのか。勘弁してくれ!
祈るような気持ちで奴を見れば、えーっとと呟いて、指先で鼻先を数回擦る。
「あの、違ってたら本当に申し訳ないんスけど。東方司令部の誇る頭のいー人たちにこんなこと言うのはなんですが、もしかして?」
ハボックにしては随分生意気な前置きを言った。まだ眠気が残っている大佐は何を言われたかよく分からないのか、ぽかーんとハボックを見上げている。
「大佐。ブレダも。狩猟シーズンはもう終わっているから、無理っスよ」
「は?」
「だから、狩猟シーズン」
狩猟シーズン?
シーズンってことはシーズンオフがあるあれか? そんなの誰が決めるんだ。鹿か、猪か? 野鳥が集まって会議でもしてるってのか? ハボックの分際で知恵のあることを言いやがって。たっぷりと俺たちの顔を見直してから、更にくり返す。
「あ、もしかして、知りませんでした? 鳥も鹿も猪もいつでも誰でも獲って良い訳ないでしょ。狩猟にはちゃんと狩猟対象鳥獣ってのがあるし、狩猟シーズンがあるし、狩猟免許が必要なんですよ。大抵どの地域でも狩猟シーズンは11月半ばから2月半ばで終了してるもんです。それにオレはこの辺りの狩猟免許持ってないんで、どのみち色々と無理です」
「は?」
「一応言っておきますけど、この間の三つ足は狩猟じゃなくて駆除の名目で偶々近くにいたオレの隊に連絡が来たってだけの話ですから」
つまり、獲ってこいと言っても、はい、行ってきますとはいかないってわけなのか…。しかし、こういう時にこそ大佐の出番だ。無理って言われれば無理を通してなんぼの、我らが大佐だ。その真価の数分の一をこのハボックに適用してやって下さいよ。
案の定、大佐の眉間のしわが徐々に深くなって行けば、ハボックがそわそわし出した。
「えっと、えっとー、そんなに食いたいなら次のシーズンには免許取って、獲ってきてあげますよ。野生のカモだって美味いし、獲りたての鹿の刺身も美味いですから、楽しみにしててくださいね。大佐がどうしてもっていうなら一緒に連れてってあげてもいいですよ」
大佐は今が良いって言ってんだぜ、ハボック!
「あのね、本当に無理やり獲っても美味くないですよ。今、繁殖期ですから。繁殖期のシシは、脂身は硬化してるし、血は臭いし食えたもんじゃないし。だから、来シーズンまで待ちましょう。ね?」
「全ての個体が繁殖期にわけじゃねえだろ、ハボック」
「大佐、もう昼食ですし。この話はこれで終わりです」
「うーん…」
大佐の勢いは明らかに削がれつつあった。まあ、元々、シシ肉自体に興味があるわけではないから仕方がないのかもしれない。反対に、ハボックの勢いが増す。
「大佐、オレがアンタに不味いものを食わせたことがありましたか。ないでしょ。ええ、ないですよね。だから、来シーズンです」
「うん…」
えー、なにそのカンケー…。なんでそんなことで簡単に頷いちゃうんですか…。そのよく分からない信頼関係が、俺の計画に綻びを齎そうとしていた…。