01
草木萌出季節。ここ東方司令部司令室においても等しく春が訪れていた。柔らかで温かい日射しが、背後の窓から降りそそぐ中、アメストリス国軍東方司令官ロイ・マスタング大佐は当たり前のようにぐーすか居眠りこいでる…。あーまあ、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の理由を見つけては舟をこいでる人だけど、春という季節にこれがまた居眠りがよく似合う。そして、それを積極的に咎めようとするものはいなかった。その役割を負った我らがホークアイ中尉は射撃訓練に出掛けていて不在だったのだ。
――春眠、昼夜を問わず。
つまり、襟を正したくなる上司は席を外し、司令室に残ったもう一人の上司はそんな具合だから、部下たちもまた当然春の陽気に誘われた態度にもなろうってもんだろう。
隣の同僚は随分前からペンを持ったままピクリとも動かなくなっていた。書類を前に気絶しちまったんだろう。いつものことと言えばいつものことだが、その顔が時折嬉しそうに歪む。春だから頭に花が咲いちまって、書類がサラサラ書けている夢でも見てんのかもしれない。不憫な奴…。
そういう俺は午前のノルマを着実に終え、昼休みをただ待つだけの、この虚しい時間に食欲がムラムラと湧いてきた所だった。
「おい、ハボック、あれどうした?」
「――んあ?」
声を掛けた瞬間、ビクリと身体が大きく震えた。どうやらマジ寝していたらしい。真っ白な書類に、ぽたりと涎が落ちた。汚ねえな、オイ!
「あー? あれって何だよ」
「あれって言えば、あれだろ。郊外の休耕地に出た三つ足のイノシシ。お前んとこの隊が仕留めたんだろ」
「あー、ああ、オレが仕留めたあれね。どうしたかって? ちゃんと処分したけど?」
「マジかよ!」
ハボックは、どうだったっけと言わんばかりに、まだ眠そうな、まあいつも眠そうな目を数回瞬いた。
「えーっと、正確には、食いたいっていう奴らにやったんだったかなぁ」
「はあ? 全部か?」
「全部」
何で? その垂れた目が、捕まえたイノシシの行方なんてちっとも興味がないことを雄弁に伝えた。そして、早々にこの話題は終わったと、大きな欠伸をしながら時計を振り返って、がっくりと項垂れて大きな大きなため息。昼休みまでまだ時間があるからか。書類に一つも文字がなく真っ白だったからか、そこに大きな涎染みが浮いていたからか。しかし、俺的にはまだ話は終わっていない。
「もったいねえな。シシ肉って言えば、キロ一万とかで売れんだろ? 自分で食わないなら売ったらいいじゃねえかよ。考えなかったのか?」
また目を瞬く。そして、ずっと握りしめていたペンを漸く放し、掌を開いたり閉じたり、器用にも指をばらばらに動かして、指が凝ったとでも言いたいのか。
「もったいない。ああ、もったいない」
「そうは言ってもなあ」
「美味いんだろ?」
「まあ、そうだな。確かに美味い。だけど個体による…」
日頃、ド田舎出身のハボックを羨む余地は毛ほどもないのだが、田舎でしか味わえない味覚はそれなりに魅力を孕んでいるのは事実だった。
「あの休耕地で仕留めた三つ足はでかかった。300キロって言ったらオーバーかもしれないけど、それぐらいはあったと思う。食える部分はその半分ぐらいだから150キロか」
「つまり、単純に計算しても、売ったら150万だ」
「今はキロ4、5千ぐらいじゃねーかなあ」
「それでも結構な額じゃねえかよ」
欲しいって言った奴にただであげちまうなんて、どれだけ豪胆なんだよ。
「でもなあ、そんな値段でどこも買ってくれないって。つうか、誰も見向きもしない」
「はあ?」
「繁殖期の雄なんて臭くて食えたもんじゃない。シシは脂身が美味いんだけど、繁殖期の雄は肩の辺りの脂身が硬くなるんだ。しかも、血抜きもしてない。持って行った奴らも一口も食えずに捨ててるだろ。だから、あの辺の猟友会も処分をこっちに任せたんだ」
んで、そういうことを知らない奴らだけがチョーダイって言ったり、売ったらいくらになるとか、もったいないとか言ってるってか…。
「なんだよ。つまんねえの。シシ肉って美味いって言われてるけど、俺は本当に美味いって思って食ったことねえんだわ。獲ったばっかの肉なら美味いと思ったんだがなあ」
やっぱ肉は長い時間を掛けて食料として改良に改良を重ねたものってことか。
俺が一つの結論に達しようとしたとき、ハボックが煙草に手を伸ばしながら、笑いを堪えるように言った。
「ブレダ。本当に美味いシシ肉は市場には出回らないぜ。だから、その辺の店で、高い金を払って食べるのは無駄だ」
何だと。それはこの東方司令部美食倶楽部名誉部員でもある俺にとって、聞き捨てならねえじゃねえか。
「何でだ?」
「本当に美味いからだろ。本当に美味いシシ肉は獲った奴らが市場に流さないんだ。自分で食べるから。売るのは大抵自分が食べない、あんま美味くない肉だけ」
「…………」
シシ肉ってのは美味いって持てはやされる理由はあると思うけど。そう、美味い肉を知っている奴は続けた。
「ハボック君」
「あん?」
「金は出す。イノシシ、獲ってこいよ。その本当に美味い、市場に出回らないってヤツを」
「えー…」
ちょーめんどくさーい!
そう思おうが言おうが、お前は、その手元の真っ白な書類に、これから手を付けるべきその前に積み重なった書類群を思い出せば我に返る。手伝ってもらわなきゃ絶対終わらないと。んで、手伝ってもらうにはイノシシを獲ってくればいいんだと。
まだ昼休みまで30分もある。ハボック。簡単な奴。俺はただ奴が目の前の現実に気付くのを待つだけでいいのだ! ふははははっ! 俺の計画は完璧だ! ――完璧なのに、完璧なのに、不吉な影が差しこんでいる…。ああ、また無造作に丸められた紙屑が飛んできた。机の上と言わず、足元までにも広がり、ハボックがまたひょいと避けた。敢えて視界に入れないようにしていたのに、もはや無視できる量ではなくなっている…。
おーい。
今度は呪いの呼び声が。ここは聞こえないふりをするべきだった。そう、それが俺たちを呼んでいる可能性がない、わけでもないのだから…。
ハボックがまた投げつけられた紙屑を避けた。が、落ちる寸前にキャッチして、その紙屑を広げて、俺に渡す。
「これ、お前が先月提出した上申書じゃん?」
「ちょっと、大佐っ!」
振り返ざるを得なかった。最重要という判子が押された書類を丸めて、メガホン代わりにしている大佐を…。クソ! 視界に入れないようにしてたのに。俺の数週間にも及ぶ努力を結集して作成された上申書を一枚ずつ丸めては投げていたのかよ!
「おーい、私も食べてみたいぞー」
食べてみたいじゃないだろ。正しくは、構ってくれだ! アンタは一体どこのカマッテちゃんなんだよ! しかし、今の俺には冷静につっこみを入れる余裕も冷静さもなかった。
「俺の上申書に何してんですかっ!」
大佐の策略にまんまとハメられた感満載だったが、いても経ってもいられなかった。