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朝五時に起きる。洗面身支度を済ませたらざっと部屋の中を片付け、家を出る。朝五時半。近所の古馴染みのパン屋で、開店前に焼き立てのいつものウィートのパンを二つ購入。お前が毎日毎日同じものを買うからメニューから外せないじゃないか。その店主の小言すら同じだ。
道順も変えることはせず、大通りの街路樹が茂った中央分離帯の遊歩道を歩く。犬の散歩のご婦人に、ランニングの主人。そして、軍人たちとすれ違う。いつもより少ない軍人の数。足早に過ぎる者。タバコを吸いながらのんびりと歩く者。その日によってその割合も数も異なった。だが行き先は一様にこの大通りの先にある東方司令部だ。
軍の勤務人員は一定で、早番の人員にも大きな差はないはずなのに、朝の出勤人数は明らかに大きな変動がある。それは街の治安に密接に関わりを持っていた。何かしらの事件を抱えているときは早番のものが既に呼び出されているのだろう。この時間帯に司令部へ向かうものは少なくなる。新聞に書かれないことは多いが、注意深く生きていれば分かることは多い。
背後を振り返り、東方司令部を視界に入れる。これもまた私の習慣だ。
東方司令部。中央司令部とは異なり、装飾のないただ大きいだけの建物。東部内乱で半壊し、その司令部の機能だけを急ぎ回復させるために頑丈さだけを優先に作られた。しかし、その飾り気のない様が逆にこの東方司令部への信頼感を確かなものにしている気がしている。それにこの建物はこれでいいのかもしれない。この中には、それを補って余りあるほどの派手な男がいることを知っていた。――そう感慨に耽ることもいつものこと。
裏路地に入り、三回曲がると小さいながらも我が店、古書屋にたどり着く。五時五十分。
キャッシャーの掛け布を外し、パンの入った紙袋を置き、キャッシャーの後ろの小部屋になっているキッチンでケトルにたっぷりと水を入れて、火にかける。そして、はたきを手にとる。二部屋に入るだけ棚をいれ、本を並べただけの室内は広くはない。本棚の隙間にはたきをいれる。毎日のことだから、埃一つもゆるさじという覚悟は不必要。習慣としての掃除に過ぎなかった。
ただの古書屋らしく、本の回転は悪い。どの本も定位置となっていた。その背表紙を一つずつ眺め、いつもと変わりないことを確認し終わる頃、ケトルがけたたましく唸りをあげる。ケトルを火から下ろし、ミルとペーパーフィルターを用意し、コーヒー豆の硬さとにおいを楽しみながらコーヒーを入れる。
キャッシャー脇のサイドテーブルにコーヒーを用意し、椅子に座れば、正面の時計は六時十分を差していた。いつもと同じ。数十年くり返しているルーティンワークだ。
老いて思うことも考えることも多い。ただ衰えを感じさせない思考に対して体力の衰えは無視できるものではなかった。限られた体力を有益に、自ら望むことに使うと考えれば、日常の瑣末なことに煩わされることは避けたかった。ゆえに思考を極力節約するべく、日常の大半を決めたことを決めたように行う。そして、いつものようにパンを二つ食べ終われば、六時半。習慣に従い、早すぎる開店を迎えた。
客に期待することはない。一日数人来るかどうかの店だ。月に一人か二人、馴染みの上客が高額本を購入する。それだけで老人が一人で食べていくには十分な収入となった。
この古書屋にある本の総数の約1%弱に当たる本がいわゆる高額な希少本だった。その中にはもちろん錬金術書もある。古書を扱う本屋の店主を生業にしている以上、錬金術を知らなくともその価値や真贋に無頓着ではいられない。
今日も静かな店内で昨日の読みかけの本を開いた。昼食まで、この本を読み終えることにしていた。
六時四十五分。早すぎる客がドアを控えめに叩いて、静かにドアを開けて入ってくる。大抵、今日読むと決めている本から顔を上げることはない。
木の床を叩く軍靴特有の堅い足音が響く。軍人は客じゃない。だが、客じゃないが特別な客もいた。その客は猫のように歩く。軽やかさがその足音を消すようにして、目が合うと目元をふと和ませる。しかし、彼は最近はめったに姿を見せなくなった。彼の居城を開けるわけにはいかないのだろう。その彼に代わる、少し足音を潜めて歩く、図書館が苦手で萎縮して歩いている生徒を連想させる、彼の名代が時折訪れるようになっていた。
「ハボック少尉。焔の大佐の使いか?」
はあ。まるきり本屋も図書館もそこにいる人も苦手ですといった態で小さく頭を下げる。口には火のついていないタバコ。口がどうにも寂しくて。以前、何を言う前にそう自己申告されたことがあった。
「早いな」
速さを要する用事か?
ふつふつと好奇心が沸き上がってくるのを感じた。
この私に、手の中の本を閉じさせる相手はそういない。東部の雄、マスタング大佐は実に興味深い存在だった。老人の好奇心を掻き立てるほどに。
この老人の感慨に理解が及ばないハボック少尉は、大きなあくびをかみ締めて、その辺の雑貨屋の紙袋を、恐らく本を、キャッシャーの上に置いた。
「大佐の本です。これをしばらく置かせて欲しいと…」
「大佐が?」
「はあ」
タバコを銜えたまま器用に先を話そうとするのを制す。「待ちたまえ。私に話させろ」
こういう時のために常日頃思考を節約しているのだ。そう言えば、ハボック少尉の肩ががっくりと落ち込む。その肩が語る。そういうと思ってこんなに早く着たんですよ。じいさん、長考なんですもんと。
「ほら、そこの椅子に座ることを許可してやろう。美味いコーヒーも入れてやる。その辺の本ならなんでも読んでいいぞ」
頭はイマイチ弱そうだが柔和な男だった。その腕っぷしはいかほどのものか知らないが、あの大佐の部下である以上、それなりのものなのかもしれない。しかし、武官だろうに、軍人特有の粗野感に欠いた。日常生活音がほとんどしないのだ。
「あのですね、いつも言ってると思うんですが、オレ、あの人の使いっぱしりしてますが、そんなにヒマじゃないいんスよ…」
それでも、目の前に大きなマグカップに入ったコーヒーをおいてやれば、口を噤み、椅子に腰を下ろした。なんだかんだ言っても、いつもこの手の老人の暇つぶしに根気良く付き合ってくれる男なのだ。そして、言われるままに、キャッシャー脇に置かれた本を手に取った。
その本を手に取るとは全く思わなくて、思わず凝視してしまえば、ハボック少尉は照れることも悪びれる様子もなくにやりと笑う。
「この店にこんなイカした本があるとは思いませんでしたよ。どーぞ、好きなだけ考えててください」
それは、知り合いの業者が今一番売れてる本だと勝手に置いていった本だった。
七時半。きっかり三十分の沈思黙考を得て、口を開く。
「――最近、古書ギルドで話題になっていることがある。三人の子どもたちが錬金術書を、それも高額で希少なものを立て続けに三冊購入した」
珍しく、ハボック少尉が真剣な顔でその本を読んでいた。私の突然の言葉に、青い瞳が眠そうに数回瞬き、そのまま先を促す。
「しかも、この東部で、だ!」
最年少の国家錬金術師、鋼の錬金術師の後見である、マスタング大佐がいるこの東部で。また希少な錬金術書を読む若年者の錬金術師が現れたのだ。興奮するなという方が無理だろう。また最年少記録を更新するのか。最年少国家錬金術師が誕生するのか。
「マスタング大佐は自らの本を使って彼らを試そうとしている」
この本の価値を知り、この本を探し出せるのか。大佐は自らの本でもって試そうとしているのだ。彼らの能力を!
「どうだ、ハボック少尉!」
この老人の推理はどうだ! 興奮を隠すのは難しかった。
しかし、ハボック少尉は開いたままの本に顔を向けなおした。
「――最近、うちで問題になっていることがあります。あるテロ組織が急激に力をつけています。その資金源が、希少な錬金術書の複写の疑いが生じてます。大佐の知り合いがその劣悪な複写本を持ってきたんですよ。その出回っている本が現在どうやら三種で、その子どもたちが買った本と同じなんですね」
なんと味気ない。ロマンの欠片もない。挙句に口惜しい。最近の東部の情勢がやや不安定だと把握していただけに。
「なんだ、つまらん。まあ、そうだろうな。冷静に考えれば、鋼の錬金術師、エルリック兄弟みたいなのがそう簡単にいるわけがない」
エルリック兄弟もまたこの店の上客だった。弟の方が礼儀正しく、印象が良い。しかし、二人とも本を読む目が確かだった。その真剣さは威圧感すらあり、彼らをただの子どもにみせなかった。
「今、そのテロ組織が、この本を買いたくなるような噂を流してます。その子どもたちがこの本を買いに着たら、まあ関係性濃厚ということでして。それらしいのが来たら教えて欲しいということなんですが」
「現実はなんとも空しいものだな。他の奴がこの本を買いに来たらどうする? 断った方がいいのか?」
その本を夢中で読んでいたハボック少尉が本から顔を上げ、閉じて、元あった場所に戻した。その目が笑っている。
「その辺はお任せします、と言われてます」
その言葉に十分見透かされていることを知る。
「分かったよ。分かった。そう伝えてくれ。もう行け」
「はあ、んじゃ、礼は本人に手土産持たせて来させますから」
「…………」
ハボック少尉もまた私がマスタング大佐の蔵書を勝手に、どこの馬の骨とも分からないものに売ることはないことを十分分かっていた。敬意を表するに相応しい鋼の錬金術師に対し、少々無愛想になってしまうのは、彼が大佐の被後見者であるからだ。
つまり平たく言うと、私は比類なきマスタング大佐のファンの一人なのだ。それを知っているハボック少尉はその大佐の言葉に私が浮き足立つことを分かっていて、そんなことを言う…。
コーヒーを全て飲み干すと、美味かったですと言葉を添える。じゃ、よろしく頼みますと軽く頭を下げて、店を出ようとした時、ふと一瞬動きを止め、引き返してきた。そして、さっきまで読んでいた本を堂々と手に取った。
「やっぱ、この本買います」
「本気か?」
つい思わず確認してしまった。でも、その顔には何の気負いも衒いもなかった。
「はい」
それは今話題のセックスハウツー本だった。
「下手なのか?」
「そういうこと、良く聞けますね…」
少なくともこういうものを買うタイプには見えなかった。外見は悪くない男なのだ。好奇心には何事も替えられず、老人の特権で尋ねる。
「これを買うというのはそういうことだ」
「あのね。――ほら、オビに恋人と長くセックスするってあるでしょ。オレは今よりもっと長く抱き合って、今以上に気持ちよくなりたいというか、なって欲しいというか…。分かります? この純粋な気持ちが」
「…………」
「そのためなら、今までのやり方とか改めてもいいかなって思うんです。愛でしょ?」
「素直だな」
「そんなもんだと思いますよ。好きな人に気持ちよくなって欲しいし、一緒に気持ちよくなりたいんですもん」
業者が勝手に置いていった本だからやろう。そういえば、実に嬉しそうに笑い、礼を言って、今度こそ店を後にした。その足取りは実に軽い。
大らかな愛情の持ち主なのだろう。
「彼の恋人はきっと幸せだ」
そういう大らかさが私にもあったら。彼のような素直さや純粋さがあったら、数年前に分かれた元妻との関係も違っていたかもしれない。今日の午前は予定を少しだけ変えて昔の思い出に身を浸すことにした。
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