THE BOOK
05

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ガキを伸して踏み台を作るのに夢中になっていると、視界の端をアーミーブルーの裾が翻った。あっ、そう思った矢先に最上段の棚のその本を、背伸びもせず腕を伸ばすこともなく、太い腕が抜き取る。ちらりとオレを見て、口にタバコを銜えたままにやっと笑った。
相変わらず足音がしない。やろうと思えばその気配すら完全に消せる、知り合いの不良軍人。そのまま店主のところに行き、ポケットから銀時計を出して、あろうことかそのまま渡してしまった。そして、支払いもしないで店を出て行く。無愛想な店主が笑みなんか浮かべて見送っていた。
オレは踏み台を作ることに夢中になりすぎていたことを知った。二人伸して重ねて踏みつけ、怯えて丸まっている後一人をどうやってここに重ねるか腐心していたところだった。
「ハボック少尉!」
踏んづけていたものから足をどかす。
「エルリック、この店で二度と暴れるな」
「次からは弟を来させるって。騒がせて悪かった!」
また仏頂面に戻った店主にそう言って、ハボック少尉を慌てて追いかけた。のんびり歩いているように見えても、歩くのは速い。まあ、足が長いから…。
強い日差しの下、上着を脱いだ白いTシャツの後姿を追う。首元に浮かぶ汗を大きな手が無造作に拭った。その動作に暑さは感じても、暑苦しさは感じないから不思議だ。
走って走って、やっとそのアンダースカートを掴む。
オレがその本、買おうとしてたの分かってるだろ? 汗を拭う前に咎める視線で見上げれば、日差しがダイレクトに目を射した。色濃い逆光の中、タバコを銜えた口元がまた小さく笑ったような気がした。
「あの人の名代で来たんだよ」
それはさっき無造作にポケットから奴の銀時計を出していたから分かってた。奴の変わりに発禁本を回収しているってことなんだろう。銀時計を店主に渡したってことはまだ何かあるのか。奴がわざわざ動くってことはその本に少しでも見所があるってことなのか。
「――暑いな。大将、暑いの苦手か?」
「この暑さは異常だろ?」
「そうか? 夏なんだからこんなもんじゃないのか?」
「んなわけねえだろ…」
また日差しの下にいるだけで、いろいろ溶けていきそうな気がしてきた…。
「1カートンでどうだろう、少尉…」
賢者の石関連の本なら、こっちに回してくれる約束じゃないか。後で渡すなら今渡すのも一緒だろう? 今、読ませてくれ。話の分かるハボック少尉なら、この気持ち分かってくれるだろ? このクソ暑い中、あの面倒臭い奴に会うの辛いんだ…。
枯れ枯れの声に、それでも万感の思いを込める。我ながら、この日差しの下ではヨレヨレだ…。
「大将。そうしてやりたいとこなんだけどさ、今回ばかりはそうもできないんだ。厳命されてんのよ」
「分かった、少尉。3カートンだ」
「…………」
「あー、ほら、あそこに公衆電話のあるタバコ屋がある」
「分かった。3カートンだぞ」
さすが少尉。話が早い。
「電話して1カートン。少尉がアイツからOKを取ってくれたら更に2カートンだ」
「了解です。鋼の錬金術師どの。では、まず1カートン」
言われるまま、っていうか、提案したのはオレだけど、まずは言われるままの銘柄を買った。

タバコ1カートンを小脇に抱えて、受話器に軍コードをそらで伝える。東方司令部司令官の執務室直通のコードだ。
「あー、出先からです。ハボックですけど…」
あーあーあー! このクソ忙しいときに直通で電話なんか掛けてくるな! このひよこ頭め!
「あの、まずは報告聞きません?」
ふん! 一々指示を仰がなくては何もできないのか、お前は! これだからひよこは使いにも出せん!
ガチャン! 受話器近くにいてもはっきり一言一句しっかり聞こえてしまった。理不尽なことを怒鳴って電話を叩きつけた音まで。
「あー…、少尉?」
そんな上司で本当にいいのか? そう思っても大人の事情のことに口は出さない。ハボック少尉は、そんな扱いにも全然堪えた様子もなく、にやっと笑う。
「大将、3カートンいただきだな。勝手にしろってさ」
そんなこと言ってた記憶はないが、敢えて何も言わなかった。本を読むことの方が重要なのだ。そんで、今現実的に本を持っているのはハボック少尉なのだから。
ニコニコ顔で残りの2カートンを受け取ったハボック少尉が、オレたちが裏路地から出てきた路地にちらりと視線を向けた。
「?」
釣られるようにそっちを見ると、
「あ、いた!」
半べそをかきながら、足を引きずった三人組が、裏通りを出た所で、オレたちを見つけて駆け寄って来る。
「大将、家に行くか?」
「少尉の?」
「まさか。もっと広くて快適な家が近くにあるだろ」
まさか。それこそまさかだ。晴天の霹靂。そんなこと、今まで言われたことなんかなかった。だから、まず頷いた。なんであれ。あの家に入れるチャンスをふいにしてはならないのだ。
「行く」
頷いた。降って沸いたチャンスにしっかり頷いた。
汗すら拭わず息も絶え絶えな三人組がそれを聞いて慌てて言い募る。俺たちも行くと。どこに行くかも分からないくせに、何行くとか行ってんだよ。どういう神経してんだ。呆れて振り返れば、ハボック少尉がいいよなんて言ったりした! マジかよ!
「大将のトモダチなら別にいいだろ」
「はあ? 友達なんかじゃねえよ!」
「ははは! トモダチでないなら、本屋で伸して重ねたりなんかしないんじゃねえの?」
「そもそも友だちならそんなことしねえだろ」
少尉は友だちにそういうことをすんのか? 不信感を隠さずに言っても、少尉はいいからいいからと取り合わない。

名前も知らない三人組を後ろに連れて、奴の家に向かう。ハボック少尉がポケットから鍵を出して、実に簡単にドアを開けた。
「合鍵?」
「合鍵。副官で護衛。その上に食事係で朝起こす係を拝命している」
「ああ、要するに生きもの係ってこと?」
「話が早くて助かるよ、大将。ほい、どうぞ」
オレはもちろんのこと、三人組も当然とばかりにそのドアを潜った。
この中にはあの古本屋と比べ物にならないほど希少な錬金術書がごろごろしているのだ。簡単に入れるものじゃない。そのことをハボック少尉が知らないわけないのに。
「いいのか、知らない奴、この家に入れて?」
「大将のトモダチだろ?」
「友だちなんかじゃねえって何回も言ってんじゃん」
「マジ?」
「ああ」
「あー、まあいいんじゃない? あの人、勝手にしろって言ってたしな」
「おい」
護衛なんだろ? そんなんでいいのか? もしかしてさっきの根に持ってんの?
「茶でも入れてくるよ。ほら、本、渡しておくからな」
2階には上がるな! あ、キッチンもパトラリーもやめてくれ! そう言い残して、少尉はキッチンへ行ってしまった。通されただだっ広いリビングには相変わらず本が散乱していた。ちら見しただけでも分かる、相変わらず高価な錬金術書がごろごろ無造作に置かれていた。この手の中の本とは違い、はっきりとした貴重な本が。
大きなため息がこぼれた。
実家にもわんさか本はあった。でも、その頃はその価値が分らなかった。国中を本を求めて旅をして、今はその価値が分る。この家にあまりに無造作に置かれている本の価値が分りすぎる。こういう家に得体の知れない、身元のしれない奴を入れるべきじゃない。間違いなくそう思う。
でも、その名前も知らない三人組は、床に転がっている有名な希少本に見向きもせずに、リビングの本棚に直行した。
勝手に本を抜き取り、遠慮もなく開く。あーだこーだと勝手な話で盛り上がっている。その手が一冊の錬金術書に伸びた。きっとここにある本の中では一番安価な本。量産されている錬金術の入門書だった。それをぺらぺらとめくって、笑ってすぐに棚に戻す…。
いつか。いつだったか。奴の司令室でこんな風に本棚を勝手に物色していたのはオレだった。

「アンタでもこんな本読むのか?」
別に侮ったわけじゃないし、バカにしたわけでもない。ただ全くの驚きがつい口から出た、に近いと思う。好奇心に駆られて、了承の言葉を待たず、その本を手に取って慣れた無遠慮さで開いた。
これって何か読むところがあったっけ?
錬金術の入門書といえば聞こえは良いが、素人向けの素人本に過ぎない。入門書の部類で言えば下の中。ただ値段だけは他のものと遜色なかった。錬金術を知らない、それでも学びたいと思う素人の足元を見た嫌な本という印象があった。
もちろんオレたちがこれを手に取ったのは錬金術を何も知らなかった時でなく、国家資格と取らざるえなくなって田舎を出てからだった。中央の図書館だったか。それからしばらく経って、いかに自分たちが優良な錬金術本に囲まれていたかを知った。
でも、こいつの本棚にこれがある以上、全く無意味な本じゃないのかもしれない。口惜しいけど、オレたちは何か見落としていたのだろうか。一ページ目には入門書らしく、大衆のためにあれと書いてあった。二ページ目には禁忌。パラパラとページを捲る。
期待した書き込みはなく(こいつはどんな希少な錬金術書にも堂々と落書きをする!)、手垢すら付いてない。でも、一読して終わったという印象はなかった。印刷された文字が所々擦れ、その一部は丁寧に書き足されていた。紙が毛羽立っているところがある。手でなぞる様に読み込まれた跡。それも大切に大切に扱われた。手垢が付かないように注意をして。
日頃、本をぶん投げたり踏みつけたり堂々となべ敷きにするような奴の本の扱いと180度異なる。何で? こんな本を?
振り返る。デスクの背後の窓から差し込む強い日差しが逆光で奴の表情を隠した。でも、十分分かる。オレの言動を鼻で笑って、バカにしていることが。
「私は裕福な家に生まれたわけではない。君たちのように錬金術師の身内がいたわけでもない。君にはそれがこんな本と思うのかもしれないが、私には大切な本だ。それは今も昔も変わらない」
熱の篭らない、冷ややかな声。わずかに軋みを上げた椅子から立ち上がり、オレをじっと見つめて真っ直ぐに近寄り、傍らに立つと、オレの手から本を取り、そのまま本棚へ戻す。その手つきはあくまでも丁寧だった。
「錬金術の入門書で言えば安い本だが、幼少の子どもが誕生日にねだるには勇気のいる価格だ。数年分の誕生日プレゼントと引き換えに手に入れたこの本は私の宝物だった。その後の誕生日プレゼントが本当になくなってしまっても変わらなかった。まるでテディベアのようにこの本を離さなかった」
手が背表紙をなぞる。表装し直していることを知った。
「こんな本に真理はないのか? それほどまでにこれは粗悪な本なのか? 私にはこの本しかなかった。幼い頃、私は信じていたよ。頑ななまでに。真理はどんな事象の中にも、どんな断片の中にもあると。だからこの本にもある。――信じて読んで、今に至る」
君はこんな本というかも知れないがね。
「私は、君がこんな本と言ったこの本で錬金術の初歩を学んだ」
「あのさ…」
「こんな本でも信念を持って読み込めば、焔の錬金術師になれるのだよ」
わずかに眉が歪む。こいつにしては珍しく直球でオレの言動を非難していた。そして、オレとしても珍しく自分の言動にちょっとだけ反省なんかしてみたりして。
「分かった。悪かったよ。本は読み手の力量次第でその真価が左右される」
でも、素直に反省の言葉を言えは、するりとかわされる。
「まあ、一概にそうは言えないとも思うがね。この本はあまり良い入門書とは言えない。その意見は君と同じだ。だが、私の比類なき優秀さがこんな本からでも真理を紐解いた。この場合は私の優秀さを賞賛するべきだろう」
「…………」
こういうのが面倒臭いと思うのは、オレがまだガキんちょだからなんだろうか。
「なんだね、鋼の?」
いや、アンタの執念ってコワイと思って。そう思ったけど別なことを言った。
「あのさ、アンタ、いつから本を粗雑に扱うようになったんだ?」
こんなに丁寧に本を扱うのに、他の本の扱いはびっくりするほど悪い。投げたり、ぶつけたり。八つ当たりのように希少本を壁に投げつけて背表紙を割ったとこを見たことがあった。
奴は肩を竦めるだけ。そして、また書類の積み重なった執務机に戻っていく。
もちろん、返答を素直に期待したわけじゃない。ただなんとなく口に付いただけだ。言わずにいられない。癖みたいなものだ。言わなきゃ伝わらない。自分が何を考えているか、相手に伝える。誤解を生じないように…。でも、それは自己弁護に過ぎないことを自覚していた。ただいつだって好奇心に負け続けているだけだ。
考えれば分かる気がした。錬金術に単純にのめり込んで勉強した時期が終わって。……きっと軍に入ってからだ、こんな本の扱いをするようになったのは。軍に入ってから本を読む目的が変わった。変わらざるを得なかった。命令で。人を効率よく殺す法を模索するために本を読むから。喋りすぎることをいつも少し後悔する。こいつの前だと。



三人組は本棚の物色に目を輝かさせていた。でも、本当の希少本はそこにはない。ソファの上とか、テーブルの下とか、雑誌の間、ハボック少尉が置いていった水差しの下とかにあるのが世間で錬金術師が必死に血眼になって探している本だ。でも、三人組はそれに目もくれない。こいつらのことを錬金術師だと思っていたけど、そうじゃなかったのかもしれない。錬金術師になりたいと思っているだけなのか? だから、ハボック少尉は無害だと判断してこいつらをここに入れたのか?
リーダー格の奴が、唐突に振り返った。オレが持っていた本に視線を落としてから、意を決したように口を開く。
「エドワード・エルリック。その本、読んだらでいい。俺たちに売ってくれないか? 金ならある」
「なんのためだ? お前たちにはこの本は理解できないだろう」
痩せメガネが弾けるように口を開いた。
「今はな! 今は理解できないだけだ!」
「だったら、無駄な金なんか使ってないで、今、分るものを読めよ。その内とか言ってると、そんなその内なんか永遠に来ねえよ」
「お前にそんなこと言われる筋合いはない! 俺たちにはその読む本すらないんだ! 本を読むことすら触ることすらできないんだ! どうしたら本を読むことができるのすら分からない!」
その読む本ってなんだよ。お前たちにも分る希少本っていいたいのかよ。どれが希少本すら分らないのに。
「お前ら、目的が変わってきてるんだ。錬金術をどうこうじゃない。どうしたら希少な錬金術本が手に入るかになってんじゃねえの?」
「最年少で国家錬金術師になれた奴にはわかんねえよ。錬金術書が欲しいんだよ! 量産された入門書なんかじゃなく、ちゃんとしたのが!」
「量産された入門書の何が悪いんだ」
「お前とはスタートラインが全然違うって言ってんだよ! 俺たちだって!」
「俺たちだって、家の本棚に錬金術書がぎっしりあって、物心つく前から絵本代わりにしてたら、国家錬金術師になっていたのに、か?」
「そ、そうだ!」
「国家錬金術師になるような錬金術師が、みんな、オレんちみたいだって思ってんの? それはちょっとどうかと思うけど。オレはさ、分かってんだよ。自分ちがちょっとあり得ない状況だったってさ。その有様を思えば思うほどおかしいと思う、まあ、特殊なケースだろ。平たく言っても。だからってさ、オレ自身はそんなに特殊だったわけじゃない。何でも考えた。何でも、どうやってできてるのか気になって考えて調べた。それが分かったとき、すんげえ楽しかったからもっとどんどん考えていった。分かんないことを分かんないままにしておくのがたまらなくイヤだった。で、家に普通に錬金術書があったから錬金術書を読んだ。――これでも、努力してんだよ。何日も何日も暗記しちまうぐらい寝食忘れるほど本読んで。くり返し同じことを考え続けて。お前は? お前はあの家で生まれていたら国家錬金術師になれたか?」
こんな本、奪い合う以前に読むべき本は山のようにあるだろうに。そもそもなんでこんな本に拘る?
「努力している。俺たちだってできることを考えてしているよ。エドワード・エルリック。俺たちが欲しい本を得るために、ちゃんと情報を集めて…」
「オレの言いたいことは、現状の不満をあげつらうことに必死な内は不満しか見えないってことだよ。どんな状況でも、目的にちゃんとフォーカスできれば現状は開けてくもんだぜ。お前たちが笑って見向きもしなかったこの本を、くり返し読み続けて、んで、国家錬金術師になった奴を知ってる。すげえ執念」
「そんなのは戦時下での話しだろ、あの時はそういう二束三文の錬金術師だって試験も何もなく国家錬金術師になれた」
「二束三文の錬金術師だって、国家錬金術師になれば十分な資金で研究できた!」
「あのさあ、お前たちが見向きもしない本を読み込んで、その二束三文の国家錬金術師になったのって、焔の錬金術師だぜ? オレには、アイツのガキの頃に比べて、お前たちの方が断然恵まれてるように思えるけど?」 
ガキが錬金術書一冊のために何年もクリスマスプレゼントを我慢したってよ。そうやって何か手に入れたことはあんのか、お前らは。
「お前たちが望む全ての環境を整えられたってさ、人のこと妬んでるうちは何にもなれねえと思うよ。妬んでる時間があるならさ、もっと錬金術のこと考えなよ」
焔の錬金術師…。呆然と立ちすくむ。
「でも、本が…」
「あー、あのさあ、お前たちが探してるような本はないよ。どこ探したってないよ。読むだけでさらっとさくっと錬金術が使えるようになる本なんてないんだよ。読んで、そこから自分の中に真理を探して、自分の真理を構築しなくちゃなんねえよ。その手間を省いて錬金術は得られない。恵まれないとかさ、言ってっけど結局はヒマなんじゃねえの? お前らさ、今、持ってる本読み込めよ」
「そんなことない! その本はあるんだ! あるって教えられたからこそこんなことしているんだよ!」
「はあ? 誰に?」
読むだけで誰でも錬金術師になれちゃう本があるってか? それは騙されてるだろ。間違いなく。

そう思った瞬間、ドアが開いて、ハボック少尉が入ってきた。
「あ、ストップ、ストップ。大将、サンキュ! 君たち、続きは東方司令部で聞くからね。おーい、ブレさん!」
「おうよ、大将、お手柄な」
東方司令部のもう一人の不良軍人まで出てくる。そのまま有無を言わさず、いつの間にか外に横付けされていた軍用車に詰められて、その三人組は連れて行かれた。
一瞬の出来事。狐に摘まれた気分でこの家に残ったハボック少尉を見上げれば、言い難そうな顔を向けられた。
「あー、ことの元凶はパトラリーにいる」
その言葉の意味を考える前に体が動いた。
ダイニングを走りぬけ、キッチンに続くパトラリーのドアを開く。そこには、満面の笑顔でケーキを頬張る大佐と、その向かいに座るアルフォンスが本を読んでいた。
「――鋼の。感動してしまった…。まあ、別にいいんだよ。私は確かに彼らの言う通り、試験も何もなく、どたばたの状況下で国家錬金術師になったようなものだしね。錬金術師でありさえすれば国家錬金術師になれた時代があったのは本当のことだから」
筒抜けか。筒抜けなのか。今の会話が、ダイニングも廊下も隔てて? って、リビングに盗聴器でも仕掛けていたのか。そんな場所にオレを入れたのか。
足元が急に不確かなものに変わる。瓦解していく。プライド、人格、その他いろいろ…。助けを求めるようにアルを見れば、当たり前のように頷かれた。
「あ、僕? 電話したよ。当たり前でしょ?」
「…………」
当たり前って何が当たり前なんだ。電話ってどーいうことだよ?
「そもそもこのクソ暑い最中に、暑さ対策は暑い地方の方が万全だから南部に行くって言って聞かないんだもん。根本的にそれは間違っていると思うよ。でもねえ、あんなに考え直すように言ったのに押し切って南部に行った手前、兄さんたら意地になっちゃってさあ。それで、そんな兄をどうしたらいいかちょっとアドバイスを貰おうと東方司令部に電話を掛けたんだ。そしたら、ちょうどマスタング大佐が出てくれたんだ」
ね。と、大佐とアルが頷き合った。
「――あー、ヤツらはオレの本を取ろうとした。んで、このオレさまに対して生意気なことを言った。だから、ブレダ少尉が連行した。じゃない、ってか?」
今、起きたことをそのまま言ってみれば、二人から思いっきり同情を込められた視線が注がれた。むかつくよりこれ以上ない脱力感に襲われる。
「最近、東部で三人組の子どもが高価な希少本を数冊買ったと密やかに噂になっていてね。その上、あるテロ組織が希少本を複写して資金源にしている疑いが生じて、その関連を調べていたんだ。先ほどの彼らの言質から裏が取れるだろう」
テロ組織? 資金源?
「頭が熱くて考えるのが億劫で辛い…」
素直に言えば、同情に満ちていた視線が冷ややかなものに変わった。
「あー、奴らは誰かに頼まれて本を買っていた。その資金を提供したのが悪いヤツらだった?」
「そう。彼らは東部名家のご子息たちさ。どれも長子ではなく、ご家族は息子の一人を錬金術師にしたいと考えたようだ。街の名だたる錬金術師に高額を支払い師事させている。そこで三人は出会ったらしい」
錬金術の研究には金が掛かる。その在野の錬金術師は国家錬金術師にはなりたくなかったらしい。なれなかったかどうかはオレの知るところではない。ただ在野の錬金術師たちは研究を行うための資金繰りに、高額の礼金で名家の子どもを弟子に取ることがしばしばあった。
「彼らは錬金術師の卵ですらない。それ以前だ。だが、彼らはまるで錬金術師であるかのように自らのことを声高に語ったのだろう。そこに付け込まれた。悪い人に錬金術書を買うようにお願いされたんじゃないかな。ちょっと貸してくれれば、その後はあげるよ。こんな感じに。詳しくはブレダが聞き出しているだろう」
 錬金術書の複写…。それって悪くないかも。錬金術書はそれなりに需要がある。オレらみたいに、どれだけ金を払っても読みたいって奴はいるのだ。それに複写本って言ってもそれなりに出回れば価格だって価値だってそれなりに下がるだろうし、こーいう風に悪用されずに済むんじゃ。自分が持ってる本が途方もない可能性を秘めた宝の山に思えてくる。
このオレの考えを咎めるように、大佐の声が少し尖った。
「鋼の。錬金術書の規制が厳しいのは知識を他国へ流出させない意味もある。特にこの国の錬金術は軍事関係に特化されている。錬金術書が高額で少数であることに意味があるんだよ」
でも、そのせいで今回みたいなことになったんじゃん。そう、さめた気持ちを込めてちらりを顔色を窺えば、そうまんざらでもなさそうに肩を竦めた。
「悪い人は悪いことを考えるのが仕事だ。錬金術書を複写して、それにいくらでも出しそうな人に話を持ちかける。あなただけに。秘密だと言えば誰にでもばれないだろう。だが、秘密裏に売買される希少本の複写に時間や手間隙を掛けると思うのか? 劣悪な複写本でもそれなりの錬金術書なら十冊も売ればそれなりの財産にはなる」
時間も手間隙も掛けた精巧な複写本が安くなるなんてことは考えられない。それは当たり前のことだ。自分の考えの甘さに気付いて、肩が落ちた。
「あー、その悪い人ってどっかの軍人?」
「兄さん、そこはまずテロ組織とか挙げようよ」
まずは、とか言っちゃってるお前だって五十歩百歩だ。でも、大佐はこういうことには大したコメントもなく平たくムシを決め込む。肯定も否定もない。もしかしたら、同じように思ってんのかもしれない。
「未成年者を参考聴取するには確実に言質を得たかった。君がいてくれて助かったよ。彼らはもう隠し立てすることは愚か、自らの行動を正当化する気概すらあるまい。君ならやってくれると分かっていた」
にこ。その作り笑いに間違いなくハメられたことが分かる。その自覚だけでどっと疲れが押し寄せる…。
「――どっからどこまで?」
「どこから、どこまで、仕組まれていたのか? うーん、どこからかな。東部に希少本が流出したってとこ? あれはそもそも大佐のご本だしね」
「ホントか?」
「ああ。本当だよ」
「賢者の石関連の本だろう! なんで持ってるって始めっから言わねえんだよ!」
「賢者の石? ああ、あの噂を信じているのかい? 君が? これは驚いたな。本当かい? アルフォンス君」
「兄さん、本気で言ってるの?」
何だ、その不憫なものを見る目は! 弟よ!
「その本は鉱物練成の優良本だよ。君、読んだことないなら読んでみたら?」
その暢気な言葉に膝の力が抜けた。それどころか、身体中の力が抜ける。でも、手をついたタイルの床は予想外にもひんやりとしていて気持ちよくもあった。廊下から風が吹き抜けていく。ああああ…、ここにオレの求めていた涼が確かにあった。

「で、どうするんだい、鋼の? まあ、南部よりは幾分マシだろうから、しばらく東部にいるのもいいだろう?」
「――涼しくなるまでここにいる。こう易々とこの家に入れて、そう簡単に出ると思うなよ! 役に立ったな。オレは役に立ったな! なら等価交換だ。好きなだけここにいて、ここの本を読みつくしてやる! 書斎の本もだ!」
「あー、いいだろう。もう帰らせて下さいと言うまで居させてやろう」
「バカが! このオレ様がそんなこと言うとでも思うのか!」
「君、ガラ悪くなったな」
「兄さん、もう…」
「客間を用意しよう。ただし、働かざるもの食うべからず。ここに居座るつもりならそれなりに働いてもらうぞ」
「それにオレは生きもの係なんかする気はねえ!」
この家で働くってそういう意味だろう。そんなシュミはオレにはねぇ!
「大将、そんなこと言ってくれるな…」
オレのつぶやきに、キッチンから入ってきたハボック少尉が項垂れる。その手にはオレの分のケーキが乗ったトレーがあった。
「そろそろダイニングが食堂で話しません? ここ狭いでしょ?」
「でも、ここが一番涼しいんだよ」
大佐の言葉に窓から差し込む日差しを見上げた。あー、暑い…。でも、日差しで緩んだ思考が元に戻ってきそうな気配があった。
街でアニメハボックさんのようなツートーンの髪型を見ました。
ついまじまじと見てしまったorz
でもこれが案外自然で良い感じでした。