02
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結構ころころと機嫌を変える人だけど、その原因の多くはなんと言っても電話が多い気がした。
今日は朝っぱらから随分機嫌が良くて、オレに酷い冗談なんかを言っては大笑いしていた。
東部の情勢はこの人が笑おうが笑うまいが変わらない。でも、この人の明るい笑い声を聞いているとそう大したことではない気がしてくるのも確かだった。
「さあ、今日も馬車馬の如く働こうではないか」
高らかに足音を鳴らし、司令室、書類が積み重なった席へ着いて、休みなく書類にサインしてみたり、時々居眠りしてみたり、ホークアイ中尉に叱られて、またペンを握って書類にサインし始めたり。
いつもの平和と言えなくもない一日。それを一瞬で変えたのは、今日も一本の電話だった。
「大佐!」
大抵いつものようにフュリーが内線を受け、大佐に回す。大佐の手が受話器を取る前に、フュリーは少しだけ眉を寄せ、司令室隣りの執務室を指差す。それだけでその電話が上層部からの電話だと司令室中に教えていた。
そのフュリーの仕草で大佐から眠そうな気配がきれいさっぱり消えてなくなる。無表情な顔で小さく頷き、席を立った。
長い電話の後、司令室への内線は短いものだった。
「資料室にいる」
その行き先で、電話の相手が国家錬金術師機関と分かる。ノーナンバーの資料室は大佐の私物の錬金術書が積まれていた。大佐の許可がなければ、例え大佐より上位階級者であっても立ち入ることはできない資料室。東方司令部内にあって、その管轄先が異なる扱いをされていた。
国家錬金術師機関はいつだってあの人を不機嫌にさせる。電話の内容はオレたちに知る余地はない。マスタング大佐宛ではなく、焔の錬金術師へ掛かってきた電話だからだ。
大佐はお昼になっても、おやつの時間を過ぎても戻ってこなかった。ホークアイ中尉は、その電話の内容を知っているのか、全く動じることなく大佐の書類の整理を続け、提出が遅れると判断した関係各所に内線を入れ始める。いつもの定型句は一言たりとも間違えることはない。それがいつもより冷ややかに聞こえて、つい思わず席を立った。
立ち入り禁止と大きく書かれた資料室の扉を控えめに開いて、邪魔にならないようにそっと中を窺う。広い部屋ではなく、本棚が他の資料室のようにぎゅうぎゅうに押し込められているわけではないから、ちゃんと中にいるなら、本棚の本の隙間からすぐにその人を見つけることができた。
大佐は本棚と本棚の間の壁にもたれ、床に足を投げ出して座っていた。その周りには本が何冊も転がっている。足の上には開かれた本が乗っていた。でも、三分と開いていられない。すぐに本に落書きしては閉じて、他の本を手に取った。時々閉じた本を遠くに投げたりもする。全く集中力を感じさせなかった。全く気が散っていて、あっちこっちと手にとっては閉じるのくり返し。
これで声をかければ、お前のせいで気が散って本に集中できないんだとか言われて責任を取らされることになるんだろう。分かっている。
でも、そのやる気のない様子は今に始まったようには見えなかった。それで、その上、きっとこの先にも変りがないように思うと、時間がもったい気がして声をかけずにはいられなくなってしまった。
「あー、大佐、ちょっと戻りません?」
気分転換した方が捗るんじゃないですか。そう気持ちを込めて、声を掛ける。
十分過ぎるほど気を使ったオレに返ってきた仕打ちは相変わらず酷いものだった。シャーっと猫が牙を剥くように毛を逆立て、それはもう力いっぱい投げつける本。本棚に叩きつけられて背表紙を割り、ページがばさっと散らばった。相変わらずの本の扱いの悪さ。こうやって本を割ったことも一度や二度ではなかった。
「当たったら痛いでしょ。んなに思いっきり投げたら」
その勢いだったら本棚だって倒れてもおかしくない。
ページがごちゃごちゃにならないように、割れた本をそっとまとめた。これをページどおりに元通りにさせられる役目を言い渡される確率は高い。って、いつもさせられていた。
「ふん」
「中尉がおやつの時間を過ぎたのに戻ってこないアンタに業を煮やして、すでに関係各所に書類遅れますって内線入れ始めてますよ。いったん司令室に戻りませんか?」
なんという上司思いのセリフ! でも、感謝の言葉どころか、イヤミの一つも返ってこなかった。
「…………」
ちらりとオレを見て、顔を顰めて、床に視線を落とす。口元がぎゅっとへの字に結ばれた。やりたくないことをしている。逃げ出したいし、投げ出したいけど、やらなくてはならない。自分で決めたことだから。そう聞こえてきそうな表情だった。それは今まで何度か見てきた。
国家錬金術師機関はいつだってこの人を不機嫌にさせる。兵器に転用できる錬金術はないのか? より効果的に人を殺す錬金術は? より密かに人を殺す錬金術は?
命令一つでそれをうちの大佐にさせようとする国家錬金術師機関。絶対断れないという話ではないと思う。うちの大佐は専任の国家錬金術師ではなく、東方司令官でもあり忙しい身だからだ。
でも、大佐はどれほど忙しくてもそれをできる限り断らなかった。人を殺す術なら他の錬金術師にだって考えられる。でも、完全無欠な術など生み出してはならない。それを防ぐ手立てが、術がなくては、人を殺す術など世に出してはならない。その一念で。
きっとこれはあの時、あの場所で、命令に従って人を殺した、あの人が自分に課したことなのだと思う。
「本、持っていきますよ。どれスか?」
その覚悟を知る身としてオレができることといえば、荷物持ちぐらいなのが歯痒かった。
「―――向こうの本棚の…」
小さく返ってきた返事に、向こうですね。向こうってどこですか? そう一瞬視線を逸らした隙に、窓が開く音がした。振り返れば、青いオーバースカートが翻った残像だけが残る。
「あー、もう。ここ四階だし…」
四階だから、きっとあの人は飛び降りるようなことはしない。窓を開けてオーバースカートを投げ捨てたか、三階の庇に飛び移ったか。
でも、まだ司令室に戻りたくない、戻れないという気持ちは十分に伝わってしまった。
「…………」
まだ近くにいてオレの動向を伺っているだろう人に言う。
「どの本、執務室に運べばいいんですか?」
「―――ラクガキがある本全部…」
返ってきた返事は室内からだった。毛布を頭から被っているんだろう、声がくぐもっている。本棚を隔てただけの距離が遠く感じる。
その距離を埋めるように努めて明るく言ってみた。
「ハイハイ、分かりましたよ。あー、そうだ。外、スコール来そうですからね、ずぶ濡れにならないですむとこでサボってくださいよ」
「――分かってる」
「それから、投げ捨てたオーバースカート、ちゃんと回収してくださいよ」
「それはお前が拾って来い…」
そのまま、沈んだ声が静かに部屋を出て行った。
持ったままの壊れた本。床に投げられ、ページが折れ曲がった本…。
それは機関の人間に人殺しの奇想を与えた本であり、見つけた理論を嬉しさと興奮のまま純粋に書き綴り、あまつさえ出版された本だ。その後始末をしているも同然な大佐が、この苛立ちをその本にぶつけずにはいられないと、破ってゴミ箱に投げ捨てたり、踏みつけたりする。それも仕方ないことなのかもしれない…。
大佐が資料室を出て行ってから、ものの数分で空が陰り、猛烈な雨が落ちてきた。雨粒が窓を打ち付ける。
全てを覆い隠すほど強く打ち付ける雨。乾いた地面に砂埃を巻き上げた。熱気に撒かれた街全体をたったひと時であっても、一瞬で冷やす。
あの人はちゃんとどこかで雨宿りをしているだろうか。独りでずぶ濡れになんてなっていないだろうか。
そんなことがどうしても気になるなら、いっそのこと一緒に付いていけば良いものを。付いてくるな。その言葉が聞きたくなくて、見送ることしかできなかった。
窓から投げ捨てられたオーバースカートを片手に、無意識にも雨で霞む景色の中にあの人を探している自分。こんな時、自分が本当に犬だったら良かったのにと思う。犬だったらあの人はオレを一緒に連れてってくれたはずだから。
大きく息を吐いた。資料室の本を運ばなくてはならない。まずできることに目を向ける。落ち込んだときはいつも。
唐突に泥んこの足跡が点々と続いていた。東方司令部の中枢の絨毯引きの廊下に。突然始まったその足跡は、その足跡の主が窓から侵入したことを教えていた。もちろんその主はうちの大佐だ。
こういう泥んこな軍靴のまま、この東方司令部の中枢の絨毯引きの廊下を歩く人はもちろん、うちの大佐だけだった。この辺りを歩く上級軍人で泥んこの中を歩く、というか歩く機会を持とうとする人がうちの大佐だけだったというより、ただ無頓着なだけな気がする。
掃除のオバちゃんからモップを借りて一足ずつ拭いていった。すれ違う高級軍人たちとその部下たちにいつものように同情に満ちた目を向けられる。
その足跡を辿っていけば、やっぱりうちの大佐の執務室に繋がっていた。
「入りますよ」
絨毯は泥だらけだったけど、水溜りはなかったからちゃんと雨宿りはしてくれていたんだと思う。スコールが過ぎてから、泥だらけの屋外を横切って戻って来たんだろう。ソファの上に置いてたオーバースカートもないから、きっとちゃんと着けているはずだ。
「何だ?」
机越しにその人は、一日中そこで仕事していましたという、澄ました顔でオレを見返した。でも、オレの手のモップを見て、左の眉を大きく跳ね上げ、大きく肩を落とした。その仕草で、自分の作ってきた泥の足跡に今まで気付かなかったことが分かる。本当に冗談みたいな話だった。
「――本、結局、床に出てるの、全部でしたよ。箱に入れておきました。持って帰るんでしょ?」
何を運ぶか聞いたとき、全部とか言ってくれれば簡単なのに、いちいち全部確認させる手間を掛けさせるのがこの人らしい。
執務室の泥も拭いて、大佐の足元までたどり着く。立とうとした大佐を制し、座った椅子ごと後ろに引いて、机の下までモップを入れた。
最後に元凶の前に膝を付く。見るも無残に汚れた軍靴を鷲掴んで、大元を片付けようとして雑巾を借りるのを忘れたことに気が付いた。今更、雑巾を借りに行くもの面倒で、自分のオーバースカートを引っ張った。少し乾きつつある軍靴をそれで拭う。
「オイ」
大佐が足を引くのが分かっていたから、掴んだ手にぎゅっと力を込めた。
「オレが泥だらけなのはいつものことなんで」
「従卒かお前は…」
「アンタの靴を拭えるってなら、従卒希望者が増えそうですね」
「ハボック」
いつもならこんな風に傅かれるの、キライじゃないくせに。
「靴をね、こんなにどろどろにしてる上級軍人はいませんよ」
「自分でする。離せ」
「そう思うなら、泥ん中、歩かないで下さいね。――まあ、今回はちゃんと雨宿りはしてたみたいだから良いですけど。ほら、右。別に靴、脱がなくて良いですよ」
「ハボック…」
アンタならいい。別にアンタの犬と言われようと、従卒だって言われようと。そのオレの覚悟を知ってか知らずか、大佐は言葉を重ねるのを諦めて、椅子に凭れて力を抜いた。
「――ホークアイは怒っているかな…」
「怒ってはなかったですよ。でも、目の届くとこに居て欲しいって感じですかね」
「そうか…」
また窓から焼け付く日差しが差し込んでいた。