+ 大雪まつり10 9 +


 夜になるとのどの痛みが少し強くなって、タイザンは処方されたビタミン剤を飲むと、早々に床についた。毛布の中が温まってくると、今度はひとつふたつ咳が出て、まずいな、これは風邪の引き始めかもしれぬ、そんなふうに思いつつも、疲れのせいかすぐに眠り込んだ。
 奇妙な夢を見た。
 夢の中で、タイザンは古い果物屋の店主だった。寂れた商店街の、その中でも一番せまい店で、何十年も前から果物を売って暮らしていた。その何十年を夢で体験したわけではなかったが、自分はそういう人間なのだと夢の中で思っていた。
 夢に見たのはちょうど、店じまいをした後の場面だった。すっかり日も落ちた寒い夜、売れ残った商品をしまいこみ、一つしかない扉の戸締りをして、さあ今日の仕事も仕舞いだ、二階へ上がって休むか、とそんなことを考えているところから始まった。
 トントン、と扉が叩かれた。空耳かと思ったがそうではなく、しばらく経ってもう一度、トントンと音がした。
「もう、仕舞いになっちまいやしたかい?」
 不思議なしゃべり方をする客だった。扉を細く開けると、帽子を深くかぶり、鼻の辺りまでマフラーを巻いて、長いコートを着込んだ客が、その隙間から見えた。
「かりんを一つ、いただきてェんでさァ」
「かりんを、一つ」
 タイザンは繰り返した。
「売れるようなかりんはもうありません。いつも、たくさんは置いていないのです」
 そんな言葉遣いで断りを述べる自分に、ああこれは夢で、今の自分は自分ではないと頭のどこかで思った。だが頭のほとんどでは、やはり自分はずっと昔からのせまい果物屋の店主なのだと思っていた。
「一つだけでかまいやせん。売れ残ったのもので結構でさァ。あっしも大した金は持ってやせんから」
「一つだけならあったような気もしますが、でも、まるで元気のない、くたびれたものでしょうから」
「かりんの一つくらいなら、あっしらは気合で元気にできまさァ。この通り、お願いしやす」
 客は頭を下げた。何かよんどころのない事情があるのだろうと思い、タイザンは「ちょっと待ってください」と店の奥へ戻った。売れ残りを全部確認し、たった一つ残っていたかりんを取り出して、軽く包んだ。
「これでよければ」
「こいつァ上等だ。ありがてェ。お代は……」
 客は懐の辺りに手を突っ込んだ。よく見るとコートの下に腹巻をつけており、その中から巾着を取り出したのだった。
「売れ残りですから、御代は結構です」
「恩に着やす」
 客は頭を下げて包みを受け取った。そのときちらりとコートの袖からのぞいた手は、ひどく毛むくじゃらでまるで獣の手だった。タイザンが思わず瞬きをした一瞬に、客はその場から消えていた。
 不思議なことも起こるものだ。そう思って外を眺めると、ちらちらと細かな雪が降りてくるのが目に入った。
 そうか、もうそんな季節か。そんな風に思う夢だった。

 自分の咳で目が覚めた。口元を押さえながら身を起こすと、辺りはまだ暗く、深夜の冷たさが頬を打った。その、冴えた夜気の中に少し、甘いような酸いような、不思議な匂いが漂っている。
 匂いの元はサイドテーブルに置かれた、湯気を上げるカップだった。夢か幻かとも思ったが、持ち上げた手はちゃんと重量が伝わってくる。
 こんなものがどこからわいて出たのだろう。いぶかしく思いながら顔を近づけると、今度ははっきりと、かりんと蜂蜜のにおいがした。
 口をつけると、暖かさと、甘みに少々の酸味が加わった味がして、それで小さいころのことを突然思い出した。都で暮らしていたころ、幼い自分はよく風邪を引いて寝込んでいたのだが、そういえばそのたびに誰かがこうしてかりんの飲み物を作ってくれたのだ。
 …………すぐに、よくなりますからね。
 気遣わしげにそう言う優しい声までもが、耳元によみがえってきたような気がする。
 ―――都のことは、いやなことばかりしか覚えていなかったな。そういえばそんなこともあったのか……。
 突然に思い出した暖かさとともに、かりんとはちみつの味がのどを落ちていく。痛みと咳がゆっくりと引いていく気がして、飲み終わったタイザンは、今度こそ夢も見ずにぐっすりと眠った。

11.01.05



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手袋を買いに……ゲフゲフ。