+ 大雪まつり10 3+


 三度目にそれを見たのは、それからあまり遠くない寒い日のことだった。
 あれ以来なんとなく仕事に集中できず、その日もだらだらと残業をして、本社ビルが静まり返ったころにおっくうだがそろそろ帰るか、とやっと決心がついたところだった。
 やはりだらだらとコートを着て、鞄を持ち、エアコンの切れた廊下へと踏み出すと、ひやりとした空気が触れた。
『明かりまで消されちまってやすね』
 もう終電もなくなろうかという時刻だった。出社することの方が珍しい天流討伐部はもちろん、他部の者達の姿も見えず、ひとけが絶えた廊下は、非常等以外の明かりが落とされてしまっていて、廊下がぼんやり見える程度の薄暗さだ。
「だらだらしすぎたな」
『ここで寝泊りする気になっちまったかと思いやしたぜ』
「オオスミさえおらねば二泊三泊くらいはそれでもいいが」
『ダンナ、雅臣さんが心配して捜しまわりますぜ』
「むしろ、不在をいいことに何をするかわからんな」
などと、本社ビルの上層階なのをいいことに堂々とオニシバと会話しつつ暗い廊下を進んだ。
「廊下も冷えるな」
『そりゃそうだ、大雪ですぜ。夜もふけてらァ』
「この時代に来て大分経つが、雪が降らぬとどうしても大雪という気がせんな」
『ダンナそりゃひでェや。あっしらの節季じゃありやせんかい』
「いや、大雪だからこそだ。やはり雪が降らねば」
 そんなことを話していたその時、長く続く薄闇の奥に、またそれが見えた。萌黄の影だ。それは廊下をあちらへと、俊敏なようなコマ落としのようにゆっくりなような、不思議な動きで、しかし実際はおそらく一瞬のうちに駆けてエレベーターの扉へと消えた。
 今度こそタイザンは走った。
『ダンナ、暗いところで走るもんじゃ……!』
 オニシバの驚いたような忠告も聞こえず、もしも床に何か置いてあったら確実につまづいて転んだだろうが幸いにもそれもなく、一息にエレベーターの扉へとたどり着き、張り付くようにして中を見た。何もなかった。真っ暗なシャフトの中にワイヤーだけがかすかに見える。ドア脇を見ると、ずっと前から一階にあったようだ。そういえばさっきも、エレベーターの扉が開いたり、かごの中の照明が見えたりということはなかった。
『ダンナ、一体ェ、どうしたんですかい』
「! シッ!」
 タイザンはとっさにオニシバを止めた。エレベーターの脇にある階段から、物音する。カツン、カツン、と。誰かが階段を上ってくるのだ。
「あら、タイザンじゃないの」
「オオスミ部長……」
 タイザンはほっとしたような拍子抜けしたような心持で、いつの間にか全身に入っていた力を抜いた。いつもと変わらぬ白衣姿のオオスミは、掲げた「わに」のカップからコーヒーの香りをさせながら階段を上ってきた。
「何してるの、こんな遅くに、こんなところで怖い顔をして」
「オオスミ部長こそ、まだ残っておられたのですか」
「今日は泊まりよ。面白いデータが出かけてるから徹夜になるわね。眠気覚ましに少し歩き回っていたの」
 それから帰り支度の整ったタイザンを見て、
「そっちは帰る途中でしたって格好じゃない。フフ、もしかして私の足音を聞いて、幽霊かと思っておびえてたの?」
「むしろ幽霊ならばよかったと思っているところです」
「ほめても何も出ないわよ」
「ええ、出されても困るので全力でけなしておきました」
 真顔で言ったタイザンに、
「口が減らないわねえ」
 オオスミは立ったままズズズとコーヒーをすすり、
「呼ばないと来ないわよ」
「え?」
「エレベーターよ」
 コーヒーカップで操作盤を指して、
「冗談はともかく、ひどい顔色じゃない。うちのミユキの方が血色がいいくらいよ」
 胸ポケットをさぐって、
「栄養剤。飲みなさい」
 小瓶に入った錠剤を投げてよこした。
「ありがとうございます。ところで製造元はどこですか」
「もちろん、わが技研よ」
「そうですか。お返しします」
「何よ、そこらの大手メーカーのものより、10倍は効くわよ」
「残念ながら私はオオスミ部長と違い、毒を飲んだら死ぬ体ですので」
「口から毒を吐きまくりのくせに言うわねえ。
 毒なんかじゃないわよ。いいから飲んでおきなさい。ついでにその霜花にも飲ませて、2人仲良く大降神すれば楽しいわよ」
「私もか?! 人間まで巨大化させる薬物か?!」
「運がよければの話よ」
「それのどこが運がいい!」
「大暴れしてライバル社のビルの2つや3つ倒してらっしゃい。少しは気も晴れるわよ?」
『いや姐さん、冗談抜きでいい薬を持ってやせんかい。うちのダンナ、ちょいと疲れてるみてェで』 「あら」
 急に出てきたオニシバに、オオスミは目を丸くした。
「オニシバ、余計な口をはさむな」
『ここ何日かを見てると、とても黙ってられやせんよ』
「式神にまで心配させるなんて、宗家のお耳に入ったらお叱りを受けるわよ」
「それは……」
「まあいいわ、そんなに具合が悪いなら、明日は休んで医者に見てもらったら?」
「いやしかし、この年の瀬に休むなど……」
 渋るタイザンに、オオスミはふと笑みを浮かべた。
「すばらしいわね、その愛社精神。感服したわ」
「は?」
 思いもよらぬ言葉に目を丸くするタイザンの肩に右手を置き、
「あなたの仕事熱心さはよくわかったわ。宗家には私からうまくお伝えするから、気兼ねなく働きなさい」
 そしてにっこりと微笑んだ……つもりだったのかもしれないが、表に出たのはマッドサイエンティストの笑みだった。
「あなたが倒れたら、神操機はわが技研が責任持って管理するから!」
 異様な力でタイザンの肩をがっちり握り締め、
「ああ、医師免許持ちも技研には何人かいるから、社内で倒れても安心よ。むしろその方が面白いかもしれないわね、ふふふ……」
 メガネに映る冷たい光に、全身が総毛立った。
「いつの間に医師免許持ちなど採用した!」
「あら知らなかった? 昔からよ。みんな熱心ないい研究者よ」
「……法に触れる真似をしていないだろうな」
「法が怖くて闘神士ができるものですか!」
 オオスミは胸を張って宣言した。二の句も継げないタイザンに、
『ダンナ、そろそろ出ねェと終電が行っちまいまさァ』
 神操機からオニシバの声が飛んだ。タイザンはそれで我に返り、腕時計に目を落としてすぐ、エレベーターのボタンを押した。
「とにかく技研の世話にはなりません。終電が行きますので」
「あらそう。じゃあまた明日ね」
「いえ、明日は有給を使って医者にかかりますので」
 言いながら、開いたエレベーターの扉にかけこみ、「close」のボタンを叩いた。
「失礼します」
 エレベーターが動き、オオスミが見えなくなると、タイザンはため息をついて座り込んだ。
「本当に……幽霊の方がどれほどマシか……」
 ともあれ、明日はおとなしく病院に行こうと、下り行くエレベーターの中でタイザンは思った。

10.12.13



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今年も抑えられないオオスミ部長への愛。
お医者へGoです。