+  風花  +


 ふらふらと歩いていた。目的もなく、どこへ行こうという意思もなく。ただ左手に笛を持ち、漂い歩くうちによい場所があったら奏でようかと、そのくらいの気持ちで、新雪に足跡を残す。
 立ち止まり天を仰ぐと、灰色の雲が重く垂れ込めていた。昨夜からの雪はやんだが、どっさりと積もった雪は、この寒さでは解けそうもない。だが、こんな雪の日はなぜか好きだった。
「自分の節季だから…とガシンなどは言っていたか」
 つぶやくと息が白い。春、この里に戻ってきたばかりのころは何一つ思い出せず、かなりの醜態をさらしたが、季節が一巡りする寸前ともなればもうだいぶ落ち着いてきていた。少なくとも、自分が都で受けてきた五行と節季に関する教育くらいはたやすく思い出せる。
『いや、あんたは何も思い出せてないよ』
 ガシンはいつもそう言う。そう言ってはウスベニにたしなめられているのだったが、その真意は測りかねるばかりだ。
 気温が下がってきた。もう一度白い息を吐き、空を見上げると、かすかに風が過ぎて白く細かい雪の粉がさらりと降りてくるのが目に入った。
「……風花か」
 笛を口元に当て、息を吹き込むと、澄んだ音が白い野辺に響き、長く尾を引いた。目を閉じ、そのまま一曲だけ、ゆったりと笛を奏でる。
『あなたは、命をかけてわたくしと里の人々を守ろうとしてくれたのです』
 ウスベニはそう言って微笑むばかりだった。彼女はガシンから、封じられて後の経緯を聞いているようだったが、それを語ろうとすることはなかった。そして自分も、あえてそれを訊こうとはしていない。
 思い出せないといえば、この曲もそうだ。ガシンは、失った記憶の期間に自分が作った曲だろうというが、まるで覚えていない。しかしその旋律だけは頭から離れないのだ。どこか……何かとても美しいものを見下ろしながら、この曲を奏でたような気がする。   その時その場所で、何かが自分とともにあった。
 目を開き、雪に包まれた白い世界を瞳に映した。こんな雪景色にも、うすぼんやりと何かが浮かんでこようとする。とても寒かった。足が震えて仕方なかった。そんな断片ばかりが浮かび上がっては泡のように消えた。
 考えることに飽いて、曲を奏でるのをやめた。笛を口から放す。
 里へ戻ろう。踵を返し一歩踏み出すと、一面の白の上に不釣合いな青い色が見え、思わず足を止めた。
 闘神機だった。誰かの袂からこぼれたかのように、半分雪に埋もれて、闘神機がそこに落ちていた。
『これ、あんたのだぜ』
 ガシンの声がよみがえる。
『やっぱり思い出せないのか?』
 自分が持つことを拒否したため、里の小さな社に安置してあったはずだ。
 歩み寄り、ためらい、そして雪の中から拾い上げた。ゆっくりと雪を払うと、まるで雲の合間にのぞいた晴れ間のように、青い闘神機が手の中に残る。
 里にたどり着く前、都で地流闘神士として教育を受けていたころ、この闘神機を受け取ったはずだった。それは式神と契約するずいぶん前で、つまり式神を失ったために記憶まで失ったとしても、闘神機のことくらいは覚えていて不思議はない。しかしどうしても違和感があった。
 捨てて、里へ帰ろうか。そんな考えも湧く。これは自分には必要のないものだ。そんな気がした。以前そう言ったら、なぜかガシンがひどく怒って食って掛かってきたことがある。それをたしなめたのはウスベニだ。ガシンが去ったのち、ぽつりとウスベニがつぶやくのを聞いた。
『罰を受けなくてはならないと、そう思っているのですか?』
 意味はわからなかったが、耐え難い気持ちになってその場を離れた。時折そうやって、ウスベニやガシンのやさしさに理由もなく身を切られるような思いをすることがある。それでも、ウスベニたちが静かに自分のそばにいて、穏やかにうつろう里の節季をともに過ごしてくれていることは、なにものにも代えがたいことだった。
 ……だが、何かが欠けていると思うのも確かだった。何かがうつろだ。しかしそのうつろを埋めようとすれば、違う何かが痛みだす。その痛みが恐ろしくて目をそらした結果、自分は今も欠けたままだ。手の中の青に目を落とす。
 まるでこの闘神機のような、からっぽな自分。
 力をこめて握り締めると、それは突然光を放った。
 驚きに立ちすくむ間に、四方を異世界から現れた障子に取り囲まれる。そしてそこに、一体の影が映った。明らかにヒトではない、誰かの横顔。タイザンの視線はそれにひきつけられた。
 影はびくりとあごを上げたように見えた。それからしばらく、そのままの姿勢で沈黙を続ける。そして、目を見開いたままのこちらの耳に、低い低い笑い声が届いた。
『こいつァ……太極神も粋な真似をなさるもんだ。……ダンナ、』
 思わず息を呑んだ。その声に覚えがあった。
『あっしを覚えてやすかい?』
 何かがどっと胸のうちに押し寄せてきて、腕が震えるのが分かった。痛みと、そしてそれ以上の強い何かで。
 花園で、倒れたその者と言葉を交わした。すまないとただ一言、それしか言えなかった自分を、彼はすべて理解した顔で許した。思えば彼はいつもそうだったような気がする。
 時にいさめられ、時に諍いになり、そしてともに戦い、ともに倒れた。
 その名が散るとき、まぶしい光に目を奪われながら、初めて気づいた。ただ一人で歩くつもりだった暗く長い道を、いつしかともに歩んできたと。
 ……この世に絆と呼べるものがあるならば、きっとこれが……。
 そして、そう、あれも雪の降る場所だった。初めて出会い、こうして障子越しに言葉を交わし、そして自分が呼んだ名は、
     顔を上げ、冷えた闘神機を両手で包み込んだ。あちら側で揺らめく気配は、とても長く自分と共にあったものだ。
「…………オニシバ」
 障子に映った影が、唇を吊り上げて笑う気配があった。
06.11.26






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