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紙切れと秋深し +
「……どうしてもイライラするな」
ぼそっとそんなことをつぶやき、タイザンはデスクワークの手を止めノートパソコンを閉じた。
「天流宗家は未だ見つからぬというし、ミカヅチは思うように動かぬし……まあこれは今さら言っても詮ないことか。それにしても落ち着かぬ」
ミカヅチビルで仕事に追われている時はともかく、かなり気を使って調度を整えた自宅でまでいらだつことはめずらしい。天井を見上げ、
「やはり仕事を持ち帰るのは精神衛生上よくないか。私としたことが、判断を誤ったな」
真面目くさってひとりごちる契約者が相槌を求めている気がしたので、オニシバはちょっと考えてしまった。彼の気に入るような合いの手は入れられそうにないが、仕方ない。
「……いや、あっしにゃァ、別の理由があるような気がしますけどねェ」
「言うな!」
突然怒鳴るのは最近の彼のクセのようなものなので、オニシバもいちいち驚いたりはしない。とりあえずは目だけでその『理由』を指し示してやるのみだ。
机の端にぺらりと置かれた、一枚の紙。「予防接種問診表」の文字が黒々と存在を主張している。
本日、まだ日の高いころ。
「タイザン、いる?」
と、今日もノック一つなく科学技術研究部長オオスミが天流討伐部長室に入ってきた。デスクワークの手を止めてぼーっとネット上の犬猫画像を眺めていたタイザンは慌ててノートパソコンを閉じた。
「オオスミ部長、入ってくるときはノックくらいしていただきたいのですが」
抗議は当然のごとく無視され、
「これ。明日だから書いてきて。部下にも撒いてね」
ずいっと差し出された紙の束には、
『問診表』
と書いてあった。
「……これは?」
「インフルエンザの予防接種を明日実施するから、ちゃんと埋めてきて」
「よぼ……」
一瞬全身が総毛立った。
「……私は遠慮する」
「全地流闘神士の義務よ。全員。義務だから」
もう少しで口走りかけた「私は神流闘神士だ!」の一言を何とか飲み込んでいる間に、オオスミは尖ったあごをあげて自信に満ちた笑みを浮かべた。
「わが技研新開発の万能ワクチンだからよく効くわよ。受けておいて損はないわね」
「……は?」
時渡り後必死でかき集めた現代の常識を総動員する。……おかしい。今の発言はおかしい。
「ちょっと待て、これは何かの法律の許可は取っているのか?」
「あら、じゃあタイザンは何かの法律の許可を取って式神を飼っているのかしら?」
とっさに返す言葉につまった、その一瞬をついて問診表を押し付けられる。
「じゃ、頼んだわよ」
言って振り向きもせずずかずかと部屋を出て行った。
『……ダンナ、相変わらずあの姐さんにだけは勝てませんねェ』
「うるさい!」
思わず怒鳴ってしまったのは、「式神に法律が関係あるか」という返しが即座に出てこなかった自分に腹が立ってきたからだった。
と、まあそんなことがあった後、タイザンは書類を全部鞄に詰め込んで逃げるようにミカヅチビルから退社してきたのだった。
「何が予防接種だ。おかしいだろう。針で刺すんだぞ。薬というのは飲んだり塗ったりするもので、刺すものじゃないだろうが」
「……つまり、チカテツとかヒコウキとかと同じような感じがするんですかい」
自宅リビングで予防接種のおかしさをとうとうとまくしたてるタイザンは、さっきから机をばんばん叩いている。せっかくの机が傷んぢまう、降神されてりゃ手をつかんで止めてやるんだが、と霊体のオニシバは思った。
「結局ダンナの言いてェのは、『なじみがなくて気味が悪い』ってことですかい? それだけの理由だったら腹をくくったほうがいいんじゃねェかと思いますがね。流行り病の怖さは、ダンナもよく知ってるでしょう。それに、天流宗家が見つかった時に、熱出して倒れてたんじゃサマにならねェや」
正論に返す言葉もなかったか、タイザンは拳を固めて黙りこくった。と、ぽんと手を叩く。重要なことを思い出したように、
「オニシバ、狂犬病予防接種というのを知っているか」
「キョウケン?」
「飼い犬には義務付けられている、ということはおまえにも必要だということだ。よし、明日にでも保健所に行くか」
「……ダンナ、現実逃避したって状況が変わるわけじゃありやせんぜ」
進路を司る式神として言ってやると、タイザンは「現実逃避なものか」とそっぽを向く。
「この時代のルールに従うべきだというならそうしなくてはならないというだけだ。別におまえも巻き込んでやれとか考えてるわけじゃないぞ」
「へえ、そうですかい」
「ああ、そうだ」
「………………」
「…………………」
「……………………」
「……なんとか言えオニシバ!」
「切れられても困りますぜ、ダンナ」
いけねェなあ、すっかり落ち着かなくなっちまってる。そう思って苦笑したオニシバをどう誤解したか、契約者はますますいらだった様子で机を叩いた。……相変わらずまっすぐで分かりやすいお人だ。オニシバはまたもう少し笑う。
「わかりやした。あっしをそのほけんじょとやらにつれてってくだせえ」
「……なんだと?」
「ダンナが痛ェ思いをするってのに、あっしが呑気にしてるわけにもいきやせんでしょう。あっしもそのキョウケンビョウなんたらをしてもらうことにしやすよ。だからってダンナの痛ェのが減るわけじゃありやせんが、痛ェのも2人なら、ちったァ心強いでしょう」
タイザンはしばらく、涼しい顔でさらりと言ったオニシバを睨むようにしながら考え込んでいた。そして口の中でぶつぶつと文句らしきことを言い、唐突に携帯電話を取り出して登録してある番号へと電話をかけ始めた。
そして当日。予防接種の待合室となったミカヅチビルの会議室には、地流闘神士たちが半泣きだったり面倒くさそうだったり、なんだか妙にハイだったりと、それぞれな表情で集まっていた。
「……モズさん、はやにえにされたトカゲよりひどい顔になってますよ」
「……………………」
「あーかったりぃ。帰っちまおうかな〜」
「チハヤ、そのようなことは許しませんよ! わたくしの闘神士として、健康には気を使いなさい」
「ウミちゃん、なんだか嬉しそうだよ」
「おお、わしは昔から注射が大好きでな!」
そんな雑音の中で順番待ちを監督していたオオスミに、つかつかと現れたタイザンが「オオスミ部長、おはようございます」と声を掛けた。
「あらタイザン、おはよう。問診表は埋めてきてくれたわよね?」
「ええ、ここに」
流麗な筆跡で埋められた問診表を手渡しながら、
「ところで、折り入ってお願いがあるのですが、もう一人余計に予防接種を受けさせてもらうわけにはいきませんか?」
いつもの真顔でタイザンは問い掛ける。オオスミは問診表にちらりとも目を通さず部下に渡し、
「もう一人余計に? それは地流闘神士じゃないということかしら」
「ええ。私の親戚の者なのですが、フリーターでぶらぶらしていて、このような予防接種を受ける機会がないものですから。ぜひお願いできないかと」
「ふうん。タイザンにも身内の情なんてあったのねぇ。まあ、一人くらいならいいわよ。『それ』がそうなの?」
「ええ。『コレ』がそうです」
2人はうなずきあい、オニシバがひょいっと手近なソファに下ろした『それ』の白ジャケットを見やった。『それ』は『縛』の符でぐるぐるまきにされているにもかかわらず、むーむーうなりながら往生際悪くじたばたしている。
「全部おまえのためなんだからな、これくらい我慢しろ。決して自分の不幸には他人も巻き込んでやれとか考えてるわけじゃないぞ」
タイザンがぼそっとつぶやくと、白ジャケットはますますむーむーいいながら暴れ始めた。その肩の上で青龍が『good luck、マサオミくん!』と笑っている。
「ダンナ、今後の計画に支障が出ても知りませんぜ」
呆れた声のオニシバを鼻で笑い、それからまた真顔になったタイザンは軽く二の腕をさすりつつ、会議室から続く予防接種会場へと足を向けた。
05.10.09