新しく家を建てるのは、物理的に必要になったので建てる、建てかえる−という理由の人が圧倒的に多いことでしょうが、そうした人たちも含めて、その他の理由の人たちのことも考えてみたいと思います。私が設計の依頼を受けた場合、依頼した方が家をつくりたいと考えられた動機を伺うことが重要であり、それに対する答えが、以後計画する家の内容に大きな影響を及ぼします。
ある人が言いました「人は生涯同じスペース、同じ光の下で生きるべきではない。人は生き物で体も心も変化していくものだ」と。その言葉と関係するのですが、人は気分転換のため、タンスを動かしたり、カーテンを変えたりに始まって、小規模のリフォーム、大規模のリフォーム、増築、新築といった大きな工事の計画にまで進む人もでてきます。
止むに止まれず家を建て直した人の例−これこそ標題の典型的な例です。建築家Sさん設計によるクライアントTさんの弁「家を建て直すことは、自分の生活環境を変えていく必要があるからだと思っているんだ。つまり自分の意識の再構築が必要と思えるから、住環境である家を建て直す、と考えた方が自然なんだ。自分の意識の変革なしに家を建て直してはならない。そうだろう−それにしても、本当にぜいたくなことだ」。
※Tさんは、再び詩的な表現をすれば "同じ光のしたで生きるべきでない" を実践したラッキーな人といっていいでしょう。
イギリスから夫と共に南仏のプロバンスに住み、夫の死後、2人の生活の思い出のしみついた住居から自分を解放し新しく一人で生きていくために別の住宅をリフォームして移り住むことにしたレディ・フォーテスキュー夫人のことはコラムの『南仏プロバンスの家づくり』の後の方で書きました。これは物理的に必要なだけではないことの例です。(私の住む「柿野の山の家」の増築とリフォームの経験も、物理的に必要な他に新たな生活をする意志とかかわっていましたが、この短い文では省きます)。
出来上がった「新しい家」は物理的に必要な人は勿論のこと、精神的な理由で必要だった人(新しい、清新な光の下で生き抜こうとする人)−そうした人たちを完全に満足させてあげるものでなければならないと思います。アメリカの建築家イーロ・サーリネンは20世紀半ばに「建築はあらゆる芸術と同じく、人間の希望を高らかに告げ知らすのでなければならない。しかもその人間の希望はいかなる建築、どのような小住宅のようなものにまで見出されるべきである」と書きました。まるで大上段に構えた演説のようですが、私は彼の言う考えが好きです。私のつくるもの、書くものの矢印を、いつも注意深く、本能であるがごとくその方向にしているつもりです。
地上の多くの資源、「造った人たちの多くの労力、建主の貴重な資力と夢−それによって出来上がった「新しい家」は、それまでの生活の不便さ、閉塞感、惰性、無気力、日常生活の疲労感といったものから私たちを解放し、"人生は美しく、希望と喜びに溢れたものであり、生きるに価するものだ"
といった人生に対する信頼が静かに体中にしみわたり、自分の人生を再び前進させようと元気が沸いてくるようなものでなければなりません。あたかも若き日のベートーヴェンがつくった「エロイカ変奏曲」の最後の美しい数小節、あの生を讃えた音楽のように。
※雑誌「住宅建築」1999年3月号
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