1990年代始めプロヴァンスブームがあり、イギリス人でかの地に住みはじめたピーター・メイルが書いた『南仏プロヴァンスの12か月』の本がベストセラーになり、当時テレビで放映したりビディオになったりしました。またブームにのってフォーテスキュー夫人が書いた『プロヴァンスの青い空と海』が出版され、その中に登場するプロヴァンスで生活する人たちの姿が誰彼なしに生彩に富み、とりわけ家の増築工事をした著者と職人たちのやりとりが微笑ましく印象的でした。(私自身は職人たちが大好きです。みな自分の腕に自信があり、手で物をつくりだし、自分独自の趣味や世界を持っていて、私は図面を書くだけで何もできないのに、彼らは目に見える形でそれぞれの領域をこなし建物の完成に尽くしていきます)。
時は1931年、イギリス王立図書館英陸軍研究職を退職したジョン・フォーテスキューとレディ・フォーテスキュー夫妻は、老後をイギリスよりもずっと気候の良い南仏で暮らす決心をして小さなドメイン(田舎家)を購入して住み始め、そのドメインを増築することからこの話は始まります。
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現場で働く職人たち
挿絵は童話「クマのプーさん」の挿絵画家シェパードで28点。
ユーモアがあってほのぼのするものが多い。 |
イギリスならどんな工事にも請負業者がいて現場の指揮をするのに、プロヴァンスではそういう習慣はなく、工事をする時には各職種のすべてをフォーテスキュー夫人が交渉し、発注し、みんなが現場で気持ちよく働けるように気を配るのも夫人の仕事でした。各職種の職人たちはお互いの仕事に気を使わないばかりか、仕事のことで激しい論争を繰り広げる始末でした。それで夫人は現場の監督をするはめになります。フランス語も満足に出来ず、まして建築用語もろくに知らない彼女はゼスチュアや絵を使ってもうまくいかない。例えば「彼らは私たち夫婦が快適に過ごすことを最重要事項に考えていてくれる。しかし目標は同じなのに彼らの意見がくい違うのは何故だろう」―というわけです。浴室のバスタブについて各人が自分の意見を主張してもめた後「とにかく一時が万事、こういう具合だから仕事がはかどるはずがない」。夫人がこんなことをいつまで続けるのかと暗い気持ちになりかけた時、ある考えが浮かびます。
「ラテンの男で女が嫌いな者はいない。私は女性だ!」というわけです。(ちなみに彼女はアングロサクソン系イギリス人で男性が威張っている文化の女でした)。
それから冗談を言ったり、ほめちぎったり、病気をした奥さんのために悲しそうな顔をした職人に花束をあげて慰めたりして、彼らのハートをつかむのに成功します。なかでも「ブレッセ(傷ついた)」は殺し文句で、これこれの仕事が完成しないと奥さんはひどく「ブレッセ」なさるという話が伝わると、それは大変なことだと彼らは一致団結して、あっというまに仕事を完成させる。また彼らが口角沫をとばす論争をしている時、パタッと静かになる。「太陽光線の加減で山の端が美しく輝く瞬間なのだ。イタリア人が多い職人たちの、美しいものを愛する心が感動した時である」。それが終わると再びにぎやかな論争が始まる。
プロヴァンスで急ぐ人はいない。"今日できることは、今日やっておくべし"の反対の世界で、誰もがゆったり自分のペースで暮らしている。何事も"どうにかなるさ"であり、今日できなかったことは明日、いやあさってやればいいじゃないか―なぜ急ぐんだ。事がおきても""オー・ラ・ラ(おやまあ)"というわけです。
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職人の昼寝のスタイル―なぜかバケツを枕に、
両足を木の幹に
からませて眠る。 |
フォーテスキュー夫妻はいつのまにかそうした彼らのやり方や各人の個性に親しみ覚えるようになった時、彼らも夫妻に同じ感情を持ち始め、この快適な日々を長続きさせるために工期を出来るだけ延ばそうと考え始めます。それでは困るので夫人は84才と年をとってはいても、どこか色気を感じさせる石工の親方の尻を叩くため「とっておきの愛想を振りまく」ことになります。プロヴァンスは日本と同じで、家を新築して屋根がふき上がった時お祝いをする風習があるという。夫人は準備の都合があるからと例の石工の親方に祝いの日取りを教えて欲しいというと「親方は上体をかがめ太肢にしわだらけの両手をあて、無言で笑った。私がもう一度頼むと、親方は首を振りながら良く動く目で私をじっと見た」。"マダム何をそう気をもみなさる、見てりゃーわかりまさー"と言いたかったのでしょう。
やがて屋根もふき上がり、上棟の祝いも終り、残る仕事も僅か。そして工事が終り最後の日がくる―「彼らは精いっぱいの気持ちを握手にこめようと、しっかり握ってなかなか離そうとしない。帰る時も名残り惜しそうに小径をうしろ向きで下っていった。大声で何度も何度も姿が見えなくなるまで別れを叫んでいた」。
プロヴァンスの職人たちは工業製品など使わず、昔から使われていた材料を、昔からの手技で、にぎやかに論争を楽しみながら仕上げていったようでした。
数年後、夫に先立たれたレディ・フォーテスキュー夫人は、このドメインに住み続けることは「永久に思い出のとりこになってしまう―どこかに新しい環境で未来を見つめて生きていこう」と決心し、少し離れたところに気に入った石造りのコテッジ(小さな家)を見つけ、困難な交渉の末購入することができて、また別の職人たちとリフォームや増築をすることになります。その時の工事のことを『プロヴァンスの小さな家』に書きました。そうした2つの工事は1930年代のことですが、1980年代後半に200年を経た石造りの農家を購入して増築工事をした、冒頭に書いたピーター・メイルも彼の本『南仏プロヴァンスの12か月』で同じようなプロヴァンスの職人の世界を書いていますが、変化が激しい現代で、半世紀たってもプロヴァンスの人々の気質と生き方、職人たちの伝統的な働き方は変わっていないようでした。プロバンスでは、誰もが自分の人生の主人公だった。
1930年代はじめ、外国から移住したばかりのフォーテスキュー夫妻と共に、ラテン系で陽気な雰囲気のなかで仕事をした当時の職人の人たちはもう生存している人は殆んどいないことでしょう。しかし彼らと夫妻が心を通わせ「楽しみながら仕事をして生きていた」という存在感だけが、会ったこともない人たちなのに、この本を読んだ人の心に静かに残ります。そして頑丈につくられた石造りのドメインは、今でも誰かに大切に使われていて欲しいと願うのです。
現在日本では家づくりをする場合、本当の意味の「手仕事」が少なくなり、工期が優先され、既製品の組立仕事が多く、更に現場監督や設計者が建主と職人の間に入るため、本文のような建主と職人の関係は難しくなっています。けれど建主の方たちがご自分の家の現場を訪問された時は、できるだけ職人さんたちに声をかけコミュニケーションをはかって下さい。「気は心から」です。「私は施主であり金を払ってやる立場だ」という雰囲気でなく、感謝の気持ちで接するならば、あなた方はきっと気にいった家を受け取ることができるでしょう。
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プロヴァンスの青い空と海
レディ・フォーテスキュー
尾島恵子=訳
1994年 読売新聞社 |
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プロヴァンスの小さな家
サンセット・ハウス物語
レディ・フォーテスキュー
尾島恵子=訳
1994年 読売新聞社 |
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南仏プロヴァンスの12か月
ピーター・メイル
池 央耿=訳
1993年 河出書房新社 |
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