2003年の初夏、アトリエの近所に住む小学5年生を頭に3人の少年たちが巣立ちならぬ親からの部屋立ちをすることになり、子供室と玄関、トイレその他を含む大きな増築工事をしていた時のことです。保育園年中組だった一番下の男の子が「雨が降っている夜なんか仮設トイレに行くのは"微妙"なんだ」と言ってニコニコ笑っていました。
その言葉は子供たちの間で流行っているらしく、小さい子供が大人が使う言葉を上手に使っていたのに驚いたのでした。私は彼に負けずその言葉をコラムで上手に使ってみたいと変な気を起こし「クライアントと設計者の関係」こそ"微妙"だと思ったのです。
クライアント(依頼人、施主ともいう)と設計者(依頼の引受人)の関係は古今東西同じケースは2度となく、同一人物でもその時々で微妙な関係になります。(私たちが変化する生き物の証明であるが如く)。古代エジプトでピラミッドを建造した時、クライアントである神の如き当時の王と設計者のことは記録がなく解りません。中世の終り、ローマのバチカンでシスティナの天井画を完成させたミケランジェロとクライアントであったローマ法皇ユリウス2世との争いは映画にもなっていて、両者の関係はおおよそ伺い知ることが出来ます。20世紀では芸術家くずれで壮大な夢ばかり追っていたアドルフ・ヒトラーと彼の忠実な僕であった青年建築家アルベルト・シュペーアの関係も興味が尽きません。クライアントのヒトラーは建築家にもなりたかった夢を、シュペーアに託す思いだったのでしょう。彼の戦争が後半困難に遭遇した時、二人で夢に逃げ込むのが彼の救いだったようです。
2人の関係は遡ること12〜13年程前の1930年12月、ヒトラーがナチスの牙城ベルリン工科大学でドイツの未来について演説し、当時大学助手だったシュペーアを感激させました。「人はパンのみにて生きるのではない。ドイツ民族が再び興隆するためには、とりわけ文化、芸術を再生させなければならない」とぶったのですが、何とまあ立派な理想宣言だったことでしょう。しかしそれと平行してヒトラーの心の中心を形成していた別の強力な野心、臆面のない排他的民族主義で全世界を武力によって征服しようとしていた野心―憎しみと権力による大量殺戮や破壊の世界に対して、夢と創造による建設の世界は余りに対称的でかけ離れた世界だったのではないでしょうか。
クライアントと設計者が馬鹿げた夢を見た壮大なベルリンの計画。
右の大ドームは「首都ゲルマニア改造計画」を象徴する建築で
収容人員15万人、 天井の高さ300m、1950年完成の予定だった。
現存する世界のドーム型建築の10倍はあるであろう。
彼らの首都計画は全てそうした大それたものばかりだったのだ。
「ALBERT SPEER 1932-1942」Propylaer Verlag 1978年
そのような2つの世界は両立するはずもなく、結局ヒトラーは世界征服の夢破れ戦争責任を取らず自決し、終戦時戦争軍需産業大臣まで登りつめていたシュペーアは、連合国によるニュルンベルク戦争犯罪裁判で20年の禁固刑となったのでした。裁判でナチスの戦犯全員が無罪を主張した中で、自ら有罪を認めたのは唯一シュペーア一人であり、彼はヒトラーやナチスと共に犯した罪を積極的に引き受けようとしたのです。建築家アルベルト・シュペーアは1946年シュパンダウ刑務所に収監され、1966年10月、20年の刑期を満了して出所し、1981年になくなりました。クライアントヒトラーの死後シュペーアは36年間生き、出所後の人生で、彼は2度と建築や都市計画に手を染めることはありませんでした。彼は後年述べています。孤独でよこしまな部下たちに囲まれたヒトラーに、「もし気を許せる友人といえるものがいるとしたら、たぶん自分だけだったろう」と。クライアントヒトラーと、いつも冷静でヒトラーの夢を実現してあげようとしたシュペーア(建築家としてだけでなく軍需大臣としても)には、それほどに深い信頼関係があったのでした。
(→次へ)
※参考資料
(1)テレビドキュメンタリー「ヒトラーと6人の側近たち」 1996年 ドイツZDF放送
(2)DVD「ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア」 2005年12月 ハピネットP B1BF-9170
|