天 意 無 崩




 廊下は場所によっては薄暗い。そこを歩くと、なぜか紅の姿が妙にぼんやり光って見えるのは自分の気のせいだろうか。
 当の紅は周りを見回しながら、くすりと笑って言った。

「相模は小さな動物が沢山いますね。動物がお好きでいらっしゃいますか?」
「そうですな。田舎ゆえ、様々な動物がいるのはとても興味深いですよ」
「それはよかった。動物がお好きな方に悪い方はいません」

 当たり障りなく返したが、この家の中に“動物”は一匹もいない。いるのは人間四人と、あとは小さな妖たちのみだ。霊感のない人間には全く見えないが、妖怪たちは天井や廊下の隅で、こちらを興味深そうに見ている。来客には大体反応して覗きにくるのが定石だが、どうにも今日はその数がいつもより多い。
 そのうちの一匹、猫に近い姿の小さな妖怪が、紅の足元にとてとてと近づいた。
 すると紅は驚きもせず、足元に手を伸ばし妖怪を持ち上げた。そのまま繊細な指先で妖怪の頭を撫でてやっている。

「彼らが見える方は滅多にいないのですが…貴方は見える上に怖がらない、更に触ることもできるのですね」
「見た目が私好みで、かつ懐いてくるなら種族問わず歓迎しますよ」

 紅の肩に乗せてもらった妖怪は、とても嬉しそうだった。うっとりとした様子で、赤い髪に頬ずりしてご満悦。ここまで嬉しそうにしている様は見たことがない。いささか懐きすぎではないだろうか。


 客間ではなくあえて花の材料や作品の展示が多い稽古場に通した。無礼にならぬように理由を先に説明すると、紅は「そのほうが都合がいい」と言う。

 帯刀していないことからして、武家の関係者ではない。
 しかしただの遊び人というには、品格がありすぎる。あの文も、学と美意識が相当高い者でなければ書けるものではない。
 花にそっと触れる動作ひとつとっても、庶民ではないのは明らかだ。

「依頼したいのは、妹の仕事部屋に飾る花の誂えです。かかる費用は全て私が負担します。ただ、ひとつ条件を。妹や私に関して、私が話す以上のことは詮索しないでいただきたい」
「承知いたしました。花を誂える為に必要な情報はいくつか質問させていただくことになりますが、それは宜しいですかな?」
「ええ。私の条件を守っていただけるのであれば、正式に仕事を依頼させていただきます」

 紅は、自分が異国の出身だと言った。ということは、妹も同様。鎖国しているこの国にいる異国人となれば、良くも悪くもわけありだろう。だが、花を誂えて欲しいという依頼を受けるだけであれば、斗上家としても問題はない。 最悪、紅が何かの犯罪に関わっていて後日御用になったとしても同様だ。

「妹は京の祇園で働いています。一度限りではなく、できれば継続的にお花をお願いしたい。最初は部屋の構造や雰囲気、飾る場所などご覧になったほうがよいかと思いますので、京に来ていただけますか?二度目からは私がこの相模まで作品を取りに参りましょう」

 そういえば、彼は遠路はるばる京から相模まで来たはず。
 全くそんな様子が見て取れなかった為、何となく近場から来たように思っていた。手土産で菓子を持ってきてくれたが、他には目に付く手荷物もない。はて、このあたりに宿はないはずだが、旅の荷物は一体どこに置いてきたのだろう。
 紅は袖から折りたたんだ紙を取り出すと、広げてこちらに差し出してきた。

「部屋の見取り図です。差し上げますのでお使いください。京へは長旅になりますので、今すぐにとは申しません。瀞舟様のご予定が立ち次第で結構です。いついらっしゃるかお知らせくだされば、途中までお出迎えに上がります」


 とんとんと仕事の話はまとまり、そろそろ暇をと立ち上がった紅へ、もしよければ泊まっていかないかと持ちかけてみた。

「お気持ちは嬉しいですが…すぐ帰るつもりでしたので、着替えなど何も持ってきておりません」
「来客が多い仕事柄、お客様用のお召し物もお布団もございます。無理にとは申し上げませんが、ご遠慮なさらず。それに花のお好みなども具体的にお聞きしたい」

 正直言って、仕事は関係なくもっと紅と話をしたいと思っての誘いだ。何者かは分からないが、魅力的な存在であることに間違いはない。

 紅は結局、こちらの誘いを受けてくれた。襖を隔てた隣室でうずうずしていた双子を紅に紹介すると、さっそく懐いてあれこれ話をしてもらっている様子。

「二人とも、あまりしつこくするでないぞ。お客様は京の都からの長旅でお疲れだ」
「お気遣いどうも。でも旅は慣れていますので大丈夫です。天気がいいし、川にでも遊びに行こうか」

 日暮れまでには戻ると言って、紅は双子を連れ出て行った。三人の後姿を見送っていると、真夜が声をかけてくる。

「不思議な方ですわね。ほら、見えます?陰に入ると紅さんだけほんわり光るんですのよ。単に光の反射のせいかしら。穏やかですし、間違っても悪いかたではないと思いますけれど」
「足もあり影もある。この晴天の下で平然と歩いていられることからしても、幽霊や妖怪の類ではなかろう。あの二人は綺麗なものが大好きだからな、大層な懐きぶりだ」

 それに、もし悪意のある妖怪や幽霊ならば、家にいる妖怪たちがあれほど懐くわけもない。妖怪たちはさきほどまで紅が座っていた座布団に群がっている。それはまるで冬場の小さな日向を取り合う野良猫たちのような図で珍妙な光景だった。