天 意 無 崩




 翌朝、紅は帰途へついた。
 門を出た紅の背中は徐々に遠ざかっていく。今更だが、線の細い青年だ。京と江戸の間には危険な場所もあるというのに、丸腰な上にひとりで大丈夫なのだろうか。上背が並みの男より高いとはいえ、色彩が珍しい上にあれほどの麗人であれば捕まって売られる可能性は充分にある。

「ねえねえ親父、これ紅さんのだよ。手洗ったときに外したまんま、忘れてったみたい」

 玄関から中に入ろうとすると、室内から凌が小走りにやってきた。その手には、金色の細い輪。見覚えがある。確かに凌が言うとおり、紅が嵌めていた腕輪だ。

「渡してこよう。まだ姿は見える位置を歩いているはず」

 門を出てからの道は、左右が田んぼで見晴らしが良い一本道だ。
 背の高い木もないのでまだ見失うことなく追いつけるはず。

 しかし、紅の姿はもうなかった。

 平坦でまっすぐな一本道ゆえ、道のずっと先まで見える。見えるのに、あの鮮やかな赤い髪の後ろ姿はどこにも見当たらず。

 上を見れば、明るい晴れた空。
 横を見れば、田んぼ。広い田んぼの向こうには、森。
 見慣れた景色が穏やかに広がっているだけだった。


「もう姿がなかった。随分足が速いようだ」
「え、さっき出てったばっかなのに?一本道でしょ?」
「紅様、実は牡丹の精だったりしませんかしら。どうにも人とは思えぬお美しさですもの」
「なるほど、牡丹の精か。確かにあの容姿にはしっくりくるな」
「親父、京に行ってまた会うんでしょ?その時返せばいいじゃん」

 この先しばらく、日程がずらせないような用事や行事はない。来週早々に出立する予定だ。
 紅の依頼では、特に花は指定しないので部屋から浮かない範囲で自由に作ってよいという。間取りや広さは図面で分かったが、実際の部屋を見ないことには如何ともし難い。

「素性もよく分からない上に一本道で見失うだなんて…私は少し不安です」

 真夜はどうにも腑に落ちないようで、不可解な点が多い紅を尋ねて京へ行くことを案じていた。
 無理もない。紅は言動こそ穏やかだが、どう考えても一般人ではない。

「お袋、大丈夫だよ。もし妖怪だったとしても、悪い妖怪じゃないから」
「傍にいるだけでとても心地よい方ですもの。私はまたお会いしたいですわ」

 子供は悪意を敏感に感じ取る。殊更、家にいる妖怪の大半と会話もできるこの双子が言うなら、悪い者ではないはずだ。
 もっと親しくなれば素性を教えてくれるだろうか。

 *

 よく晴れた日の午後、箱根関所を抜けて半時ほど歩いたあたりで、名を呼ばれて頭上を見上げた。このあたりは立派な木が多いが、葉の間から日の光が差し込んでいるので暗くはない。

「御機嫌よう。思ったとおり、普通の人より足がお早いですね」

 太い枝からとんとんと軽やかに降りてきたのは、紅だった。
 見たところ、また手ぶら。装束はこの前会った時とは違う、洋装。耳や腕の装飾も前回より大振りで華やかだ。動くたびにしゃらしゃらと軽やかな音を立てている。

「紅殿。京にいらっしゃるのではなかったのですか?」
「途中までお出迎えにあがりますと申し上げたでしょう。言葉通り、お迎えに上がりました」
「それにしても関所でもなくこのような場所でお待ちとは。いつ私が来るやも分からぬでしょうに」
「関所は人が多いので、苦手です。大勢に注目されるのは珍獣になったようで気分がよくありません」

 まるで自分がいつここを通るかを最初から分かっていたような登場だった。何日ごろ京に着くとは言ってあったが、そこまでの気候によっては前後する可能性も充分にある。樹上で何日も泊まるつもりだったのだろうか。

「京へは長旅です。どうせなら瀞舟様に、道中楽しんで頂きたいと思いまして。美味いものや絶景など、ご案内いたします」
「遠回りは避けたい。そのあたりは大丈夫ですかな?」
「承知の上です。主要な道からは外れますが、ここよりも近道です。少し凡人にはきつい道もあるかも知れませんが、旅慣れた瀞舟様ならば大丈夫でしょう」

 慣れているのは確かであり、崖だろうがとりあえず足場があれば問題なく通れる。しかし、そもそも紅はそんな道を通れるのだろうか。上背はあるものの身幅は普通の男よりだいぶ細い。

「では早速。どうぞこちらへ」

 手招きされたのは、山の方向だった。
 東海道から少しでも外れれば舗装されていない山道だ。獣道があるので歩くにはさほど不自由しないとはいえ、一体何を考えているのだろう。

「もう一刻ほど歩くと小さな宿があります。そこは穴場で、食事も風呂も絶品ですよ」

 紅の足取りは軽く、安定している。まるで森で遊び慣れた子供のようだ。

「馬もないようだが、京からここまでどうやっていらしたのですか?」
「徒歩です。私は見た目より剛脚で体力もありますので」

 にっこりと微笑まれた。明らかにそれ以上訊くなという圧力を感じる。
 仕方ない、話題を変えよう。

「紅殿、これを。先日我が家にいらした際、お忘れでした」

 荷物の中から紅の腕輪を取り出して渡すと、少し驚いた後で礼を言ってきた。

「凌が気づきましてな。美しい金と素晴らしい彫りだ」
「有難うございます。私が作ったものなので、褒めていただけるのは嬉しいです」 

 間近でしげしげと見たが、本当に見事な細工だった。あれほどの作品が作れるならば、その道一筋でも充分食べていけるだろう。