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南海紀行(徳之島〜沖永良部〜与論)

2日目 亀津(徳之島町)〜伊仙町〜平土野(天城町)〜亀津

地図 徳之島は闘牛の島。約500年の歴史を持つということで、毎年1月、5月、10月に本場所が、 そのほかにも年に20回程度の大会が開催されるのだそうです。(5月に行われる理由の一つには農閑期だからというのがあるらしいです。) そういえば空港にも「闘牛サミット」と書かれた垂れ幕のようなものが掛かっていたっけ。
この日も徳之島町の伊藤観光ドームで朝から闘牛がありました。
でもその前に徳之島町役場へ。徳之島町役場は町のメインストリート(?)のワイド通りの先にありました。

さて、2日目の予定は徳之島の南半分(=伊仙町側)を天城町平土野に向かいます。
昨日に続いて雨が心配されましたが、この日も予報は曇り。降水確率は0だなんて、何てツイているんだろう。

自転車を走らせ、少し経つと伊仙町に突入。徳之島の北側に比べると起伏も緩やかで走りやすい道が続きます。 伊仙町第2の街面縄を通過して一気に伊仙へ。
徳之島は何処もそうなのですが、伊仙町役場前は亀津や平土野に比べると一段とくつろいだ雰囲気。 何処かしら長寿の町って感じが漂ってきます。 第2次世界大戦後の1島1港主義によって、亀津以外の古い港町は急激に衰退していったらしいです。 その分伊仙の都市化が進んだ部分もあったのらしいのですが。

伊仙町役場前
▲伊仙町役場前
牛
▲牛(犬田布近くにて)

さらに直進を続けます。目指すは島の南西部、犬田布。
伊仙から犬田布の間には、泉重千代翁像や本郷かまと生地などの長寿ゾーン(勝手に命名)が続きます。
岬へと続く道の途中には牛くんもいました。伊仙町はサトウキビやバレイショのほかに肉用牛も主産業の一つなんですね。

犬田布岬、琉球石灰岩というサンゴ礁の層の侵食岸が続く断崖です。 その上から見下ろす海原は絶好の景観を誇っていました。
また、その傍らには戦艦大和の慰霊碑がありました。慰霊碑の高さは大和の高さと同じとのこと。
実際に大和が沈んだのは坊ノ岬沖らしいのですが。
犬田布岬
▲犬田布岬
戦艦大和の慰霊碑
▲戦艦大和の慰霊碑

県道へと戻ります。犬田布から北へ向かう道は海から離れて内陸へと向かい、その道程は長い坂道が続きます。
犬田布を発ち、1時間ほどした町境の先に秋利神架橋が見えてきました。
徳之島一の秋利神川に架かるこの大橋、実際には「秋利神大橋(伊仙町側)」と「天城大橋(天城町側)」の2つの橋からなっています。 その中央には展望スポットがあり、そこから見下ろす景色もなかなかすばらしいものでした。
そういえば風が強かったなぁ…。

秋利神架橋
▲秋利神架橋
秋利神架橋
▲秋利神架橋から下を覗く

終点地平土野の一つ手前、兼久は実際の人口規模等は分かりませんが、平土野・天城と同じくらい整備された街という印象。 道路が広く整備されていたこともあるのかもしれない。
そして兼久の町も通り過ぎ、坂を下るとそこには見たことのある風景が。スタート地点平土野に戻ってきました。
なんだい。「犬の門蓋」は県道沿いからは行けないのか。
よくよく平土野を散策していると、商店街の一角に「ここから約2キロ(だったかなぁ…)」の案内板が。何でスタート時に気付かなかったかなぁ。 もう一回自転車を持って坂を登る気にはなれなかったので、一旦自転車を返して再出発することに。

ちょっと広めの農道のような坂道を進んでいくと、ありました、あと400メートルの案内が。 そしてさらに進むと海が見えてきました。
「犬の門蓋」とは、昔大飢饉のときに人畜を襲う野犬を断崖から海中に投じたという逸話からそう呼ばれるそうです。
波風による長い年月を掛けての浸食なのでしょう。メガネ岩、断崖・奇岩、怪岩が続くその風景は旅の前の想像を超えるものでした。 これが夕日の刻だったらまた違ったものだったのでしょうねぇ。

犬の門蓋
▲犬の門蓋(いんのじょうふた)
犬の門蓋
▲犬の門蓋

さて、この夜の宿泊地も昨日と同じ亀津。今回はバスで県道80号(天城〜花徳)を横断です。
平土野から亀津まで1000円弱。バスには伊仙町と徳之島町では高齢者へのバス代の援助金(半額)が4月から廃止という張り紙がありました。 合併に失敗した2町の苦悩が伺えます。
亀津の街を再度散策し、2日目の亀津の夜に…。

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