橋本:保存鉄道のお話に入りますが、保存鉄道において重要なことは?
白井:やっぱり歴史的系列で、保存鉄道というのは欧米から始まっているんですね。先生の欧米からの流れというものを眺めながら考え、あるいは進めてゆくということが必要なんですね。それは言うまでもなく、産業革命と同じで、SLの鉄道の発祥と同じで、最小限半世紀は遅れていると。これがおもしろいのは、私の人生70何年で感じ取ったのは、なかなかこれはねえ、追いつけ追い越せと一口でいうけどもねえ、時間というものはなかなか難しいと。縮めると言うことはね。やはりそれはある程度縮めるくらいはできるはな。追いつけ追い越せなんていうことはありえないと。という認識の上で、いろいろ対応を考えてゆくと。ゆうこと。
そこから、もう1つは、歴史に学ぶということですね。これは話が離れてしまうけども、例えば一番我々身にしみていることは、太平洋戦争の教訓をもう少し学ばないといけないと。やって沢山死んだよ負けたよと、しまったと言っているだけではほとんど教訓にならない。これはね、家康の話以上にものすごい教訓があるんですね。保存鉄道の話と関係ないみたいだけども、ことはおなじことであって、戦争は2つの大きな流れとね、個々の戦争1つずつもものすごい教訓、例えばミッドウエイの海戦ね。索敵、敵の空母がおるかおるかどうか調べる区分共石法というのがあるんですね。ただ1カ所だけ雲があった、まあ、これはいないわと、10中9敵はいない、ここもいないだろう、実はここに航空母艦がいたんですね。日本の航空隊が陸上基地へ行っている間に、向こうの雷撃機が日本の航空母艦へ殺到して全部沈めちゃうわけです。1つでも落としたらだめなんです。ものすごい教訓なんですね。1つでも落としたらだめなんですね。ものすごい教訓ですね。そのために何千の優秀なパイロットが死んじゃったと。航空母艦が沈むと帰るところが無いからね。飛行機は海へ不時着するよりしょうがないわけですね。それはほんの一例ですが、そういうものが5万とある、それをもっと生かすべきだということで、歴史に学ぶと。ですから、保存鉄道も言えばイギリス、アメリカはどう歩いてきたかというあたりを学びつつ、こっちも進めてゆくといいのではないかな。ただ、今、あまりに違うからね、例えば言えば言うほど絶望的で、ボランティアによる保存を向こうはほとんど全部そうだと、こっちはほとんどゼロだと。いうんですから、まあ、ひどいように見えるけど、そうばかりじゃないんじゃないかなと思います。
橋本:そういう意味には日本では保存鉄道が根付いているとは言い難いわけですね。
白井:これはまだまだ幼稚園だね。幼稚園だけど前は無かったんだから。近々、ここははじめてからB6の保存を初めてから、30年です。その間にここまできたのは長足なる進歩だということが言えると思いますね。いくら、今言った台湾だったら保存鉄道は今は無いに近い。10年前まで阿里山鉄道はシェイの機関車は国の宝であるから、世界の宝であるから是非動くようにしなさいと言っても、我が国はそういうばかなことをする人はいませんとかね、走っても乗るようなばかな乗客はおりませんとかね、そういう高官の方のご返事だったのが、ちょっとかわってきたのね。
だから日本も瞬間風速だけで絶望的になる必要はない、粘り強く対話を続けてゆけば、一番問題は日本人ていうのは、そんなばかな国民ではない、やっぱり世界に冠たる優秀なる民族であるから、必ずこれは立派になって行くであろうと。これは間違いなく保証できますね。でも、そう簡単ではないと。
今度特にイギリスに行って来てね、ちょっとがっくりしちゃっとるんですね。例えば、SL運転というのは、運転状況はね、120Km/h、昔の特急燕より速く走るのね。日本の機関車がせいぜい80Km/h。あれを見てくると、これはSL保存運転というのは恥ずかしくなっちゃう。やっぱりSLというのは、100Km/hではしるのがSLであると。幹線をね。東海道線の平坦直線を車も全部追い越して走るのがSLなんだね。ところで、引っ張っている客車が大正末くらいのコンパートメントの客車をピカピカに磨いて使っている。そのころの日本の代表客車というと、ナハ22000という木造の客車ですが、残っている客車がゼロ。向こうは沢山あって、お客をのせて毎日走っている。あまりにも現実は落差が大きくて、ちょっとがっくりということですけどね。
橋本:そういう意味では、日本に保存鉄道が根付いているかというと
白井:まあ、始まってからまだ第1歩。小さな1歩。大体、ボランティアがゼロだからね。保存鉄道イコールボランティアだからね。これは保存鉄道だけじゃない、日本全国ですよ。全体がね。まあ、ボランティアがちょっと増え始めたよね。もう欧米ではボランティアは極めて素直な姿なんだよね。全てのことに当たり前なんだよね。今はだんだんなってきているんですね。
橋本:実際に使いながら保存してゆくことの難しさは?
白井:難しさよりも保存と生かすことは要するに保存と活用ということであって、やっぱり活用しないと保存もうまくできないと。ただ保存のための保存というのでは本当の保存にはならないと思いますね。ですから、ただ、難しさはあるけども、これは原点じゃないかな? むしろ。
だから、ここでさっきおっしゃった機関車ももう1台くらい落としたらどうかと。ここでまあ、これはC11なんかは大変だからえらいとか、やめたとか言ったら、そこでもって終わりなんですよね。物事はすべてねえ、これはとても私はやれませんとかね、だめですとか言う人があるけどね、それは絶対だめなんですよね。とにかくやりとげると。いう気持ちで行かないと、あかんかな。やっぱり使いながら使わなきゃならん、止まっちゃだめだという覚悟でやることが原点で、必要で、あと難しさの方は、そうすれば自然についてくる。だめだって言ったらだめですね。つらいとか言ったらだめです。
山田:最初にここで蒸気機関車をまた運行を始めるときに、全国ではSLが無くなるという時期だったんですが、それをあえてまたやるというのは
白井:これは正直言うと、立派なインスピレーションが作用したわけではなく、はっきり言って、まねです。戦後、一番原点は、日本の鉄道技術が戦争中、20年ガバーっと遅れちゃったわけ。で、アメリカはその間にものすごい進歩したわけですね。その落差があまりにもひどくて、うらやましいと言う感覚か、これではいかんということで、日本の鉄道界全体が、特に鉄道は海軍から帰ってきた鉄道研究所の三木さん(国鉄鉄道技術研究所・三木忠直氏)とか、そういうひとが中心になって新しい鉄道の研究会というのを作る。われわれ私鉄もとにかくまず取り戻そうと。20年間の空白。戦後のモハ63なんていうのは、設計の根元は大正の末のアメリカの電車から一歩も出ていない。ただ、木の車体が鉄になっただけとかね。ところがアメリカの方はね、セルフラップとかね、全然ワンサイクル先を行っちゃってるからね。とにかくこれを追いつこうと。そのためにはじめは本をとってね、猛烈にほんとに寝ずに勉強するのと、驚きの連続なんだね。これはこんなんなってるんだ、うまい方法だなあとかね。電気ブレーキは全部電磁弁でうごいとるのかとね。だけど、その喜びもすごかったですね。そういうことで、勉強してゆく過程でもうちょっとたつと、向こうの方と手紙の交流とか、向こうのかたが来てお目にかかるという機会ができて、僕の鉄道技術者のお友達の輪がどんどん広がっていったわけですね。で、そのときに、まあ、彼らが言ったのは、最先端の技術を勉強するのもいいけども、古いものを保存するとか勉強するとか、これも同じようにやらないと本当の立派なエンジニアとは言えないよということを、耳にたこができるまで言われた。で、悔しい・・・。こっちは保存どころの騒ぎぎゃない、今日の輸送にも事欠いている。返事は苦しいんだね。英語でうまく応対できないよね。I understand.くらいでおわりでね、いたけど、なるほどそうだな、やらなきゃいかんなということをすごい痛切に感じたわけね。そういうファンダメンタルがあって、そこへもって2100形機関車は解体だと、捨てちゃうと。どこへ頼んでもだれもやってくれないと。じゃあ、大井川鐵道で保証はせんけど、いっぺんやってみるだけやってみてもいいかなと。その背景には、組合も会社も、SLに憧れて入社した人がみな一番親分だった。これがものすごい幸いしている。そうじゃなきゃ、あんな真っ黒くて、あつくてえらいしごとは誰がやるもんですか。みんな当時の重役も組合の委員長も、あんな小さい機関車がこんな長い列車を引っ張って走ると、俺も早くみたいということで、じゃあ、いっぺんだまされてみるか、やってみるかということになったわけですね。やってみたら、結構評判が良くて、お客さんが来るわ、マスコミが取り上げるわということでこれは捨てたもんじゃないではないかということではじまっていったんです。その原点はやっぱり特にイギリス、あるいはアメリカ、アメリカは電車でトレインミュージアムっていうんですけどね。イギリスは上記の保存鉄道というやつなんですが、これをさんざんたたき込まれたのが。ですから、正直に言えば、まねで始めました。
山田:具体的などこかお手本はありますか?
白井:最初のはじめの頃は、そう、一般論だね、イギリスも見たし、スイスも見たし、ドイツもみたり・・・どこがこれのモデルだというところは無いですね。
それからあれも割合強烈な印象だったですね。駐日オーストラリア大使館にMr.パーカーというものすごい鉄道の好きな書記官がいましてね、そいつとしょっちゅう酒飲んであそんだんですね。それが、「Mr.白井、シドニーの近郊にね、パッシングベリーレールウエーというのがあるんだと、これは1800何年のSL鉄道で、写真を見せてこういうのお客さんがこんなにくる、まあ、ものすごい自慢するんだな。憎たらしい。というのが忘れられず残っていて、で、ここもやる、2100形ではじめた。というのは、かっこいい、いさましい、懐かしい、いっぱいお客さんがくる。そのとき、一番力強かったのは、鉄道マニアじゃなくて、おばちゃんもくると。これが一番力づけられましたね。これはもうちょっと進めてもいいんじゃないかと。
山田:それからC11だとか
白井:それからC11のときは一番私は苦しんだんですけども、2100型のときは千頭から両国という1駅間だけ走ってたから、すべってころんでも怪我は小さいですね。C11を持ってきて、本線でやるとなると、だいたい数億のけたの負担がかかりますから、失敗した場合は数億の損になると、私は商法上で言うと、背任罪になると。株主に対して。ということで、もちろん会社もやめなければならないし、やめて済む問題じゃないと。ということで、これはさすがに。ところが本線運転せよというのが電話とか手紙がいっぱいきたんですね。国鉄が無くなっちゃうから。で、こっちはちょっとやってるから。そこにやらせやちょうどいいというわけで、お客さんは無責任でやれやれと。ところがこっちはね、収支計算やったって、それの基本的な資料、条件というのがほとんど拾えないんですね。そっちをちょっとかえることによって、大赤字になったり、小赤字にもなるしね。さじかげんでね。どっちいくのかね、蓋を開けてみないとわからないという要素でね間違ったらほんとに会社をつぶしちゃう、SLだけならいいけどね、ものすご小さいからね、大井川鐵道というのはね。当時の年収の合計が20億かしか無いところですから。傍系会社も入れてもね。そこで2億も穴をあけたらね、会社が倒産しちゃいますよね。ですから、人は言っても、あれはものすごい悩む。そのときの外国の分析を盛んにやりました。今度はみた格好じゃなくてね。そのとき教わったのは、イギリスで教わったのは、これはいいことを教えてくれたですね。蒸気機関車のオペレーティングは一番棚に上げておきなさい。何が大事かというと、eating、drinking、camping、parking、まあ、なんとかやら、要するに宿泊とかね、タクシーとかね、SL弁当だとかね、そういうものは熱心にして、運転の方へあんまり費用をかけて力をかけちゃったら、必ず失敗するよと。彼らのウン十年の経験のたまものですよね。ああそうかと、ありがとうよくわかりましたということで、最初からそういう体制をとって大井川鐵道タクシー会社というものはあるんですが、それのもうけも含めてね、全体的に計画をしたんですが、このときの自信はなくてね、とにかくインチキ収支で多少はちょっとやるということにしてはじめたんですね。始めたら最初の年は1年5万人のお客様、それがだんだん7万人、10万人と増えて、6〜7年あとに20万人、そこでサチュウレートして今でも20万人、減りもしない、で、だんだん良くなって、客車も増やすし機関車も増やすしというようなことで、なんとか収支は首ひとえだけどつながる、こういうじょうたいで来たけど、はじめのときはほんとにねえ、迷ったけど、あのときはじめなきゃ今日はないだろうね。
橋本:最初の収支の試算の段階では大赤字か小赤字で、黒字ではなかったのですね。
白井:まあ、それはイギリスの教えに従って、鉄道では小赤字だけども、トータルとして当社の直属旅館へ何人泊まって、もうけはいくらだとか、いろんなもんをみんなひろって、全部トータルすればなんとかやってけますよと。とんとんくらいになれば、お客が来ただけプラスだと。口コミでまたつたわってゆくからね。宣伝費だと思えばいいと。
橋本:結局、そういったお話は会社の役員会などで、簡単に通らなかったのですか?
白井:そんなことはなかったですね。それがなぜかというと、また同じなんですね。まあ、普通は組合が絶対反対するんですね。そんなばかな、せっかくSLが無くなって、ハンドルを回せば動く電車になったのにね、また真っ黒かと。そんな結構なことなら、白井さんひとりでやりなよと。あんた火を焚いてくれと。今の電車の会社だったら普通はこうなる。ところが、それがみんなやったひとばっかりだったもんだから、おれももう1回やってみたいなあとか、まあ、「やってみるか」ということではじまったんですね。「いいよ」じゃなくてね。これのねえ、私が考えたっていうんじゃなくて、会社のみんなが支持してくれたというのが幸いだったですね。TPOが良かったですね。それがもう1つがねえ、歴史的経過って、さっき言ったんですが、例えば明治維新でもね、誰かのようにね、あんまり早くやるとね、幕府にけられて終わりですよね。ちょうどうまいときにやった薩長あたりは時流にのって維新ができたわけね。早過ぎてもあかんわけ。ですから、これもこれよりはやかったらだめ、で、最初の時はなんともいわん、運輸省も。だけど、本線をはじめるときはね、運輸省は半分くらいだった。こんだけ蒸気をやめさせてきたのにね、今ごろやった俺の努力をなめとるのかと。運輸省もこういうことは全然うわの空なのかという人と、検討し始めたころは半分くらい歴史文化というものは大事だと、やっぱりこういうのもやるべきじゃないかと。半分くらい強硬な人もあったですよ。俺の目の黒いうちはそんなSL運転なんか復活させないと。ところが、役人なんていうのはだんだん変わってきちゃう。2年くらいたつと。大変お世話になりました、餞別はこのくらいでいいですよといっちゃう。反対派が残ったけども、わずかだけどなんとか説得して、まあ、やっぱり運輸省も簡単に言うと「それじゃやってみるか」というスタンスでした。
橋本:すべてがタイミングが良かったと言えますね。
白井:だから、言い換えると、2〜3年早かったら、何をばかなことを考えとるんだ、今後列車の運輸省の補助金は出さんからそのつもりでおれと言われて終わりだと。
天野:大井川鐵道では、SLの運転が終わってから何年後の復活だったわけですか?
白井:ここは昭和24年に電化して、昭和45年に戻したので、20年くらい空白がありました。機関車の1台は保存してあったんですが、まあ、言えば文化保存、時々は動かしておった、懐かしんでね。売れなかったちゅうこともある。この車庫でね。
でも、辛抱できなくて、昭和30年に捨てちゃったわけ。
山田:そういう下地があったんですね。
白井:それが無かったらとてもできないですね。
橋本:続いてですが、この前のイギリスでの国際シンポジウムでどのようなお話をされてきたのですか?
白井:それは、日本における保存鉄道の歩み、私の方だけじゃなくて各鉄道やったんですけども、その経過を大体お話をしたということで、イギリスよりは随分遅れてるけども今、日本でSLが動くところは10カ所くらいできてだんだん進みつつありますということと後は細かい問題で、特にSL列車を動かすについて修繕の問題だとか運転の問題だとかいろんな問題点、日本における問題点についてお話をしたと。お話をするのはそんなくらいのことで、どっちかと言えば、向こうの方が歴史も古いし内容も上だし、まあ、こちらであまり話すのは恥ずかしいくらいの価値のところでしたね。まあ日本でもここまでいってますよという程度の報告です。まあ、むしろこっちが学ぶ方が9割くらいでしょう。こっちからの発信は1割くらい。
橋本:そうすると、イギリスをはじめとした海外の保存鉄道のお話を聞いてきたということですね。
白井:そうですね。それはかねてから知ってはおったんですが、もっと細かいこと、あるいは現場の現実のことを見て、まあ、感想としては余計落差が大きいということの感想を深めたと。まあ1つはボランティアね、ボランティアの質・量共が全然桁違いだと、日本とはね。日本はゼロとは言わんがゼロに近いと。向こうは100点満点くらいだよと。何もかも全部ボランティアでやると。それが当たり前と。いうことで、根本的にそこの大きな違いがあると。それから保存鉄道のスケールが、ごく一部ですが博物館におるSLが本線へ出て、時速100Km/hで走ると。もちろん小さい保存鉄道も多いです。それが大部分ですけど。まあ少なくとも日本では保存鉄道のSLが東海道本線へ出て時速100Km/hで走るということはまだ無いわけですね。質・量共に。
橋本:イギリスの保存鉄道というのは、日本で例えるならば梅小路蒸気機関車館(JR西日本)からC62が出てきて、客扱いをするという感じですか?
白井:梅小路は30両かそこらしかいないけど、例えばヨークの博物館だと保存してる車両は350両ね。やっぱり桁が違うと。かねてから桁が違うとは思っていたけども、言ってみて余計落差をさらに実感したと。
橋本:イギリスのヨーク国立鉄道博物館 (National Railway Museum)へは初めて行かれたのですか?
白井:初めてです。
橋本:私もインターネットのホームページで見たことがありますが、写真からでも保存している車両数の多さに驚きました。
白井:それがねえ、またどんどん良くしてるわけ。毎年毎年。特にこの頃はバリヤフリーで身障者用の設備がねえ、完全無比というくらいにあれも付け、これも付け、で僕ら、年寄りは無料でしょ、子供も無料でしょ。給料とる人だけ有料ですよね。そんなでやってって、どうやってバリヤフリーの設備を付けることができるか、それはもう心配ご無用ですね。全部国から費用が出ます。なぜかというとヨーク「国立」鉄道博物館であると。国立だから金は国から出るからご心配なくと。それは一部であって、ほどんどはボランティアだけどもね。そういう国立・国有というものもある。
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