中部産業遺産研究会
The Chubu Society for Industrial Heritage


■新金谷から千頭までの車内にて

白井:それぞれ1両ずつ年代が違って、1両ずついろいろ違うんですね。これ(オハ35857)は一番悪いときのもので、天井のベニヤ板はぼろぼろだと、昭和23年くらいですね。それぞれみんな歴史がある訳ですね。こんな風に残っているのは大井川鐵道だけで、あとの日本中のSLは実は偽物で、よそは1つもありません。電気もSLで点けていますね。よそはどこかにガソリン発電機があって、それで点けています。これはSLの力で点けています。ですからこの客車は本当に価値があります。一番古いのは昭和13年、新しいのは昭和25年くらいで全く設計図は一緒だが、中身は随分いろいろ違うんですね。

■井川線の応接室の秘密

白井:車輪の前から水が出ます。

天野:水ですか? 砂ではなくて。

白井:水です。

橋本:台車が動くとこのリミットスイッチを叩いて水が出る仕組みですね。
白井:その出す水は一番向こうの座席の下に1t入っています。

天野:その1tの水は1階の運行で使っちゃうんですか?

白井:そうですね。だいたいね。この蓋を開けると吸水口が現れるんですね。ホースで給水します。一番向こうの座席は長いので、通称「応接室」と言うんですが、「応接室」の人は水槽の上に乗っている。
白井:名前を出してくれちゃ困るけどね、ものすごい偉い人とかね、文学者とかね、詩人とかね。そういう方がね、お忍びで来られる。ところがこんだけの列車にその方一人だけ。周りは南アルプスの大自然、山は全部葉を落として、そういう方に聞くとリフレッシュするとね。

天野:そのために来られる訳ですね。

白井:機関車が一番後ろでここ(一番前のスロフ600形)で運転。これも日本で初めてやりました。世界中でやっているのに日本ではやらないんだね。

■白井 昭にとっての師

橋本:白井さんの技術者としての師匠を教えてください。

白井:技術者とかそうでないとかあまり変わりなくて、結局は人間的に感化を受けた人ということになると思うんですけども、まあ一番身近で影響を受けたのは名鉄の土川社長(土川元夫氏・元名古屋鉄道会長・故人)ですね。

山田:土川社長は白井さんから見てどのような方だったんですか?

白井:やっぱりねえ、あのー、人間的に偉大な人だったということでありましてね、事業的にはね、非常に積極的におやりになったものですから、しかもバブル時代だったもんだから、あと、いろいろ多少批判する人もありますけども、もちろん批判もありますけども、それ以上に積極的に事業を伸ばされたと、あるいは人材を育成されたと、そういう方の功績が遙かに大きくて、まあ、名鉄歴代で希に見る偉大な人物だったと思いますね。まあ、我々も非常に厳しく仕込まれました。本当に厳しいんですが、またいろんな新しいことへの取り組みとか改革も非常に早い方で、まあ、よそはやらないうちに次々新しいことに取り組まれるということで、そのうちの一部を我々は仰せつかったわけですけども、まあ、戦前は名鉄は本当の小さい一地方私鉄だったんですが、それがバブルで広がって今また縮まって、今、どんどんやめていますけど、それにしても戦前に比べると随分広がったわけです。まあ、誰がなんと言っても今の名鉄を形作った方と、全般的に言えばね。ここに言えばいろいろエピソードがたくさんあって、我々も教えられ、叱られっぱなしだったと。

橋本:土川さんがおいででなかったとしたらパノラマカーもモノレールも明治村も何も無かった訳ですね。

白井:まあ、面白いのはねえ、これはまあまあできるってやつじゃないとね、叱りもしないわけ。行っても報告も聞いてもらえない。帰れと。叱られるっていうことは相当に認められておるということなんでしょうね。その叱られること一つ一つが本当に身にしみるっていうかね、ためになるようなことを教えてくれる訳ね。で、だんだん成長するわけですね。

橋本:叱られているうちが花だということですね。

白井:まったくそうだよね。叱られないようになったら一巻の終わりだよね。

橋本:土川さんが経営者としてすばらしいと思うのは、文化事業を通じて社会に利益を還元したということと思います。

白井:そうだよね。明治村もリトルワールドもみんな土川さんだよね。事業だけでなく、幅広く人間的に偉大な人だと思いますね。あとは鉄道関係では高田さん(高田隆雄氏・元鉄道友の会副会長・故人)ね。高田さんには随分影響を受けたし、お教えを受けたですね。あの方はやっぱり世界を回られて、視野が本当に世界的なんだよね。だから日本だと割合、当時、国鉄の人の話を聞くことが多かったんですが、国鉄の人の話はおおむね閉鎖的で、日本で一番だとか、一番早いとか、古いとか、高田さんはすごい公平な眼を持っていて、私の方も公平な眼を養うことが出来た。具体的に言うと、例えば日本のディーゼル機関車は世界一悪いんだけども、例えばDD13なんていうのも世界では全然通用しないと。言われてみればそうだなあと思うんだけど日本にいると分からない、あれはあれでまあまあの機関車だなあと思っちゃうんですね。全然そんなことはない。それから、蒸気機関車の関係で非常に、あれは鉄道ジャーナルで非常に議論があって、日本の蒸気機関車は立派に出来ておるけども、性能的とか、スケール的には世界一級のものではないよと、やっぱり狭軌鉄道のそれなりのものだと。いうことで、国鉄のOBの人がね、そんなことはないと頑張って言うと、ことごとく反論されちゃって、みんな間違いですよってやられちゃって、それは高田先生ではなかったですけどね。高田先生はそういうようなことはおやりにはならなかったですね。高田先生はね、人格的にね、大変よくできた方でね、そういう面で教わることが多かったし、それから、タイ国からSLを持ってくるときは実は全て高田さんの情報で、高田さんの交渉で持ってきたんですね。そんなことでまあ、非常によくお付き合いをさせて頂いたと。
日本ではねえ、これも亡くなっちゃったけど、名工大の先輩のトヨタの大野副社長(故・大野耐一氏)ね、看板方式をおやりになって、独自のものを展開したんだけど、トヨタがえらいとは全然おっしゃらなかったんですね。どういうことを言っておられるかというと、今のトヨタの車っていうのは、根本は100%アメリカに教えてもらったと。しかもとても親切、丁寧に教えてくれたと。そのおかげで今日があると。そのことを今後の後輩は忘れて天狗になってはだめだぞと。こういうことを言われた。今のトヨタでもそういう人はいないんですね。

■ジョージ・クランブルス氏と電鉄技術比較論・技術移転史研究

白井:あとは技術的に影響を受けた人で言うと、アメリカのシカゴの鉄道史家、ジョージ・クランブルスという人がおるんだけど、これは鉄道歴史家でね、アメリカでも有名な偉大なる人ですけれど、僕はまだ昔だもんで行けなんだけど、結構かわいがってもらって手紙のやりとりでいろいろ随分教えられたということで、まあ、それが契機でアメリカの電車技術がどのくらいの遅れでどのようなふうにして日本に入ってきたかと、いうことをいっぺんまとめたいなあと。やらなきゃいかんなあというようなことを。つい先年亡くなられて、すごい、今行っても会えないから、がっかりしたんだんだけど、この人に非常にお世話になったと。私の使命感とか行動がこの人に律せられていたと。
ジョージ・クランブルス氏からは、電気鉄道発達の歴史だけでなく、その探索や評価の重点も教えて頂き、私の鉄道技術史の先生となりました。1970年頃から長く教えを受けていたが、惜しくも99年、心臓発作をで亡くなられた、私の敬愛する先生です。
早くから特に電車の歴史をどんどん調べたり記録したりしておられて、それまで最新のことばっかりみんな見ておったけども、歴史なんていうものは、特に途中の発見の過程なんていうものはほかりっぱなしだったわけですね。
私が興味を持っているのはアメリカで発展して、何年か遅れて日本へ来るんですね。その技術移転史。それが割合に早く来るものもあるし、うんと遅れてくるものもあるし。非常に面白いんですね。だけども、日本でほとんどそういう視点は無くて、日本で、なんとかの制御器はどこが初めて使ったよとか、そういう視点ばっかりなんですね。本当はそんなのはどうでもいいことであって、アメリカのどこが発明したのか、それが一番大事なことなんですね。あとは技術移転で言うと、それからあと何年ぐらいで割合早く入ってきたのか大分遅れたとか、の理由は何か、どうして早かったか、どうして遅かったかとかね。そういうようなことを今つついているわけ。で、空気ブレーキだけは私がちょっと、大げさに言うとライフワークで原稿ができて、鉄道ピクトリアルに送ってあるんで、来年に半年くらい掲載されると思うんですよ。ウエスチングハウスでいつ何が開発されて、例えばHSCのブレーキは昭和10年代にアメリカで発明されて。HSCのブレーキも日本では小田急が昭和28年に一番始めに使ったとか、名鉄は30年で遅いとかいうけど、そんなところは問題でないわけで、アメリカでは昭和10年くらいで、戦争で遅れて、もう一つは、終戦になっても日本への導入はまた10年近く遅れておるんですね。まあ、これはどういうことかというようなことをまた分析するのも面白いわけですね。多分、国力が疲弊して、昭和20年代はライセンスを買い入れる金も無かったと。いうことで、代表が湘南電車なんですが、あれの空気ブレーキは全く昔の大正何年の自動ブレーキの系列できてるわけね。あれなんかはHSCに当然すべきものなんですが、変えなかったと。設計が。

橋本:工業炉の世界などでもそうですね、昭和28年頃にアメリカからの技術導入が始まりましたね。

白井:大体そうですね。どこも。ほとんどの産業がそうですね。戦後、一生懸命にやっていたけど、自分たちで一生懸命やっていたけど、ほとんどが我流、自画自賛でやってきたと。昭和28年くらいに入ってきてから、まだ工作機械でも何でも、最先端、最精鋭の技術はまだいいかげん5年も6年もアメリカだけじゃないけど海外技術を使わないと最高級のものは出来なかったと。だから、言えば戦争の傷跡は非常に大きいと。戦争中の10年間、だめにしちゃっただけでなくて、その後も傷跡が10年以上残ったということが言えますね。
アメリカの機械を我々は本では勉強してきた。ものを初めて見たのが営団地下鉄の丸の内線の300形のね、ABAコントローラーというやつですね。これを見て、知ってはおったけど腰を抜かしたというような話で、よくもこれだけ違うなあと。

■今まで語られなかった島秀雄とその時代

橋本:白井さんと島秀雄さんとは鉄道技術者として重なる部分があると思いますが、白井さんにとって島さんはどのような存在でしょうか?

白井:さっき言った蒸気機関車技術論争へ引っかかってくるんだけどねえ、島さんは上手にドイツ、アメリカの鉄道技術を導入なさってきた、で新幹線は別だけど、まあ、あの方の一番主な時代は蒸気機関車でありますのでね、いろんなものでね、その、アメリカから技術導入してきたけどもね、そのことをあまり外へ言わなかったっていう面もあるんです。子分どもをみんな抑えちゃってね。まあ、それはもっとも特許の問題もあるもんだからね、まねしたら特許料を払えと。
あと、島さんではないが、島さんの設計された代表的なD51というものは欧米、ドイツ、アメリカの技術の良いところを集めて、少しレベルを下げて、レベルが低い低いって悪く言うけど、日本の技術レベルが低かったんだから、それは正解なんですよね。欧米並みの設計をしたら、要するに、DD54が日本で使い切れなかったのと同じように使えないですよ。だから日本並みに程度を下げて、大きさとか出力とかいろんなものを最大限にしない、程々でやったのがD51で、だから保守もやり良いし、評判も良かった。その意味では名設計だと。それをやった島さんは偉いと、こういうことになるんだが、もう一つ間違っちゃうと、その、D51は世界一級の機関車だと、そう言っちゃうとそれはまあとんでもない間違いで、まあ、簡単には世界二級の機関車だと。それは高田さんが良く言われた、もっと二流国のチェコとかね、ポーランドとかでも、戦前150Km/hくらいで走っておるのね。蒸気機関車はね。日本は最高で走っても95Km/h。あじあ号を使っても120Km/hがせいぜいのもんで、やっぱりああいう大きい機関車の中ではあじあ号というのは一段等級が下がると言ってみえたね。高田さんは。それは大体材料がドイツのクルック並の材料ができないということ、工作もレベルが劣る。だからやっと車輪径を2mにして、やったと。もう一つは、2m動輪のパシナが全日本で満鉄で12両しか無かったわけね。ところがドイツの0103なんてのはね、もう何百両とあるわけ。全然桁が違う訳ね、やっぱり。

橋本:要するに工作機械の技術や材料の技術など周辺の要素技術の差が大きかったわけですね。

白井:全てが一段下だったから。それに合うようなD51は立派な設計であったと。かと言うと、D51は世界一流かというと、世界二流であると。いうことなんだよな。その意味ではなかなか島さんは立派な見識で対応されたと。

橋本:落としどころを知っていたと。

白井:そうだね、実力を知っていたと。だけど、本当の裏話まで言ってしまうと、それはちょっとタブーになるんで書けないんだけども、いろんな特許を盗んできたんだな。使って、ちょっと変えてそっくりさんで特許料は払わないよと。いうことも、これはまあ、今の中国がそうだよな。その話になると話題を変えましょうと。部下にも絶対に言わなかったと。だから、非常に苦しい立場でもあったんじゃないかと、思いますね。

橋本:大井川鐵道では島さんの設計のタンク形機関車が全て揃っている訳ですね。

白井:あれはまあドイツからの直輸入ですね。DINの標準化をですね、そのまま入れてですね。そのおかげで我々は今すごい助かっているんですね。C10もC11もC12もインゼクターは全部一緒である、その他、全部一緒であるところが結構あるんです。随分助かります。それから戦後の新幹線はコンダクターでまとめ役で、見事にやって頂いたと。実際にやるのは島さんの時代じゃなくて、後の鉄道技術研究所の方々の時代ではあるけども、その人達をうまく取り上げて、うまく使って新幹線を作り上げたと。その意味ではすばらしいエンジニアであると。今度はこれは文句なしに世界一流ですから、その背景には材料も技術も世界一流になってきたわけね、だからできる。一番大きいのは経済力。で、それに合うようにコーディネートをした。

山田:島さんが良くいわれていたのは、簡単に不可能だと言うなと。「“できる”ということより“できない”と言い切る方が難しい。なぜなら、“できる”と言い切るにはたった一つの手段があればよいが、“できない”と言い切るにはあらゆる可能性を探った上でなければ言えないからである。」と言われていますね。

白井:やっぱり、非常に単細胞に割り切るとね、人間に2種類あってね、すぐにこれは私の責任ではない、私ではできない、それからこれは保証できませんがいいですか? と二言目にはそういう人がいるんですが、これはまあ一番責任逃れでね、一番楽なんですね。だけどそういう人の言うことを信じちゃいかんような話なんですね。その人ができんよと、保証しませんよと言ったから保証できないかというと全然そんなことは無いと。言うことですから、逆で、何でも出来るはずですよというスタンスで行かないと、何もできないということですね。今でもそういうことはいっぱいあります。例えばあることでこれはだめだと言われて、大変だと言って、まあ、特に上の人は非常に信用する訳ね。専門家にこれはダメですよって言われるとね。ところが、必ずしもそうじゃないんですね。また、そういう人はね、よくそういうことを言うのは得意な人なんだね。ほっといても万全の場合は大丈夫ですよと言うけど、ちっと難しい、あるいは未経験のことが出てくるとね、責任持てませんとかね、責任持てませんが良いですかとかね。それはまあ、物事をマイナスに導く道だし、また、絶対それは進路してはいけないと。それは技術だけでなく事業でもそうかもしれんよ。

■名鉄のパノラマカーと小田急のNSE

橋本:パノラマカーと小田急のNSEのデザインが非常に似ていることに関して教えてください。

白井:これは小田急が非常に紳士的であって、こういうのを作りたいと、で、ご了解を受けたいというんで、ちゃんとこんな風で作りたいということで名鉄へ丁重なご挨拶があったんですね。NSEができたのはパノラマカーが出来てから何年か後なので、名鉄は実用済みだよね。ですから競合関係みたいなものは全然無い。それよりうんと前からああいう計画はあったと言えば、どこも、名鉄でも昭和30年代からやっておるんですが、どこも同じだけど、考えていることはあるよってことは別として、実際に設計にかかるっていうようなところから言えば、小田急は名鉄よりは何年も後ですよね。ですから、感想は「嬉しいことだなあ」と。誇りうることだなあということで、もっともっと増えて欲しいと。事実国鉄も作るし、増えてきたんだけど、それは自分らが考えたものをまたよそがやってくれるっていうことは評判が良かったという証明みたいなもんだから、嬉しいことだし、そりゃ、黙って作られれば多少引っかかるかも知れないけども、元々名鉄と小田急は非常に親しいんですね。幹部も現場もしょっちゅう向こうへ行ったり向こうのひとがこっちへ来たり、絶えず交流、交換。なぜかというと、名鉄から東京へ行くと一番近いのが小田急なんですね。東京の私鉄と言ってもね。そういう関係かもしれませんけどね。小田急も割合交際が広くて、しょっちゅう現場の人も出すし、幹部の方もよそのことに良く耳を傾けて聞かれたですね。それもあったかも知れませんけど。最初から、正式なご挨拶があって、詳細はこうですが、よろしいでしょうかというご挨拶があったんですよね。それはもう大変に光栄なことでした。
このような車両の計画は前から小田急もあったし、名鉄もあったし、まだいっぱいあって、南海も前の丸い電車のときに検討して大分聞きに来たですよ。ですから、観光的要素がある電鉄ではみんな一度は考えたことがあるんじゃないですかね。ああいうのを作るということをね。ただ、作ったか作らないかということの違いだと思いますね。もちろん、実際に作るに当たっては名鉄が最初ですから、大変な苦労をしたと。あとは見てやればいいんですね。
イギリスのテレビが取材に来てね、イギリスでは到底こんなのはできんって感心しとったけど、イギリスも1938年くらいにね、結構いい展望列車を作ってるんですね。それはただ運転台は下にあって、前がすごい流線型で、運転席と客席が真ん中がアッパッパーで、客室から前が見える展望車、そんなの何でもないじゃんかっていわれるとあれだけど、デザインも見事でね、すばらしいのを作ってるんですね。ですけど、こういうパノラマみたいなのが出来ないっていうのは無理も無いんで、イギリスでは今もねえ、コンパートメントの部屋ごとに戸が開くんです。ああいうのが今でも結構走ってるんです。そのくらい保守的なんですよね。そういうところの人が見たもんで、まあ、こんなのはイギリスにはとてもできんと。そんな国だからパノラマカーにはただただ感心するばかりでしたね。
できたのは少なくとも小田急さんの方が確実に後ですね。後でしかも客室の中に運転台の昇降台が来ちゃっとるから、展望室が狭くてその辺はパノラマカーの方が開放的で良いのかなという気がするんですけど、まあ、それはどっちが良いのかなかなか見解の相違で難しいけど、少なくともまあ考えるのは、みんなもう昭和30年くらいにはどこの鉄道も考えていた訳ね。そういうことを言えばね。具体化するのは名鉄の方が割合名鉄の方が一番始めだと。

山田:運転台が狭いのに対して「スバルを見よ」というのがありましたね。

白井:寸法が何ミリだから狭いっていうんじゃないんだね。寸法は狭くてもそんなに狭く感じないという方法もあるし、広いけどなんだか窮屈だというのもあるんですね。

山田:そんなに狭いとは感じなかったですね。ただ天井が低いという感じですね。

白井:誰かいっぺんねえ、写真の撮れる人で撮ってもらいたいなあ、今の定期運行で、4両+4両つなぐやつが1日に3回くらいあるんだねえ。その運転台に乗って、反対側の写真を誰か撮ってもらいたいわけ。普通なら、僕が撮るんだけど、年くって、危なくって上れないもんだから、誰かに。あれ、本数がもっと減っちゃうとね、パノラマ+パノラマでつなぐことは無くなっちゃうわけね。そうすると二度と見られない景色になるもんだからね。名鉄に撮れって言っても、多分写真をようとるやつはおらんって言うと思うんだね。誰か俺が撮ったるぞっていう人があれば僕が鉄道部長か誰かにそう言ってね、こういう人があるから乗せてやってくれと。誰か添乗はせんといかんでしょうね。名鉄から。安全上ね。カーブのところがなんか結構面白いね。パノラマができてからあの運転台の天井があまりにも人気があるんで、そのドームをもうちょっと長くして、それで中間車の両側へ付けるんですね。それがパノラマドームと言うんですね。それを計画したけどもその頃からちょっと景気が飽和しちゃって、ついに作れなかったんですね。モックアップまで作ったんですね。
アメリカのドームカーの一番端がそうですね。
前からみたやつはビデオもあるね。前からみたやつはいくらでもある。だけど、真ん中のやつは無い。小田急なんかではないんだな。パノラマのつなぎなんて言うのは。前のSSEは2つつないだけど、7000とか、あれ同士のくっつきとか。名鉄しか。JRの気動車やら電車やら、パノラマカーの真似したやつ、あれもあれどうしくっつくっちゅうのはない。日本で名鉄だけ。

▲白井 昭氏のインタビューを受けて、中部産業遺産研究会の山田 貢氏が撮影した写真
白井 昭氏が名古屋鉄道株式会社に依頼してこの撮影が実現した。
パノラマドームが実現していたらこのような視界が得られていただろうか?
写真提供:山田 貢氏(中部産業遺産研究会) 協力:名古屋鉄道株式会社 撮影日:2002年1月13日

■白井 昭と中部産業遺産研究会あるいは産業考古学会との接点

橋本:白井さんと産業考古学会、あるいは中部産業遺産研究会との最初の接点を教えてください。

白井:一番の発端は、千頭の転車台を昭和55(1980)年に持ってきたんだけど、新潟から。そのとき、産業考古学会の一部の先生に直接お世話になった訳。その前は私はあんまり足をつっこんでいなかったわけ。その前も勿論会には入ったり、本を読んだりはしとったの。原稿も出したけども、実際に首をつっこんだというのは昭和55年の転車台をここへ持ってくるとき以来のことで、中部産業遺産研究会の方は、それよりもっと遅いくらいだと思います。中部産業遺産研究会の方はどっちかと言うと、この辺のことをいろいろ、地名の発電所のことや、この辺のことをいろいろやりだしたときは、やっぱり出ざるを得ない、もちろん、アプト式ができたときには、説明とか、ご案内とか。あとは、寸又峡でシンポジウムがありましたね。あれは平成3年くらい。10年くらい前。そんな経過。

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