中部産業遺産研究会
The Chubu Society for Industrial Heritage


■50年500冊の重み・白井メモ

白井 昭氏のメモ(通称白井メモ)の量は1年で約10冊、これを50年継続しているために現在で約500冊が残っています。
次は白井氏よりご提供を受けた絵とメモの一部です。

▲白井メモの一部(昭和19年10月27日27日 ホハユ3150形式 三等合造車)
(中央部はネズミに食われてたため欠落している)
白井:(当時、)鉄道の写真を撮ると憲兵隊に引かれちゃうもんですから、仕方がない、メモしておいてあとは手で絵を描いたんですね。ここ(絵の中央部分)はネズミに食われちゃったんですけどね。
昭和19年10月に描いたのですが、戦災でも焼けなかった、防空壕へ持って逃げて行ったんですが、伊勢湾台風で私の家は大分やられたんですが、それもくぐり抜けたと。そういう意味で貴重なんですね。もう1つは、これは明治30年くらいの官鉄、鉄道院の標準型の客車なんですが、通勤する乗客は真っ黒けで煤けて戦争中ですから、ニックネームは霊柩車と言って、非常にバカにしていました。
ホハユ3150。高山線にたくさんおったんです。これが何で描いたんかというと、高山線はあんまり軍需工場が無かったから、そこで召し上げられて、豊橋へ持ってきたんですね。それで珍しいもんで僕が描いたんです。
一つ言いたいことは、このころから私はこういう明治の古いものに尊敬の念を持っていた、普通の人は霊柩車と言ってバカにしていたけど、私はイギリスの真似をしてとにかくこれだけのものを作ったと、多分、明治30年に出たときは普通の人には滅多に乗ることはできなかったであろうと。それとこの戦争中でもあるが、外国の技術には敬意を表しておった。それが結局SLもイギリス製の2100型という機関車の保存につながっていったわけですけども、こんな戦争中の食うや食わずのときにも古い技術や先進国の、イギリス、ドイツの技術に敬意を表していました。


▲昭和20年6月20日のメモ(当日は豊橋大空襲だった)
実物はA4版

■名古屋鉄道への就職まで

橋本:就職されるまでの主な興味や関心のあったことについて教えてください?
白井:学校時代はやっぱり鉄道と言っても一番主になるのは蒸気機関車でありまして、蒸気機関車を覚えるのにはボイラが一番元だと。いうことでボイラーとそれから戦争中で飛行機なんか盛んだったので、やっぱりエンジン、にも興味がありまして、旧制中学の時、鉄研は無かったので、しょうがないから自動車部に入って、いろんな自動車があって、しかもガソリンも特別に配給してもらって、それを分解したり運転したりしてやったと。それから勤労動員になったときに、旋盤もだいぶんやりましたけども、あとは、自動車班へ回してもらって、それが、教訓としてはこれからの人も、俺はこれが好きだとか言わずにねえ、ありとあらゆることを挑戦し、経験してもらうことが最後には必ず役に立つということですね。勤労動員の自動車のときは、外車ばっかりで、それも10年選手ぐらいばっかりですね。ですから、ありとあらゆる補給部品が無いですね。ありとあらゆる故障が起きるから、そこで本で勉強しなくても全ての仕掛けが全て勉強できたと。これは幸いでよかったと。例えばヒューエルポンプが故障したとき、ダイヤフラムがやぶれちゃったとき、どっかでローレルの糸を探してきて、とにかく走るように自分で直すというようなことをやりまして。蒸気のボイラーもランカシャーボイラーからもってきたわけですけども、まあ、時代のものを中心に。

橋本:車は旧制中学に対して支給されたのですか?

白井:主として軍隊のためでしょうね。軍隊の補給は自動車だと。それで自動車技術者のしっかりした人を養成したいと。だから、射撃もあるしね。いろいろその軍事教練みたいなのもあるけれども、そのうちの1つみたいなもんでしょうな。自動車の収得と言うことでやらせてもらえたんでしょうな。こちらは面白くてしょうがないですね。随分珍しいものもあったですよ。国産のダットサンの他に、ポーターなんていうやつもありましたね。けっこう良くできてましたよ。外車もいろいろありまして、フォードとか、本宿からの展望バスもそうですが、レオっていう車、これも良い車で、シボレー、フォードに負けない良い車だけど、もう老朽の極に達していて、しかも最後には軍需工場の輸送部だったんですが、ガソリンが無くなっちゃって、しょうこうにゅうだとか、そんなもので走ったから、プラグがすぐにいかれちゃった。で、それの掃除をして磨いて、短絡していたところをぴかぴかに光らせて、そうしたら走るようになって。その当時は今、日本碍子のどうかなんかしらんけど、チャンピオンのプラグは優秀なんだね。日本碍子のやつはすぐにだめになっちゃう。あんな棒きれで何がちがうんだろうか。そのへんまた教えて頂きたいと思っているんだけどね。
だんだん戦後、追い越して逆転しちゃっうと。それもしょっちゅう、プラグ磨きなんかが身にしみてね、頭じゃなくて身体でプラグを体験したと。で、鉄道、鉄研はなくて、ほんの仲間が3〜4人好きなのがいました。それはやっぱり時代の流れで、いまはどれくらいいるのかな?

橋本:今の大学では1学年では、2〜3人ですね。今から15〜20年前にはもっといましたね。最近では集まって何かをしようとすることは無くなりましたので。また、大学が土曜日が休みですので、集まることが少なくなりました。

白井:僕らのときはね、人数は少なかったんですが、強烈にやってて、僕なんか毎日機関区ばっかり行っているもんで、同級生の連中からは、お前は好きなことを仕事でやって、非常に幸せもんだというのと、そのくらい有名だったですね。同時にさっき行った同じ、鉄道にしても最新式ももちろん興味を持ったけども、古いものに尊敬の念を持っていた。そういうこと。なぜかっていうと分からんけどもね、本能的にね。そうなんですね。当時のSLは大変なお金を払って買った、そのお金は誰が稼いだかというと、実は女工哀史の女工が繭をつむいで、絹をイギリスへ売った銭で機関車を買っているわけですね。要するに、血と涙の産物なんですね。で、一方、技術的には世界のリーダーのイギリスの機関車ですから、古いとは言え、大変な存在だった。ちょうどこのあいだ海外鉄研の例会であったんですが、カッセルの市電とケンセイの機関車工場をだれかがやっていたんですが、昭和10年代は豊橋の機関区におるヘンセルの機関車のこんなおおきなプレートにカッセルと書いてある、毎日それを見ながら、カッセルとは忘れもしない、1904年と書いてある、カッセルとはどんな町だと、いっぺん行きたいなあ、よもや行けないだろうと。といって、結局行きましたけども。そういうまあ、尊敬と憧れを持っていたということですね。

■名古屋鉄道時代

橋本:名鉄時代の主な実績を教えてください。

白井:企画・設計の仕事と、みんなは全然評価しないけど、価値のあることは、教材を作ったことと思っています。で、いいかげんな教材でやっとったんですが、5000形の教科書というのは、結構厚い、どんなやつが見ても覚わるという立派な教材を作った。まあ、その作ることは非常に勉強になった。それを先にやっておいて、その実績を元に、パノラマカーの設計、あるいは東京モノレールの初代の設計をやったと。そのあとは企画課長になっちゃたあとはねえ、これはまあ、業績とは言えないようなもんで、あとまた出てくるものは尊敬するものは当時の土川社長の腰巾着でいろんなことをやったんですが、水中翼船を導入するとか、ホーバークラフトを導入するとか、まあ、あの方が新しいものが好きだったものですから、いろいろやると、おいお前やれということで、やらされたんですが、業績にはならない。東急とジョイントして、東京港から小笠原かどこかまでホーバークラフトを走らせようとして、これはやらんでよかった、やったら赤字で倒産しとった。やらにゃ、ど叱られちゃうもんだから、とにかくあらゆる材料を取り寄せて、風の具合で運休になる日にちは何%くらいになるかとか、すると収入はいくらくらいになるか、収支はどうなるかということで、勘定が合いませんのでやめてくださいと。ということで。

橋本:調査までで終わったわけですね。

白井:ええ、調査研究をたくさんやらされたですね。一番参ったのは、日本にも高速道路というものがができると。そこにサービスエリアというものができると。そこで、名鉄は養老でレストランをやりたいが、どういう設計でどういう収支になるか調べろと。ところが、アメリカには行かせてくれないからね、本を見るだけですよ。インターチェンジなんてどんなもんなんか、全然検討つかない。高速道路は分かるよね。サービスエリアになんとかやら、クローバー形インターチェンジなんて言われても、困っちゃって、今言えば、いい加減な調査を。やったらまあ、結構収支が良かったわけですけども。

山田:モンキーパークのモノレールは白井さんですか?

白井:あれもねえ、それほどやってないですね。あれはまだね、パノラマカーから次の7500形の計画が忙しくて、それは木村さんという他の方が携わったんですね。あれはもちろん接触してるから学んではいるんですが、それを元に東京モノレールを、東京モノレールは私が主任設計者でやったんですけれども。犬山はちょっとやれなかったですね。
ALWEGは名鉄に来て、何度か会いました。触発されたのは、外国のやつがたくさんきてね、たくさん会ったってことはね、やっぱり非常に役に立ってると思いますね。名鉄に外人が来ると、みんなお払い箱で。みんな車両部へ行くと、運転部へ、運転部へ行くと施設局へ行ってくれと。たらい回しで困っちゃうんですね。そうすると俺が手を挙げてOKと。俺がやるよと。下手な英語しかできんけど。そうすると、give and takeで彼らも聞いてくるけど、こっちも啓発されることが必ず半分くらいある、まあ、そういうふうにやらにゃいかんですね。聞かれて、答えなきゃgive and giveでね。ですから、返り討ちでね、5聞かれたら5聞くと言うね。そうするとね、ロンドンまでゆかないかんというのを日本で聞けるわけですね。それでコモンセンスが広がってゆくわけですね。ただ1つ困ったのは、ソ連の鉄道省からきたんですね。それで、あちこち見せて、彼らはありがとうと言って、帰っていったんですね。すると、中村警察から呼び出しが来てね、今から調書を取るから、何を言って、お前は何を返事をしたかみんな言えと。おお、おやすいご用だとぺらぺら喋ったわけだ。そして調書と。それでOKと思ったら、県警本部の特攻が来て、今から尋問するから出頭せよと。質問が同じような質問が半分くらいあるわけで、前なんて返事したか覚えがないわけで。偽証罪かなんかでね。こんなこと全然聞いてないもんだから、これはとんでもないものを引き受けてしまったなあと。しかもソ連だからあまり得るところがないと。せいぜい常識的なことでね。果物に袋をかけるのはなんだと、ソ連ではそんなことは考えられないと。ソ連では少しでも果物に少しでも光を当てると。

橋本:戻りますが、先ほどの5000形の教科書は残ってますか?

白井:残ってますが、ごく少なくて、古本屋ではすごく高いらしいですね。僕も持っていますが、1冊か2冊だけねえ、大事に大事にとってありますね。それそのものも歴史ですね。というのはあれはもう当時としてはねえ、電気ブレーキ常用でねえ、セルフラップブレーキとかね、全然車両のやつも運転のやつも全然分からないわけ。これをとにかく教育してゆかないかん。並大抵のことじゃないですね。

■ウエスチングハウスのブレーキ技術

白井:今ちょっと近鉄のABSっていう第一世代の制御器が無くなるので、そのビデオを作っているのですが、今、大体ほぼできあがっておって、多分これは産業考古学資料としては日本で最初だとは思いますが、5000形のころはそんなものはないから、その代わり現物はありますから、現物でこれはこうなってこうなりますから・・・と。分かったかと、分かりましたと言ってもちっとも分かっちゃいない。
例えば、セルフラップっていうブレーキは全然なかったんだね。あれはハンドルの角度に応じてかかる。で、昔のやつはさっとブレーキブブレーキ位置へもっていって、時間によって長時間やっとけば強いブレーキ、弱いブレーキは短時間。ところがセルフラップっちゅうのは、ここまでやっとけば強いブレーキ、ここまでで中くらい、ここまでで弱いブレーキ。ところがそれができなくて、最初からギャーっとかけるわけ。従来のブレーキと同じで。そうすると車輪は滑走しちゃうし、お客さんはひっくり返っちゃうしね。で、教え方は、最初にこんだけ回して、一旦停止だと。それからずるりずるりと回せと。こういうことでだいぶんなったんですね。教育なんか本当に苦労したですね。大井川鐵道は、セルフラップとそうでないのと半々なんですね。ここもセルフラップが入ったはじめはさんざん車輪の傷がいっぱいできちゃってね、乗務員とけんかで、さんざんてこずってねえ、今は大体半分以上セルフラップで、なれてきたんですね。ですから、そういう、一口で言えば、教材の作成だけども、随分それは苦労をしたし、また勉強にもなった。勉強にはなりますね。授業でなると、中には頭のいいやつが2〜3人はおると。この次には白井先生をやっつけてやりたいんだと。語らってね。返事のできんようないろんな問題を考えてくる。とにかく俺が返事をできんようなことを考えてくるのは立派だと、誉めてつかわすと。近鉄さんと協力してやった、近鉄さんの第一世代の制御装置が終わっちゃって、それをビデオにしたと。今、講釈をいろいろとやっておっておるんですけども、制御器の説明が教科書、本の上だけではやっぱり複雑なやつは分からない、目で見て動き、特に音、音がシンクロナイズしていろんな音がするということによって、どんなものかが初めて分かる。この前、今度無くなったABFMっていう制御器の、こうこうこうだっていくら言ってもみんな分からないわけ。それで今度ビデオを撮るのに、ついてゆきたいって言うんで、ついて言ってみたと。まあよく分かりましたと。いうことですから、それをやって。ただし、それだけでは制御器全然分からない。やっぱりね、結線図が無いとどうにもならない。結線図だけでも分からない。だから生きたビデオがあって、一方で結線図があって、両方を見ればいわゆる一目瞭然であると。だから、今、各メーカーさん、鉄道、やっぱりそういうビデオを残しておいて欲しい。もう一つは結線図を失わないように。今、名鉄の700形は、これはカム式なんですけど、原設計はイギリスなんです。丸写しで日本が、東洋電機ですね、作ったのは。これもね、大抵あれが廃車になればね、捨てちゃう訳ね。それ捨てないように一部で良いから採っておくことと、公開できるように。こんな大きな青焼きと。それを今提案しようとしておるわけ。各鉄道会社にね。電車廃車になってもういらんよ。焼いちゃうよ。いうことはまず防いでおきたい。ただここで問題はじゃあ誰がその責任を持つと。車両部か、運輸部か、教育センターか、文書課か、みんなお先へどうぞと。俺は知らんぞと。そうしているうちに無くなっちゃう。部署をそれは資料館なら資料館、研究所なら研究所とはっきり決めて、保存と公開をやってもらいたい。ということを私がこれも、まあ、多分第一号だと思うけども、教材ではあるんですね。教材ビデオはあるけども、産業考古学ビデオは無いと。それをやって、日本中に提案して、残してゆく。アメリカはそれは言わない。HLでも何でも今走っている。見たければ蓋を開けていくらでも見られる。本当は走るのが一番良いんで、HLでもノッチ入れるに従って、加速するやつも、手応えが退官できる訳。電車があれば。ビデオじゃそれまでは分からないわけね。カクカクまではね。でもまあ、8分通りはわかるということで、アメリカは本物を残すと、日本はビデオで残すと。こういう提案を今やっておって、それはまあできたんだけど、まだ似たようなことで違う新しいことで、偉そうに言うと、日本で初めてやることがいろいろあります。
あと、ブレーキのやつも書いたんですけどね、ブレーキで、ウエスチングハウスのブレーキをほぼ真似て、日本がAMFというブレーキを作ったんですが、ほとんど真似なんだけど、日本で作ったと言って教えているわけ。それで、私の考えではそれはいけないと。事実は事実として伝えないと、正しい技術伝承の歴史が伝わらない。伝わらないと言うことは今後の新技術開発についてもやっぱり何かしらマイナスになる。いうことですから、そういうので結構沢山ある。そんなにあからさまではないが、要するにもっと情報公開をして欲しいと。その技術移転史の中でね。ということをそのブレーキの原稿の中で提案しています。怒る人がいるとすれば、島さん(故・島秀雄氏)あたりが一番怒るだろうなあ、お墓から出てきて。でもそれはやらないと一人前の国にならんと。あれも気に食わないんだね、NHKのプロジェクトX.あれもねえ、あまりにも国粋的過ぎるんだね。すばらしいことをやったが、元の発明は何年前のどこですよと。どっちが偉いかと。元が無かったら子供は無い訳ね。そういうことをやらないとやっぱり、聞いた人がねえ、上手く育たないね。学ぶべきものは学ぶという態度が無いと。何もゼロからやっていったら世の中から遅れてしまうね。戦前とかある時期は、欧米崇拝が多すぎて、何事も全部アメリカだと。日本はだめだと、こういう教え方を。これも勿論間違いであって、今は国粋主義的になり過ぎちゃって。発展の歴史の情報公開を望みたい。近鉄のABSというのもウエスチングハウスの直系ですからね。だけど近鉄独自の発展をさせて、それはウエスチングハウスにも無いんですね。

■鉄道技術者の育成

橋本:今のお話と関連して、鉄道の技術者を育成するに当たって

白井:やっぱり新しいことに挑戦して、新しいことを産み出すと、それに楽しさを、喜びを見いだしてもらうと、それさえできれば別におしえんでも、自然にできてゆくんだけど、それがとくに今の連中が要するにまあ、飯を食うために仕事をしとるということで、いくらおもしろさとか言っても、なかなかわかってもらえないわけね。そこんところが一番大事。自分でその次は何をやったらいいか、何を見つけるか、これはやらなきゃいかんとか、いうようなことを自分で発見して、それから、それができれば、次はそれを解決してゆく喜びは自然に発見できるんだよね。やっぱりテーマをしっかりつかまえてないから、そういった喜びをないのかなと思うけどね。ということは、さっきから、あらゆる面へ眼を光らせ、そういうこともしないと、しないと何も見つからないと。電車なんかでもね、故障して直すのでもね。実におもしろいんですよね。だんだんほじくって、ついに見つかったと。その喜びというのはねえ、普通じゃない、自分だけが味わえる。やれと言うんだけど、結局古いベテランの人が難しい故障は直しちゃうと、あたらしい人は腕を組んでいるだけだと。困ったなあと言っておるんですが。

山田:白井さんは名鉄の時に、実際に現場に指導されたこともあるのですか?

白井:ええ、もちろんありますよ。当時はやっぱりガッツがあったね。食うに食えなくて飯が無い時代だから、食わなきゃ死んじゃうからね、首にならんためにはとにかくやらなきゃならんと、そのためには何でも覚えざるをえないと。自分のモチベーションとか喜びとか、そんなもんじゃなくて、やむにやまれずやらざるを得ないということでしたからね、結構まあいろいろ訓練にしても真剣でしたね。あと、もう1つ電車の訓練では、一番僕の心配したのは、1500Vといつもお目にかかっているわけね。お目にかかっていないとおぼわらないと。1つ間違うと部下が死んでしまうわけですね。死んだら責任は部下じゃなくて僕だと、その心理的圧迫は結構ありました。だから非常に厳しいというので、随分恨まれたけどね。

山田:具体的にはどんなことで厳しかったのですか?

白井:一番あれは、パンタグラフをおろして、回路の親スイッチっていうのを切ってからなんかはじめるんだけども、いろいろでてくるわけね、パンタグラフがいっぺんおりる、どーんと音がする。降りたように見えるだけども、おりたんだけども例えば鍵がよくかからなくて、また上がっていってしまうことがあるんですね。これがまたすぐに上がればいいんだけどもね、下げシリンダの空気がぬけて、それからちょうど下へ潜ってゆく頃にあがるんだね。で、これを降りとると思って触ると多分間違いなく死亡。さっき言った責任は俺だ。教えなかった俺が悪い。またおりても必ず下げておりること、おりて相当時分数えて、鍵が完全にかかったこと、あがらないこと、それから1重じゃいかんから、さらに親スイッチを切って入ると、ところが、そいつの一方をやって一方を忘れちゃうと。
そのときは口でいっとっても間に合わないわね。死んじゃうからね。飛んでって蹴っとばしてやらなきゃね。

橋本:命がかかっているから当然厳しいわけですね。

白井:機材関係でも事故の問題があるけども、逆に言うとそれが先生で、やらざるを得ないと。

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