(1) 名鉄三河線のルーツは小私鉄の三河鉄道(みかわてつどう)です。三河湾沿岸の大
濱港(おおはまみなと)から、院鉄・東海道線刈谷(かりや)駅南方の刈谷新(かりやしん)仮駅まで大正3年 (1914) 2月に開通しました。
第一期計画は知立(ちりゅう)まででしたが、東海道線を乗り越す跨線橋と前後アプローチの盛
土工事に日にちがかかったようで、翌大正4年(1915) 10月、刈谷駅乗り入れ(併設駅)と知立ま でが正式開通し、これで三河湾沿岸各港〜院鉄間の連結が成り、かつ旧東海道の宿場であっ た知立への往来も容易となりました。
知立は宿場町としての賑わいがあっただけでなく、近在の人がよく詣る三弘法(三つの弘法
尊)があって命日にはそれらを巡る参詣客が列を成したといいます。
三河鉄道はさらに南北両方向にの延伸を図り、北は大正13年(1924)までに擧母(ころも、現、豊
田市)を経て猿投(さなげ)、昭和3年(1928)には西中金(にしなかがね)まで開通しました。また南は大 正15年(1926)には神谷(後、松木島)、昭和3年(1928)には三河吉田(みかわよしだ)まで開通させ、 さらに海岸沿いに東進して東海道線の蒲郡(がまごおり)駅まで延伸しました。
(2) 知立駅 ことはじめ
院鉄・東海道線を別にすればこのあたりでは三河鉄道は結構古い鉄道です。
名古屋−吉田(現、豊橋)間の亜幹線鉄道を企図した愛知電鉄は、三河鉄道が知立に駅を設
けた 8年も後の大正12年(1923)にようやく知立に達しています。当初は、三河鉄道を乗り越す 坂の手前に仮駅を設け「新知立」としました。ここは三河鉄道知立駅から西に数百メートル離 れていて、ちょうど現知立駅のところにあたると思われます。
愛知電鉄は同年内に東岡崎まで開通させ、そのさい三河鉄道知立駅の至近距離に新知立
駅を移しました(三河鉄道を乗り越す跨線橋のすぐ東)。
これにより三河鉄道との乗り換えが容易となり、三河鉄道から名古屋方面および岡崎方面へ
は、東海道線と愛知電鉄の二つのルートができました。
昭和10年(1935)、愛知電鉄と名岐鉄道とが合併して名古屋鉄道(名鉄)となり、さらに戦時合
併により 昭和16年(1941)、三河鉄道も名鉄に合併しました。これに伴い旧三河鉄道の知立 駅と旧愛知電鉄の新知立駅は統合されて「知立」駅となりました。合併前から直通運転のため の連絡線もできていました。現在、本線が三河線を乗り越す盛土上で上下線の間隔が開いて いるところがありますが、そこが元本線の知立駅で、そこに島式ホームがありました。
本線と三河線とは、ホームが離れていて乗り換えに不便でしたし、連絡線も大回りしていて し
かもスイッチバックのため転線に時間がかかっていました。筆者もしばしば連絡線を利用する 直通列車に乗りましたが、転線に 5分以上かかっていたように思います。
昭和34年(1959)、三河線との交差部付近にあった名古屋本線知立駅を 0.6 km 名古屋寄り
に移し、かつそこへ三河線をつまむように引き入れて一体駅にしました。これで乗り換えおよび 列車の直通にたいへん便利になりました。
元の知立駅は、三河線側は“三河”を冠して「三河知立」となり、今も存続していますが、本線
側は「東知立」となったもののその後廃止されました。
その後、南線(海線)が次駅まで複線化され、また知立駅構内には留置線が追加されました。
連絡線は廃止されましたが、残存部に工事車両がよく留置してあります。
(3) 知立駅の現状
@〜C番線は 画面奥のほうで 2線になり、しかも両渡り線があるので、どの番線からでも南
北両方向へ行けます。つまり三河線内列車は画面奥の方向へ発車してその先で南北に別れ て行きます。@番線は留置線で、三河線列車ははA〜C番線を使って発着します。
A〜C番線の手前側は名古屋本線とつながっており、名古屋方面へ/からの直通運転がで
きます。
左方のD番・E番線は名古屋本線で、画面奥が豊橋方、手前が名古屋・岐阜方です。
(4) 知立駅の高架化計画
知立は現在は地平駅です。前後に交通頻繁な踏切があり、とくに東側の踏切は本線と三河
線の列車が入れ替わり立ち代り発着するので交通が渋滞します。そのためこの駅一帯の高架 化が計画されています。
名古屋本線はこの付近でカーブを繰り返しているため、高架化にあたっては市街の改造を行
なってでも急カーブの解消を期待したいところです。
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