3. 知立から北へ



  知立(ちりゅう)から北線(山線)をたどってみます。≪線路写真は原則として下り向きです≫
知立を出て左カーブすると名古屋本線をくぐります(平成12 As)。
本線をくぐるとすぐ三河知立(みかわ ちりゅう)、すれ違い駅です(平成13 As)。
今は島式ホームですが、三河線の拠点駅だった当時は、右手に見える草むしたホームも使用していました。

北線はごく一部区間を除いて単線ですが、ほとんどの駅にこうしたすれ違い設備があります。
三河知立駅の先 約 300 m (知立起点 0.97 km)に再び 0 キロポストが現れます(平成13 As)。この先はここを起点として数字が増えていきます。なぜここに新たな起点があるのかは不詳です。

右に別れていく線路は本線との連絡線の跡で、先のほうの線路は外されており、残部は工事車両や資材の置き場になっています。
三河八橋(みかわ やつはし)駅の近くの無量寿寺(むりょうじゅじ)は古来、カキツバタの名所です。
ホームに立つ碑には、平安歌人 在原業平(ありはらのなりひら)が「かきつばた」の5文字を入れて詠んだ歌
 『らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ 
が記されています(平成13 As)。
三河八橋の先に長い上り坂があって一つ丘を越え、第二東名高速道路(伊勢湾岸道)をくぐり、若林−竹村−土橋と 平坦地を快走します。写真は若林−竹村間成13 As)。
沿線は田畑と住宅地がかわるがわる現れ、畑をキジが歩いていることもある のどかなところです。。
土橋(つちはし)の手前で東名高速道路をくぐります。
土橋駅には、元の貨物ヤードを活かした側線が 4本あって、豊田線用の 20 m 車×6連の長い列車がしばしば留置されています(写真左方の 2本。平成13 As)。
土橋の先、工場地帯になった丘をまた一つ越えると、下る途中右手にトヨタ自動車の本社工場が見えます(平成13 As)。
上挙母(うわごろも)駅の駅舎は、三河線で最も古いということです(平成13 As)。
豊田市の中心部は盆地で、高架線路が続きます。
豊田市(とよたし)駅は 2面 3線の高架駅です。写真に見える赤い電車は三河線の上下列車、真ん中の銀色の電車は 名古屋から豊田線に乗り入れてやってきた名市交の列車です(平成16 As)。
この先、梅坪までの 1区間は豊田線が乗り入れる関係で複線です。
梅坪(うめつぼ)駅を出たところで 豊田線(複線)が左に分かれます(平成12 As)。
途中 2つの駅があり、篭川を渡り、大きなSカーブで段丘を上って猿投(さなげ)駅に着きます(平成15 As)。
この駅も広い敷地を持ち、東半分は電留線と検車場になっています(写真右方)。
猿投駅の駅舎(平成14 As)は建て替えられてまだ新しいものです。
周辺は宅地化が進みました。一方、農地も多く、カキ、モモ、ナシなど果実の産出も抜きん出ています。
猿投から先、西中金(にしなかがね)までの 4駅 約 9 km は、南端部といっしょに平成16年 3月末で廃止されました。
駅から 200 m ほどのところに真新しい車止め標が立っています(平成16. 4 As)。

ここからは、平成16年 3月末で廃止された区間を振り返ります。
枝下(しだれ)−三河広瀬間で矢作川橋梁を渡る名撮影スポットで、廃止直前はファンが鈴なりでした。車両は ハ30型(平成16. 2 戸田秀忠氏撮影)。
(昭和60年から 猿投以北の区間は 2軸軽快気動車 キハ10型 によるワンマン運転になりました。車両はのちにボギー車の キハ20型、キハ30型に置き換えられました。)

この橋はまだそのままです(平成16.11 現在)。
電車が直通運転されていたころの三河広瀬(みかわひろせ)駅。電車は 3700型で、当時の名鉄電車の塗装はレモンイエローに赤帯でした。
この駅から陶土を出荷するため貨物列車もまだ運転されていました(昭和53 As)。
終点西中金の手前に 2つのトンネルがありました。
写真は広瀬トンネルの西口(平成12 As)。
西中金(にしなかがね)駅で折り返し待ちの キハ30型です平成16. 2 As)。
同駅は、足助(あすけ)延伸過程の単なる中間駅でしたが、昭和3年にここまで開通して以後 足助延伸は成らず、76年間、終点駅の大役を果たしてその任務を終えました。
西中金の先、足助への途中まで路盤ができていました。
跨道橋の橋台の片方が今も残っています(平成16. 2 As)。写真の左側の黄破線部分は、道路拡幅のため取り壊されました。


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