2. 国鉄→JR→三セク化の経緯

2.1 愛知環状鉄道の設立のアウトライン

(1) 昭和初期、名古屋東方の岡崎(おかざき)・擧母(ころ も、現豊田)・瀬戸(せと)・多治見(たじみ)・稲澤(いな
ざわ)などをつないで 東海道本線と中央本線とを短絡する岡多線・瀬戸線が構想されました。

 
昭和初期の岡多線・瀬戸線構想

  実際にはなかなか陽の目を見ませんでしたが、30年余りのちの昭和40年、ようやく着工され
る運びとなりました。

(2) 昭和45年国鉄「岡多線」(おかたせん)として、東海道本線「岡崎」から「北野桝塚」(きたのますづ
か)まで部分開通して貨物営業が始まり、追って昭和51年、 「新豊田」(しんとよた)までの開通を機
待望の旅客営業が始まりました(電車運転)。

  新豊田以北については、終端を「多治見」から「高蔵寺(こうぞうじ)に変更のうえ引き続き延伸
工事が進められていましたが、モータリゼーションの進行とともに営業成績が振るわないことを
理由に廃止の方向が打ち出され、工事も凍結されてしまいました。

(3) しかし、愛知県を主体として第三セクター「愛知環状鉄道(株)」を設立して岡多線を継承す
ることが決まり、あらためて凍結区間の工事が再開されました。昭和62年、国鉄の“分割民営
化”があり、既営業区間はJR東海に引き継がれましたが、延伸区間が完工した昭和63年、岡
崎〜高蔵寺間全線を愛知環状鉄道が営業を引き継いだものです。


2.2 もう少し詳しい経過

(1) 昭和2年(1927)3月…国(鉄道省)の鉄道敷設“予定線”に『愛知縣岡崎ヨリ同縣擧母*ヲ
經テ、岐阜縣多治見ニ至ル』ルートが初めて取り上げられた。  *は現豊田市中心部。

  構想自体はかなり早かったのですが、昭和6年(1931)満州事変、昭和7年(1932)日中戦争、
昭和16年(1941)太平洋戦争と混乱期が続き、昭和20年(1945)敗戦後はさらなる欠乏時代で、
実現は伸びに伸びました。
  もともとこのルートには乗合馬車が運行されていたこともあって、鉄道建設が遅れる代償とい
う訳で、昭和5年から岡崎−瀬戸−多治見間に わが国初の省営バスが運行されました。岡
崎・多治見間を結ぶことからこの路線を省営バス「岡多線」といいました(のちに、国鉄バス→
JR東海バス)。
 
「祝 岡多線乗合自動車開通」樹門 昭和5年 岡崎駅前 (岡崎市資料)
写っている車は 使用されたバスではなく、祝賀旗を付けた乗用車


(2)  戦後の混乱も落ち着いた昭和32年(1957)4月、同区間がようやく鉄道を敷設する前提とな
る「調査線」に編入され、地元の期待が高まりました。
  昭和34年(1959)11月…さらに「工事線」に格上げされ、具体化設計が進められることになり、
そして 5年後の昭和39年(1964)4月、運輸大臣が鉄道建設公団に着工を指示しました。東京オ
リンピックを前に 太平洋ベルト地帯をつなぐ超高速鉄道「東海道新幹線」が完成し、東京〜新
大阪間が華々しく開業した年です。

(3) 昭和40年(1965)8月…計画線の南半分にあたる 東海道本線岡崎駅から豊田市までの区
間が着工されました。
  国鉄としてはこの線を、飽和が予想されていた東海道本線 名古屋近郊区間のバイパスと位
置付け、瀬戸〜稲沢間の予定線(仮称「瀬戸線」)と結んで貨物列車をこちらへ回すことで東海
道本線の旅客輸送を充実させ、もって、愛知・岐阜両県にまたがり強力な地盤を築いている名
鉄電車への対抗を目論んでいました。なお、上記稲沢には機関区と貨物操車場がありました
(縮小されていますが今もあります)。

  そのため、ローカル線にもかかわらず線路規格はかなり高度で、路盤は複線、50キロレール
使用、直流1500 V 電化、緩勾配、緩曲線、さらに全線立体交差(踏切皆無)というような 幹線
に準じた上等なものが計画されました(このころ鉄建公団が作った各地の新線も同様です)。
  ただ、輸送需要が低いと見られることから、当面は下り線(岡崎側から見て左側)だけを敷設
して単線として使用することとしました。

(4) 昭和45年(1970)10月…国鉄『岡多線』として初めて部分的ながら営業を開始しました。た
だし、「岡崎〜北野枡塚」間(8.7 km)だけの貨物輸送のみでした。大阪・千里が丘で 70万博が
開かれた年です。

 
岡多線で各地に輸送されるトヨタの新車 北野枡塚付近 昭和45年  豊田市資料

 貨物輸送のための引込線が、北岡崎駅からは日本レーヨン日名(ひな)工場(現、東洋エステ
ル)へ、また北野枡塚駅からはトヨタ自販上郷(かみごう)ヤードへ、いずれも非電化単線で敷設さ
れました。日レとの間では化成品を積んだタンク車を稲沢[機](機関区の略)のDE10型ディーゼ
ル機関車が牽引して東海道本線から“通し運転”し、またトヨタ上郷ヤードからは新車を積載し
た車運車を、引込み線部分は社有小型DLが牽引、北野枡塚駅で列車編成後、稲沢[機]の
EF65型電気機関車などが牽引して東海道本線岡崎を経て各地へ運行しました。

(5) 昭和48年(1973)3月…岡多線の豊田延伸に先立ち、岡崎と豊田を結んでいた名鉄「挙母
線」(ころもせん。単線)が廃止されました。経路が全く同じというわけではないが概ね重複することと、
同線「トヨタ自動車前」駅とその前後の線路敷を岡多線に転用する必要からでした。

 
建設中の岡多線「三河豊田」駅構内  昭和50. 3 As
右手はトヨタ自動車本社工場

  なお、挙母線の岡崎側に接続していた名鉄「岡崎市内線・福岡線」〔路面電車。大樹寺(だいじゅ
じ)〜岡崎駅前〜福岡町(ふくおかちょう)間〕はこれよりずっと前の昭和37年(1962)に不採算により
廃止され、バス化されていました。

(6) 昭和51年(1976)4月…ようやく豊田市まで開通し、「岡崎〜新豊田(しんとよた)」間 19.5 km で
旅客営業が始まりました

 
旅客営業開始時のスカ色70系4連  三河豊田駅北方 昭和51. 4 As

  待望の旅客輸送が始まり、青と乳白色の“スカ色”70系電車(神領(じんりょう)区所属)4連がモー
ター音も高らかに運行し、沿線は祝賀ムードに沸きました。
  ただ、1日13往復しかなく、昼は2時間も間があくときがありました。名鉄挙母線の「トヨタ自動
車前」駅(旧称三河豊田)の跡にできた駅は再び「三河豊田」(みかわとよた)となり、“昔の名前で出
ています”の恰好です。実は、当館長(筆者)住居はこの駅の近くです。



岡多線 新豊田まで開業 昭和51年

  岡多線の開業に伴い、前述の岡崎〜豊田間の国鉄バスは、岡多線列車があく時間帯だけの
補完的な運行となりました。

(7) 豊田以北の延伸は進められましたが、北端は構想当時の中央本線多治見(たじみ。岐阜県多治見
市)ではなく、中央本線「高蔵寺(こうぞうじ、愛知県春日井市)に変更されました。もともと、瀬戸から高蔵
寺を経て稲沢(いなざわ)に至る「瀬戸線」の工事も一部で進んでいましたので、この終端駅変更は
当然の成り行きであったといえましょう。

(8) 岡多線の車両は、前記 70系からのちに湘南色の113系4連に、さらに同じく湘南色の165
3連へと変わりました。

113系 4連
三河豊田〜新豊田 国鉄時代の昭和55. 3 As
165系 3連
  新豊田南方 JR時代の昭和63. 1 As

  165系は元来勾配用の急行電車で、出力が大きくて加速がよいし、出入りデッキと客室とがド
アで遮断されていて静粛であり、かつ全クロスシートと快適な車両でしたが、乗り降りに手間ど
ることから各停列車としては評判がよくなかったようです。

(9) 岡多線は、朝夕こそ学生・通勤客の利用が多いものの、列車頻度の低さ、終列車も時間が
早かったこともあって昼間や夜間は乗客がたいへん少いのが実情でした。そのため同線の営
業指数は数百という不振が続きました。しかし、毎年、岡崎花火大会(8月6日)には、定期最終
下り列車(岡崎発2020)のあと、臨時列車(岡崎発2130)を運転するなどしてサービスに努めて
くれました。

  自動車の輸送も運賃の高さから逐次陸送と海運に移行して減少、トヨタ車の鉄道輸送は全廃
となり、追って北野桝塚からの引込み線も撤去されてしまいました。

  他方、岡多線旅客営業開始 3年後の昭和54(1979)年7月に名古屋と豊田を結んで開通した
名鉄「豊田線」(赤池〜梅坪間)は順調に推移しました。こちらは全線複線、名鉄として初の20
メートル級新車100系4連を何編成も投入し、15〜20分ヘッドのフリークェントサービスを開始
し、赤池側では東海地区初の地下鉄との相互乗り入れを行ない〔名市交鶴舞線(つるまいせん)〕、
梅坪側では同社三河線「豊田市」まで乗り入れすることにより、豊田市と名古屋市中心部とを
直結する路線となりました。
  豊田線の列車はのちにすべて 6連化され、列車頻度も増えて、岡多線の不振を尻目に 大い
に繁盛しだしました。これは衛星都市相互間よりもやはり大都市と衛星都市とを結ぶ交通需要
が圧倒的に大きいことを示しているといえましょう。

(10) 昭和61年(1986)4月…国鉄は岡多線を“第三次特定地方交通線”、つまり、営業をやめ
るかバスに転換する路線として申請し、すぐに承認されました。出来てそんなに間がないという
のに、同線は過疎線として廃止される“危機”に至った訳です。9割方できていた豊田以北の工
事も中断されてしまいました。

(11) その前から話を進めていた愛知県と沿線4市(岡崎・豊田・瀬戸・春日井)は、第三セクター
方式で岡多線の営業を引き継ぐことを決定、昭和61年9月には継承事業体として「愛知環状鉄
道株式会社」を設立し、受け皿を整えました。

  受け皿が明確になったことで、豊田以北の仕上げ工事が鉄建公団により再開され、全通に向
けて準備が進みました。
  その間の昭和62年(1987)4月、国鉄の“分割民営化が断行”されましたので、ご承知のように
国鉄は地区別の6つの旅客鉄道会社と、全国一本の貨物輸送会社に生まれ変わりました。当
線は東海旅客鉄道株式会社(JR東海)の管轄となりました。

(12) 愛知環状鉄道開業…昭和63年(1988)1月30日をもってJRによる営業に終止符が打た
れ、「岡多線」の名は消滅しました。1日13往復のダイヤは最後まで変わりませんでした。
  翌、1月31日から愛知環状鉄道が晴れて営業を開始、既用区間とともに、完成した豊田以北
の区間を含め、岡多線として予定された岡崎〜高蔵寺間全線(45.3 km)を引き継ぐところとなり
ました。ここにようやく東海道本線と中央本線とをつなぐ念願の短絡線が全通しました。
  列車は 1日27往復に倍増しました。昼間帯で約40分間隔の設定です(一部は区間運転)。

 
愛知環状鉄道開業のトレーンマーク 昭和63. 1 (愛環資料から)

  既用区間に、六名(むつな)、大門(だいもん)、末野原(すえのはら)、新上挙母(しんうわごろも)の4駅、また新
通区間に篠原(ささばら)の1駅を追加しました。主な駅には行き違い施設も追設しました。
  車両はすべてピカピカの新造車100系(日車製。一部機器は再用品)に置き換えられ、100型
Mc+200型Tcの2両編成の電車が走りだしました。
  その後、300型Mcを増備し、一部列車はこれを増結したMMTの3連で運転されるようになりま
した。
 
100系 3連 山口駅で 平成12. 7.25 As


2.3 既存鉄道との関係

  ・南端の「岡崎」はJR東海道本線の中規模駅
  ・「中岡崎」は 名鉄本線との交差部にあり、同線「岡崎公園前」に連絡
  ・「新豊田」ではペデストリアンデッキを介して 名鉄三河線「豊田市」駅に連絡
  ・「瀬戸市」は 名鉄瀬戸線との交差部にあり、同線「新瀬戸」駅に連絡
(瀬戸線で瀬戸市街および名古屋市街へアクセスに便利)
  ・北端の「高蔵寺」はJR中央本線の中規模駅

です。なお、「新上挙母」(しんうわごろも)は 名鉄三河線「上挙母」(うわごろも)に 近いものの、300 m ほ
ど離れていますので 連絡駅と認めるのは無理だと思います。

  平成17年に愛知高速鉄道東部丘陵線(リニモ)が開通しましたので、
  ・「八草」(「万博八草」)で 東部丘陵線の同名駅(終端)に連絡

となりました。

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