終わらない旅(2010.1.26)


 冬の夜、仕事を終え帰宅し、ゆっくりと風呂に入る。
冷え切った身体をゆっくりと湯船に沈めると、指先から身体の中心部に向かって
ジワーッと温かさが伝わり、” あーぁ、何て幸せで平和なんだろう・・・” と、
しみじみ感じる一方、また別の事も感じる。

その別の事とは、最近、城山三郎 氏や、吉村昭 氏や、佐高信 氏の本を読むせいだろうか、
先の大戦で亡くなった数多くの人々のことを思うのである。
南方戦線で、飢餓の上にマラリア、発疹チフスなどの伝染病で亡くなった多くの方々、
ソ連参戦後、極寒の地シベリアへ連行され抑留の上、強制労働で死んで行った人々・・・・
硫黄島はじめ、多くの島々で玉砕、亡くなった人々・・・・

そんな無残な死を遂げた数多くの人々は、
どんなにか祖国日本で、今日の私のように、平和なゆったりとした時代の中で、
温かい風呂に入りたかったことだろう・・・
そんな事を不思議と思うのである。

旅−37で、「帰りを待つ、魚屋町のおばあちゃん」を書いた。
私が職場からの帰り道に、よくお会いするおばあちゃんの事を、
憶測で書いたエッセイであるが、最近は朝の出勤時にも
家の前でたたずんでいる、このおばあちゃんにお会いすることがある。

城山三郎 氏の著書「指揮官たちの特攻」に出てくる、中津留大尉。
中津留大尉は、玉音放送の後に特攻出撃し沖縄の伊平屋島に突っ込んで戦死された方である。



中津留大尉のお母さんは、月のきれいな夜、家からふうっと出ていなくなる。
どこへ行ったかと思うと、海岸に行って、一人たたずんでいる。
 「おばあさん、どうしたの?」 と、少女(中津留大尉の娘さん)が聞くと、
おまえの父親は水泳がすごくうまかったから、沖縄で死んだとはいうが、
どこか島から島へ泳いで泳いで、
こういう月の明るい夜に帰ってくる、そう思っている。
だから、待っているんだと・・・・・

まさに、私が憶測で書いた魚屋町のおばあちゃんと一緒ではないか、
大切な人を戦争で取られた人の、残酷な、切ない、苦しい旅は、何年たっても終わらないのである。

平和な現在、そんな事を何故か私は、入浴するときに思うのである。
冷え切った身体が、ジワーッと温かくなるのを感じながら・・・・・・
自分はこんなに幸せでいいのだろうか と思いながら。


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