糞掃衣(2006.5.8)


「 霞立つ永き春日を子どもらと、手まりつきつつこの日暮らしつ 」


【 良寛さん 】

最近、良寛さんについての本を読んだ。

江戸時代末期の禅僧でありながら、お寺の住職にならず、
小さな庵を借りて住み、托鉢行脚で人びとの中にわけ入るというスタイルを貫き、
たくさんの子どもたちから親しまれ、老人を慰め励ましして74歳の生涯を閉じた。

その本の中に、「糞掃衣」(ふんぞうえ)という言葉があった。
「坊主にくけりゃ袈裟まで・・・」などといわれる、この袈裟のことである。
この袈裟のことを、最高の形で言い表されたものが糞掃衣である。

足るを知る者は富むという。
人のうち捨てたモノを拾って活かすという精神は、もともと仏道のものである。
着られなくなった衣類は、最後に糞を拭いて捨てるしか役に立たない。
そうした糞掃衣を拾い集め、自分で丁寧に洗濯をした上で重ねて縫い合わせ、
僧の身につけたのが輪袈裟の由来である。
黄色なのは糞の色を象徴したものである。

先日、知り合いの葬式に行ったときのことである。
導師入場・・・・のアナウンスの後に入ってきたお二人の坊さんは、
金襴緞子の袈裟を着けていた。
どう見たってサラリーマンのようだった。
特に、若いほうの坊さんはロングヘアーで、エレキでも持たせたら、
ロックンローラーである。

キンキラキンの袈裟などは、糞掃衣の仏道精神から見れば「まどわし」である。
お寺という組織に参加すれば、
知らず知らずのうちにこの「まどわし」に加担することになると、良寛さんは考えたのであろう。

また、良寛さんは言う。
仏像も、経文も仏ではないと。
仏像は、仏師が仏の仮の姿を鋳造した木質か鋳金にすぎない。
お寺は祭壇や仏像と法具、また経典の格納庫であるし、
僧侶たちが居住するところ、どこにも「ほとけ」は見当たらないではないかと。

では、どこに「ほとけ」がいますかというと、
「自分の心が自然にそうなる状態」そのものだと、良寛さんは言う。

いやーー、この本を読んで大いに考えさせられた。
この、糞掃衣の精神と、「ほとけ」の定義を、なんとか毎日の生活に、仕事に活かせないかと。

読んだ本⇒「座右の良寛」 松本市壽(著者) この本の中から、多くを引用させていただきました。


   へ   へ    仕事メニューへ        エッセイメニュー        ホームに戻る。