五重塔の解説
 


    国指定重要文化財
      方三間五重塔婆 銅板葺  附 旧伏鉢・露盤

         指定明治四十一年四月二十三日

 この塔は、現在金剛山最勝院の所属であるが、昔は連光山大圓寺の
所属であった。藩祖津軽為信の津軽統一の際に戦死した敵味方の将士
らを供養するという本願を、大圓寺第六世の京海が立てた。そしてそ
の帰依者は、三代目藩主信義公である。明暦二年(一六五六)に起工
し、萬治三年(一六六〇)までに塔の三重目まで竣成したが、発願者
の京海が病没遷化された。世壽六十二歳。また藩主信義公もこの年に
卒去なされ、一時は頭足を失ったかの如くとなり、工事の中断を余儀
なくされた。しかし、寛文五年(一六六五)四代藩主信政公の帰依を
受けて工事が再開され、同七年に完成。同八年入仏供養式が行われ
た。また、建立当初の露盤や伏鉢などの相輪は、鋳物師として有名な
渡辺近江大橡源正次の作と伝えられる。伏鉢には『寛文六年五月大吉
祥日』の銘がある。また、平成四年から平成六年にかけて行われた全
面解体修理で、『寛文四年八月十日』の銘が初重の内法貫から発見さ
れ、この頃の建設開始と推定されている。
 塔内部は来迎壁や四天柱等を緑青、群青、胡粉、辨柄、金箔、銀箔
等を使い極彩色で彩られている。中央須彌壇には本尊胎蔵界大日如
来、脇仏に稚児聖徳太子像、十王像が安置されている。この塔の本尊
は明治初年の排仏棄釈の動乱時期により不在となっていた。しかし、
平成十五年春に第三十八世公彰を導師として、約百三十年ぶりに本尊
を迎えた。五重塔建立より三百三十五年目にして二度目の本尊奉安で
あった。もとは金剛界大日如来が安置されていたとされるが、既に本
堂に金剛界大日如来が奉安されていた為、『大日如来は金剛界、胎蔵
界理智一体不二』との宗教的判断がなされ、胎蔵界大日如来の制作が
決定された。彫刻は青森市在住の小西正暉師。津軽ヒバの接ぎ合わせ
木造である。彩色・截金は弘前市福村出身で大津市在住の渡邊載方
師。一部に彩色を為し、衣部分には薄い金箔を細く切った截金で細密
な文様を施した仏像が制作奉安された。
 塔の総高は十七間一尺(約三十一・二b)、うち地盤より相輪最下
部の露盤まで十二間(約二十一・八b)、露盤から寶珠までの相輪部
分は五間一尺(約九・四b)で、初重の床面積は九・九一坪(約三十
二・七u)である。総高に対し相輪部分が長く、また五重目の柱間が
初重の約半分となっている。塔の中心にあり、しかも最も大きな部材
でもある心柱は、継ぎ手のない一本ものの角形杉材で、初重天井裏よ
り塔の最先端の寶珠まで立ち上がっている。この心柱は西目屋村村市
の毘沙門堂裏山より切り出したとの古文書が残されている。
 組物に和様三手先を置き、中備に初重は十二支の文字が彫り込まれ
た蟇股、二重は蓑束、三・四・五重は間斗束が使われている。柱間
は、各面中央間を扉とするほか残りは板壁で、初重のみ連子窓、その
他初重の三面に円形、二・三重に香狭間形、四・五重に矩形の盲連子
型をつくるなど、各層の窓の意匠に変化を持たせている。このように
細部にわたり見るものを飽きさせない優れた建造物であり、文化財の
指定説明にも「實ニ東北地方第一ノ美塔ナリ」とあるなど均整のとれ
た美しい姿として有名である。
 この五重塔建立に関わった棟梁は誰か、ということについては二説
ある。地元目屋国吉の住人竹内彦太夫という説。もう一説には飛騨高
山の名工を呼んだというものである。いずれにせよ、建立当初の棟札
が見えない為それを裏付けるものは現存しないようである。

  平成十三年七月一日

               最勝院第三十八世 法印 公彰 識



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