朝の死神
久しぶりに夫とデートする夢を見た。
きらきらとしたぬくもりのある背景の中で、私たちは手を繋いでウインドーショッピングをしていた。
うきうきしながら目を覚ますと、玄関のインターホンが鳴った。
「おはようございます」
どちら様? と尋ねる前に、ドア越しに若い青年の声がした。
その声は、ちょっと若かりし日の夫に似ている。
「はいはい、今開けますからね」
こんな朝早くに若い人が訊ねてくるだなんて、お隣さんの孫が回覧板でも持ってきてくれたのだろうか。
いえいえ、お隣さんにはお孫さんなんていただろうか?
玄関の扉には覗き穴はついていない。
映像が見えるタイプのインターホンでもない。
今までずっとこの家で暮らしてきて、訪問詐欺に騙されることもなく、平和に生きていている。危険など何もない。
ドアの取っ手の上下の鍵をそれぞれ外して、重めで少し立て付けの悪くなった玄関扉を上に持ち上げるようにして押し開く。
「おはようございます」
顔立ちのきれいな青年は、もう一度律儀に朝の挨拶を繰り返した。
そこに悪意は欠片もない。
それなのに、私は背中にぞくりと粟立つものを感じた。
この人を中に入れてはいけない。
本能的に取っ手を握る手に力がこもり、扉を閉めようと、引きにかかる。
そうはいかせるものかと、つややかに磨き抜かれた黒い革靴が、扉と玄関の隙間との間に、惜しげもなく突っ込まれた。
私と彼とは見つめ合う。
ごく至近距離で、吐いた白い息がお互いの顔にかかる位置で。
「きゃぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
私はあらん限りの声を振り絞って悲鳴を上げた。
顔の綺麗な青年は、一瞬びくりと身を引きかけたものの、使命を思い出したように眉間に皺を寄せ、ぐいぐいっと黒いスーツのズボンに包まれた膝を入れ込んでくる。
「佐知子さん、静かにしてください」
馴れ馴れしくも私を下の名前で呼んで、今度は肩をドアの隙間から入れ込もうとする。
「いやぁ、いやぁ、いやぁ」
生娘のような悲鳴を上げて、私はぐいぐいと全体重をかけて扉を引きにかかるが、青年も諦めない。
喪服のような黒いスーツ。
ような、じゃないわね。漆黒のネクタイまで締めて、まるで死神だわ。
ドアの向こう側からは燦々と朝の清々しい日差しが注ぎ込んでくるというのに、なんと不似合いなこと。
「今日こそ、連れていきますよ!」
きれいな顔をした青年は、きれいな声で物騒なことを言う。
「嫌よ、絶対に行かないんだから」
ついさっき、この家で何十年も共に過ごした夫との夢を見たばかりだ。
「絶対に、出て行ったりなんかしないんだから!!!」
春になれば庭には木蓮が青空に向けて背伸びしながら花開き、玄関先に植えたチューリップが赤や黄色の丸い花を咲かせる。足元にはピンクの芝桜が咲いて、玄関から道路までの道のりを彩る。
今はまだ、低く薄い青空に枯れ枝が伸び、何が植えられていたかもわからない玄関先には霜が隆起し、小道を彩る芝は枯れている。
春はまだ先だ。
まだ、行けない。
「どうしてです? 一人で暮らしていても寂しくて大変でしょう? みんなで暮らせば、話し相手もできるし、ご飯を買いに行けなくてひもじい思いをしなくてもいいし、この家よりもずっと暖かいところでのんびり暮らせますよ」
「そんなこと言って、一部屋に押し込めて、四六時中ずっと監視するんでしょう? 外にだって自由に出られやしない。病院にかかったら、嫌な薬でも無理やり口に入れられるんでしょう? 気が触れてもいないのに、あなたたちはそうやってわざわざ狂った患者を作ろうとしているんだわ!」
老後の面倒は全部見てくれるからと、意気揚々と入居した姉が、どんどん廃人のようになっていくのを、私はどうして止められなかったんだろう。
ああ、嫌。
せっかくいい夢を見て起きたのに、どうしてこの人たちは朝からやかましく迎えに来ようとするのかしら。
この辺一帯を買い上げて、マンションを建てようとしていると近所の人から聞いたのはいつだったかしら。地上げ屋の説明会なんて、到底行きたくもなかったけど、夫は、そんな話は断ってくると言って一人出かけて行って、そのまま会場から救急車で病院に運ばれて帰ってこなかったんだわ。
そうね。
だって、ここはとても大切な家だもの。
私が死んだ後だって、残しておいてほしい。この赤い屋根の家も、空に伸びる木蓮も、チューリップの球根も、芝桜の淡い小花も。
子供がいない家だけど、夫婦二人で暮らしてきたのよ。
壊されてたまるものですか。奪われてたまるものですか。これ以上、失ってたまるものですか。
「帰って! 出て行って! 警察を呼ぶわよ!!」
こんなに叫んでいるのに、近所の人は誰も出てこない。
ああ、そうだった。
近所の人たちは、みんないなくなっていったんだ。
新しいマンションが建ったら、そこの日当たりのいい部屋に安く入居するんだと、夢見るように言っていた左隣さん。息子夫婦のところに引っ越して、孫の面倒を見ることになったから、まとまったお金が入って助かったと言っていた右隣さん。一緒に反対していたお向かいのおじいちゃんは、一昨年、家の中で倒れていて、数日後に溜まっている新聞を不審に思った私が警察の人を呼んで発見する騒ぎになった。
そうこうしているうちに、マンション建設を心待ちにしている人たちからごみを庭に投げ込まれたり、ビラを貼られたり、勝手に庭に入られたり。庭の石が崩されているから監視カメラまでつけて監視して、せっかく録画したものを持っていったのに、何も映っていないと失笑された。
確かに黒い男が庭をうろうろしているのが映っているのに。
どこに相談したって、周りは敵だらけ。私のことを分かってくれる人など、もうこの世のどこにもいない。
私のことは、私が自分で守らなければならない。私が大切にしているこの家も。
絶対に明け渡してなるものか。
「出て行って!!!!!」
全体重をかけて思い切りドアを引いた瞬間、パツンと目の前が白くなった。
「あ……」
アイボリー一色の部屋。
固くて冷たそうなメラミンパネルが四方の壁と天井を覆い、リノリウムの床が生柔らかく足裏を冷やす。薄い青空が透けて見えるレースカーテンまで、心の落ち着きを求めるようなアイボリーカラー。
「佐知子さん! 佐知子さん!」
引き戸が開かないようにベッドを噛ませている。
大丈夫。これでしばらくあいつらは入ってこられない。
私がベッドから降りたから。もとい、ベッドを動かしたから、床に敷かれた感知器がけたたましく廊下向こうの控室で鳴り響いている。
私はリノリウムの床にさらに敷かれた味もそっけもないシートから延びるコンセントを引き抜いた。
廊下中に響き渡る音は、化け物にでも食われたように静寂に呑み込まれる。
「ああ、静かになった」
お家に帰らなくちゃ。
アイボリーのレースカーテンを開くと、春の空が見えた。
窓を開けてみるが、抜け出せるほどの隙間ができないように工夫されている。
私は椅子を持ち出し、ガラス窓目掛けてぶん投げた。
大きな音を立てて、空への扉が開く。
転がった椅子を、再度窓辺に設えてよじ登り、割れた窓から飛び降りる。
庭はどうなっているだろう。
今頃、真っ先に木蓮が青空に周方色の花弁を膨らませている頃だろうか。
チューリップは二枚の葉を左右に伸ばし、首を伸ばしはじめている頃だろうか。
芝桜は、枯れてるふりをやめて、緑色を取り戻しはじめているだろうか。
急がなきゃ。
急いで帰らなきゃ。
見覚えのある橋。
見覚えのある川。
見覚えのある山。
見覚えのある住宅地。
見覚えのない――茜色に染まるマンション。
「佐知子さん」
肩に手をかけられた。
しまった。捕まった。今日はかなり近くまで来れたと思ったのに。
「柳瀬さん」
振り返ると、私の肩に手をかけていたのは、マンションが新しく建ったら入居する予定だと嬉しそうに話していた左隣の旦那さんだった。
私を見る顔は、ずいぶんと驚いた顔をしている。
「帰って、きたんですか?」
飼い犬らしき小型犬のリードを引いて自分の方に寄せている柳瀬さんに、私は不思議な気持ちで問いかけていた。
「ええ、ちょうどいま犬の散歩を終えて帰ってきたところなんです」
ワン! と犬は主人に合わせて愛嬌を振りまく。
奇妙な沈黙が一瞬落ちて、柳瀬さんの旦那さんは、老眼鏡の向こうの目元に憐みを浮かべた。
「施設に入られたと聞きました」
その一言だけで、私に衝撃を与えるには十分だった。
思わず私は柳瀬さんの旦那さんの胸ぐらを両手で掴み上げた。
「私の家は!?」
柳瀬さんの旦那さんは、無言でマンションの駐輪場になっているあたりを見遣った。
ああ、そうかもしれない。
あの辺りかもしれない。
私のお家。
木蓮はもうない。落ちた葉や蕾を片付けるのが面倒だからだろう。チューリップは、マンションの入り口に造られた花壇に申し訳程度に赤い蕾をつけていた。芝桜は道路からマンションまでの少し湾曲した小道の周りに小さな淡いピンク色の花をつけていた。
高さ23階建てのマンションの薄灰色の外壁が、西日を受けて茜色に翳っている。
「佐知子さん、佐知子さん」
嫌な夢を見た。
目を開ければ、味もそっけもないアイボリー色の狭い部屋で目を開けることになるのだろう。脱走ばかりして迷惑をかける嫌な入居者だと、施設の職員からは思われているのだろう。
「馴れ馴れしく名前で呼ばないで」
目を開ける前に、怖い夢を払拭しようと叫ぶと、目の前の人物は驚いて身を竦めたようだった。
目を開く。
玄関から膝と肩を差し入れ、ぎゅうぎゅうと押されてなお諦めずに顔まで入れていた死神が、そこにいた。
見慣れた玄関扉。
朝の陽ざし。
扉の隙間から見える、木蓮の蕾の膨らみ。
力が抜けた。
何度目の春だろう。
ここぞとばかりに死神は扉を大きく開く。
風が吹き込んできた。
春の風だ。
まだ冷たい。でも、暖かさが混じっている。
「参りましょう」
喪服の死神が手を差し伸べた。
私は後ろを振り返り、まだ台所の振り子時計が規則正しく動いている音を聞いた。
夫との思い出が詰まった家。
「ストーブを消してこなきゃ」
「大丈夫です」
「こたつを」
「まだ、つけていません」
「お湯を沸かしている途中だったわ」
「コンセントは入っていませんでした」
死神はにっこりと笑う。
嫌だこと。
どうしてこうも夫の若い頃に似ているのかしら。
ほんと、素敵ね。
私も同じくらい若返らないかしら。
「私のことは、誰が見つけてくれるの?」
土地を売れと言いに来る地上げ屋かしら。
嫌ね。そんな奴らに迷惑なんかかけたくない。迷惑料だと言ってこの土地を取られたくない。
死神は何も言わなかった。
ただ私に手を差し伸べ、見下ろし、穏やかに微笑んでいる。
この死神も、きっと、今日こそ職務が果たせると安堵しているのだろう。
私はただ茫然と、もう逃げる場がないことを悟った。
玄関用の突っ掛けに足を通して、差し伸べられる手をすり抜けて、外に出る。
木蓮が咲き、チューリップが咲き、芝桜が咲いている。
本当なら少し時期のずれるはずの花たちが、一斉に。
玄関から出てきた死神を、私は振り返った。
「見たかったのでしょう? おまけです」
私は大きく春の息吹を吸い込んで、玄関の扉を閉めた。
「あ、鍵」
「こちらに」
死神から手渡された鍵を、疑いもなく玄関扉の上下の錠に差し入れて、回す。
かちゃり。
〈了〉
(202403100014)