真夏のオリオン
未明、熱帯夜の寝苦しさに喘ぎながら寝返りを打った頃、じゃり、と外の庭から丸石の砂利を踏みしめる足音が聞こえた。
恐る恐る障子を開けてみると、月明かりのない星明りだけの下、秀徳さんがぽつねんとそこに立っていた。
「やあ」
何と声をかけたらよいものかわからず、それでも何か言葉を発しようと、思わずといった感じで、魔の抜けた声で、秀徳さんはわたしに向かって片手を上げて見せた。
わたしは、声を上げることも、つっかけに足を通すことも忘れて、思わず裸足で庭に飛び出した。
ジャリジャリと深夜に玉石が擦れあう優しい音がする。
「秀徳さん!」
躊躇いなく、わたしは秀徳さんの胸に飛び込んだ。
汗の臭いも、火薬のきな臭さも、何の障壁にもならなかった。
わたしは思う存分秀徳さんの匂いを胸に吸い込んで、「ああ」と陶酔した。
「帰ってきたのね。お帰りなさい。わたし、どんなにこの時を待っていたことか。行ってしまう人には、待つ方の気持ちなんてわからないんだわ」
「綏子」
秀徳さんは優しくわたしの名を呼んで、耳元から髪を後ろへと梳きとおした。
「ちょっとそこへ座らないかい?」
わたしは喜びのあまり、秀徳さんが「ただいま」と言ってくれないことに気づいていなかった。
秀徳さんに手を引かれるまま、開け放たれた縁側に二人並んで座る。
「ごらん。真夏なのに、オリオン座が出てる」
秀徳さんは、片手でわたしの肩を抱きながら、すっと東の空を指さした。
夏の暑さに少し白くぼやけたような星空は、床に就く前に見た夜半のうら寂しい星空とは打って変わって、煌びやかで、何か物語の始まりのような仰々しさがあった。
「きれい」
うっとりとわたしは言った。
本当は星空なんてどうでもよかった。秀徳さんの腕が回された方が熱くて、最後に触れあった時のことを思い出してとろけてしまいそうだった。
「日中はあんなに暑いのに、夜明け前は冬の星座が見られるなんて、この時期だからだね」
「絵に描きたいと思っているの? いいわよ。今、鉛筆と画用紙を持ってくるわ」
「綏子」
秀徳さんは、立ち上がろうとしたわたしの肩を押し留めた。
「もう少し、一緒にいたい」
心の奥底から最後の願いを絞り出すような切実さに負けて、わたしは秀徳さんの胸に頭を預けて星空を見上げた。
確かに、こんな時間に起きてわざわざ星空を見上げることはない。
気が付かずとも季節は廻って、やがてあのオリオンが夕の空とともに昇ってくるのだろう。
「もう少しだなんて、言わないで。これからずっと一緒にいられるのでしょう? 秀徳さんがお好きなら、毎晩この時間に起きてオリオン座を眺めましょう? そして、少しずつ寝る前の時間に近づいていくの。だって、秀徳さん、戻ってきてくれたんだもの。今を惜しむことなんて、これっぽっちもないわ」
わたしは夏に空にかかるオリオンではなく、夢見心地で秀徳さんの横顔だけを見つめていた。
なんて幸せなんだろう。
肩を抱く腕の温もり。妥子、と呼んでくれる落ち着いた声音。汗と火薬の臭いに混じって、昇り立つように香る鮮烈な甘い香り。
梔子の花のようだ。
わたしはどこにいても、たとえ目が見えなくなっても、この香りを嗅げば、秀徳さんがすぐそこにいると確信することができるだろう。
「綏子、そんなに僕ばかり見つめて、穴が開いてしまいそうだよ」
いっそ穴をあけてしまえたらいいのに。そしたら、その開いた穴に、もうどこにもいかないように縄を通してわたしの手首に括りつけておこう。
そんなわたしの危うい妄想など気づくわけもなく、秀徳さんは、ふふっと軽く笑ってまた夏の夜空に掛かる冬の星座たちを見上げた。
わたしは肩にかかっていない秀徳さんのもう片方の手に、自分の指を一本一本絡ませた。
ふと、湿った土の匂いがした。嗅いだことのない土の匂いだ。雨上がりのようなどこか開放的で、官能的な土の匂い。
よく見れば、秀徳さんは土と汗で汚れに汚れ、フラフラになって倒れる一歩手前のように所在なさげだった。
「ここは、夜明けが来るのが早いね。ほら、もう空の色が変わりはじめている」
「気が早いわ。まだ、あんなに星が見えているじゃない」
なぜか、秀徳さんが消えてしまいそうで、わたしは秀徳さんの腕をぎゅっと抱きしめた。
秀徳さんは、少し笑った。
「君と夜明けのオリオンを見られてよかった」
わたしは、はっと胸を突かれたようになって秀徳さんを見上げた。
秀徳さんは穏やかに笑っている。
そんな間にも、確かに空は紺碧が薄れ、星の輝きが一つ、二つと吸い込まれていく。
「君は、夜明けまで見届けて。あのオリオンの一番光る星が空の明るさに呑み込まれるその時まで。必ず、約束だよ。僕もきっと、同じ空を見ているから」
額を寄せ、秀徳さんは軽くわたしの唇をついばんだ。
「おやすみ、綏子」
「起きていろと言ったのに、おやすみだなんて」
縁起でもない。
慌ててしがみつこうとしたわたしの前に、秀徳さんはもう、いなかった。
サイパンはまだ、夜中のはずだ。
銃声が止んでいる。
静かだ。
もうどれくらい経つのだろう。
時たま、星が流れていく。
ペルセウス座流星群の獄大日が一昨日くらいのはずだから、きっとその名残だろう。
南の国から見る北の星座は、随分と低いところを通っていく。
日没も日の出も、夏なのにやけに早く、やけに遅い。
夏なのに、夜が長いのだ。
じっとりと汗ばんだ服は、もう何日着替えていないことか。顔すらまともに洗っていない。水は、夕方のスコールで喉を潤した。
ああ、腹が減ったなぁ。
熱に浮かされていても、星空が美しく見えるのは僥倖だ。
ここは天の川も見えれば、憧れの南十字星にだってお目にかかる機会がある。
冬にカノープスを目の前に見た時は感動したなぁ。
海の上から上ってくる明るい星。シリウスに次いで、全天で二番目に明るい、見れば長寿を約束されるという珍しい星。
故郷からは、絶対に見えない星。
それがあんなにも高々と、堂々と昇ってくるのだから、あの時ばかりは、今自分が置かれている状況を忘れて素直に感動していた。
その恩恵にあずかれるわけはないだろうと思っていたけど、そろそろ自分の運も尽きそうだ。
海に囲まれた南国の蒸し暑さは夜になっても変わらないというのに、ぞくりと身が震えた。
息遣いが荒くなっている。
酸素を取り込もうと必死に胸が上下している。
銃創が化膿した足は、とうの昔に感覚がない。湧いてくる蛆を摘んで捨てることも、もうできない。小さな虫に侵食されて身体は抵抗しようと熱を上げ、嫌な汗がじっとりと身体を蝕み、足を切断する勇気もないまま、命を搦めとろうとする死神が鎌を振り下ろすのをただただ怯えて待っている。
こんなところで死ぬのか。
銃剣で敵兵を一人でも多く仕留め、損害を与えることもできずに、ここで死ぬのか。
どこぞの上官の叱責が聞こえてくるようだ。
だが、僕はこれでよかったと思っている。
もう、銃声は聞き飽きた。
命を張って身体の大きなあいつらに向かっていくことなんてしたくない。
岬から万歳と唱えながら飛び降りることだってしたくない。
声が、耳にこびりついている。
もう一年以上経ったというのに、まだ、岬から飛び降りる人々の万歳の叫び声が生々しく耳元でこだましている。
逃げたのだと言われたって構わない。
僕たちは、あいつらをここで留めきれなかった。
たくさんの飛行機が、この島の滑走路から北へ向けて飛び立っていくのを、ただ見送るしかなかった。
いや、だからこそ少しでも食い止めようと、僕も上官もあいつらに銃弾をぶっ放した。
なしのつぶてだ。
いや、諦めずに、じわじわと苦しめるのだ。
そうは言われても、あちらは戦車から大砲をぶっ放してくる。
片や、珠も尽きた銃剣で、誰を突き刺せというのか。
星が流れた。
僕は、手に残った肉を貫く感触を精一杯振り払った。
目裏に残った死に直面させられて恐慌するアメリカ兵の顔を忘れようと頭を振った。
あいつの命も僕は引き受けたのだ。
そんなことを言えば、上官は問答無用で殴り倒してくるだろう。
僕は暴力は嫌いだ。
殴れば言うことを聞くと思っているなんて、考えを変えることができると思っているだなんて、あまりに低能だ。
でも、実際痛みは、嫌でも学習させる。
ここの常識から外れたことを口にしてはいけない、と。
自分は生きたかった。
卑しいほどに生きたかった。
だから、自分の命とアメリカ兵の命を天秤にかけて、理性じゃない、本能で銃剣を突き刺した。
足の銃創をもらうよりもずっと前の話だ。
ここにいると、人が人でなくなっていく。
人が人に見えなくなってくる。
生きてるものはただの的に、死んでるものはただの肉塊に見えてくる。
顔など見ない。見えない。見てはいけない。
それは敵も味方も、現地の住民も同じ。
僕は加わらなかったけれど、卑劣な行為に及ぶ者たちの獣の声と悲鳴が、脳髄の奥底に慚愧となって燻っている。
僕は、助けることも諫めることもできなかった。
我が身可愛さだ。
それでも参加することだけは嫌だったから、うまくその場から離れて森の中で息を潜めていた。
この手で綏子に触れられなくなるのが嫌だった。
綏子は許してくれるだろうか。
不甲斐ない僕を。
逃げている僕を。
だって僕は何もできない。
殺されるようなことにだけはならないように、目を閉じて、手で耳を塞いで、息を潜めているしかない。
足の銃創は、もう二週間くらい前のものだ。
逃げ遅れた現地の子供を逃がしていたら、後ろからふくらはぎをやられた。
綏子、君なら全く僕らしいと笑ってくれるだろう?
その子は、怯えと蔑みの目で僕を見て、さっと茂みの中に隠れていった。
それでよかったと思っている。
逃げてくれたなら、それでいい。
歩けなくなった僕は、あっという間に隊からおいて行かれた。
はじめこそ銃剣を杖に従軍していたけど、すぐについていけなくなった。
荷物に闇って迷惑をかけるよりは、と、置いて行ってもらうことにした。
面倒を見てくれる人がいなくなると、すぐに食が断たれ、仰向けに寝て口を開けて天の恵みを待つだけになった。
いっそ銃剣で自分を始末してしまえればよかったのだろうけど、そんな勇気もない。
僕はただ、朽ちていくのを待つだけにした。
時折手が届く範囲で雑草を口にしながら。
たくさん虫に刺されても、もうかきむしる力もない。
うとうとと夢うつつに君の元へ行く。
夢は優しい。容易に君に合わせてくれる。
僕は、君に会いたい。
最後に、君が見えるところで死にたい。
湿った土に指爪を立てて、僕は体を起こした。
かくり、と感覚のない脚の膝が折れ曲がる。
脇に置いていた銃剣を前に突き刺し、ずるりと身体を引き寄せる。
それを何度か繰り返して、ようやく森が開けた場所に出た。
まるでカタツムリのようだ。
笑ってしまう。こんなにも鈍い生き物だったかと。
でも、ここのカタツムリは黒くて大きい。殻もちょっとやそっとじゃ割れないほど頑丈だ。
火にくべれば一発で本日の主食になったけど。
「ああ」
目の前に広がる遠大な水平線と、珍しく雲のない満天の星空、白くけぶる天の川に、僕は感嘆のため息を漏らした。
がくがくと震える全身が、あっさり力を失って、銃剣伝いに崩れ落ちる。
それでも、少し顔を上げれば、目の前には昇りかけのオリオン座が見えた。
真夏のオリオン。
何と行幸だろう。
冬を待たずして冬の星座を拝めるとは。
ああ、ぼくはもうこれで悔いはない。
やり残したことなど数え上げればきりがない江戸、今、ここで叶えられる限りの幸せを掴み取った。
再び感嘆のため息を漏らした際に、一発の銃声が轟いた。
ずいぶんと近い。
その答えは、背中から胸へと焼きつく痛みが貫いていったことでもたらされた。
的は自分だった。
何も今更撃たなくて、あと少しで息絶えようというところだったのに、性急なことだ。
それとも、これが天がもたらした介錯というものだろうか。
ああ、もう少し、世にも珍しい真夏のオリオンを見ていたかった。
できることなら君と、ともに見上げてみたかった。
綏子。
あの水平線の彼方にいるのだろう?
君に会いたい。
最後に一目、君に会いたい。
綏子。
声をかけると、君は障子を勢いよく開け放ち、裸足のまま僕の胸に飛び込んできた。
君の肩に、背に、この手を触れていいものか、しばし悩んだ。
でも、夢ならば構うまい、と。
君の肩を抱き寄せた。
真夏のオリオンを見上げながら、君に口づけた。
甘い花の蜜のような透き通った味がした。
綏子。
おやすみなさい。
やっぱり、そっちは夜明けが早いね。
もう少し君と一緒にいたかったけれど、お別れだ。
最後のわがままだ。
僕を見送ると思って、君はあのオリオンの一番明るい星が見えなくなるまで、そこで座って星を見上げていてほしい。
僕がまっすぐに迷いなくあの空の向こうに生けるように。
君が見ていてくれるなら、空の向こうへ行くのも怖くはない。
綏子。
おやすみ、綏子。
また、会おう。
玉音放送を聞きながら、わたしは秘かに快哉を叫んだ。
戦争は終わった。負けたからこの先どうなるかは分からないけれど、彼が帰ってくる。彼はもう戦わなくていいのだ。誰も殺さなくていいのだ。
密林の中で、一人心細くオリオンを見上げなくて済むのだ。
早く帰ってきて。
その願いは、届かなかった。
終戦の報がもたらされ、半年後。
わたしは、未だ帰らぬ彼を待って、先に入籍した。
彼のお父様とお母様から、妻がいると知れば、先んじて帰ってこられるだろうと、籍だけ先に入れたのだ。
それから二年。
一通の手紙が届いた。
彼の戦死報告だった。
サイパン島にて、昭和二十年八月十五日、未明。
彼はとうに亡くなっていたのだ。
わたしと籍を入れたことも知らず、わたしが妻になっていることも知らないまま、先にあの世へ旅立ってしまっていたのだ。
「一足早く、君と冬の星空を見られるね。叶わないと思っていたのに、叶えられて嬉しい よ」
彼は知っていたのだ。
分かっていたのだ。
わたしとはもう二度と、冬の清冽な空気に刺すように輝くオリオン座を一緒に見られないと。
だから言ったのだ。
奇跡だ、と。
真夏のオリオンは奇跡だ、と。
わたしは冥婚でもかまわなかった。
でも、申し訳ながった彼の父母に、籍を抜いてくれと懇願されて、籍を抜いた。
彼の名字を名乗りつづけたかったし、わたしは彼のものなのだと社会的に見せつけていたかったけれど、それは、叶わなかった。
彼の父母は、幾度となく人を介してわたしに見合い話を持ってくる。
実情はともあれ、離婚歴がついてしまったわたしに何とか良い再嫁先を、と焦っているのだ。
わたしは、彼と出会うことになったモデルの仕事をやめて、美術の教師に収まった。
彼が描く絵を、代わりに書いてくれる人を見つけるために。
十七年後、その人は現れた。
彼と、全く同じタッチでモデル画を描く少年。
彼は、夏休みの課題に、真夏のオリオンと題した絵を提出してきた。
見晴らしの良い高台から、密林を遥か眼下に越えて見える水平線の上に昇りはじめたベテルギウス、リゲル、帯の三つ星。オリオン座大星雲の赤いガス雲までをも再現している。
これが、彼が戦地で最後に目に焼きつけたオリオンなのだと思った。
彼は、わたしを描きたいと言った。
モデルになれるような年ではなかったが、わたしは彼の前でシャツのボタンに手をかけた。
彼は笑って言った。
「そうじゃない」と。
「僕が描きたいのは、あなたの横顔だ」と。
「あの日、ともに見た真夏のオリオン座を見上げる君の横顔を、もう一度キャンパスに焼きつけておきたいんだ」と。
わたしは、笑って頷いた。
泣きながら、あの日二人で縁側に座って見上げたオリオン座を思い出した。
「ただいま」
と。彼は囁いた。
彼の描いた真夏のオリオンを見上げるわたしの頬には、一筋の涙が描かれている。
その隣には、誰もいない。
その代わり、向かい合うように南国のヤシの木や照葉樹の密林が描かれ、中央に描かれたオリオン座を共有しているのだった。
今、彼は目の前にいる。
午前三時、君と見上げる真夏のオリオン。
夜明け前の淡い深淵に昇るオリオン座。
その絵には、そう言葉が添えられている。
〈了〉
(202307070215)