半夏生

 転んで顔を上げた先にあったのは、葉を半分白く染めた半夏生だった。
 顎を泥水が伝って滴り落ちる。
 起き上がろうと力を込めた指はぬかるんだ泥を掴み、ぬるりとした中にじゃり、と細かな土の粒が指の間を通り抜けていく。
 立ち上がらなければ。
 腹に力を込め、膝を引き寄せ、上半身を持たせあげる。
 見上げた天は曇天。大粒の雨が石礫のように頬に当たり、泥を洗い流していく。目など開けてはいられない。少し開けた口から、甘い水が入り込む。
 潤いを得て、僅かばかりの活力を取り戻した私は、力の限り全身を震わせて叫んだ。
「                    」
 雷鳴がパリパリと乾いた音を立て、雷光が目を灼いたかと思うと、腹に響く音を立てて稲妻がどこぞに落ちる。
 怒らせている。
 私は神を怒らせている。
 私が逃げたから、神は怒っている。
 泥水に薄汚れたこの白装束は、神への贄の証。
 死人を載せる戸板の上に載せられて、ごみ捨て場に放り投げるように祠の前に捨てられた。
 そのような捧げ方では、いかような神であっても情けなどかけようと思うまい。
 しかも、捧げものはふた目と見られぬ顔をしたこの私。顔だけじゃない。全身疱瘡だらけで、皮膚は赤く爛れてめろりと剥がれ、時に白く粉を吹いている。乾いているのか膿んでいるのか、もはや全身くまなく見ても分かりはしない。ごみ捨て場に捨てられていた私は、捨てられた物を齧りながら今まで生きてきた。ごみ捨て場にいると気味悪がられてごみを捨てに来る人が減ってしまうから、普段は近くの木の洞に隠れ、誰かが何かを捨てていけば、餌を投げられたように齧りに行く。鼠よりも気味が悪いと言われるこの私を、誰も触れようとしないこの私を、神が喜ぶはずがない。
「あはははははははは」
 豪雨が叩きつける胸には、肉などついてはいない。薄汚れた白装束越しに鶏がらのようなあばらが浮き出ている。
 私にこの着物を持ってきた少女は、豊満な体つきをしていた。真っ白い肌は大福のようにもちもちとしており、頬も、はち切れんばかりの胸の双丘も、肉のついたふくらはぎも、何もかもが恵まれた家に生まれたことを表していた。
「あはははははは」
 私は笑いながら目の前の半夏生を引きちぎった。
 白く化粧をした葉が、あの少女のようで気に入らなかった。
 細切れに手で引きちぎって、幣のごとく天へと散らす。
 あの少女だけは、私がごみ捨て場にいても臆することなくごみを捨てに来た。自分の食べ残し、弟妹たちの食べ残し、客の食べ残し。
 まるでわざと恵みに来ているかのように、食べられる部分ばかりを捨てに来た。
 私は、どんな目で見られていようと、その少女の前で捨てられた食べ残しに手を伸ばしていた。
 少女は一度、軽蔑の目はそのままに、私に口をきいたことがある。
「お前はいいね」
 何がいいのか、と、さすがの私も咀嚼を止めた。
 ゆらりと見上げると、少女はくるりと踵を返して行ってしまった。
 その足のふくらはぎには、つーっと赤い筋がひとつふたつ流れていた。
 怪我でもしたのか。
 私が他人のことで何か思ったのは、人生でただ一度きり。その時だけだ。
 その血が何か、私は知らない。私には無縁のものだったから。
 私は、なかなか死ななかった。
 鼠と争うようにして捨てられたごみを口に入れ、腹はもちろん壊すが、ひもじさには替えがない。いつか何か食べてはいけないものを食べて、全身が赤く爛れ、皮がむけた。雨が降ると水がしみて皮膚が痛んだ。それでも私は死ななかった。物心ついたころから一人でごみを漁り、口にし、骨は伸び、張りつくように皮膚も伸びる。明日にでも死ぬだろうと毎晩思いながら眠りに落ちるのに、翌朝には日の出とともに目が覚める。目が覚めると当然のように腹が空いている。食べ物を探して、いくつかの集落をうろうろとごみ捨て場を求めてさまよう。昼間にやると石を投げられるから、場所が分かってからは夕時に向かう。ごみ捨て場に食べ残りが乏しい時は、その辺の草をむしって口に入れる。そして、いつもの木の洞に戻る。日照り続きで何もない時は、通り道に罠を仕掛けて鼠を捕った。食べられるものはなんでも食べたし、食べられないものも無理やり口にした。親などいなくても、本能で食べたくないものというのは分かるものだ。それでも、私は無理やり口に押し込んだ。生きたいなどと思っていなくても、本能が食べるために身体を操っていた。
 ごみ捨て場に食べられるものが多くなるのは秋。冬は魚の骨にへばりついた肉を骨ごとしゃぶる。春はごみ捨て場に頼らずとも蕗のとうやたんぽぽを摘んで食べる。集落では田おこしに続いて水入れがされ、青々とした稲が植えられる。その頃になると桑の木が赤い実をつける。プチリと口の中で弾ける感触と甘酸っぱさ、小さな種の感触がたまらない。
 そうこうしているうちに、梅雨が始まる。
 長い長い雨続き。ごみ捨て場に捨てられた物を食べると、高確率で饐えた味がするから、あまり手を出さないようにしている季節。
 今年はいつにも増して雨の日が多く、ついには夏至を越えたあたりから激しい雨が降り続き、川の増水が止まらなくなっていた。山も水を貯えきれなくなり、何本もの木ごと山の斜面が雪崩落ちてきていた。
 そんなときに集落の人々が考えるのは単純なことだ。
 神が怒っているから、怒りを鎮めるための捧げものをしよう。
 人身御供など、本当に聞くのかどうかわからぬ古からの因習を持ち出し、例の大福のような恵まれた少女に白装束が渡された。
 恵まれていると思っているのはどうやら私だけのようで、少女はその集落では蔑みの目で見られる存在だったようだ。少なくとも、人身御供に供しても構わない年頃の娘であったことには違いない。
 夜、少女は雨の中、ごみを捨てに来た。
 そして、木の洞にいた私の前に、食べ残しではなく、蓮の葉に包んだ雑穀ご飯と煮物、そして白装束を置いた。
「私はまだ死ぬわけにはいかない」
 両手には年端も行かない子供二人と手をつなぎ、背にも小さな子を負ぶい、胸には赤子を抱いていた。赤子はわんわんと泣いていたと思うが、雨の音でさほどうるさいとは思わなかった。
 ただ、凛とした少女のその声だけは、雨音をすり抜けてとてもよく聞こえた。
 私は少女を見上げ、そろりと初めての人の食べ物に手を伸ばした。
 そんな私を、少女が唇を噛んで見つめていようが、嘲りに口元を歪めていようが、私には関係なかった。
 初めて食べる腐っていないご飯は、芳しい香りがした。煮物はごろごろとして、噛めば程よい触感が返ってくる。何より酸っぱくない。塩気と口の両奥に残るコクに、私は目を細めた。
 私は、初めて人になった気がした。
 この瞬間、初めて人として生きたのだ。
 気づいたとき、少女はもういなくなっていた。両手に引いていた子供たちもいない。
 彼女は集落から出ていったのだと分かった。
 逃げたところで、四人分の飯を稼ぎながらよそで生き延びられるとも思えない。しかし、今少女が死んでしまっては、他の四人も野垂れ死ぬだけ。少女は万が一の可能性に賭け、一人でもあの子供たちの命を長らえさせようと思ったのだろう。
 ご苦労なことだ。
 一人ならばしなくてもいい苦労だ。
 いっそ、子供たちなど捨てて一人で逃げてしまえばいいのに。どうせ逃げた母親が置いていった弟妹なのだろう。そう思った瞬間、ふと、少女のふくらはぎに流れていた血を思い出した。大福のような頬、胸、そして、膨らんだりぺったんこになったりする腹。
 私は、煮汁の最後の一滴を舐めあげて、ひとつげっぷをした。
 置かれていった白装束に視線を落とす。
 雨はやまない。なお一層、稲光を伴いながら強く降っている。
 神は怒るだろうな。
 そう思いながら、私は白装束に袖を通し、翌明け方、誰もいなくなった少女の家の前に座り込んだ。
 先に怒ったのは集落の男衆だった。稲光よりも五月蠅い怒声を叩きつけ、罵倒し、殴り、蹴り、気が済んだところで誰も私には触りたくないから、自ら戸板の上に乗れと怒鳴った。
 腹に鈍痛を抱えながらよろよろと私が戸板の上に横たわると、男衆は寝て参るなど神様に失礼だから正座しろと頭を殴った。
 私からすれば、そもそも慰み者にしていた少女を神に差しだそうとする時点で神に失礼であろうし、散々殴り蹴倒して意識が朦朧としている私を神に差し出そうとするのもいかがかと思う。少なくともいくらかでも神のご機嫌を取るために、きれいなものを捧げようとは思わないのだろうか。
 まあ、そんな思考があるのなら、そもそもあの少女に死装束を渡すことはなく、集落の中でも敬われている者の娘を差し出すだろうが。
 この集落の者たちは、本気で神の怒りを鎮めようなどとは思っていないのだ。都合よく機に乗じて目臭いものを消してしまいたいだけなのだ。
 失敗するだろうな。
 祠の前に戸板ごと放り投げられた時、私は嘲笑った。
 大切な神様が祭られているお社の前に、ごみを捨てるように私を投げ込んで、神はどう思っただろう。到底捧げものをされたなどと思うまい。ごみ捨て場にされたと怒ったに違いない。
 だから、私は逃げられた。
 山は祠ごと集落へと雪崩落ちた。
 その流れの中で、私は途中、削り取られなかった木に引っ掛かり、木々と土砂に蹂躙される集落を眺めおろしていた。
 私を担いできた男どもなど、いの一番に流されたに違いない。山津波は私を運んできた道を清めるように流れ落ちていったのだから。
「ざまぁない」
 呟いて、私は抉れた山とは別の方向から山を下りた。
 行く先が決まっていたわけではない。
 また新しいごみ捨て場を探さなければならない。
 珍しく、今日は腹を壊さなかったから、ここまで歩いてこられたけれど、蹴られた時の鈍痛がいやに腹に響く。
 そして、私はぬかるみに足を取られ、躓いた。
 どくだみのような独特の香りが鼻に刺さった。
 緑の葉を半分白くした半夏生。目立たぬ花に実を結ばさせるため、虫たちの目に留まるよう葉の緑から得られる栄養を断ち、自らを白く装った半夏生。花の時期が終わると、何食わぬ顔でまた緑の葉に戻り、養分を得る。
 あざとい植物だ。
 誰かがそう言いながら、この花を踏みしだき、蹴散らしていた。
 私は、もう一本、葉を引きちぎり、口に含んだ。
 独特の苦みに顔をしかめる。
 泥水で、白かったはずの死装束は程よく茶色に煮しめた色になっている。
 次は、この姿で生きるのだ。
「ははは」
 雷鳴は遠ざかり、雨が止み、湿ったぬるい風が吹きはじめる。
 日は沈み、いくばくかの蛍がちらちらと乱舞を始める。

〈了〉
(202307020118半夏生の日)