五稜郭のゆり
「国を捨てよとは……どういうことですか、伊藤様!」
結(ゆう)は一度取り落としかけた言葉を拾って、何とか上役の爺に投げつけた。
「どうもこうもない。言葉の通りだ。明朝、我らは出発する。それまでに全てのことを片付けてくるように」
渋い顔をさらに皴で深めて、静かに伊藤様は結の言葉を切り捨てた。
「それは、楢山様のご命令ですか?」
唇を噛みしめ、結は、いや、佐藤直助は二十は年上の男を睨みつけた。
盛岡藩頭取改役である伊藤様に対して、結は若さだけでは済まない非礼の口ぶりだったが、伊藤様はそれを咎めようとはしなかった。
恨めしそうに若者を見やっている。
慶応四年、八月九日。
秋の気配が濃厚になり、例年であれば稲刈りを終え、収穫を祝う祭りと実りの季節を堪能できる最も喜びに満ちた季節であったはずだが、今年は違った。足音ばかり聞こえていたと思った討幕の嵐に、ついにこの東北の地まで巻き込まれてしまったのだ。
それでも、我が藩は得意の日和見風情を発揮して、同盟に与するお隣の仙台藩の顔色を窺いつつ、巻き込まれないように、巻き込まれないようにとゆらゆらと舵を取ってきたはずだった。それが崩れたのは、京都から主席家老の楢山様が戻られてからだった。
楢山様が戻られてから、あっという間にあの城の中の論調を奥羽越列藩同盟に与する方向へと変えてしまったのだ。
京都の話、江戸での話に耳を疑った者は多かったに違いない。
まさか、この一、二年の間に本当に歴史がひっくり返ってしまっていようとは思わなかったのだ。きっとこのままのんびり過ごしていても幕府から与えられた所領の中で何とかやっていける。そう思っていたのに、その幕府は政治的な力を天皇様にお返ししてしまったという。武士という身分に支えられて禄を食んできたというのに、それすらも変わってしまうというのだ。しかも、将軍様と天皇様という二つのお立場だけではなく、薩摩や長州が出張ってきているというのだから、一筋縄ではいかない。
どうにも、我々の国は変化というものに弱い。足元を揺さぶられるということに弱い。変化に柔軟に対応していかなければならないくらいなら、今の既得権益を守った方が安心ではないか。これからどうなるかわからない方向へと放り込まれてしまうより、少なくとも今まであったものを守り、なおかつ恩を売ることができたなら、上出来ではないか。
楢山様は、幕府の弱体化を嘆いておられる方だった。その心は真に将軍様を憂えるものであっただろう。しかし、藩の中で奥羽越列藩同盟に与すると決まった時、大概の役付きの者たちは理想よりもいかに安心安全に今まで通り暮らしていくか、ということを考えたに違いない。そのために兵を出すのは、禄を失うよりもささやかなことであると、考えたに違いない。だめ押しとなったのが、この七月、薩長から圧力をかけられて同盟から新政府へと鞍替えしようとしていた秋田久保田藩を説得するために派遣した仙台藩と盛岡藩の使者十一名が全員殺され首を城下に晒されたことだった。これは先に仙台藩が新政府の使者を殺していたことの報復だともいうが、巻き込まれてしまったからには、これ以上日和見を続けて黙っているわけにもいかなくなってしまったのだ。反同盟派として藩論を展開してきた謹慎中の家老東様とて、事ここに至ってはもはや言のみをもって止めることはできなかった。
そうして、同盟を抜けて新政府側へと舵を切った久保田藩へ宣戦布告をし、我が藩が同盟に与すると意思表示をするために杜陵隊は結成された。
盛岡という国の名を持つ隊名であった。
しかし、この隊を楢山様が直接指揮することはなかった。
盛岡藩はほかにも七月のうちに発機隊、天象隊、地儀隊を結成し、楢山様は天象隊と地儀隊の総督となられて善戦されたと聞くが、事ここに至っての旗色の悪さはもはや回復のしようもなかった。
我々杜陵隊は、久保田藩の領内へと攻め込み、各地を転戦しながら大館城陥落まで持ち込んだものの、佐賀藩からの援軍で勢いを取り戻した久保田軍に、九月には藩境を押し戻され、形勢は暗転。米沢藩に続き仙台藩が降伏し、ついに会津藩までもが降伏したことで勝ち目を見失った我が藩は、ついに降伏の旗を上げざるを得なくなっていた。
食い扶持を稼ぐため、禄を食むためとはいえ、鍛錬することが生業だったはずの鉄砲を持って戦場を走ることになろうとは、ゆめゆめ思いもしなかった。認識が甘かったわけではない。三百年、そうしてご先祖様たちは生きてきた。我々が構え、放ってきた鉄砲は、訓練のためにあるのであり、ひいては殿様のご威光をお守りするためにあったのだ。誰かにこの筒の先を向けるためではない。本当にこの鉄砲で他人を殺すためではない。己が身を守るためではない。それなのに、誰がここで世間がひっくり返るだなんて予想しようか。己がその運命に巻き込まれ、命も危うくなろうとは、誰が予想しえただろうか。そうでなくとも何人もの知己が久保田藩という奥羽山脈を越えた異郷の地で命を落とし、何人もの見知らぬ隣人たちが己の放った鉄砲の弾を受けて赤い血を流して死んでいった。戦場の悪夢は、書物に描かれた武士道にも及ばぬものだった。それが夢ではなく現実なのだと、鉄砲の銃身を抱きかかえ山の斜面に生える湿った木にもたれて落ちたともいえぬ眠りの合間を彷徨い、朝霧にぼやける日差しに目を開ける度にまざまざと思い知らされる。生死の狭間を目を開けたまま彷徨って、文字通り泥水を啜って糊口を凌ぎ、腹を壊しては一体己は何をしているのだと叫びだしたくなる。
勝っていたならば、まだ士気も上がったろう。十二所の戦いでは最小限の犠牲で勝つことができた。しかし、その後大館城を攻めあぐねてから、全ての流れが悪い方へと傾いていったように思う。
それが、今度は国を捨てよと言われたのだ。
流浪の身となりても、幕府への忠誠を見せよ、と。
国を捨て個となりて幕府への忠誠など見せられようか。否。すでに忠誠を必要としている幕府など残っていないではないか。徳川家が連綿と十五代にわたって務めてきた征夷大将軍という職はもう、なくなってしまったというのに。
仙台にはあの海軍副総裁である榎本釜次郎が旧幕臣たちを引き連れて来ているのだという。盛岡藩としてはこれ以上幕府のためには働けないが、杜陵という名を冠した我が隊に、国の誇りのために国を捨てて働き名を挙げよ、と、きっと楢山様は隊長の伊藤様にそのようにおっしゃったのだろう。
苦面渋面の伊藤様のその顔を見れば、そのような理想論で飯など食えるかと思っていたに違いない。それでも頭を垂れざるを得なかったのは、我々杜陵隊の隊士となった者にはもう、盛岡に帰る場所が用意されていないと悟ったからだろう。
生きるためには国を捨て、国の名を背負って戦い続けるしかなくなってしまったのだ。
「そんな馬鹿なことがあるか!」
憤懣やるかたない表情で結は地団太を踏んだ。
伸びた月代を手入れすることも叶わず、ぼうぼうと雑草のように髪が生えた頭を振り乱して結は怒る。
おれは、その荒れ地のような月代を見ながら、早く生えそろえばいいのにと思っている。
年頃の娘が、なんという格好をしているのか、と。
肌白く光を浴びてきらきらと輝いていた頬は今や泥と煙炭にまみれ、紅を小指で履いていた唇は白くひび割れ、濁りのなかった目は睡眠不足に充血し、目の下には黒い隈がふて寝している。長く豊かだった髪もばっさりと切り落とし、頭のてっぺんに河童の皿のように月代を作り髷を結っていたものの、今は整えるための油すらなくぼうぼうにほつれ、見る影もない。小さくほっそりとした嫋やかな手は、銃器を担ぎ、引き金を引くうちに節くれだち赤く胼胝が盛り上がっていた。
鉄砲隊の指南役である父親を持つ結は、幼い頃から花に茶にと、士族の娘のふるまいを学ぶべく嫋やかに教育されてきた。それを狂わせたのは、後継ぎになるはずだった兄の直助だ。勉学にいそしむ柄でもないくせに家柄から最低限藩校に通わせられ、剣術道場に放り込まれ、不満げながらも奴は持ち前の要領の良さで適当にこなしていたが、浮浪人などの下層の者とも表に裏に付き合いはじめるようになり、素行の悪さに眉を顰める者が出てくる始末だった。そんな奴がとある日とある時、たまたま屋台で居合わせた旅芸人たちと酒を酌み交わし、京で活躍する壬生浪士――新選組の話を聞いてしまったからさあ大変。そこでは先に盛岡藩から抜けて浪人となった吉村何某も撃剣師範を務めているというのだから、自分にも務まらないわけはないと恐れ多くも思ってしまった奴は、翌朝、あっさりと全てのものを捨てて出奔してしまった。
どんなに出来が悪くても、家の後継ぎは後継ぎである。有事の際には鉄砲隊を率いて走り回るのが務めの中級武士とはいえ、禄をもらっている以上後継ぎにはいてもらわないと家は取り潰されてしまう。直助の出奔を知った時の結の両親の顔は、鳩が豆鉄砲を食ったように驚いてはいたものの、どこかでついに来るべき日が来たのだと諦めに淀んでいた。
それを見た結が、一つ違いの兄の代わりに髪を下ろし、月代を剃り、兄の着物を着て父親の前に頭を垂れた。今まで女性の着物を着、髪形も未婚娘の結い方をして、やれ茶だ、花だと育てられ、しかも竹刀も握ったことがなければ、塾で四書五経を学んだことすらない小娘が、兄の代わりなど務められるはずもない。強いて言うなら、男装をした結は見た目だけは直助にとても良く似ていた。線の細い直助はいつまでたっても総髪のまま月代を剃ろうともせず、割に小さい体を背中を丸め、肩をいからせるようにして銭でも探すように下ばかり見て歩く。その様はゴロツキのような有様ではあったが、いや、もはやゴロツキでしかなかったが、あのゴロツキが真っ当に育っていたならこうなっていたであろうという姿に、結は変身していた。
おれは、その日から結の傍で結が直助として生きていくための手助けをしてきた。
真っ当な姿になったと道場の奴らに言われれば、寺で転んで岩に頭をぶつけて改心したのだと結の代わりに答えた。剣術が弱くなっていても、塾で内容がさっぱりわからなくなっていても、直助の時に付き合いのあった素行の悪い奴らの名前を全く知らなくても、寺で転んで岩に頭をぶつけて改心したのだと言えば、ああよかったねと大概の人たちは言った。それでも結はそれでよしとはせず、朝は開ける前から竹刀を振り、昼は勉学に勤しみ、あっという間に直助を超えるほどになった。しかも、元から筋がよかったのだろう。鉄砲を持たせれば、的に当たる確率は百発百中で、元の直助がこればかりは不得手としていたから、佐藤家の当主は結が娘であることも忘れてこれを喜んだ。
しかし、そもそもが本人をたばかるどころか男女をたばかっているのだ。お上に知れたら大変なことになる。声ばかりはどうしようもなく、これも、岩で頭を打って言葉を発するすべを失ったのだと触れて回ったが、剣術の道場で声を出さないわけにもいかず、その高い声に、おれは、直助が寺のありがたい岩で頭を打って、酒焼けしていた声すらも綺麗になったのだが、あまりに高くて恥ずかしい故、言葉を発さぬようにしていたのだと、新たな理由をこじつけたのだった。
元が元だったからだろう。結の直助はあっという間に受け入れられていった。
気性が真っ直ぐで不正を嫌う結の性根は、おなごとしては多少厄介だったかもしれないが、男としては眩しいほどに映えて見えた。本人も花や茶よりも気性に合っていたと見え、おなごとして生きていた時よりもよほど目や頬(かんばせ)が生き生きと輝いて見えた。
それでも、だ。
女が男をやるのは並大抵のことではない。
力も違えば、体格も違う。月のものにだって毎月悩まされる。男と同じことをしようとしたって、どうしても追いつかない部分が出てきてしまう。どんなに走りこんで体力をつけようと、冷たい水で身を清めようと、女は女だ。体が悲鳴を上げているのは、近くで見ていれば明らかだった。その度に井戸の傍で蹲っているのを慰めてきたおれは、何度ももう直助のふりをするのはやめようと結に言い聞かせた。それでも彼女は首を縦には振らなかった。
『一度始めてしまったものをやめるわけにはいかない』
水の滴る口元を手の甲で拭って、何度でも結は立ち上がった。
そんな頑固なところなど親父さんに似なくてもいいものを、とは思いはしても口には出さない。身分上、おれはたかが同心だ。士族ともいえぬ端も端の貧乏長屋が実家だが、剣術道場で結の親父さんに筋を見込まれて直助付となった。直助は、物心もつくかつかぬかといううちからうろうろと貧乏長屋界隈にまで出没し遊び場にしてきたような奴だ。おれと直助とはその頃から川で神社の森で桑の実を齧り、川で鮎を釣り、雪が降れば真っ白になりながら茣蓙で土手の斜面を滑って遊んだ仲だった。あの頃は屈託なく笑いあっていたものだが、年が経ればいやでも家の格差を意識しないわけにはいかなくなる。剣術道場に通う頃には、おれは直助に敬語で話すようになっていた。それが面白くなかったのだ、と言ったのは結だった。直助がああなってしまったのは、おれが直助との間に一線を引いたからだ、と。あのまま身分など気にせず悪友になっていてくれれば、お前よりひどい奴とつるむこともなかったろうに、と。そうは言われても、おれの親は口うるさく、周りの大人たちの目だってある。何より怖かったのは、いや、嫌だったのは、おれが直助の腰巾着として佐藤様の威光を借りているなどと同じ年ごろの子供らに揶揄されることだった。おれは結局直助を自分の保身のために切り捨てたのかもしれない。幾度となくそんな考えが過ったものの、すでに過ぎ去った昔のことだ。直助は新選組のいる京を目指して出奔し、おれは直助を追いかけなかった。引き留めもしなかった。行けばいい、と思ったのは、これまた自分勝手な妄想のためだった。
結には決して言えない。
直助がいなくなれば、結の婿が佐藤家を継ぐ道が探られる。その婿候補として迎える準備があると、内々に囁かれていたなど。
貧乏同心長屋出身のおれが、しかるべき家の養子となって身分を整え、縁組によって佐藤家の当主になる。しかも、結を嫁に得て。
これほど夢見るような未来もない。
そう勝手に浮かれさえしていたというのに、結はおれの卑しい心を見抜いてでもいたんだろうか。誰にも相談なくばっさり髪を切り落としてしまっていた。しかも、その後でおれのところに来て、月代を剃ってくれと言う。それはないだろう、お嬢様。そう何度口から出かけたことか。
それでも、おれは結に押し切られるようにしてその頭の天辺に剃刀を入れた。真白い頭皮はまさに皿のようだった。
結は泣かなかった。とうに覚悟を決めた男の顔をしていた。それなのに、おれはその真白い月代に思わず涙を零してしまった。
はたと気づいた結が見上げる。
『なぜお前が泣く』
そりゃ泣きたくもなるでしょう。何が悲しくて好きな女の頭の天辺を剃らなければいけないのか。このまま上々婿に収まろうと思ってさえいたのに。
『兄上がな、言ったのだ。好きなように生きろ、と』
なのに、結は泣くどころか清々とした顔をして笑っている。
『直助が……直助様が、そのようなことを?』
『そうだ。出奔する前の晩に私の部屋に来てな、ニヤリとしてこれを置いていった』
結が指さすのは、おれが握っていた剃刀だった。月代を剃ってくれと、結から渡された剃刀。
『自分はついぞ剃らなかったくせに?』
『いつか、いつかと思っているうちに剃り損ねたと言っていた』
結はけらけらと笑う。その笑い方は、すでにおなごの軽やかで少し陰のある含むような笑い方ではなく、豪快であけっぴろげな笑い方だった。
『私は兄上になりたかった。兄上は新選組に入りたかった。だから、ちょうどよかったのだ』
そうだろうか。いやいや、なにもよいことなど一つもない。もはやこれは直助最後の嫌がらせとしか思えない。が、乗る方も乗る方だ。
おれは結を目を細めて睨みつけた。
『直助様になりたかったなど、初耳です。あんな風来坊に憧れていたとは』
『風来坊になりたかったのではない。立場だ。継子である長男として、私も父上の役に立ちたかった。どこぞの武家の嫁に出されるくらいなら、自分で自分の運命を切り開きたかった』
『どこぞの武家の嫁としての務めも、務め方次第では存分に親父さんの役に立てましたでしょうに』
『笙一郎、お前は今日から私の小姓だよ。兄上はお前から離れよう、離れようとするあまり京まで目指してしまったが、私はお前を離さないからね』
どきりとした。
きらきらとした目で見上げられて、期待と喜びと勇ましさがないまぜになった少年そのものの顔をした結が、途方もなく遠くへ行ってしまおうとしているのに、むしろおれはどこまでもこの人についていこうと思った。
結局、惚れた弱みというやつだ。
それで、こんな戦場にまで来てしまった。
いや、直助に仕えていなくても、下っ端の鉄砲持ちとして久保田藩との県境の何処かへは行かされていたかもしれない。それを思えば、まだ結の側にいて守ってやれるのだからましというものだ。
それでも、だ。
「結、お前はもう故郷に帰れ」
伊藤様が行ってしまった後も憤懣やる方なく荒れている結に、おれはあえて昔の遊び友達だった時のように言った。
はっと結は動きを止めて、おれを睨みつける。
「笙一郎!」
荒れた金切り声が夜の闇に響き渡る。
しかも、どこにそんな体力が残っていたのか、結はおれに殴りかかってきた。
鋭く勢いはあるものの、小さな拳をおれは片手で受け止める。
すると、すかさず左手でも拳を繰り出してくるが、それも受け止め、両手首を掴んであばら屋の壁に押しつける。
「佐藤家のお結様は死んじゃいない。兄が出奔したことで心労を患い、奥座敷で臥せっているだけだ。お前には帰る場所がある。帰れ。ちょうど頭の天辺も伸びてきたし、かもじでもつければ何とか見られるようになるだろう」
折れそうなほど細い手首だった。あれほど鉄砲を担いでこんな北の方まで従軍してきたというのに、結局結は女なのだ。体のつくりも、力の強さも。それだけは、どんなに鍛錬したって変えられない。
と、結は悔しげに歪めた目を赤く潤ませた。
直助になってから、初めて見る顔だった。
「お前は、裏切り者だ。ほかの誰でもない、笙一郎、お前が私を直助と思ってくれていないではないか」
無茶を言うな、と思った。
直助だと思っていないから、これまでいろいろと直助にしては不都合なことをごまかしてきてやったのではないか。
そもそも、好きな女をあんなごろつきと同じに見ることなどできるわけがない。
それに、いい加減茶番は終わりだ。
明朝、目指すは更に北。
藩では内々に松前や函館に駐留している藩士たちに帰還命令を出していると聞く。それは紛れもなく幕府軍に与せず新政府に首を垂れるための準備だ。仙台に停泊中の榎本釜次郎率いる幕府軍は、更に北を目指しているという。冷え込みの厳しい南部盛岡よりもさらに寒いという北の大地に新たな政府の旗を上げようとしているのだ。そこに杜陵の名をもって加われというのが、楢山様の秘かな願いなのだろう。伊藤様は、それを断ることができなかった。だが、今すぐよ闇に紛れて出発しようとしないのは、それまでに全てのことを片付けて来いというのは、逃げよ、と言っているのではないか? すでに藩に帰る場所はないが、北に向かったとてむざむざ死にに行くだけ。楢山様の大義を実現するには杜陵隊の名が挙がる程度に頭数がいればいい。いや、いっそ伊藤様はこの夜のうちに一人北に向かわれるおつもりなのではないだろうか。杜陵の名を掲げさえすれば、そこに誰がいるかなど大した問題ではない。ここから津軽藩を経て蝦夷地へ向かうにしても、八戸藩を経由していくにしても、我々にはすでに関所を超えるための手形はないのだ。一人の方が身軽ということもある。杜陵隊の中身など、現地でゆかりの者に声をかけて集めてしまえばいい。
「結、お前はどうしてここまで来た? 杜陵隊に選ばれ、鉄砲を担いでいくつも峠を越えて盛岡から遠く離れたこんな場所まで、どうして来た?」
「私は、佐藤家の跡継ぎだから。お父様がお喜びになるから。これが、武士の務めだろう?」
「親父様は喜んじゃいないよ。喜んでいたら、さっさと結は病でぽっくり死んだことにしただろう。今のおれたちのように、戻れなくして、先を行くしかなくしただろう。だが、親父様はそれをしなかった。お前ができる親孝行は直助をやることじゃない。結に戻ることだ」
ぐっと結は口を引き結んでおれを睨み上げた。
「ここから先の戦いは藩命じゃない。己個人の思想や主義のぶつかり合いだ。結、お前にはそれがない。そうだろう? 家のことを考え、親父様のことを一番に考えただろう? 残念だが、佐藤直助はもう佐藤家を継ぐことはできない。佐藤直助に、盛岡に戻る場所はない。結、お前の信念を果たすのであれば、盛岡に帰り、結に戻ることだ。そうすれば、お前はしかるべき者を婿に迎え、佐藤家をつなぐことができる」
怒気に満ちていた結の顔から、はらはらと表情が抜け落ちていく。
「お前は、お前はどうするのだ、笙一郎」
突っ張っていた両腕からも力が抜け落ち、冷えた手のひらがおれの頬をなぞった。
そんな切なそうに見つめるのなら、はなからこんなことに首を突っ込まなければよかったものを。そうは言っても、それこそもう元の木阿弥というやつだ。
「盛岡に帰りつくまでお供いたしますよ」
にっこりとおれが笑うと、結は目をみはりながらおれを見つめた。
「あなたがちゃんとお屋敷に戻られるまで、お助けします」
「その後は」
その後。
その後は、おれにはない。
同心貧乏長屋には戻れない。佐藤家の婿養子に入ることも叶わない。なにせ、脱藩してしまったら士族も何もないのだから。結を嫁に迎えてよしなにやることも、もう叶わない。
剣術道場の跡継ぎくらいなら、おれにもできたかもしれないのにな。
なんて、親父さんが聞いたら烈火のごとく怒鳴りそうなことを思って、一人ほくそ笑む。
結は、張り詰めた目でまた唇を噛んでいた。
「蝦夷に渡って杜陵隊に合流でもしますかね」
盛岡にいる場所はない。片田舎に土地を持つ知り合いがいるわけでもない。結局食っていくには腰に差した刀と肩に担いだ鉄砲しかない。それすらも、食うというよりは死にに行くようなものだが。
難儀な生き物だ、武士というのは。おれなどたかが端っこの武士と名乗ることさえおこがましいといわれる身分だというのに、こういうものは死ぬまでついてくる定めなのかもしれない。
「駄目だ。許さない」
ぽつりと、結は小さく、しかし力強くそう呟いた。
「許すも許さないもありませんよ。そうするしかないのです」
「私は、言ったことを覆すのは嫌いだ」
「存じてますよ」
「私は、お前を離さないと言った。言ったことは貫く」
さっきまで光を失った魚のような目をしていたというのに、急に結は目に熱い意志を灯し、強くおれを縛りつけるように見据えた。
その目は、気づかれないようにふらふらと弱く揺れていたおれの心の部分を捕らえ、引き掴む。
「決めた。蝦夷へ渡る」
生き生きと力に満ちた声で、結は断言した。
決して喜びに満ちている目ではなかった。信念というものがあるとしたら、楢山様への崇敬でも、伊藤様への義理でも、榎本釜次郎率いる幕府軍への同調ですらなく、ただ、己が言葉を守るためだった。悲壮。決死。その言葉がよく似合う。己の中から湧き上がる炎で今にも焼き尽くされてしまいそうなほど強いその目は、おれに否やを言わせまいと声そのものを捻じ伏せてやろうという気迫がこもっていた。
おれは唇を噛み、生唾を飲み込む。
声を出さねば。負けるわけにはいかない。ここで譲るわけにはいかない。
「結」
必死に声を絞り出して、彼女の名を呼ぶ。諫めるように。
それなのに。
「嫌か、笙一郎」
なぜここでそんなに心細そうな目をするのか。
「ついてきてはくれぬか」
どうして、そうなる。
蝦夷に行くのはおれだけでよかったはずだ。
なぜ結が行きたいと言っているかのようにおれに聞く。
「理由が必要か? 理由なら、ある。幕府軍には土方歳三率いる新選組も加わっているのであろう? ならば、また兄上に会えるかもしれない。兄上に、結は好きに生きていますと、胸を張って言えるかもしれない」
今度こそ、きらきらと目を輝かせて結は言った。
おれは、握っていた結の手首から力を緩め、ずるずるとその場に座り込んだ。
直助め。
出来損ないのぼんくらお坊ちゃんのくせに、妹との仲だけはよかった。噂好きのご婦人なぞは井戸端で眉をひそめて妄想を楽しむほどに。直助をやると決めた時、結は今までの直助の正反対の直助を見事に作り上げた。それは、ずっと見て観察してこなければわからないこと。そして、核となる心の部分が同じでなければ、いくら見た目が似ていたからと言って誰も騙されてはくれなかっただろう。今までの直助と正反対でいながら、どこかでああ直助らしいね、と言わせる直助を結は演じていたのだから。
出奔の前に結の部屋を訪れたというのも、嘘ではないのだろう。そのような話ができたのも、日頃からのつながりがあったからこそ。
「結は、直助の帰る場所を残してやりたかったんだな」
なぜああも必死で直助になろうとするのか、ようやくわかった。
親父様が結の帰る場所を残そうとしたように、結は直助の帰る場所を残そうとしたのだ。慣れぬ男の仕草と剣に銃に勉学とはじめてのことだらけだというのに、自ら身を張って。
「私が結に戻るのは、兄上が帰ってきた時だ。それまで私は直助をやめるわけにはいかぬ」
ともにしゃがみこんだ結は、いかにもすっきりしたといった顔で笑った。
その顔はもう、女のものではなく、おれは彼女を結に戻し損ねたと内心臍を噛んだ。
味わったのは敗北感。またしても直助に負けたと、奥歯を噛みしめつつどこかで笑いたい気持ちになっていた。
直助に勝てなかったもの。
剣術。四書五経の暗記。
道場や塾の師匠たちですら誰も知らない。
本気でやりあって、おれは直助から一本も取れなかった。清々しいほどの敗北だった。
あの時賭けたのは、確か結だったか。
『おれから一本でも取れたら結をお前の嫁にやる』
水嵩の少なくなった河原で、そんな決闘をしたのはいつの頃だったろう。確かおれは西日が眩しくて――『そっちは岩鷲山がよく見えていいな』――場所取りからお前は考えていたというのか。まったく、本当に嫌な奴だ。
ああ、だからお前はここにきてまで邪魔をするのか。男じゃ嫁にしようもないものな。
だけど、お前の家の十八番の砲術はおれの方が勝っていたじゃないか。的に当てた数も、中心への距離も、おれの方が完璧に近かった。片やお前は情けない、お家芸のくせに滅法外しまくり、あわや暴発させておれが殺されるところだった。いや、もしかして本気でおれを殺しにかかってたのか? そこまで、おれはお前の中で重要だったというのか?
兄妹して、おれに敗北感を味わわせるとは。
いや、それでもこれだけは折れてはいけない。親父様からだって内々に言われたではないか。戦闘のどさくさに紛れて直助を殺して結を連れて帰れ、と。これはまたとない好機なのだ。結とおれの帰るための手形なら親父様が持たせてくれている。でも、直助じゃだめだ。直助の名前はその手形にはない。野菜売りにでも身を窶して夫婦の振りでもして戻って来い。
『わかったな、笙一郎。結には佐藤家を継いでもらわなければならん』
その時の親父様の言葉には、以前聞いた「お前とともに」という言葉が抜けていた。どこか他に婿をもらう良い家が見つかったのかもしれない。結演じる直助の予想外の働きで、上の方から目を掛けられ、縁談の一つや二つ、降ってきたのかもしれない。もしそうなら、貧乏足軽同心をわざわざ遠縁の養子に迎え、さらに婚姻で婿養子に入れるなどしなくても、経済的にも名誉的にも安泰な婿を迎え入れられる。
なんだ、結の直助も家の助けとなっていたのか。
しかし、それもこれも、結が結として盛岡にいればこその話だ。
「結」
「なんだ?」
晴れ晴れと結は微笑んだ。弁天様のようだと思った。きっと、己の意思に基づいて笑う女が美しく見えるのは、女神のように貴いものを持っているからだろう。
おれはその笑顔から光を消しておかなければならなかった。
親父様に言われたんだ。連れて帰れ、と。
もう、いっそそう打ち明けてしまえばよかったんだ。
そうすれば結だって、親父様の気持ちを考えて帰る気にもなったかもしれない。
でも、おれはそれきり口を噤んだ。
おれはまた、結を無事に盛岡に戻すことよりも自分の感情を優先したのだ。
「後悔しないか?」
どうにか押し出せた言葉は、まるで己の決断に免罪符を求めているようだった。
「しない」
明確に結は言い切った。
「お前と離れ離れになってしまうことの方が、私には耐えられないよ」
もし、ここに明るい蝋燭が何本も灯っていれば、結の少しはにかんだ表情を見ることができたのかもしれない。それでも、おれにはその言葉だけで十分だった。いや、十分すぎるほどだった。たとえそれが己の言葉を守ろうとしているが故のことであったとしても。
翌朝、おれたちは具足を脱ぎ百姓や商人の格好で旅支度を整え、焼けた大館から北に向かった。伊藤様は共に行こうとは言わなかった。
「おのおの、箱館にて会おう」
これだけだった。
集まったのはせいぜい、五、六人。いや、七、八人か。どちらかというと伊藤様の言葉の裏が読めず逃げ損ねた者が多かったように見受けられる。だからこそ、伊藤様は再びの解散を告げたのかもしれない。もちろん、銃剣を背負った浪士の集団が、ろくに関所を越える手段も持たずに蝦夷に渡ろうとする方が土台無理な話だったのであろうが。
銃と剣をぼろ布で包んで背負い、甲冑を荷物に込めておれと結は北へ向かった。それこそ憧れていた夫婦の設定で、結は久方ぶりに女装し、おれは二人分の荷物を担ぐことになったが苦でもなかった。もしかしたら、蝦夷へ渡り箱館は五稜郭で再び伊藤様の下に集うまでのこの半年間が一番幸せだったのかもしれない。幾度となくおれは結にやはり盛岡へ戻らないかと尋ねたが、結は幾度目かにはもうその問いには飽きたとばかりに口もきいてくれなくなったが、旅先で行き会う人たちとは楽し気に薬売りの妻役を演じていた。おれのことを夫と呼び、時におれの面目を立てていっぱしの妻のように振舞う。誰もおれたちのことを脱藩した杜陵隊の兵士だなどと疑う者はいない。いっそこのまま箱館など通り過ぎてどこか土地を開拓できるところにでも落ち着けないだろうか。安易にそう思い始めたのは、冬の寒さを何とか八戸藩の領内でやり過ごし、暦の上では春の兆しを探し始める頃だった。もう何もかも忘れられるのではないか、そう思っていたのに、おれたちは蝦夷地から逃げて来たという旅の行商から、榎本釜次郎が年末、ついに箱館を占領したと聞いてしまったのだった。しかも、浪士となった直助が伝手を借りて向かったという剣術道場に通う者たちがその旧幕府軍に加わっていると聞いたものだから、がぜん結は蝦夷へ早く渡らねばと気忙しくなってしまったのだ。
居ても立っても居られなくなった結に引き連れられて、おれたちは頼み込んで大間から漁船で津軽海峡を渡った。
暦の上では春とはいえ、北国の春は遅い。荒れる海、冷たい飛沫をかぶりながら命からがらの上陸だった。にもかかわらず、結はそんなことはものともせず、早く兄上に会いたいとそればかり。おれはなぜ自分があんな男のことばかり慕う女についてきてしまったのかとため息が増えるようになったが、それも箱館につくまでのことで、まだ幸せと言えたのかもしれない。
箱館についたのは桜が咲き始めた弥生半ばのこと。奇しくも新政府軍の艦隊が宮古湾に到着したとの報を受け、旧幕府軍は海軍奉行と土方歳三ら新選組をはじめとする数隊に軍艦三隻を預けて宮古へ向かわせる数日前のことだった。
伊藤様はすでに箱館に入り、現地で集めた盛岡ゆかりの者たちを引きつれて杜陵隊の帰参を榎本釜次郎に願い出ていた。残念ながら蝦夷地警護兵を置くために箱館山の麓に築かれていた盛岡藩の陣屋は、昨年の秋口に盛岡から帰還命令が出た際に焼かれてしまい、伊藤様達新杜陵隊の面々は五稜郭近くの盛岡藩ゆかりの者の屋敷を借り上げて、そこで日々訓練に励んでいた。
伊藤様は、人づてに尋ねて屋敷にたどり着いた結とおれを見るなり、驚いた顔で迎え入れた。
「まさか、本当に来てくれるとは」
伊藤様の背後には、伊藤様と行動を共にしていたのであろう船越様や松岡様、高倉様など懐かしい顔ぶれが揃っていた。が、奥の庭で修練に励むのはほとんどが知らない顔ばかりだった。服装も統一が取れてはいない。ざっと見る限り、百姓から少し血色がいいのは商人の次男三男と言ったところだろう。士族ではなくとも、これを機に一旗揚げたいという連中が集まっているに違いない。あとで聞いたところによると、伊藤様は箱館に至るまでの道すがら、七戸、八戸、松前藩の領内もめぐりながら、盛岡にゆかりの者たちにつぶさに隊士募集の声をかけ、なんとか結成当時と同じ二個小隊程度となる七十名ほどを集め、二月に帰参したのだという。
その中にあって、伊藤様ははじめこそ旧交あるおれたちを見て喜色を浮かべたものの、すぐに口元を引き結び、顔を歪め、声を潜めて結に耳元で囁いた。
「なぜ来た」
それはもう、親心のようなものだったのだろう。
結は一間を置いて、こう答えた。
「杜陵隊に任じられましたからには、最後までお務めを果たすのが責務と心得ております」
結が首を垂れると、ここに来る直前におれに剃らせた月代が、白々とお天道様の光を受けて伊藤様を照らし返した。結は着ていた物も女物の着物を捨て、男物の着物に着替えている。いい加減総髪の男も増えてきたというのに、おれの抵抗もむなしく結はけじめだと言い、月代をおれに剃らせたのだ。
同様におれも半歩後ろで首を垂れる。
伊藤様は困ったようにおれを見ていた。
おれは小さく首を振る。
伊藤様は諦めたのか、他の者たちに憚ったのか朗々と言った。
「それは、大義であった」
それからおれたちは新しい杜陵隊に組み込まれ、五稜郭からそう遠くない函館方面の警護にあたりながら、短期間ながらも歩兵の修練に加わり、銃の試し打ちをして鈍った腕を取り戻していった。が、それも本当に数日のことだった。
明治二年三月二十六日夕刻。宮古に派兵されていた海軍奉行と土方歳三らが大敗して箱館湾に帰還してきた。
俄かに戦況は危うくなっていた。五稜郭周辺には不穏な空気が流れ出し、誰もが戦が目前に控えていることを感じて、寒さではなく緊迫感に肌がピリピリと痛むようになった。
結は五稜郭に到着するなり、兄直助を探そうとしたようだが、己と似た者を見たという人はどこにもおらず、直助が向かったという剣術道場に通っていた者たちにも会えないままだった。
三月末。宮古での海戦の後、青森港に停泊していた新政府軍がいよいよ津軽海峡を越えてくるとの報に、上層部は迎撃作戦を立てるため、日夜五稜郭で会議に明け暮れていた。伊藤様も夜遅くまで会議に参加し、疲れた様子で夜な夜な帰ってくる。何か面白くない条件でも突き付けられているかのようだ。おれたち平の隊員は、ある者は粋がって戦に早く行きたいと銃をぶっぱなし、ある者は脱走の算段を立てはじめ、またある者はとうに姿を消していた。
そんな中であっても、結は逃げようなどとは決して言わなかった。黙々と素振りをこなし、小銃の手入れをし、淡々と来るべき日に向けて準備を進めていた。とはいえ、お世辞にも十分な物資があったとは言い難かった。今や戦いの主力をなす小銃とて、大館から鍬と言えるように布でくるんで背中に背負って持ってきたが、新しい杜陵隊では数が足りないからと持ってきたものを使うように言われた。飯とて満足に食べられているとはお世辞にも言えない。雑穀と雑草とを薄く湯がいたようなもので糊口をしのぐありさまだ。とにもかくにも藩という後ろ盾を持たない杜陵隊にとって、これから始まる戦のことよりも目の前の日々一日をどうやり過ごしていくかということの方が喫緊の課題となってしまっていた。食が満足に得られなければ怒りっぽくなり、くだらない喧嘩も絶えないようになる。方々で聞こえる喧嘩の怒鳴り声は、他の部隊も同じような状態だったことを表しているだろう。旧幕府軍が中心となっている上層部とて、これまで積み重なり膨れ上がった借金でどこからも援助を渋られるようになり、かくなる上は現地に関所を設けて徴税したり、縁日などの場所代を徴収したり、果ては自ら銭を鋳造し、悪銭を出回らせるありさま。おれたちがここに渡る前、蝦夷から逃げてきたという商人が言っていたように、元から住んで安定した生活を送っていた人々にしてみれば、大変な迷惑をこうむっていると言えるだろう。盛岡藩ゆかりの杜陵隊は、もはや脱藩した浪士だけでなく、百姓や商人やらからも人を集めて新しく組織しなおしており、盛岡藩からの援助が受けられるわけでもなく、それこそ伊藤様達の伝手で何とかここまで過ごしてきた次第だった。
四月に入り、ようやく新政府軍の上陸及び進軍阻止のための作戦が固まり、おれたち杜陵隊は二つに分けられることとなり、一個小隊三十人ほどは砲兵隊とともに濁川と矢不来(やぎない)に派兵され、残りの半分は五稜郭の守りとして残されることになった。おれと結は、主に砲台や胸壁、塹壕を築くための土木工作員と小銃部隊を兼ねて矢不来に派兵されることになった。矢不来はここから箱館湾を囲むように弧を描いた海岸沿いに西へ向かい少しばかり南下した先にあり、地理的に箱館へ向かう前に敵を抑えられる最後の砦ともいえる戦略上の要所だ。その先には木古内、福島と続き、渡島半島最南端の松前と続く。その昔、盛岡藩が攘夷のための砲台を築き守ってきた場所で、盛岡藩ゆかりの場所であることも手伝ってこの場所に決まったのだろう。それもこれも、単に歴史に忖度したわけではなく、伝手を利用して補給や陣を確保しろということだ。とはいえ、十五年前には幕府の直轄地となり、盛岡藩の影響力などたかが知れているというのに。
新政府軍の軍艦が着岸するのは、渡島半島西部の江差と乙部の海岸付近との報せがすでに入っている。そこから五稜郭を目指し、中山峠を越えて東進してくる部隊に対するために、あの新選組の土方歳三率いる衝鋒隊と伝習隊の計三百名が二股口へと向かった。同じく江刺・乙部の海岸から一度南に一度下ってから東進し木古内を経由して箱館を目指す新政府軍の部隊に対しては、木古内に陸軍奉行の大鳥様率いる伝習隊・額兵隊が、渡島半島の南端である松前まで一気に南下した上で福島、木古内と北上してくる部隊に対しては、元から松前を守備していた遊撃隊と陸軍隊の五百名が配置された。
ここから、長い長い一か月が始まる
一番早くに新政府軍とぶつかったのは土方歳三率いる衝鋒隊と伝習隊が向かった二股口だった。四月十日のこと。そして、翌日には渡島半島南端の松前で新政府軍を常駐していた遊撃隊や陸軍隊が迎え撃った。松前の兵たちは善戦し、新政府軍を一度は江差まで追い返したらしいが、新政府軍が木古内にも進行中との報を受けて撤退を決め、さらに追い打ちをかけるように海岸からの艦砲射撃によりあえなく松前城を放棄し、福島、木古内と北上しながら敗走する羽目になった。その木古内で新政府軍と旧幕府軍が小競り合いを始めたのは四月十二日。一週間ほど小競り合いと睨み合いを繰り返し、四月十四日には一度大鳥様の軍が新政府を撃退したとの報がもたらされたが、大鳥様はその後一度五稜郭に作戦会議のために戻っている。その隙を衝くように四月二十日未明、ついに新政府軍は総攻撃を開始した。艦砲射撃の轟く音は、矢不来でもひどく大きく聞こえた。小銃を抱え、林の斜面に拵えた胸壁にもたれて濡れた下草の上に座ったまま浅い眠りをむさぼっていたおれたちは、その音に驚いて一発で目が覚め、体中の肌がビリビリと緊張していくのが分かった。夜明けにはまだ早いはずの薄暗いうちから黒い鳥たちが飛び立っていく。
「結」
「起きている」
目を開き、じっと膝を見つめる結の目がやけに白く見えた。
肌寒さに肘を抱きかかえてこすり合わせる。体は毎日の塹壕や胸壁づくりのためにだいぶ鈍く重くなっていた。加えて、毎日野宿では疲れも取れず、いつ襲撃を受けるかという緊張感で眠りも浅くなる。それでも、結の目にはまだ確固とした光が宿っていた。
五稜郭では結局直助には会えなかった。直助にゆかりの者にも会うことはできなかった。それでも、結は希望を見失わず前を見据えて生きているように見える。
「怖くないのか?」
周りには聞こえないようにそっと囁く。
南の方から轟いてくる砲弾の音は、今までとは段違いの数が投入されていることを物語っていた。
「お前は怖いのか?」
ふっと笑いさえも含んだ声で結は尋ね返す。
おれはすっと呟く。
「怖い」
低く、腹の底からするりと出た言葉に、結はおれを振り返った。そして、笑った。
「大丈夫だ。私が守ってやる」
とんと小銃の銃身をたたいて、自信満々に結は微笑む。
そんなつもりじゃない、そう言いかけて、おれは口を噤む。
濃紺一色だった空がうっすらと色褪せていく。闇に慣れた目が、結の腕に鳥肌を見つける。指先は、小刻みに震えていた。
おれは、結の肩を抱き寄せた。
薄暗く、仲間たちはまだ号令を待って待機している。
「逃げよう。今ならまだ間に合う」
再び伸びてきた月代の上に手を置き、おれは結に囁く。が、結は首を振る。
「そうだろうか。もうどこにも行きようはないんじゃないだろうか」
珍しく諦めたような結の声に、おれはもう一度結の顔を少し離れたところから覗き込む。
「そんなことはない。いくらでも道は」
「なぁ、聞いたか?」
結は頭の上のおれの手に自分の冷えた手を重ね、霧が立ち込める木立の向こうを見つめた。まもなく日が出れば、木立の合間から海も見えるはずだ。盛岡では見ることも叶わなかった海が、ここにはいつもこんなにも近くにある。
「天神様があるんだって」
「天神さま?」
「そう。あっちの海辺の近くの森に天神様のお社があるんだって。村の人が言っていた」
「へぇ、懐かしいな」
盛岡にもすぐ近くに天神様のお社が小高い丘の上に立っていた。
「撫で牛もいるんだって」
「昔、三人で撫でに行ったな」
お社までの急で長い石段を息を切らしながら駆け上がるおれと結を後目に、直助はさらっと山の斜面を登って境内に横から入り込み、撫で牛を撫でていた。あの頃から、とうに直助は型にはまらない奴だった。
「昨日、竹矢来を作るために竹をもらいに行っただろう?」
「ああ、気のいい人だったな」
昔、盛岡藩がここで砲台を管理していたことを知っている昔からの名主さんだった。
「盛岡訛が懐かしいって言われたよ」
結は少し気の抜けたような笑いを漏らした。
「そんなに訛っているかな、私たち」
おれは少し考えて首を傾げる。
「仙台や会津から来た人たちとはまた違うよな」
五稜郭を歩いていた時、訓練中の隊からはそれぞれのお国訛りが祭りのように響き渡っていた。
「ここの人たちも、また違った訛を持っている。フランスから来ているという軍人がいただろう? ブリュネとかいう。あいつらはまたもう全くもって違う言葉を話している」
「榎本様や大鳥様はイギリスの言葉を解するのだったか」
「フランスの言葉とイギリスの言葉は、語源は同じらしい。ラテン語というのが元になっているのだそうだ。聞けば雰囲気も全然違うがな。なぁ、私たちもこうやって戦い続けていればいつか、この蝦夷が一つの国になって、盛岡の言葉も仙台も会津も、江戸も何もかもがごっちゃになって新しい言葉が生まれていくんだろうか。ここの矢不来は元はアイヌの言葉でやんけないと呼んでいたんだそうだ。船から荷物を上げる場所。それが私たちの言葉と混ざったり、アイヌの矢が届かない場所だという伝説と混じりあってやぎないになった」
少しずつあたりは夜の闇を払い、青黒い景色が白みを帯びていく。
結は微笑んでいた。
「私はね、天神様にお参りした時、兄上様のように勉強がしてみたいとお祈りしたんだ。この世にはたくさんの不思議が毎日日常の中に宿っているだろう? その一つ一つが輝いていて、知りたい、知ってくれと、呼応しているように聞こえたんだ。私が一番知りたかったのはね、言葉だよ。鉈屋町の商人たちの言葉だって、盛岡の言葉とはだいぶ違うだろう。何とか意味は通じ合っているが、どうしてこんなにも違うものなのかと思ったものだよ」
初めて聞く結の願い事に、おれは驚きを隠せないでいた。
「あいつは知っていたのか?」
こくりと結は頷いた。
「兄上様はいつも教本を仕舞わずにその辺の座敷に放り投げていただろう? 私はこっそりその本をめくって見ていたんだ。でもある日、兄上様に見つかって、ニヤリと笑われた」
「笑われた?」
「やっぱり好きだと思った、と言われた。兄上様が教本を失くしたことがあったのを覚えているか?」
少し首をひねると、そういえば十を過ぎたあたりの頃、直助が塾に教本も持たずに来てこっぴどく叱られていたことがあったのを思い出した。
「あれは、私に写本させるためにしばらく紛失したことにしていたのだ」
思わず結の頭の上にのせていた手がずり落ち、おれは唖然と少し口を開けて結を見つめた。
「間の抜けた顔になっているぞ、笙一郎」
「それは、そうだろう」
結は蝶よ花よと育てられた士族の娘だったはずだ。女子として最低限の教養は与えられても、男と同じ学は与えられない。女にしては鼻っ柱が強いところはあっても、それに不満もなく染まっているように、おれには見えたのだ。直助になるから月代を剃ってくれ、と言われるまでは。
「剣術も兄上様に習った。胴着は着られなかったから素振りや寸止めでの対戦だけだったが、竹刀を持つのは楽しくてな。それでも、手に胼胝ができたらばれるから、あんまり練習するなと叱られた」
肩をすくめ、懐かしそうに結は笑った。
「天神様の森で、兄上様にはたくさんのことを教えてもらったよ」
道理で、と。おれはその時ようやく、結が、皆が鼻つまみ者とさげすむ直助を敬愛しているのかが分かったのだった。
「常々、あいつは弟が欲しいと言っていた。それが、いつからかぱたりとそんなことも口にしなくなった。ここに弟ができていたからか」
おれはため息交じりにもう一度結の頭に手をのせた。
「私は兄上様にはなれないけれど、兄上様が行きたかったもう一つの道を行くことはできる。だから、兄上様に会ったら、この目で見て聞いたことをお話しするのだ」
「あいつがこの道を行きたかったって?」
「楢山様が帰ってらっしゃるもうずっと前に、兄上様は京から帰ってきた楢山様と同じことを言っていたよ。このままでは毎日の生活そのものが変わってしまう。特に武士は、存在意義そのものがなくなってしまう。そうしたら、私たち武士は食うに困り、死に絶えるしかなくなってしまう、と」
ふらふらと風来坊だったあいつが、まさかそんなことを生真面目に誰かに語っているとは思わなかった。
「でも、この太平の世も、本当はもう終いにしなければいけないと言っていた。異国の船が現れて、今や金子の調達も練兵方式も銃も外国頼みだ。徳川のままでは日本は散り散りに分けられて植民地にされてしまうだろう、と」
「まさか、あいつは……いや、だって佐幕派の剣術道場へ行くと言って出て行ったじゃないか」
「兄上様の本心はね、きっと後の方。だから私は、父や母を守りたいと兄上様に言ったんだ。そしたら、兄上様は『わかった。じゃあ俺は別の道を行く』って」
「別の道って、家を継ぐとかそういうことではなく……?」
「おそらく」
朝の白い光を取り戻した世界は、いまだ海からの潮風で発生した白い霧に濃く覆われていた。
「会えるのではないかと思って。ここまでくれば、兄上様に会えるのではないかと思って」
「でも、五稜郭でも探していただろう?」
「あの兄上様のことだもの。本当に佐幕派の剣術道場へ行っていたかもしれないでしょう?」
結はくすくすと小さな笑いを漏らす。その顔は、泥と煤にまみれながらもまだあどけない少女の片鱗を残していた。
一方で、おれの表情は曇る一方だった。
別の道を行くと直助が言ったなら、直助は新政府側にいる。ここまで来ているとは思えないが、下手をすれば一兵卒同士、兄妹で殺し合いになる。
「そんな顔をするな。大丈夫。きっと私たちはもう二度と見えることはないから」
なぜか確信したように、結は言った。
地を鳴らすような艦砲射撃の音は低く鳴り響き続けている。
木古内での大敗に旧幕府軍は一度福島まで北上。援軍を率いて慌てて戻ってきた大鳥様が再び木古内に入り、一戦を交え木古内奪還を果たすも、乙部や江差の海岸からの直通路と松前からの北上してきた道との交差地点にある木古内はこれ以上限られた人数で守るに不利と考え、地形的に有利と判断した矢不来で決戦を挑むべく木古内を放棄して撤退してきたのは四月も末のこと。大鳥様ははじめの台場より少し南に新たな台場を築くようおれたちに命じ、出来上がった台場に大砲を据え、陣を整え、新政府軍を待ち受けた。
地形的に有利というのは、海にせり出す斜面のきつい山を背に、海沿いの細い道を新政府軍が軍行してきたところを銃撃と大砲で一網打尽にするつもりだったのだろう。聞けば新政府軍の兵士はこちらの優に三倍はいるという。しかも次から次へと津軽を経て兵士も物資も送られてきている。対するこちら側は、人も物資も限られている。できるだけ効率的に戦を進めたいというのは、わからないでもない。だが、一つだけ視点が抜け落ちていたとしたら、ここは海からとても近い場所だったということだ。箱館湾を経て、向かい側には四角い箱館山と津軽へと突き出した立待岬が見える。なんでも箱館山麓の弁天砲台とこの矢不来の砲台で箱館湾に侵入しようとしてきた異国を挟み撃ちしようというのが当初の建設目的だったようだが、ここに残っているのは旧式の大砲。大鳥様率いる軍は新しい砲筒も持ってきているが、急拵えの陣でどこまで耐え抜けるかは未知数であり、先日の木古内方面から轟き聞こえてきた艦砲射撃の音の恐ろしさを大鳥様はまだ聞いていなかったのかもしれない。
四月二十九日。
夜明け前。まだ薄暗さの残る山の中で、元の台場より南西に作ったばかりの塹壕に入ったおれたちは胸壁の上に銃を乗せ、彰義隊の兵士たちの守りも切り抜けて海沿いの道を突っ切ろうとした新政府軍の兵士たちに向けて一斉に銃を放った。
闇の中、銃が火を噴いた明かりは山の上からも、海からも、漁火のごとく赤く揺らめいて見えたことだろう。
海沿いの細い道を行こうとした新政府軍の大隊をそのまま通すことはできなかった。たとえそれが海に布陣する艦隊や山の上から襲撃を狙っていた別動隊に場所を教えるための囮だと分かっていたとしても、黙って通すにはあまりにも人数が多すぎた。何より、この矢不来を抜けられれば五稜郭まで砦としての役目を果たせる場所がほぼなくなってしまう。二股口ではまだ土方歳三が新政府軍を撃退し続けているというが、彼らに撤退と救援を乞うにはあまりにも口実が情けなく、伝令を飛ばしたとしても無事にたどり着けるか、間に合うかはわからない。
この場所で、この薄暗い時間に発砲するしかなかったのは、最早どうしようもないことだったのだ。
最初の銃撃に、海岸沿いの道を行く兵士たちが次々と倒れていく。おれたちは無我夢中で次の弾を込め、また引き金を引いた。その頭上に設えられた砲台からは耳の奥底を揺るがすような重低音とともに砲弾が投げ込まれ、海岸沿いの細い道を行こうとする兵士たちの目の前で弾けて、阿鼻叫喚の渦を巻き起こした。が、やがて海沿いの道から濡れた下草の崖路をよじ登りだす兵士たちが現れた。こちら側の場所を知って、下から攻め上がろうというのだ。同時に、山の上の方からも鬨の声が上がり、駆け下りてくる足音とともに銃声が鳴り響いた。
半個小隊に分けられた杜陵隊を率いる松岡様は、「放て、放て」と力強く繰り返す。おれたちはその声に鼓舞されながら、海沿いの一体に向けて銃を放つ。が、不意に間近で鈍い音が響いたかと思うと、隣で銃を構えていた一人がばたりと銃身に重なるように上体を倒した。後頭部に開いた小さな穴からは飛沫をあげて脳漿と血が流れ出す。
ぐっと歯を食いしばり、おれは結とともに後ろの土壁に背と後頭部とをぴたりとくつけた。気づくのが遅れた奴らがどんどん上から放たれる銃弾の餌食になっていく。結は果敢にも海沿いの方ではなく、その上の方に銃を放った。木立の陰に隠れて見えない中、黒い影が一つ倒れたのが見える。それに勢いづけられたのか、山中を守る伝習隊や遊撃隊の歩兵たちがようやく奴らに斬りかかっていく。俄かに銃声や刃のぶつかり合う甲高い音に人生を凝縮したような悲鳴や怒号が入り混じる大混戦となる。
「逃げるな! 怯むな! 撃て! 放て!」
松岡様の声がひたすら鼓舞を続ける。
結が話していた天神森のあたりでは、布陣した衝鋒隊と会津遊撃隊の人々が勇敢に森から躍り出て、海沿いの狭い道を来る新政府軍の兵士たちの横腹を襲撃して足止めするはずだったが、あちらもとうに大混戦となり、逃げ伸びた兵士たちが今度はこちらに向かって登ってきている。おれはそいつらに向けて銃を放つ。顔は薄暗くて見えなかった。いや、もう垢と土と煤で真っ黒で、明るくなり始めた朝の光に白い眼ばかりがやけにぎらぎらと獰猛な光を宿して輝いていた。目が合っても、いや、目が合ったからこそ、倒さなければならない。殺さなければならない。弾を込めて引き金を引く。それだけでつい今しがたまで生きていた人間がただの肉の塊になる。硝煙と血肉の臭いに、ついさっきまで霧を纏いながら静謐さを保っていた森の香りはあっという間に掻き消され、湿った下草と土が赤く染まりながら口を開けているかのような地獄と化す。箱館山麓の弁天砲台と対をなす矢不来の砲台の周りや富川へと抜ける海沿いの道を壁となって守護する額兵隊たちがいるあたりからは、歩兵たちを動かすための規則的な太鼓の音がやけに音楽的で滑稽に響き渡ってきていた。
それでも、陸地戦では大鳥様の見立て通り、おれたちは少ない人数ながらなかなかに奮戦したのだ。次から次へと追加されてくる新政府軍の兵士たちも、この地形の利に落とし込んでしまえば蟻の子も同じ。山中をかいくぐって上から突撃してくる兵士たちを確実に排除することができれば、この矢不来の防衛線は守りきることができたはずだった。
が、陸上での小さな人間たちの衝突など、湾岸に寄り集まった艦隊からすれば、それこそ蟻のようなものだった。薄暗い中での発砲音と赤い閃光で小銃隊と砲兵隊の位置をそれぞれ把握し、夜闇が明けて白々と朝の光が霧の幕を取り去っていった頃合いを狙って、あの恐ろしい重低音が反撃の狼煙を上げた。
その音に、誰もがびくりと肩を震わせ、一瞬動きを止めた。
おれは咄嗟に結の頭を押さえて胸壁の下へと身を沈ませる。
間近で聞く砲筒が火を噴く音は、体中をばらばらにしかねないほどの威圧的な音を放ち、大きさに物を言わせた砲弾が敵味方関係なく投下され、築いた胸壁も、わざわざ地元の人に竹を切り出してもらって作った竹矢来も、塹壕も砲台の台場も何もかもを一瞬にして押しつぶし、爆発して山の黒土を巻き上げながら煙と炎とともに残骸を撒き散らした。
一瞬にして空気が変わった。
今まで血気盛んに銃に弾を込めては引き金を引いてきたというのに、今は一気に血の気が引いて正気に返ったような気分だ。
これは、まずい。
殺される。
死んでしまう。
崖下の海沿いの街道からは新政府軍の兵士たちの喜びに満ちた歓声が聞こえる。あちらは一気に血の気が増えたようだ。であれば、なおさら悪い。山の上で乱戦となっている部隊からも一方的な喜びの声が聞こえてくる。
死の予感を感じたのは、おれだけではなかった。
誰ともなしに周りの様子を伺いつつ、それでいて目が合わないようにうまくそらしあいながら、おれたちはそろりそろりと退路を探す。その合間に、今度はここよりも海に近い古い台場の方に、二砲連続で砲弾が投下されたのだった。吹き上がる土の飛沫と、薙ぎ倒された木立は、ここからでも見ることができた。
一瞬にして戦意を喪失するほどの攻撃力。
おれは結の手を探り当て、しっかりと握った。
「何をする!」
鋭い叱責が飛んだが、おれは構わない。
「怯むな! 撃て! 放て! 逃げた者には帰る場所はないぞ!!」
松岡様の掠れて上ずった声が、現実を象徴している。
ここでこれ以上小銃を撃ったところで、もう新政府軍の兵士たちは軍艦からの砲撃との間合いを見てこの崖下に駆け上がってくるようなことはしなくなってしまっている。奴らは街道に一塊に密集して、対する額兵隊の壁にぐいぐいと風穴を開けてやろうと錐のように鋭利で粘り強い攻撃態勢に移っていたのだった。その横っ腹にいくらかでも小銃隊の弾で風穴を開けたいところだが、山中で新政府軍を押し返していたはずの味方も、次第次第に迎え撃つ高度が下がっていき、銃を構える胸壁回りも、砲台を置いた台場も海岸沿いからの攻撃にどんどん無造作に破壊される中では、とてももう秩序だった攻撃などできないのであった。
弱腰になり、混乱を極めた悲鳴がどこからか上がったかと思うと、悲鳴は周囲に伝染し、己の心を抑制しじりじりと踵で退路を探していた兵士たちも抑制心がこと切れ、わっと蜘蛛の子を散らしたように四方八方へと逃げだしはじめた。
「逃げるな! 戻れ! 攻撃を継続せよ!」
松岡様の怒鳴り声は、途中で降り落ちてきた砲弾の爆発音に掻き消された。
「退却だ! 杜陵隊、退却せよ!」
松岡様とは別の声――あれは船越様だろうか。焦りが滲むその声に、ようやく呪縛を解かれたようにおれたちは最後の踏みとどまろうという心を捨てる。
とはいえ、退却路は限られる。今海岸線沿いに降りていけば、砲弾と攻め上がってくる新政府軍の銃撃の餌食になる。となれば、この斜面を登ってより山深く潜り込むしかない。この鏡山の山中を横断する道沿いには伝習隊や遊撃隊の人たちが配備されているが、その辺りからも新政府軍と激突している声が聞こえてくるから、逃げるならそこまで高くも上がれない。あとはとにかく、この森を北へ抜けるだけだ。
松岡様もいち早くそう判断し、すでにおれたちを率いるべく「こっちだ!」と叫びながら山の斜面を北へ向かいつつ駆け上がっている。
「結、行こう」
手を引くと、結は悔しそうに唇をかみしめて海岸の方を見た。
沖からは再び砲弾が発射されるドォンという重低音が響き渡った。砲弾は、まっすぐこちらに向かってくる。まるで軌道でも見えてくるかのようにゆっくりと、それは近づいてくる。
「笙一郎!」
先にはっと我に返ったのは結の方だった。結はおれに覆いかぶさるように体当たりで押し倒してきた。おれは彼女を抱きとめ、そのまま山の湿った土の上に転がる。爆音は至極近距離で弾けた。吹き付けてくる土砂に目をつぶる。
「っぐっ」
胸元から聞こえてきた結の呻き声に、おれは自分が生き延びたことを知り、目を開ける。
「結?」
「足」
短く、苦しそうに結は言った。
斜面の下の方に投げ出された結の足には、倒れた木がどっかと乗り上げていた。
おれは結の下から這い出し、結の上に横たわる大木に手をかけたが、とても持ち上げられそうにない。人手を頼もうにも、もう点でバラバラに皆逃げており、振り返るものもありはしない。それどころか、爆発の直撃を受けた兵士たちが焼けただれた血肉を広げながら呻き、あるいは死に絶えている。その中には松岡様らしき人の姿も見えた。
おれは歯を食いしばり、結の両手を引っ張って無理やりに木の下から引きずり出した。
引っ張ったおれも、引っ張り出された結も、互いにぜーぜーと肩で息をしながら、次に来るであろう死の恐怖に追い立てられるように逃げ出そうとした。が、結は大木の下敷きになっていた血まみれの足に手を当てると無言になった。
「痛むか?」
「……先に行け」
「それはできない」
結の下にしゃがみ込み、足に触れる。ぼっくりと脛のあたりが丸く腫れあがっていた。
「折れたのか?」
「……感覚がない。が、動かせる。大丈夫。大丈夫だ」
言い聞かせるように結は二度大丈夫と呟いた。
「大丈夫なものか。乗れ!」
おれは結に背を向け、おぶさるように促す。が、結は頑なに首を振る。
「お前だけでも先に逃げろ」
「できると思うのか? このおれに」
「命令だ。逃げろ!」
縁ごと断ち切ろうとする結の声に、おれはこの期に及んでふっと口元を綻ばせてしまった。
「助けてくれてありがとう。だから、一緒に生き延びよう。そうでなければ、おれの死に場所はお前の側だ」
下唇を噛みしめたまま、結は顔を上げた。
何かあったら自分が守るとおれに言ったそばから、結は約束を守った。ぼんやりと突っ立って砲弾が飛んでくるのを見ていたおれを庇ってくれた。大した女だ。その彼女を一人で置いていくなど、初めから論外。そんなことをするくらいなら、わざわざ津軽海峡を越えてこんな北の山の中にまで来たりはしない。
「乗れ」
もう一度言うと、結はおずおずとおれの背中に身を乗せてきた。結の膝に下から腕を通し、おれは立ち上がる。
「すまない」
掠れた結の声に、おれは首を振り、滑りやすい下草の生えた山の斜面を走り出す。とうに仲間たちはどこぞの木立の中に紛れてしまって姿も見えなければ声も聞こえない。それでも、勘を頼りに走りつづける。
結は、軽かった。
女性なのだから男よりも軽いのはわかるとしても、それ以上に、まるで中身のない米俵を背負っているかのように気味の悪い軽さだった。空の米俵を具足で覆い、腰に差した大刀と脇差、背中に背負った小銃の重さばかりが不釣り合いに強調されている。
確かに、盛岡の屋敷にいた時に比べればこの半年以上、まともな飯にありつけた覚えはない。最近など、汁にその辺の野草をちぎって投げ入れ、一つまみの塩を入れただけの雑炊に僅かばかりの雑穀を握り固めた拳程度のおにぎりだった。うかつに食べ物のことばかり考えてしまうと、急に腹が空いてきそうなものだが、いまだ胃は先ほどの砲撃の恐怖に縮み上がり、石にでもなってしまったようだ。
「笙一郎、そこの木の陰に隠れろ」
ふと結の囁きに現実に戻り、言われたとおり、おれは木陰に身を寄せる。結は、背中に背負っていた小銃を取り出し、銃弾を装填し、これから行こうとしていた先に向けて発砲した。弾は木立の合間を抜けて目標に見事当たったらしい。断末魔の悲鳴がこだまする。と思いきや、向こうからも銃弾の嵐が吹き荒れた。結は臆することなく、次々と狙いを定めて撃ち倒していく。やがて、向こうの銃弾の雨が尽きたと思われる頃、おれに先に進むように促した。
「見事な腕前だな」
結に撃たれて木の根元に倒れた兵士たちを避けて進みながら、思わずおれは感嘆の声を漏らす。後ろからは、自信に満ちた声でも返ってくるかと思いきや、絶望をひしひしと感じているかのような声がポロリとおれの耳に飛び込んできた。
「弾がない」
結には珍しく、泣きそうな声だ。
「おれの分がまだある」
おれの銃と持ち替えるように促すが、結は首を振った。
「もらおう」
硬い声で言う。
「誰から?」
思わず聞き返したおれに、結は足元に転がっている死体に目を向け、するりとおれの背中から飛び降りた。よろけたところをおれの腕と銃身に支えられて何とか立ち、銃身を杖に転がっている兵士の前に跪き、手を合わせると遠慮なく死体をまさぐり銃弾入れを見つける。手元に転がっている銃と見比べ、銃弾入れごと拝借する。仕方なく、おれも何人か分を回収し、再び結をおぶって走り出す。
「そこの奴ら、待てィ」
海からの砲撃を避けて北へ向かいながら山を斜めに登って行ったせいだろう。今まで獣道とも言えないところを走ってきたのに、急に歩きやすそうな草が踏みしだかれた道に出た直後だった。背後から大音声が轟いた。
「しまった」
「笙一郎、走れ」
分かっている。言われるまでもない。おれはもう走り出している。走るおれの揺れる背中の上で、結は再び銃に弾を装填し、銃を構える。銃撃の音に、いくつかの悲鳴が混じる。同時に、向こうもこちらに向けて発砲してきていた。何弾かがおれたちの横を通り過ぎ、一発はおれのふくらはぎを掠めていった。じわりと滲む熱さにおれは歯を食いしばる。
「結、無事か?」
「無事だ」
そう言いながら、結はまた銃弾を放つ。
悲鳴はついてこないが、逃げ切るのには充分だった。
しかし、あとからあとから新政府軍の兵士たちが湧いてくるとなると、こちらの分はかなり悪い。後ろからくる兵士は結が背中から銃撃し、追いつかれないように距離をとることはできたが、前方に突然山の中から新政府軍の兵士たちが現れた時には、おれも気づくのが遅くなり、一斉に銃撃を浴びせかけられた。何とか木の陰に逃げ込むも、結が銃に弾を装填している間に、目の前に白刃が煌めく。
おれは大刀を抜き、目の前の白刃を払いのけた。払いのけられた兵士は勢い余って後ろにのけぞる。そこを結がおれの脇の陰から飛び出し、脇差を抜いて止めを刺す。
だが、刀を抜いて対峙していたのはその男だけではなかった。
「覚悟ォ!」
銘々に叫びながらこちらに打ちかかってくる。人数はざっと十人くらい。おれたちよりも体格に恵まれた男たちが大ぶりの刀を頭上に掲げて走ってくるのだ。おれは結を背中に庇うように隠し刀を構えたが、何が幸いするかは分からない、海からの砲弾が走りくる彼らの列に直撃した。爆音とはぜる土、倒れる大木。呆然とそれを見ていたおれの袖を結が引く。
「行こう」
今度は遠慮もなく背中によじ登ってきた結をおぶい、おれはまた走り出した。
山中、肝をつぶしたのは何度かしれない。仲間たちに合流しようとか、そんな理の通ったことはもう考えていなかった。ここを結を連れて逃げ切れればいい。その一心で、ひたすら山の中を駆け抜け、海沿いの道に出ないように山の裏に回り込みながら北上し続ける。途中、富川方面からこちらに向かってきた額兵隊の兵士に行き会い、危うく新政府軍の伏兵に殺されかけたところを助けられた。荒井様率いる額兵隊の一小隊は、濁川に駐留していた池田様率いるもう一つの杜陵隊の部隊が、村の西側から新政府軍の兵士の行軍に横から急襲しようとして出発したと聞いて、戦況の危うさから救出に向かうところなのだという。残念ながらもう一つの杜陵隊には行き会わなかったことを伝えると、荒井様は首を振った。
「先程、七、八人ほどの杜陵隊の隊士に出会ったが、やはりもう一つの杜陵隊とは出会わなかったと言っていた。これは、もはや探しても甲斐のないことかもしれぬな」
いくらか耳馴染みのする仙台訛で荒井様はおっしゃると、斥候を一人先に派遣し、おれたちには先に富川へ向かうよう励ましてくれた。大鳥様は富川の八幡宮でもう一度部隊を立て直すつもりだから、と。傷を負った者も船で五稜郭へも運んでくれよう、と。
ここで結の足には添え木が当てられ、きつく包帯で縛られた。
「感覚は?」
さっき、動かせるが間隔がない、と結は言っていた。時間が経って感覚が戻ってきたかと思ったが、結は黙って首を振った。
「だが、少しくらいなら自分の足で歩ける」
よろよろと小銃を杖に結は立ち上がる。
「無理をするな」
倒れかけた結を抱き留めると、結は身を固くして震えていた。
今頃になって恐怖でも襲ってきたのかと顔を覗き込むと、その逆で、強張った顔に現れていたのは怒気だった。
「情けない。こんなところで」
ダンっと杖にしていた小銃を足元に衝く。
もうやめよう。
そう何度口から出かかったか知れない。
結がここにいなければならない理由はどこにもない。富川に向かわなければならない理由も、このまま旧幕府軍の賊軍として誹られながら北へと敗走しなければならない理由など、どこにもないのだ。
少なくとも、おれにとっては。
おれは結の最大の理解者でありたいと願いつつ、最も理解しようとしなかったのかもしれない。
直助ごっこはもういいだろう。
命を文字通り危険にさらし、ついには怪我をし足の自由を失ってまで全うすることではない。
「直助なら、この先も進むと思うか?」
おれは結の耳に囁く。
結は一度硬く目を閉じ、唇を噛みしめた。
「あいつは賢いぞ。負け戦になど、絶対に出ない。自ら死にに行くような真似は、しない奴だ」
そこに命を懸けるほどの大義が見いだせた時以外は、だが。
ちゃらんぽらんに見えて、そういうところは外さない奴だ。まあ、ほとんどそういうところに遭遇したことはないが。だが、結のことになればあいつは命を懸ける。おれになどやれないと言った時同様、結のためならば誰であろうと本気で斬り殺しに来るだろう。例えばおれが、これ以上結を連れまわそうものなら、あいつなら化けてだっておれを殺しに来る。
そうだな。もうここが潮時だ。
死んだ敵兵の弾を漁ってまで生き延びなければならない死地に、今後もわざわざ出ていく必要などこれっぽちもない。
おれたちが向かう先は富川の八幡様じゃない。盛岡の八幡様だ。何としてでも結を家に帰さねば。親父様とも約束した。それを、結の言葉のせいにして反故にし続けてきたのは、おれの甘えだ。この人はおれとは身分が違う。しょせん釣り合うことなどない間柄なのだ。だから、彼女だけでも生きて返さなければならない。
おれは、結を抱き上げた。
「何をする!」
結は、なぜか恐怖に引き攣れた顔でおれを見た。おれはその顔を冷静に見下ろす。
「行きましょう」
歩き出す。
荒井様達額兵隊の人々に礼を言って頭を下げ、何食わぬ顔で富川への藪道を歩き出す。それに安心したのか、結は抵抗しなくなった。むしろ、腕が疲れるだろうと進んでおれの背中に負ぶわれた。
「富川の八幡宮は浜沿いにあると聞きます。先ほどのように船から一斉に射撃を受けたら、ひとたまりもないでしょうに」
「……そうだな」
「富川で持ちこたえられると思いますか?」
「……どうかな……」
次第に結の声は小さくなっていった。やがて、ずっしりと背中と腕に重みが加わるようになった。耳元には浅い寝息。
おれは、富川の八幡宮には行かなかった。
山道を歩き続け、富川を過ぎて海岸沿いに開けた大地が見えた時も降りようとは思わなかった。
どうしたら盛岡に戻れるか、思案を巡らせる。今すぐにでも南下して渡島半島から大間へと渡りたいところだったが、今は新政府軍が大挙してきているから今すぐには無理だ。それならば、北上して、しばらく身を隠していられる場所を見つけ、頃合いを見つけて宮古か八戸への船を見つけ、乗ることができれば帰れるかもしれない。
頃合い――すなわち、この戦争が終結した暁には。どちらが勝っているか、それはもう問題ではない。どちらでもいい。できるだけ早く終わってくれればいい。今のこの状況では、旧幕府軍が攻めやられるのは時間の問題だ。新政府軍は兵糧も、兵の数も、船の数も、全てにおいて旧幕府軍よりも優位になっている。旧幕府軍など、すでに袋小路に追い詰められた鼠も同然。かといって、猫を噛めるほどの余力も気概もすでになかろう。
戦火を嫌ってがら空きになった村の民家に入り込み、古ぼけた女物の着物と、男物の着物、そしていくばくかの残されていた食料らしきものを手に入れて、おれは山際のお稲荷様のお堂の中に逃げ込んだ。
なんだってやってやる。結を盛岡に帰すためなら、なんだって。
扉を閉めて、板間に結を寝かせる。板戸の隙間から夕の落ちかけた日差しがうっすらと入り込む。響きはじめる虫の音。すぐ近くを流れる沢のせせらぎだけが絶え間なく聞こえるだけの嘘のような静寂。ほっと一息ついてしまうと、気が抜けて何もできなくなってしまいそうだった。動けなくなる前に、せめて結の着ているものを替えなければなるまい。具足を脱がせ、脛当を解き、それらは先に御神体を備える台座の裏に隠す。ついでに自分の具足と脛当も解き、同じ場所に隠す。戻っても結は眠ったままだった。その寝息に安心しながら皮手袋を脱がせ、袴を解き、着物の帯を解く。鎖帷子の下に汗を吸ったさらしが胸元をきつく覆っている。そこには手を掛けず、先ほどの古ぼけた女物の着物を鎖帷子の上から着せかけ帯を締める。再び髪が生えかけた月代を隠すため、髷を解いて肩口で一つに結び頭に手拭いを巻きつける。そして、自分も丈の短い男物の着物に袖を通す。
一通り身を隠す手段を講じて一安心したのだろう。強烈な眠気が襲ってくる。それでも、最後の力を振り絞り、御神体の前に正座し、手を合わせる。
どうか、ここで一晩無事に夜を越させてください、と。
長居することはできないだろう。村の者が戻ってくる前には出ていかなければ、それはそれで酷い目に遭う。位置的には矢不来から山の中を北上してきたのだ。二股口までは出ていないにしても、近くまでは来ているだろう。さて、矢不来陥落の報を受ければ、二股口にいる土方歳三率いる軍も引き返さざるを得ないと判断するだろう。江差の海岸から山を越えてきた新政府軍を、いくら足止めしているからとはいえ、新政府軍がこのまま海岸沿いに五稜郭まで攻め上がれば、二股口にいたままでは前と後ろから挟み撃ちにされてしまう。今おれたちがいるこの場所だって、いつ新政府軍の兵士が来てもおかしくはないのだ。矢不来陥落の報は、すでにもたらされただろうか。ならばきっと、この先北上すれば引き返してくる土方様の軍に出会うことになるだろう。できれば、それは避けたいところだ。明日、このままここを出たとして、もし五稜郭へ帰還する土方様の軍に会ってしまっては結が大人しくおれについてきてくれるとは思えない。しかし、出発が遅くなってしまっても、いずれは新政府の軍が峠を越えてこの平原に降りてくるだろう。急がなければならない。そして、向かうならばやはり、北に向かうしかない。七飯の峠を越えて、あの山の向こうへと。
薄暗闇の中、死んだように眠る結を見る。髪が、足りない。いっそ、一度全て剃って比丘尼の振りでもさせようか。女子にとって、頭を剃ることは刑罰にも値するほどのこと。しかし、中途半端に月代が残っても、手拭いを外しているところを人にでも見られれば、面白がられて余計興味を引くだけだ。どうせなら、女子であることすら隠してしまえればいいのに。……いっそ、さっき男物の着物をもらって来ればよかっただろうか。おれの弟だと言い張れば、それで済んだのかもしれない。ならば、さっきまで来ていた着物と袴に戻せばよいか。いや、あの着物では武士だと言って歩いているようなものだ。かといって、このまま農民の着物を着ていても、関所があれば出ることはできない。山の深くを越えていくしかない。
ああ、海さえ渡ってこなければ。
「笙一郎、どこだ、ここは」
咎めるように低い声が、夢うつつを彷徨っていたおれの意識を引き戻した。
「神社のお宮の中だよ」
起き上がった結は、自分の着せられたものに暗闇の中で目を凝らしている。
「銃は? 刀は? 具足は?」
「台座の裏に」
結は足を痛めていることも忘れて立ち上がろうとし、呻きながら倒れた。
「腫れているから大人しくしていた方がいい」
「そういうわけにいくか。こんなところで……皆はどうした? 杜陵隊の皆は? 額兵隊の荒井様達は? 私は、私は……寝ていたのか……?」
横に倒れたまま、愕然としている結がいた。
「静かに。見つかったら厄介だ」
「笙一郎、貴様……!!」
いきり立つ結の口を掌で塞ぐ。結の頬は、思いの外熱かった。足の怪我で熱まで出していたのか。さっき手拭いを頭に巻いたときにはまだここまでではなかったというのに。これでは明朝発てるかも怪しい。できることならこの社の側に流れる小川で手拭いを浸してきてやりたいところだが、新月間近の夜闇の中とはいえ、下手に外に出るのは憚られる。
と、板戸の隙間からちらちらと明かりが見えた。
まさか、声を聴かれたかと思いつつ、結の口元を抑えたまま、結を押しながら台座の奥へと膝でいざる。ちらちらしていた明かりは、ガシャガシャと具足の草摺と佩楯が擦れあう音を立てながら階を上り、扉に手をかけた。おれは結を硬く抱きしめ、台座の裏に背を丸めて身を隠す。
「誰かいるのかッ」
パンっと勢いよく扉が開け放たれると、酒焼けした声が飛び込んできた。
小さく結が息を呑む。
おれはより一層強く結を抱きしめた。
手持ちの明かりに長く引き伸ばされた男の影がこちらにまで差し込んでくる。
男はずかずかと中に上がり込み、明かりをかざして左右を窺う。
「ふんッ、誰もいないのか」
捨て台詞に安堵しそうになった瞬間、男は何かに気づいたのか、明かりを揺らしながら台座の奥へと向かってきた。
背中が明かりに晒されるのが分かった。
おれは顔を上げなかった。結をきつく抱きしめたまま、背中から斬られる覚悟をした。
震えているとは思わなかった。矢不来の台場でも、そこから逃げる間も、気を抜けることはなく、恐ろしさしか感じなかった。その恐ろしさは、刀でも鉄砲でも叶わぬ場所から天誅のように落とされる雷への恐れでもあった。抵抗しようのない、運ばかりが頼りの戦場。今まで磨き上げてきた銃の技術も、剣技も、敵を討つどころか自分の身を守るためにさえ何も通用しない、怒り。しかし、今はもっと違う。命の残りが刹那刹那で切り刻まれている感覚だった。
刀なら台座の下にある。結を手放して結に刀を握らせるか。おれが手を伸ばしたら、結がやられてしまうかもしれない。
女なのに――そう、女だから、ここで一人生き残らせるわけにはいかない。生き残ったら、どんな目に遭わされるかわからない。それくらいなら、ここでおれが――
結を抱きしめていた腕がゆるりと解け、結の細いうなじに両手を掛けた。
男のかざす行燈の光に、驚きに満ちた結の目が見開かれている。その目に映るおれの顔は、悪鬼のごとく憔悴し、見られたものではなかった。だが、正気に返っている暇はなかった。指先に力を込める。早くしろ、と言い聞かせる。この男にここでひどい目に遭わされるくらいなら、ここで、おれが、早く――
「やめよ」
呆れた男の声が落ちてきた。
「女房を殺して己も死ぬ気か」
女房じゃない。この人はおれが仕えるべき人で……
男は背後でしばらく沈黙した後、それ以上何も言わずに引き返していった。ご丁寧にお社の扉も静かに閉めていく。
扉の板の隙間から明かりが見えなくなったのを確認し、おれの両手は結の首筋から滑り落ちていった。そして、床に落ちたと思った指先が、冷たい金属に触れた。
「結……?」
結は、台座の下から刀を引き寄せ、片手で鞘から刀身を少しばかり滑り出させていたのだ。白銀の刀身は、男の行灯にはさぞ凶悪に閃いたことだろう。しかし、それだけであの男が怯んで何も言わずに出ていくものだろうか。
否。
結はまだ虚空をじっと睨みつけていた。おれに首を絞められながら、おれたちを見下ろしてくる兵士の男をずっと睨みつけていたのだ。手元に刀をちらつかせて。
ならば、あの男とておれたちがただのこの辺の農民ではないと気付いたはずだ。脇差ならともかく、これほどの大刀を持つ農民がいるわけがない。いや、見逃した振りをして、あの行燈の火をこのお社に焚きつけるかもしれない。
はたと気づいておれは社の扉までいざり、銭を入れる隙間から目を凝らした。
暗闇の中、行灯の明かり一つがぶらぶらと遠ざかっていく。
思わずおれは、深く息を吐きだしながらその場にへたり込んだ。
そこに、後ろから結が腕で這いながら台座の後ろから出てきた。
「笙一郎」
名を呼ばれた後に、背後にガランと何かが放り出される音がして振り返ると、おれと結の間には、さっきの大刀が抜身の状態で横たわっていた。
「殺せ」
結の声は静かで、決意に満ち満ちていた。きっと、月明かり一つあれば、先ほど男を睨みつけていたように、いやそれよりも意志の強い結の目を見ることになったのかもしれない。
「私はお前の荷物になるだけだ。今、ようやくそれが分かった。足も挫き、歩くこともままならない上に、この身では、お前の足を引っ張るだけだ。だからもう、殺せ」
おれはぼんやりと結との間に横たわる大刀を見つめていた。
おれが、結を殺す。この刀で。
何かに誘われるように、すぅっと手が刀の柄に伸びる。
結は足が痛いだろうに、正座し、居住まいを正す。
武家の女らしく、凛と背筋を伸ばし、前を見据え、目を閉じる。
おれは刀を手に、立ち上がった。
結の首筋に狙いを定め、刀を振りかぶる。
だが、いつまでたってもおれはそれを振り下ろすことができなかった。
さっき男に見つかった時よりも激しく全身が震える。もはや痙攣と言ってもいいほどに、全身が結の死を拒んでいる。
「早くなさいませ、笙一郎様!」
声こそ小さかったものの、その叱咤はおれを逆に正気に返らせた。
おれは刀の柄をぐっと握りしめ、あらん限りの力を籠めると、そっと腕を下ろした。
「笙一郎様!」
目を開けた結が、静かに激怒している。
丁寧な言葉とは裏腹に、早く殺せと命じてくる。
それでもおれに殺す気がないと知ると、結は刀の刃に手を伸ばしてきた。
おれは慌てて刀を後ろに転がす。
なおも諦めず、結は膝でいざって刀に手を伸ばす。
その手を、床に膝をついたおれは掴み上げた。
何をする、とばかりに結はおれを睨み上げる。もしかしたら、さっきの男を睨みつけていた時よりも怒気が増していたかもしれない。
それでも、おれはちっとも怯まなかった。
「申し訳ございませんでした、結様」
腕を掴み上げたまま、おれは結に首を垂れた。
「貴女を殺そうとして、申し訳ございませんでした。しかし――私には、貴女を殺せません」
掴んだ手首が強張り、結が拳を握ったのだと分かる。
殴られる覚悟を決めたが、拳は飛んでこなかった。
嗚咽が、聞こえた。
まさか、と己の耳を疑ったが、二度目の呻く声に目を開けると、結はおれに握られた方とは別のもう片方の手で、目元を拭っていた。
唇を噛んで声を押し殺しながらも、止められずにしゃくりを上げながら結は泣いていた。
さっきまでどんなに怒気を剥き出しにされても怯む気がしなかったというのに、さすがにこれは堪えるものがあった。
結がおれの前で泣いたのは、物心つくや否やという頃に濡れた石畳の上ですっ転んで膝を擦りむいた時くらいだ。そんな結が、泣いている。
おれは、結の腕を掴んでいない方の手を、結の頬に伸ばした。
泣くな、という言葉の代わりに、とめどなく頬を流れ落ちてくる涙を拭う。それでも拭いきれなくなって、唇を寄せた。塩辛い涙を唇で掬い取る。涙の量は、余計に増えたようだった。額に額を当てる。じわりと熱さが移ってくるようだった。
「熱があります」
「……お前が泣かせたのよ」
「もう、早くお休みください。明朝には発たなければなりません」
「どこへ?」
「北へ」
短く言うと、結は小さくため息をついた。
「そう」
呟いて、またさめざめと泣きはじめた。
小さい子供が、駄々をこねるように。
おれはその涙を、親指で拭い取る。
「もう泣かないでください」
「……お前のせいよ」
「それは……殺そうとして……殺せなくて申し訳ないと……」
詫びの言葉もろくに見つけられないうちに、結はわぁぁと喚いて手首を掴んでいたおれの手を振りほどき、おれの胸に飛び込んできた。ぎゅっと両腕で背中ごと抱きしめられ、結の頬を流れ落ちた涙が薄い着物にあっという間に滲んでくる。
「結……」
しがみつくように結はおれを抱きしめる腕に力を込める。
「兄上様だった」
胸の中で、結がぽつりと言った。
「え……?」
「さっきの人、兄上様だった」
まさか、と思いつつ、道理で、と、おれは全てのことに得心がいった。
そう、道理で、結がこんなに泣くはずだ。おれのせいなわけがない。直助、あいつのせいだ。それに、こんなお社にほぼ丸腰の男女がいたら、普通は男は斬って女は生きた状態で死ぬような目に遭わされる。戦火に巻き込まれた村や町では、そんなことが日常茶飯事に起きている。普通なら、見逃すわけがない。旧幕府軍の兵士であろうとおれたちのことを知らなければただのこのあたりの農民と思うだろうし、新政府軍の兵士ならなおさらのこと。
「結のこと、分かっていたのか」
結はこっくりと頷く。
「しっかりと行燈の明かりで確認していたもの。それに、私を見てとても悲しそうな顔をなさっていた。優しく、憐れんでいた」
結の嗚咽は酷くなる。ぜーぜーと肩で息をしながら、止めようもなく泣いている。
「それに、笙一郎様を見下ろして、とても残念そうな顔をしてらしたわ」
そう、わんわん泣いているかと思ったのに、その次に発された言葉はとても意地悪く愉快そうだった。
「それは、……どういう……」
嫌な予感に己の自尊心が崩れそうになりながら、何とか聞き返す。
クスクス、と結は今度は笑い出す。年頃の娘がそう笑うように、密やかに思い出して泣きながら笑っている。
「そういうところが」
笑いながら結は止めを刺す。
おれは天井を見上げた。
『女房を殺して己も死ぬ気か』
直助の声にしては、ずいぶんと酒焼けして堂が入っていたなぁなどと思い返す。
天井に向けていた視線を下ろし、胸元にしがみつく結を見下ろす。
あれが本当に直助なのだったとしたら、おれが結を妻にしてもよい、ということか。
残念そうな顔、というのがいまいち引っかかるが。
それならそれで、構うものか。
おれは、涙が収まって猫のようにおれの胸にとりついている結の肩を掴んで引きはがした。
夜明けまで、あとどれくらいだろう。
結は、きっと直助を追いかける。
おれが北に連れていきたいと言った時、諦めよく「そう」などと言ったわけではないことくらい、気づいている。結のことだ。直助がこの先にいようがいまいが、明朝にはおれに気取られぬように勝手に五稜郭に向かう気だったのだろう。
そうはさせるか。
一人で髷も結えないくせに、どうやって兵士の姿に戻るつもりだったんだ。
できるわけがない。この女一人で、もう一人の直助の代わりになどなれるはずがない。
おれは、まっすぐに結を見据えた。
「結」
「はい」
結もまっすぐおれを見返してくるのが分かる。
「今宵一晩、おれの妻になる気はあるか」
足を負傷し、熱まで上げている女子に言うことではないことは分かっている。だが、きっともう、これが最後の機会になる。だから、結は直助に後押しされたとはいえこんな真似をした。
「はい」
月明りさえあれば、きっと極上の笑みが見られたに違いない。
そこまではっきりと、見えなくてよかったと、おれは心底思った。
もし結の極上の笑顔など見てしまったら、今宵一晩などで済むものか。五稜郭になど行かせない。直助のことなど追いかけさせない。縄で縛って荷車にでも乗せて茣蓙でもかけて誰からも見えないようにして、無理やりにでも戦火の届かない場所に連れていく。
涙が乾きかけた頬に唇を寄せ、一度額を合わせてもう一度意思を確認してから、唇を重ねる。ピリリとした感触が体中に走って思わず目を開けると、結も驚いたように目を開けて小さく震えていた。そのまま落ち着くまで至近距離で見つめあい、再び唇を寄せ、軽く吸う。それを繰り返しながら帯を解き、着物を脱がせ、邪魔な鎖帷子を投げ捨て、胸をつぶすさらしを解き、瑞々しく柔らかな胸に顔を埋める。ああ、この女を他の男になど渡してなるものか。そう思った瞬間、今までどんなに寝姿を見ても着替えを見ても飛ぶことのなかった理性が弾け飛んだ。よく今まで我慢していたものだと思う。それほどまでに激しく、おれは結に一晩かけて己を刻み込んだ。(※)
社の板戸の隙間から夜を薄めた青い光が透け始めた頃、おれは結の月代を手入れし、髷を結いなおした。結は、おれが無断で拝借してきた男女の着物をきれいに畳んで御神体を掲げる台座の前に置いた。それから具足をつけ、大刀と脇差を腰に佩き、小銃を背負う。
五月一日、早暁。
おれたちは社を後にし、二股口で土方様の軍が後退してくるのに合流して五稜郭へと向かった。
五稜郭では、伊藤様をはじめ半分になってしまった杜陵隊の生き残りに再会することができた。ほとんどは五稜郭の守備に残っていた人々で、矢不来や富川から生きて戻ってきていたのは十人にも満たなかった。矢不来で撤退の声を上げた船越様も、負傷して運ばれたものの亡くなったという。命からがら逃げてきた者たちにしても、大なり小なり体のどこかを負傷し、病院送りになっている者や五稜郭内の救護所で休むしかなくなっており、実質杜陵隊は五稜郭に残っていた半個小隊足らずだけになっていた。敗走を詫びる結に、伊藤様は好々爺のように「無事でよかった」と繰り返し、周りの皆もその言葉にほっとしたように頷くのだった。伊藤様は杜陵隊の頭でありながら、隊を半分に分け、半分を別の隊の者たちに預けなければならず、己は五稜郭で生き残ってしまったことを深く悔いていたのだという。それもこれも、なんとか一個小隊をなせる程度の人数しか集められなかったせいだ、と。帰参するのが遅かったせいだ、と。旧幕府直属の伝習隊など、数百人規模でフランス人軍師のブリュネに隊列ともども鍛え上げられている。その烈士満(レジマン)と呼ばれる隊列に、昨年のうちに箱館入りしていた隊は組み込まれているが、杜陵隊は帰参が今年の二月と遅かったため、結局のところ人数合わせで足りない部分につけられる羽目になってしまったのだ。伊藤様とて、この蝦夷地において何か全体的な役職を与えられているわけではない。杜陵隊の隊長として頭取という立場を与えられているだけだ。それは、この四月の半ばに砂原から上陸してきたばかりの仙台藩から来た見国隊とて同様のはずだが、あちらは仙台藩の旧幕府派からイギリスから借りた商船をはじめ十分な物資を与えられ、旧幕臣が同行している上に、兵士たちも地元の者を中心に集めてきており結束力も強ければ血気も盛ん、しかも人数にして五百人近くを揃えているとあれば、彼らの到着で五稜郭の人々がどれほど期待し鼓舞されたかわからない。その存在はとても杜陵隊とは比べ物にならなかった。不遇、と言えば不遇であり、それでも伊藤様はおそらく楢山様への義のため、ここで歯を食いしばって杜陵隊の頭取という役目に踏みとどまっているのだろう。それが分かっているからこそ、今ここに残っている隊士たちも、敗戦が濃厚になっても伊藤様に忠義を尽くそうと踏みとどまっているに違いない。間違っても、杜陵隊は全滅寸前で脱走が横行し瓦解した、などと後世に記されないように。
それから、旧幕府軍は夜な夜な七重浜や大川方面に出向いて新政府軍に夜襲を掛けるようになる。もはや日中に大規模に仕掛けることはできず、前線の位置を確認しがてら敵の兵站を奪いに行くようなものではあったが、その小競り合いに旧幕府軍として出撃していった兵士たちはそれなりに手ごたえを得て、煌々と灯りの焚かれた五稜郭へと帰陣するのだった。わが杜陵隊は、その赤々と燃える松明の下で交代を繰り返しながら五稜郭の守りに徹する。同時期、夜に朝に新政府軍の艦船を相手に繰り広げられる海戦の雷鳴のごとき艦砲射撃の音を遠くに聞きながら。残念なことに、旧幕府軍の船だった千代田形は干潮時に浅瀬に乗り上げたと勘違いして放棄され、敵艦に組み入れられてしまったが、残る回天と蟠竜、そして弁天砲台からの射撃で新政府軍の艦隊に応戦。しかしながら、弁天台場の大砲に釘が打ちつけられ発砲できなくなるなど、いつの間にか入り込んだ新政府軍の斥候や新政府軍側の箱館の民にしてやられることが増えはじめる。どれほど夜襲に成功したと吹聴しようと、最早勝機は見えなくなり、脱走者も増えるばかり。フランス人軍師のブリュネも、榎本総裁の説得でついにフランスの船に帰ったということだった。
結は足の腫れが退け、片足を引きずりながらではあったが自力で歩けるようになっていた。日々黙々と五稜郭の門前での警備に勤しんでいる。亀田や一本木まで歩くのはまだ辛いようで、伊藤様が慮ってここに配置してくれたのだ。本来であれば救護所で休んでいるように言われているところだが、結はそれを良しとせず、おそらくまた直助に会いたいがために我を張ったが故なのだが。伊藤様も伊藤様で、これ以上隊士の命を失うことは避けたいとお考えのようで、結への配慮だけでなく、どちらかというと、決して口にはされないが脱走兵にも寛容のようだった。
五稜郭は、周りを幅広の堀で囲まれ、中に入るために当初は五つの橋が架けてあったが、その橋のうち北東と南東の二脚については新政府軍の進軍方向の背にあたることから、前面となる西側に守りを集中するために切り落とされた。杜陵隊が守りを任されたのは北に残された裏門の橋の方だった。どこまでも日陰者よ、と思わず呟く者もいるにはいたが、お役目をいただけて光栄ではないか、という伊藤様の言葉には首を垂れざるを得ず、以来誰も不満を漏らす者はいなくなった。この時期になると、裏門橋が渡されている堀には赤い蓮の花が小振りながらも花開き、目を楽しませてくれた。
「笙一郎、笙一郎」
幾日か続いた雨ののち、久しぶりに晴れた日だった。この日は明け方から大川で新政府軍と派手にやりあい、初陣の見国隊は逸りすぎて早々に頭取を失い、隊士たちも多くが戦死していた。五稜郭内は俄かに焦燥感が色濃く立ち込め、負傷者や戦死者を抱えて兵士たちが郭内を右往左往していた。
その郭の内から離れ、堀の外を見回っていた結が、つと、何かを見つけて手招いた。寄ってみると、懐かしい擬宝珠のついた橋のたもとに丈は短かったが橙色の色濃いゆりが一輪風に揺れていた。
「ここでもゆりが見られるとは思わなかった」
満面の笑みを浮かべて、結はしゃがみ込んでゆりの花に手を添える。
そういえば、結の実家の佐藤家の庭にも初夏になるとゆりの花が咲き揃っていたことを思い出す。橙色のすかしゆり、薄桃色のささゆり、夏の暑い時期になると花びらの反り返った橙色のおにゆり。庭に生えた季節の花を、結はいつも玄関の花台に生けて客人をもてなしていたが、初夏に咲くゆりの花をことに気に入っていることは、毎年見ていればわかることだった。
「挿してやろうか」
結が直助の姿をしていることも忘れてゆりの花に手を掛けようとすると、結はやんわりその手を押しとどめた。
「このままに。この花はここで咲くのが務めと咲いているのでしょう」
いとおし気に見つめる結の目元からは、すっかりいつもの直助たる険が取れていた。
「しかも、この子ったらまっすぐ上を見上げて。何と潔いのでしょう」
うつむき加減に咲くゆりが多い中、結の言葉は最もで、それでいながらどこか自戒に満ちているかのようで、おれは少し不安になった。ここまで来ておいて何を不安になることがあろうかと思ったが、旧幕府軍のこの追い詰められた状況で結が潔さに感じ入っているのだとしたら、あるいは死をもすでに受け入れようとしているということなのではないだろうか。ここにきてもおれは、機が巡ってくれば結を盛岡に連れて帰るつもりでいる。結を、こんなところで死なせるつもりは毛頭ない。手放すつもりは更にない。一夜と言いながら欲が増したというなら言えばいい。絶対に、結のことは守る。おれはおれで、そう固く誓っただけだ。
手のひらに収まってしまいそうな小さな花をいとおしむ結の横顔に見惚れながら、このまま五稜郭の守りだけで終われればいいのに、と結が聞いたら怒り出しそうなことを思う。今の杜陵隊の残兵数からして、夜襲に駆り出されることはまずないだろう。付け足すにしても、もはや人数がそこまで残ってはいない。ならば、この五稜郭が落とされるときまではこの小さな幸せの時間が続くはずだ。もし新政府軍がこの五稜郭まで攻め込んできたら、伊藤様には申し訳ないがその時は混乱に乗じて逃げるのみ。おれの括った腹の内を知れば、結は今すぐにでも殺せと喚きだすかもしれないが。あるいは、おれの方が士道不覚悟とやらで殺されるかもしれない。その時はその時。多分、おれが死んだらこの人もこれ以上先には進めないだろうから、それなりの覚悟をもって手にかけようとするに違いない。
「おーい、交代だ」
隊員が交代を呼びに来ると、結は名残惜しそうにゆりの花の元を離れた。それから次の日もまた良い天気で、久しぶりに海からの砲撃の音もなく穏やかな一日となるが、知らぬところでは大規模な脱走があったらしい。結は変わらず巡回の度にゆりの花を愛で、他の隊員からは呆れられていた。その翌日もまた、砲撃の音は轟くことなく穏やかな一日となるかと思ったが、昼を前に俄かに上層部の集う奉行所が騒がしくなった。明朝、新政府軍が総攻撃をかけるとの報が入ったのだという。
「我々杜陵隊は、このまま五稜郭の守りを固めることになる」
伊藤様は粛々とおっしゃり、おれたちは――多分、杜陵隊として残っている自分たちは、少し安堵したのだと思う。特に矢不来と富川から帰った者は、再びあの至近距離での艦砲射撃に晒されることがないというだけで、どれだけ恐怖心が蘇らずに済んだかわからない。あんな一矢報いることも叶わない一方的な殺戮に晒されるのは、二度とごめんだと、おれだって思っていた。
その夜は、よく眠れたのかどうかわからない。上層部の連中は妓楼に別れの杯を交わしに行ったらしい。隊によっては昼間から最後の酒を配っていたところもあったためか、所によっては場違いなほど明るい歓声や喧嘩の怒声、囃し立てる声までが上がり、さながら祭りのようであったが、皆、来るべき時を間近に控え、その時を受け入れる覚悟をしようとしていたのかもしれないし、できるだけ目をそらそうとしていたのかもしれない。杜陵隊には伊藤様から最後の米が配られ、忘れ果てていた米の甘みを思い出した。夜半にはそれぞれの隊が決められた持ち場へと出発し、五稜郭はさっきまでのお祭り騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
おれは、小銃の手入れをするふりをしながら、明日、いつでも結を連れて逃げ出せるように荷を準備していた。
翌未明。
まだ空は真っ暗で夜の帳ばかりがのっぺりと空を覆っていた。西に沈みかけた月が少し赤みを帯びて見える。星々は冴え冴えと輝き、まだ人の世ではないと告げているようだった。
晴天に、雷鳴が轟いた。
否。砲撃が開始されたのだった。
地の星が海で赤く輝き、丸く放物線を描いて着地した場所を朱に染める。
遠く、配置された兵たちの悲鳴が聞こえる。一方的な殺戮の音に、おれたちは肩をそびやかし、身を強張らせる。杜陵隊は総員、裏門を中心に警護につく。あの砲撃が開始された方に配備されたのはどこだっただろう。七重浜方面には、確か大鳥様が伝習隊、遊撃隊、春日隊、彰義隊を率いて向かったはずだ。山際の赤川や神山の権現砲台には松岡隊と衝鋒隊。一本木の席を越えて函館港の前面には最強の伝習士官、翻って大森浜には砲兵隊。弁天砲台と臥牛山には新選組が配備されている。
ふと、直助のことを思い出した。
あいつは今頃どこにいるのだろう。
新選組にはいなかった。旧幕府軍で行き会った者の中にはいなかった。結の言葉が正しければ、新政府軍の方に従軍しているということか。
港に集結した艦船から放たれる大砲の音が轟雷のごとく轟く。その目的地ではなりつづける喇叭と進軍の太鼓の音の合間を縫って、小銃が絶えず進軍しようとする兵たちを押しやる音が甲高く響き続け、移動式の大砲が前線を威嚇する。ふと、気のせいか七重浜とは反対側の臥牛山の後ろ手からも砲撃の音が響いた気がした。いや、気のせいではない。明らかにそちらの方面からも音が聞こえてくる。音だけではない、山の頂、霧に覆われた薄靄の中、中腹と灯りが激しくちらついていた。
「まさか」
思わず口をついて出た言葉は、何もおれだけのものではなかった。おれたちは臥牛山を仰ぎ見、唖然とするしかなかった。
挟まれた。
七重浜方面からの進軍は予想の範囲内だ。が、まさか臥牛山の裏から進撃されるとは思わなかった。海に面した険しい崖から山をよじ登るなど、酔狂にもほどがある。が、新政府はそれを決行したのだ。いつもより早いかに思われた港の砲撃の音は、あるいは臥牛山から目を逸らすためだったのかもしれない。
夜が明けるにつれて、大森浜方面にも艦船が控えるのが見え、姿を現したのをいいことに、弁天砲台へ向けて砲撃が開始された。大森浜は弁天砲台とは函館市内を挟んで反対側にあるが、優に砲弾は市街の上空を抜け、弁天砲台付近に着弾した。弁天砲台も目の前に艦隊を二隻も控え、窮するに余りある状況だった。新政府軍が携える薄明かりは臥牛山の山頂、そして弁天砲台の裏手から函館市内へ向けて広がっていく。ついに弁天砲台の付近で大火が上がった。新選組が弁天台場に立てこもるため、近くの民家に放火したものだったが、暁の空には絶望的な炎の壁に見えた。忙しなくあちこちの伝令たちが門を行き来し、榎本様達上層部がいる奉行所の喧騒はいよいよいや増す。ついに伊藤様が奉行所に呼ばれ、いくらか後、硬い表情で戻ってきた。
「杜陵隊、これより千代ヶ丘陣屋にて陸軍奉行土方様と合流し、弁天砲台に籠りし新選組隊士を救うため、箱館市内に向かう」
否やを唱える者はもはやない。唇を硬く噛みしめて、おれたちは隊列を組み、伊藤様の後に続いて五稜郭を出、千代ヶ丘陣屋で彰義隊、額兵隊、見国隊、伝習士官隊、神木隊、彰義隊、と敗残兵も含めて方々からかき集められた兵士たち数百人とともに、あの土方歳三の後に続いた。残念ながら土方歳三を間近で見ることはかなわなかったが、どうしてどうして、張りと艶のある声は砲撃や銃声の中にあってもよく響く。特に、一本木関門にて新政府軍と激突した際に上げられた一喝には、味方であることも忘れて恐怖に震えさせるに十分な威力があった。
それは、とうに日が水平線を離れ、輝かんばかりの朝の日差しを降り注いでいる頃だった。港で奮戦する蟠竜が、新政府軍の艦船朝陽を撃ち果たしたのだ。砲撃が爆発するのとはまた別の、もっと足元から大地を揺るがさんほどに恐ろしい爆音が轟き、白刃を交わしていた敵も味方も、一瞬気を抜かれて港の方を振り返り見た。おれもまた、その時ばかりはこの世の終わりかと結から目を離し、港の方を見た。砲撃を受けた敵艦は船腹を赤く膨らませ、抑えきれなくなった炎が黒い煙雲を纏いながら天へと昇って行った。誰もかれもが、この世の終わりと呆然と、あるいは唖然と見た景色だった。その最中にあって、いち早く我に返ったのは土方歳三だった。
「この機、失すべからず!」
静寂の中に大音声が響き渡った。
おれも含め、いや、敵も味方も皆、はたと我に返り、おのが敵に視線を移した。
「我、この柵に在りて、退く者は斬らん!」
その声と言葉は存分におれたちを勇気づけ、鼓舞し、そして、馬上で振り上げられた白刃が容赦なく朝日に閃く様におれたちは心底怯え、ここが命を懸けた背水の陣ということを知らしめられたのだ。
大混戦の中、小銃を操り、前線を押し戻す。柵の内側へ。さらに内側へ。結は、がむしゃらに先へ先へと突っ込んでいく。嵐のように降りくる銃弾が腕や足を掠めても、構いやしない。大砲が近くに落ちても動じやしない。まるで――そう、まるで、死に急いでいるみたいじゃないか。追いかけながら、やめてくれと心の中で叫ぶ。いや、この喧騒の中、本当に叫んでいたかもしれない。行くな、進むな、と叫んでいたかもしれない。だが、結は止まらない。止まらずにどんどん敵の中に撃ち進んでいく。おれは結が撃たれそうになればその相手を撃ち、横から斬られそうになればその腕を切り落とした。さらに、自分の身は自分で守らねばならない。息が切れても止まることはできない。深く息を吸い込めば火薬と土埃の粉塵で口の中を痛める。顔の半分を手拭いで覆い、浅く息をつきながら結を探し、結を守る。それを繰り返していたはずが、不意に近くに落ちた砲弾が土蔵を直撃し、土煙の中に巻かれてしまった。目で探そうにも目の前は薄茶色の土煙に覆われ、この時ばかりは周りの戦乱の喧騒が遠く感じられた。
「よォ」
見えない目の代わりに、耳が聞き覚えのある声を捉えた。
「生きてたか。これは重畳」
ドン、と腹を剣の柄で思い切り突かれ、思わずおれはよろめく。そこを狙って、そいつはおれに容赦なく切りかかってきた。おれは仕方なく小銃を放り、抜き放った剣でそれを受ける。途端に手首にはビリビリと重く鈍い衝撃が響いた。
あー、久しぶりだな。などと、頭の奥底でこの重さの主を思い出す。
「ずいぶんいい腕になったじゃないか」
「お前もよく受け止められたものだな」
一撃、二撃、と剣を合わせ、ようやくおれはそいつの顔を土煙の中透かし見る。
直助。
藩校に通っていた頃は、一応おれの方が剣の腕は上、ということになっていたが、本気を出した直助に、おれは勝ったことがない。あいつは剣の筋がよかった分、下手に見せるのも、また上手かったのだ。大概はそれに騙されるが、手を合わせればわかる。どんなに下手なふりをしても、直助の一撃は、重い。
ギリギリと刃を合わせ、力で押しあいながら次の一撃を繰り出す機を窺う。
「慎重だなァ。だから結に逃げられんだよ」
「逃げられてねェよ!」
あおられて、つい怒りに任せて押し返す。直助はあっさりと身を引き、おれは前のめりに倒れかける。そこを容赦なく直助は横から打ち込んでくる。片足で踏ん張り、片膝をついてそれを受ける。
「いいんだゼ? おれを兄上様と呼んでくれても」
「だれが、呼ぶかッ」
立ち上がりざま直助の剣を弾き返し、一撃肩目掛けて打ち込む。
ギリギリで直助はそれを受け、いや、わざとギリギリまで引き付けてそれを受け、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて至近距離からおれを見る。
「契ったんだろ?」
あろうことかおれは思わず剣を取り落としそうになり、直助は凶悪な笑みを浮かべて、おれの胸を蹴倒した。
おれは崩れた土蔵のがれきの上に蹴飛ばされ、体勢を立て直す間もなく直助に片足で胸を踏みつけられる。
「あァ、いい気分だ」
「こっちはクソみたいな気分だよ」
睨み上げると、直助はおれの胸ぐらを掴み上げて顔を近づけた。
「一度でもおれに勝ってくれれば格好も付いたものをな。これでは結もいつまでもおれのことばかり追いかけるわけだ」
「うるさいッ」
「あの月代はなんだ。あの格好はなんだ。足怪我させてんじゃねェよ。人の妹に何してくれてんだ。あァ? 笙一郎、てめェには言いたいことがいっぱいあるんだけどよォ」
「いや、もう大体言ってるだろ」
土埃が薄まる中、おれは直助が新政府軍の黒の上筒とダンブクロに長靴を履いているのを見て取る。
「妹の夫と見込んで、一つ頼みがある」
ここまで足蹴にしておいて、よく言うものだ。まぁ、直助らしいが。
「あいつを盛岡に連れ帰れ」
「もとよりそのつもりだ」
「ここまで来ておいて何を言う」
「お前を追ってきたんだよ」
「情けないねェ。兄よりも夫の言葉の方が軽んじられるとは」
「やかましい」
おれが言い返すと同時に、直助は腰に結び付けていた荷物をおれの胸に押し付けた。感触からして、何枚か着物が畳まれている。それから、手形のような固いもの。
「着物をよこせ」
「はァ?」
「おれが直助に戻る。だから、お前の着ているその古臭い着物をよこせ」
結と、入れ替わる、と?
視線は一瞬交わしただけだ。が、直助はこの時ばかりは真剣におれを見た。
「戻る必要などないだろう。助からないぞ」
「どうせ時代は明治だ。武士の家など潰れて仕舞いだ。飯を食うなら田畑を耕すか、商いに手を染めるかしかない。しかも、慣れない武士が一からだ。父上と母上にも、多少孝行せねばなるまい」
助かる気でいるのか?
にやにやと笑いながら、いつの間にか直助はおれを土蔵の陰に引きずり込み、具足を外し、着物の帯を解いている。
「男に脱がされる趣味は……」
「じゃァ、自分で脱ぎやがれ」
ぴしゃりと言って、直助は自分も動きやすそうな服を脱ぎ捨てる。
「町民の着物だ。そっちに着替えろ」
言われるがままにおれは風呂敷包みを開き、中から男物の旅装用の着物を取り出し、着替える。下には女物の着物とかもじ、そして、通行手形といくらかの金子、そして何通かの書状。
「おれは今から結を連れてくる。お前はそこの蔵にでも隠れていろ。結が来たら、湯ノ川へ逃げろ。あっちなら砲撃の対象になっていない。降伏して捕虜になってもいいが、結は身がばれるとまずいだろ。この戦が終わったら、しばらく大沼方面にでも行って夫婦ごっこでもしていろ。一生帰ってこなくたっていいけどな」
おれは、ぽかんと直助を見ていた。
直助は、おれがさっき手放した刀を拾い、腰の鞘に納め、小銃を拾いにがれきを越えていく。
「待てよ!」
「なんだよ!」
別れの言葉もなしに言いたいことだけ言い捨てていこうとする直助が、うざったそうに振り返る。
おれは何を言おうとしたのだろう。何かを言おうとして、口をついて出たのは情けない一言だった。
「結を頼む」
「それはこっちの台詞だ。盛岡で会おう」
その言葉に、おれは力強く頷いた。そうだ、おれはそれを問いたかったのだ。また会えるのか、と。お前は大丈夫なのか、と。直助はおれの心配を軽々と飛び越え、約束を言葉にした。
「ああ、盛岡で会おう」
にぃっと直助は笑い、粉塵と銃撃戦の中に飛び込んでいった。
それからはおれの聞いた話だ。
結は、土煙と銃から上がる煙と、砲弾が撒き散らした煙の中で、もう一人の自分に会ったのだという。もう一人の自分は、自分と同じく時代遅れの着物と袴の裾を長足袋の中に縛りこみ、噴煙で真っ黒になった顔で邪気なくにぃっと笑いかけ、堂々と目の前に近づいてきたかと思うと、ポンと月代の上に手を乗せたのだそうだ。
「おれが戻るまで、よく務めた。お役目、ご苦労であった」
その言葉に、結はそれまでのがむしゃらに前に進もうという気持ちが止まり、心が空っぽになったのだという。続けて、空っぽになった結の心を埋めるように直助は言った。
「結、お前はこれからお前にしかできないことを為せ」
その言葉が結の空っぽになった心にしみ渡るまでの少々の間をおいて、結は「はい」と答えた。兄の胸に飛びついて泣きたかったそうだが、できなかったのだそうだ。涙が出てこなかったからとか、戦乱の中にいるからとか、そういう理由ではなく、なぜかもう、そのような甘えを許される時は終わってしまったことを感じたのだという。
直助に近くまで助けられて、結はおれの待つ土蔵に一人でやってきた。
「直助は?」
「行きました」
まだ茫然自失といった体で張り詰めた目をしている結が、ぽつりと答える。
「そうか。なら、大丈夫だな」
「大丈夫だなどと!」
いきり立つ結を、おれは抱きしめて、耳元で囁いた。
「盛岡で会う約束をした。あいつはちゃらんぽらんだが、約束は守る男だ。そうだろう?」
人形のようにこくんと頷いた結の手を引き、おれは土蔵を出た。結を着替えさせるのはまだ先だ。この戦乱を抜け、湯ノ川に出てから。
砲撃も銃声も鳴りやまない中、おれは一路北東へと向かう。
旧幕府軍は、いつしか一本木の柵の外まで押し戻され、銘々に敗走を始めていた。あの土方様はどうしただろう。逃げる奴は斬る、と言っていたのに。と、撤退する兵士たちの中、腕から血を流す伊藤様の姿が見えた。ばちり、と伊藤様と目が合う。伊藤様は、行け、とばかりに顎で湯ノ川の方を指した。おれと結は、敬意を込めて短いながらも深く首を垂れ、伊藤様とは違う方向へ向かって走りつづけた。
伊藤様はその後、千代ヶ丘陣屋にて副総裁と各隊長たちと合議の上、五本の指で足りる程度の手勢を連れて五稜郭に戻り、ようやく傷の手当てを受けたという。他の杜陵隊の隊士たちの行方は、杳として知れない。あの時出撃したそのほとんどが、砲撃と銃撃の犠牲となり、夏の蒸し暑さの中しばし遺体は葬ることを許されずその場に放置されたのだという。
翌五月十二日、五稜郭は箱館港の艦船から砲撃を受け、慌てて照準となっていると思われる物見櫓を取り壊したのだとか。五月十四日、弁天台場が降伏。最後まで抵抗の意思を見せた千代ヶ丘陣屋も五月十六日に中島親子の戦死により陥落。五月十一日の夕方に副総裁松平太郎様からこの陣を固く守るよう命じられたにもかかわらず、多くの隊士たちは脱走し、陣にこの日残っていたのは箱館奉行中島三郎助にゆかりある者たち四十名程度だったという。
五月十七日、亀田八幡宮にて旧幕府軍を率いる榎本総裁は新政府軍の黒田清隆らと会見し、降伏の宣誓を行う。
五月十八日、五稜郭、開城。
その知らせを、おれたちは湯ノ川で聞いた。
湯ノ川に逃げてきた脱走兵たちも降伏し、赤川方面へと旅立っていくのを陰ながら見送り、直助が書状にしたためた大沼方面の伝手とやらを頼りにおれと結も湯ノ川を後にした。
『盛岡で会おう』
その約束を果たすまでに、十年。
世の中から士族という身分はなくなり、刀を帯刀する者も月代を剃る者ももういない。相変わらず食うや食わずの苦しい生活は変わらなかったが、おれたちは直助に呼び寄せられて再び盛岡の地を踏んだ。
雪解けに鷲の模様が浮かび上がった岩鷲山が見えた時、結は子の手を引きながら泣き崩れた。
直助は、結が成り代わりつづけた直助をそのまま受け継いだようにすっかり丸くなった物腰で、おれたちを幾分小さくなった屋敷に迎え入れ、姪と甥を愛し気に抱き上げた。親父様と母上様も孫たちの姿に眉を下げっぱなしだった。
その夜、再会を祝して小さな祝宴が催され、夜遅くまでおれと直助は酒を酌み交わした。
「ちょっくら便所さ行ってくらァ」
酔いも回って赤ら顔となった直助が、杯を置いて中座したのは夜もだいぶ更けた頃だっただろう。おれはちびりちびりとお猪口に残った酒を口に運んだが、待てど暮らせど直助は戻ってこない。試しに便所にも降りてみたが、そこには誰もいなかった。慌てて結を起こし、親父様や母上様を起こし、皆で探し回ったが、とうに直助はどこにもいなくなっていた。
「やられた」と親父様は額を抑え、母上様は気を失いかけてよろめき、結はそれを支えながらため息をつく。
「いつかまたふらっと戻ってきますよ」
その口ぶりは、あの夜、己が直助になると啖呵を切った時同様、行方を知っているかのような口ぶりだったが、どんなに直助の行方を聞いても結は知らないと首を振るのだった。
おそらく、結も直助がどこに行ったのかは知らなかったのだろう。それからいくらかして直助が東京から出した文が届き、家族一同、気の抜けたため息をついた。
そして初夏、佐藤家の庭にはゆりの花が咲く。
〈了〉
*************************
(※)おまけ(PG-12)
「結?」
結の背中を腕に抱き込んでうつらうつらと眠りこけていると、前に回していた手の小指と薬指を結に柔らかくしかし強く噛まれていた。枕に伸ばした腕には滴り落ちた涙がうっすらと冷たくなっていく。
また、泣いているのだろうか。
肩に手を掛けようとすると、結は小さな声で諫めた。
「見ないでくださいまし」
頑なな声に、思わず嫉妬の蛇が鎌首をもたげる。
「人の腕の中で、他の男のことでも考えていたの」
詰る声が冷たくなる。
結の白い方がぴくりと跳ねる。
「違います。貴方こそ、私を手に入れておきながら、まだそのようなことをおっしゃるのですか」
私を手に入れ……って、そうか。そういうことに、なるのか。覚めてみれば夢だったとしか思えなくなるような一夜だというのに。
「まだって、おれは今まで一度もそんなことを言った覚えは……」
「いいえ、貴方はいつも私の心のうちに兄上様を見てらしたでしょう。今だってまた、他の男と言いつつ兄上様のことをお考えだった」
ぐっと言葉に詰まる。これだけで済めばよかったのに、
「貴方が嫉妬する殿方は、兄上様だけです」
余計なことを言うから、また意地悪をしたくなる。
丸く突き出した首と背骨の付け根の一つに甘くかぶりつく。
不意を突かれて、大分こなれてきた吐息が漏れる。
それが聞きたくて、背筋をなぞりながら、ぼこぼこと出張った背骨を一つずつ、口に含んでいく。
「ッ、おやめ、くだされませ」
柔らかな胸に手を伸ばし、手のひらで弄びながら、腰から首筋へと吸う場所を替えていく。
「もうッ、違います。違うのですッ」
「何が? 顔なら見ていないだろう?」
「だからッ」
短く言葉を切って、結はおれの手を掴み、今度は人差し指に己の唇を軽くあてた。
まるで秘密だというように。言葉を漏らしてはいけないとでもいうように。
どうしても言わないというのなら、言わせてみたくなるのが今の性。
耳たぶの裏に口を添わせ、ふぅっと息を吹きかける。肩を震わせる結の首筋に、再び口を寄せ、軽く吸う。
軽く喉をのけぞらせ、結はようやく不満げにおれを見た。
「おれは見ていないよ。結がおれを見たんだ」
ぷいといじけたように結は前を向いた。
「私、笙一郎様がこんなに意地悪だとは思いませんでしたッ」
今にも一人になりそうな結を、おれは体を添わせ、後ろから抱きしめる。
「……ほんッとに、意地悪……」
詰る声が涙に滲んだ。
嫌なのかとも思ったが、離す気にはなれなかった。
指先を口元にあてがうと、結は遠慮なく唇で甘く噛みしめた。
ほら、結だって離れたくないんだ。
嗚咽を堪える度に、指に深く結の唇が食い込む。
「それで、どうして泣いているの」
「聞かないでくださいまし」
「強情な。また泣かされたいの?」
「馬鹿」
がりっとついに指先を歯で噛まれて、おれは軽く顔をしかめる。
「痛ッたァ」
「私はもっと痛うございましたッ」
赤裸々な言葉を言い捨てられておれまで赤面させた挙句、結は再びぷいっと顔を背け、そのくせおれの腕に涙に濡れた目を押し当てた。
しばらくして、結の肩に入っていた力が抜け、ぽつりと結は漏らした。
「嬉しくて」
え、とおれは小さく聞き返す。
「貴方の腕の中にいられることが嬉しくて、――幸せで……こんな幸せがあるのか、と……」
腕に押し当てられた結の目からまたたくさんの涙が零れだしていた。
「聞かなかったことに、してくださいまし」
幸せを感じてはいけないのだと抑え込むような声に、おれは構わずもう一度強く抱きしめた。
結が何に気づいたのか。取り返しのつかない何に、気づいてしまったのか。しかし、その言葉こそ、この温もりが一夜だけのものだと思い限らせるには十分なものだった。
いずれにしろ、引き返す気はないのだ、と。
その言葉が、この夜の全てだった。
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【もしあの男が本当に直助だったら】
「やい、契りたての若ェ夫婦が一夜の甘い夢見ようってんだ。邪魔すんじゃねェよッ!」
ザシュっと小気味いい音がしてばたりと一人が倒れる。もう一人が怯えたように後退しようとするが、逃がす男ではなかった。問答無用で後ろから斬り伏せる。
「ったくよォ、頼まれもしねェのに寝ずの番なんざ引き受けるんじゃなかったぜ」
男の周りには、すでに五、六体の亡骸が転がっていた。
「っとに、邪魔する奴ァ、野良にでも食われちまェ」
暗闇に光る双眸が近づき、唸り威嚇しながら早々に餌となったものにありつく。
「なァ、笙一郎。てめェ、結をこんな目に遭わせやがったら、そん時ャおれが叩っ斬ってやッからな。覚悟してろよ。ったく、なんだよ、結のあの月代はよォ。かわいい妹にあんなもん作りやがって。次に会った時にゃァ許してやんねェからな。覚えてろよォ」
ぼやきながら、何人目かの兵を斬り伏せる。
ちらちらと灯りをかざしてみれば、敵も味方も両方が野良の餌食になっていた。
「まァ、いいか。これがおれからの祝儀ッつーことで。っセイッ」
翌朝、社から出てきた二人が、社の周りにやけに死体が転がっていることに気づいたか気づかなかったのか――
「あー、クソ眠ィ。ほんとはおれがあのお社で一晩ゆっくり休みたかったのによォ。あいつらがしっぽりやった後になんザ、わざわざ入って行ってゴロ寝する気にもならねェわ。ま、無事に事が成ったんならそれでいいんだけどヨ。お稲荷さん、ありがとヨ」
二人が出ていった後の社に向けて、男はそっと手を合わせた。
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【再会の杯を酌み交わしながら】
「なぁ、嫁こは取らねのが?」
「ああ。江戸に残してきたい〜っい女がいるんだ。吉原だけどな。あっはっはっ」
「あっはっはっ、じゃねぇよ」
「遠野から来たんだど。いつか、連れてきてやりてぇなぁ」
お猪口を傾けて、直助は遠くを見やった。
「十年経ってるんだ。もう年季も明けてるさ」
「そうだなぁ。誰かに落籍(ひか)されてるかもしんねぇしなぁ」
そんな会話をしたのがよくなかったのかもしれない。
小便に行くと言ったまま、直助は戻らなかった。
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※この物語は歴史上の出来事を題材としていますが、登場人物等をはじめとしてフィクションです。
<参考文献>
保谷徹『戦争の日本史18 戊辰戦争』吉川弘文館、2007年
木村幸比古『新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記を読む』PHP研究所、2003年
西口徹編集『KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 土方歳三 新選組の組織者<増補新版>』河出書房新社、2002年
須藤隆仙『箱館戦争史料集』新人物往来社、1996年
函館市/函館市地域史料アーカイブ『函館市史 通説編2 第2巻第4編 第2節 箱館戦争』(https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11D0/WJJS05U/0120205100/0120205100100020?dtl=all)
北の遺跡案内 道内の埋蔵文化財包蔵地の情報(https://www2.wagmap.jp/hokkai_bunka-wgm/Portal)
岩手県立図書館 館報としょかんいわて No.164(平成20年10月発行)より
レファレンスコーナー(https://www.library.pref.iwate.jp/aboutus/kanpo/index.html)
WIKIPEDIAより、「五稜郭」「箱館戦争」「南部陣屋」「宮古湾海戦」「土方歳三」「蝦夷共和国」「杜陵隊」
F丸様のブログ『杜陵隊ノ記』『F丸の箱館戦争覚書』
(202007262145)