玄関の扉を開けると、足元を黄緑色の光が過ったような気がした。
 蛍――
 暗闇の中、もう一度目を凝らす。
 もう、何もいない。
 真っ暗なままだ。
 何もいないことを確認して、玄関の室内灯をつけた。
 オレンジ色みの強い白熱灯の下、そこにはやはり何もいない。
 もし、いたら。
 蛍が、見たい。
 蛍を見たのは、もう何年前のことになるだろう。
 川端の帰り道、自転車に乗りながらたった一匹現れた蛍が徒に周りを浮遊していった。
 たくさんの蛍が見たくて、蛍の生息地に足を運んだこともある。息も詰まるような光の大合唱に出会えると思ったけれど、そうはいかなくて、その日は夕闇に現れだした蛍を見るにとどまった。
 その代わり、目を奪うような夏の星空が手の届きそうな位置に見えていたのを覚えている。天頂から流れる天の川。夏の大三角形。知らない形の星座の数々。そして、山の上からはさそり座の尻尾が釣り針の鉤までしっかり見えた。
 宝物のような星空だったのを覚えている。
 どうしてこの手に抱きしめてしまえないのか、と。
 どうしてあの星を掴むことはできないのか、と。
 息づまりそうになる毎日に、すっかりペースを乱されて、帰るのは夜中になっていた。
 休みたい。
 頭の中にあるのはそれだけだ。
 それだけに、もし今、玄関を開けたこの先に蛍がいたのなら、と期待してしまったのかもしれない。
 何が起こるわけでもない。
 蛍がいる。
 ただそれだけで、日常が、現実が変わる気がした。
 何もかも投げ捨てて、扉の向こうに広がる世界へ飛び込めるような気がした。
 非日常。
 私が欲しいのは、きっとそれだけ。
 ありふれた日常が、私にはない。
 それは他者から見れば非日常の連続なのかもしれない。だけど、非日常が連続すれば、それは日常になる。
 へとへとになりながら、自分を見失いながら、この年になって自分探しなんて言葉が頭に浮かぶ。
 馬鹿か、と。
 これほど安定した職に就きながら、月給もある、ボーナスもある。それのどこが不満なのか、と。
 きっと、この生活を喉から手が出るほど欲しがっている人もいるはずだ。
 この人生を乗りこなせないのは自分の責任。
 逃げ出したくなるのは、私の悪い癖だ。
 言い聞かせる。
 明日もまた、月曜日が始まる。
 何が望みか、わからない毎日が。
 蛍が、飛んでいればいいと思った。
 明日の帰り道、湿り気の多い夜闇の中、黄緑色の光が奇跡を描く様を想像した。
 きっとすぐに消えてしまう光。
 追いかけても掴めない光。
 目で追うのがようやくで、通り過ぎた後で何度も目裏に蘇らせて思い出すのだ。
 新鮮さが足りない、と。
 刹那の喜びが足りない、と。
 子供の頃は、どうしてああも全てが新鮮だったのだろう。
 庭に咲く花々の赤、木々の緑、風が杉林を揺らす音。下校から夕飯までの夕暮れ時の愛しく淡い紫に彩られた家々の風景。
 私は、確かにあの時包まれるように生きていた。
 優しさに。時に。子供時代に。両親の愛情に。時代に。
 押し並べて、二十歳を過ぎたら結婚し、子供が生まれ、家庭を築いているものだと思っていた。
 あの時結婚していたら、今、十歳になる子供がいてもおかしくなかったのだ。
 同級生の子供たちはもう、中学生になろうとしている。
 どうして結婚って、こんなに難しいんだろう。
 私より若い子たちは、するりと何事もなかったかのように夫と出会い、籍を入れ、家庭生活を営んでいるというのに。
 結婚って、そんなに簡単にいくものなのだろうか。
 私は一体どうして、いつまで子供のままなんだろうか。
 大人のふりをした子供。
 結婚していたら。夫がいたら。子供がいたら。
 少しは大人になれていたのだろうか。
 もっと成長できていたのだろうか。
 成長する子供と共に暮らしていくことができたなら、毎日に倦むことなく新鮮さを得ることができたのだろうか。
 それでも、きっと忙しさに忙殺され、独身だったらと、夫がいなければ、子供がいなければ、結婚していなければ、もっと自由を満喫できたのに、と思うのだろう。
 どの道を選んでも、きっと私はもう一つの道を羨ましく思う。
 羨ましく思う対象が、結婚していく子たちでもなく、お腹が大きくなって産休に入っていく子たちでもなく、デパートを歩く同じ年代の三人家族でもなく、あったかどうかも分からないもう一つの自分の人生へと移り変わっている。
 今からでも、その人生を掴めないか、と、心がもがいている。
 その一方で、心が呟く。
「恋がしたい」
 と。
 この年になって、誰に恋をするというのか。
 望んでみただけだ。
 ただ、刺激が欲しいと思っただけだ。
 心がふわふわと浮き上がるような。切なく擦り切れるような。熱く燃え上がるような。
 刺激をくれるなら遊ぶだけでいい。
 安心感とか、信頼とか、結婚に必要だって気づいたけれど、もうそこまでは求めない。
 結婚に、世間の言う常識に抗うのはもう疲れてしまったから。
「嘘つき」
 私は、笑う。
 それでも、世間はいつまでもついてまわるのだ。この社会で生きていく以上。
 人並みの幸せが欲しい。
 ただそれだけなのに、どうしてこううまくいかないのだろう。 
 部屋の階段を上りながら、振り返る。玄関の入口を。
 明るく照らし出された中に、蛍は見えない。
 外は、雨が降りはじめていた。
〈了〉
(201806242300)