Bloody Moon

 皆既月食の宵。
 車に轢かれて弾き飛ばされた彼の血が道路に広がる。
 わたしは声にならない悲鳴を上げて彼の元に駆け寄り、膝をつく。
 生温い血が、膝下を濡らしていく。
 見上げると、東の空には昇りかけの満月が禍々しく赤銅色に暗く陰りながらわたしたちを見下ろしていた。
 腐りかけのカボチャのような色。
 わたしは名も知らぬ彼を抱き上げ、その月を見上げて嗚咽を漏らした。

 祖母を亡くしてからもう三か月が経とうというのに、わたしはまだ祖母のいない生活に馴染めずにいた。
 学校で授業を受けているときはまだいい。休憩時間はクラスメイト達と他愛ない話をし、授業時間は先生たちが黒板に書いた文字を必死に写す。それだけでも大分気がまぎれた。けれど、ひとたび放課されてしまえば、所属する部活もないわたしは家に帰るしかない。
 誰もいない静かな家。
 がらんとした畳の間には、真新しいお線香の香りがいつまでも充満して途切れることがない。
 当たり前だ、日中、窓を開ける人がいなくなってしまったのだから。
 共働きだった両親の代わりに、幼稚園の送り迎えをしてくれ、夕飯を作り、お布団を敷いて子守歌を歌ってくれたのは、父方の祖母だった。その祖母がいなくなった家は、今は誰の家でもなくただの空箱のようだった。帰っても静まり返り、お帰りの声は聞こえない。
『まち、おやつだよ』
 そう言って出てきた熱々のホットケーキも、もう食べられない。
 しっかりと窓が閉められ、レースカーテンで閉ざされた薄暗い家しか残されてはいなかった。
 自然、早く帰れる日でも家から足は遠のき、どこか寄り道できる場所を探すようになった。
 大通りの本屋、雑貨屋、服飾店。どれも一周すれば見飽きてしまう。そもそも何にも興味を見出すことができなかった。本屋で推理物の漫画の新刊を見つけても、人が死ぬというだけでもう読む気にはなれなくなっていた。一人カラオケにも入ってみたけれど、歌う気になど到底なれず、マイクも握らず、だらだらと流れ続ける名も知らぬタレントたちのテンションの高いCMが一周する前に、一時間を待たずに部屋を出た。
『まち、どんな時でもご飯はちゃんと食べなきゃいけないよ』
 いつの間にか早まっている夕暮れ時のカラスの鳴き声に急かされるように、家に帰って夕飯を作る。お味噌の出汁は鰹節と昆布、ご飯はひとめぼれを研ぎ汁が透明になるまで手を動かし続ける。
『研ぎすぎだよ、まち。そんなに研いだら栄養のあるところまでなくなってしまう』
『はーい』
 だって家庭科のミスオールドがとぎ汁が透明になるまで合格させてくれなかったんだもの、とは言わなかった。はっきり言って、透明になるまで研ぐ方がしんどい。途中で多少白く濁っていてもそれで良しとしてくれるならその方が楽だ。
 そんな会話と思考を頭の中で踏襲して、はたと、隣には誰もいないことを思いだす。
 帰りたくない。
 そう思うのに、秋の日の入りはどんどん早くなり、わたしのことを家へと追い立てる。逃げるようにわたしは大通りを彷徨い、居場所を探しつづける。
 日参している大通りの本屋で立ち読みできる雑誌もなくなり、日の入り時間との追いかけっこにも疲れたある日、ふと目に入った雑居ビルの看板に目が釘付けになった。
 献血ルーム。
 それは、何年か前、わたしが中学生くらいだった時にできた場所で、聞いたところによると血をあげるだけでジュースは飲み放題、雑誌は読み放題。ただし、毎日来られる場所ではない。それなりの期間を空けなければまた来ることはできない。
 引き寄せられるようにわたしはその雑居ビルの入口を潜り、エレベーターのボタンに手を伸ばした。
 その人差し指に、もう一本の指が重なる。
「あっ」
 小さな声が同時に重なり、指が離れ、わたしも指を引っ込めた。
 振り返った先にいたのは、背の高い男の子だった。衣替え前とはいえ涼しさに制服の白いシャツに紺のカーディガンを羽織った黒縁眼鏡の地味めの男の子。でも、背は見上げるくらいには高く、ひょろりと頼りなく痩せている。顔色もなんだか青白くて、具合が悪そうだ。
「すみません」
「いえ」
 消え入るような声で謝られて、わたしも小さく返していると、蛍光灯が灯った明るいエレベーターの籠が降りてきて扉を開いた。
 前にいた私は先に乗り込み、献血ルームのある五階を押す。
「あの、何階ですか?」
「あっ、同じで」
 二人しかいないのに周りを憚るような小さな声でやり取りをして、わたしたちは無言で五階に上っていくエレベーターの中にいた。
 五階には、献血ルームの他にいくつかの事務所が入っている。高校生のように見えるのに、どこかの事務所にでも用事があるんだろうか。
〈五階です〉
 無機質な女性の声が階数を告げ、エレベーターの扉が開かれる。
 操作盤の前にいたわたしは〈開〉と書かれたボタンを押したまま、同じくらいの年頃の男の子に先に出るように促す。
「どうも」
 ぎこちない笑みを浮かべて、彼は先に出ていくと、まっすぐにエレベーターを降りてすぐのところにある献血ルームの扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
 閉まりかけた扉の向こうから愛想のよい職員さんの声が聞こえ、続けて親しげな会話が続く。
 わたしは〈開〉と書かれていたボタンからするりと腕から力をなくすように指を離した。
〈扉が閉まります〉
 エレベーターの女性の声が安全に気を使うように告げて、ゆっくりと扉が閉まっていく。
 どうして一歩先に出られなかったのか、って?
 それは、だって、その先にわたしの居場所があるとは思えなかったから。
 あそこは、彼の居場所なんだなって思ったから。
「帰ろ」
 小さく声に出して呟いたのは、自分をその気にさせるため。
 誰もいない家に帰るための決意を固めるため。
「待って!」
 閉まりかけた扉の隙間から、大声と共に白い手がすり抜けてきた。
 エレベーターの扉は一度その手を軽く挟んだ後、仕方なさそうにゆっくりと口を開いた。
「痛ったぁ」
 手を払い引きながら、身体までねじ込ませて扉に寄りかかったのは、さっき献血ルームに入って言った彼だった。
「献血に来たんじゃないの?」
 衝撃でずれた黒縁眼鏡の位置を直しながら、まっすぐに彼が見下ろしてきた。
「それは……」
「行こう」
 思っても見ないほどの強引さで、彼はわたしの腕を引き、献血ルームの扉の向こうへと誘った。
「あら、お友達? めずらしいわね」
「いえ、さっきそこで会って。先にここに来ようとしていたのは彼女の方だったから、せっかくのお客さん逃すわけにはいかないと思って」
 気さくな受付のお姉さんに、口をもごもごさせながらも彼は饒舌に言ってわたしの腕を放した。
 受付のお姉さんと目が合ったわたしは、居心地の悪さを覚えながらもぺこりとお辞儀をした。
「献血カードはある? あら、初めて? それじゃあまずは流れの説明からするから、荷物はそちらのロッカーへ」
 あれよあれよという間に中の献血台に導かれて、献血できるかどうか確認するために採血をされて、200mL献血にするか400mL献血にするか、それとも成分献血にするか確認されて、はじめてだから比較的回復しやすい成分献血を選んで、あっという間に私の左手には血を採るための太い針が刺され、生温い血が腕の内側から透明な管を通って抜き取られていった。その間、目の前には小型のテレビで夕方のローカル番組が流されていた。チャンネルは自由に変えられたけど、わたしはぼんやりとその番組を眺めながら、家に祖母がいた数か月前は一緒に見ていたっけなとそんなことを思っていた。
 懐かしいという感慨でもなく、ただ記憶をトレースするだけの簡単な作業。
 でも、うっかりすると感情の渦は容易く結界を越えて溢れ出してしまうから、平板なコンクリートで固めてしまわなければならなかった。
 献血が終わり、適当なジュースを飲み、適当にファッション雑誌をめくる。雑誌の特集は、お盆もあけて間もないというのにハロウィンの仮装パーティー用のコーディネート特集だった。そんなパーティーがどこで開かれているのか、地方都市在住帰宅部のわたしにはとんと想像もつかない。青白く顔を塗って黒いマントを纏ってヴァンパイア・コーデとか、赤い口紅を鮮やかに使って魔女コーデとか、そんな浮かれた格好で参加するパーティーを開催する人がこの国に本当にいるのか、しかも高校生で?と首を傾げてしまう。
 雑誌から顔を上げて、改めてわたしは献血ルームの待合室を眺め渡した。
 帰宅途中のサラリーマンが一人、さっき献血台のある部屋へと入っていったきり、他には誰もいない。リラックス音楽が天井のスピーカーから心地よく響き、ビル窓の向こうには向かいの雑居ビルと、暮れかけの藍色の空。
 そう言えば、さっきわたしをここに引っ張り込んだ男の子はどうしたのだろう。献血台のある部屋ではついぞ見かけなかった気もするけれど。
「あの」
 受付のお姉さんに聞いてみようと声をかけようとした時だった。
 男の子は、献血台のある部屋から何食わぬ顔で出てきた。
「あ」
 目が合って、わたしたちは互いに小さな声を上げる。
「まだいたんだ」
 照れたように先に口を開いたのは彼の方。
「まだいたんだ、とはお言葉ね」
「そういう意味じゃなくて。ごめんね。謝ろうと思ってたんだ。もしかして、まだ迷ってるのに無理やり引っ張りこんじゃったから、帰るに帰れなくなったんじゃないかって、後からすっごい後悔して。まだいてくれたらいいなって思ってた」
 エレベーターで見た時の顔色の悪さとは打って変わって、気のせいか顔色がよくなり快活さすらも取り戻したらしい彼は、自販機からブリックの野菜ジュースを買うとすとんとわたしの横に掛けた。
 ち、近い。
 思わず少し腰を浮かして左に映る。
「何読んでるの? へぇ、ファッション雑誌? ハロウィン特集? こういうの好きなの?」
 続けざまに問われて、わたしは答えに詰まりながら最後の問いにだけ首を振る。
「だよね。仮装パーティーとか、よっぽどお金持ちとかじゃないとここまで気合入ったのなんてやらないよね」
 うんうんうんうん、と首を縦に振る。
 そうだ、その通りだ。
「でも、たまにはこんな格好してハメ外すのもいいのかもしれないね」
 ぽつり、と寂しそうに零した彼は、窓の外の青みを増していく八月下旬の空を眺めていた。
 それから、わたしは二週間おきに献血ルームに通うようになった。200mL献血だと四週間、400mL献血だと4か月空けなければいけないけれど、成分献血なら二週間空ければまたここに来ることができる。
 家に帰りたくない。だけど、外でやることもない、できることもない。そう思っていたけれど、ここに来れば、誰かの役に立つことができる。それもおそらく、必ず、誰かの役に立てているはずだ。わたしは無力じゃない。おばあちゃんは助けられなかったけれど、その分、この血が誰かの命を救ってくれる。そう思うだけで、生きていていいような気がしてきた。しかも、貧血にならずちゃんと献血ができる血を作るために、食事も入念に栄養価を考えて作るようになった。ともすれば祖母が亡くなってから手を抜きがちだった小鉢やメインディッシュも、肉や野菜をきちんと盛り込んで作るようになった。
 きちんとした食事を作るためにはそれなりの時間がかかる。家に帰る時間も早くなるようになった。
 そうやって自分の血液を育て、二週間ごとに献血ルームに顔を出す。
 行くのはいつも同じ水曜日だ。
 あの男の子と会った同じ曜日。
 彼と会う日もあれば、会わない日もある。
 会えた日は、なんだか充実した気分で帰ることができた。
 十月に入って冬服に変わると、彼が黒い詰襟の制服になっていて、襟の記章から地元の進学校に通っていることが分かった。
 受験勉強、どう? とか、そんな自分まで苦しくなるようなことは聞かなかった。
 わたしたちはただ、待合室でお互い開いた雑誌や本の記事をヒントに他愛ない会話を繰り返す。個人情報に触れるようなことは、むしろ避けるように。献血台のある部屋から出てきても、ただの一度も献血台のある部屋で彼を見たことがない理由も、聞かずにいた。
 ただ一度、わたしが血液型占いのページを開いていた時だけは別だった。
「女子って占い好きだよね」
「そりゃあ好きだよ。未来のことや生まれつきの性格が分かるのって、わくわくしない?」
「しなーい。そんなもので運命や宿命が決まってるって思うのって、むしろ窮屈じゃない? ま、占星術も統計的な要素があるみたいだし、血液型もそうだよね。どっちかというと血液型の方がDNAレベルで違うから、まだ考え方の違いが行動の違いに結びついているって言われれば分からないでもないけど」
 彼はわたしの膝から雑誌をつまみ上げると、蛍光灯を遮るように頭上に掲げ、わざとらしくふむふむと呟く。
「O型は楽天主義でおおらかで大雑把、か。O型はDNAに突起がないからね。まるっとおおらかなわけだ。ま、どこも書いてることは同じだよね。――君は?」
 まさか聞かれるとは思っていなかったわたしは、え、と戸惑ったまま声を呑みこむ。
「血液型、何型?」
「A型、だけど」
「ふぅん、几帳面のA型かぁ。いかにも、真面目そうだもんなぁ。その三つ編みとか。朝、編むの時間かかるんじゃないの?」
 彼はわたしの両肩にかかっている三つ編みをじろじろと見てにやにや笑う。
 初めて会った時はお互い声も小さくて、儀礼的なやり取りしかできなかったのに、慣れると彼は結構遠慮なく笑ったりからかったりするようになっていた。
「これは、昔からこうだったから」
 三つ編みをつまみ上げて、わたしはふいと彼から顔を逸らす。
 小さい頃はおばあちゃんが編んでくれていた。さすがに中学校に入ってからは自分で編むようになったけれど、いつの間にか、解いた状態で外に出るのが気恥ずかしくなっていた。
『まちも、いつまでも子供みたいな三つ編みなんてしてないで、たまには下ろして学校に行けばいいのに。校則で禁止されてないんだろう? 若い子たちはみんなお洒落にしてるじゃないか』
 おばあちゃんに苦笑されても、頑なにわたしは三つ編みを続けていた。
 恐かったのかもしれない。
 幼い子供の殻を破るのが。三つ編みを解いた途端に、誰からも守られなくなってしまうんじゃないかって、怖かったのかもしれない。
 守ってくれるおばあちゃんはもういないのに。
「ごめんごめん、怒らないでよ」
「怒ってないよ」
「でもむくれてるじゃない」
「むくれてない」
「むくれてるよ」
 ぴたりと頬に冷たい缶ジュースをあてがわれて、ひゃっという悲鳴とともにわたしは振り返る。
「ようやくこっち向いてくれた。A型さんは生真面目だから難しい」
「なによ、大雑把なO型のくせに。ずかずかと土足で人の心の中に入ってこないでくださーい」
「気にしてたの? 三つ編み」
 雑誌を置いた手で、O型の彼は遠慮なくわたしの三つ編みを掬い取った。
 黒縁の眼鏡越し、少し心配そうな彼の目が優しく思えて、思わずどきりと心臓が跳ねる。
「は、離して!」
 後退るようにしてわたしは立ち上がった。
 三つ編みは彼の手の指の間をすり抜け、胸の上で弾む。
「――ごめん」
 目が合った後、彼は気まずそうに唇を動かした。
 わたしは無言でロッカーから荷物を取り出す。
「待って」
 献血ルームから飛び出したわたしを、エレベーターの前で彼はまたしてもわたしの腕を掴んで捕まえた。
 先にエレベーターのボタンを押しておいてよかった。
 一階から順に表示が変わっていく。
「次、十月三十一日だよね? ハロウィンの日」
 三階、四階、そして五階。
 ベルの音が鳴って扉が開く。蛍光灯に照らし出された狭い四角い箱。
 その中に飛び込もうとするのに、彼は手を離してはくれない。足だけを先に開いた扉の脇に差し入れて、閉まらないように念を入れる。
「まだ、決めてない」
「来てよ」
「分からない」
「どうして」
 どうして――?
 どうしてだろう。
 どうしてわたしは、この人から逃げなきゃと思ったのだろう。
 会いたくて来ていたんじゃなかったの?
 献血で人の役に立てるという充足感よりも、居場所を探し求めていた寂しさよりも、本当はただ、彼に会いたくて二週間おきのきっちり水曜日、ここに通って来ていたんじゃなかったの?
「二週間後、また会おう? それで、献血終わったら、少しだけお茶、付き合って?」
 どうして急に、怖くなったんだろう。
 俯いた視界にきっちり編み込まれた黒髪の三つ編みが見えた。
 このまま子供のままでいるんだと思っていた。
 小さい頃のように眺めるだけの片思いでいいと思っていた。
 いつの間にか、この人の心の扉まで開きかけてしまっていたんだ。踏み込むつもりなんかなかったのに。
 ほんとに?
 ほんとに自分はそれだけでいいと思っていた?
 顔を上げると、不安げに彼を見上げる幼いわたしの顔が彼の眼鏡のレンズに映っていた。
 彼はわたしの表情を汲むように、ゆっくりと優しい笑顔を作った。
「待ってる」
 その一言だけを囁いて、わたしの手を離した。
 わたしはたたらを踏むようにエレベーターの中に転がり込み、一番奥の壁に背中をついた。
「じゃね」
 ひらひらと手を振る彼の切なそうな笑顔を残して、エレベーターは扉を閉めた。
〈一階です〉
 よろよろとエレベーターから出ようとすると、これから飲み会らしい学生たちがわたしが出るのも待たずに入り込んできた。
「うわぁ、清楚〜」
「何言ってんの、高校生でしょ」
 笑い声がエレベーターの向こうに消えていく。
 わたしは三つ編みの先をつまんで毛先を見つめた。
「……あ、枝毛……」
 雑居ビルのポーチまで出て、ビルとビルの合間の暗く青い空を見上げる。
 その足でわたしは、斜め向かいの美容院に向かった。

「どうしたの、その髪!」
 悲鳴にも似たクラスの女子たちのざわめきも、肩口に揃えて髪を切った翌日の朝だけのものだった。昼になればお弁当をつつきながら「失恋でもしたの?」「もっといい男はいっぱいいるよ」とありきたりな慰めの声がかけられはじめる。
 わたしは終始曖昧に笑ってその日一日をやり過ごした。
 次の日にはもう、彼女たちの話題は別の興味に移っていた。
 わたしは涼しくなった肩口で、髪が風をはらみ梳かしていく感触を登下校の度に味わい、体育や掃除の時には手櫛で一本に結ぶということに密かな喜びを覚えはじめていた。
 髪を切ってから一週間経ち、二週間経ち。
 十月最後の日に献血ルームに行くかどうか、最後まで決めかねた揚句、それでも結局わたしは雑居ビルの五階のエレベーターボタンを押していた。
 いつも通りの時間。
 彼が献血台のある部屋から出てくるのは決まって同じくらいの時間だったけれど、来る時間は重ならないことも多かった。
「こんにちはー」
「あら、まちちゃん、髪切ったの?!」
 献血ルームの扉を潜るなり、受付のお姉さんが口元に手をあてて叫んだ。
「そんなに驚かなくても。ちょっとした気分転換ですよ」
 気休めを言ったところで、先々週の一部始終をこのお姉さんには見られている。
 受付のお姉さんは周囲を窺うように見まわしてから、こっそりとわたしに耳打ちをした。
「彼、まだ来てないわよ」
 それが安心しなさいという意味なのか、残念だったわね、という意味なのかは察しかねたが、わたしは努めて気にしていない風を装って献血台のある部屋へと向かった。
「今日は200mL献血にします」
 さあ、とばかりに袖をめくった腕をつきだしてわたしは採血の看護師さんに告げた。
「あら、いいの?」
 と言いながら、看護師さんはさっさと貧血でないことを確かめるための事前採血に取り掛かっている。
 ぷつっと皮膚を突き破られる感触は、何度経験しても慣れるものではない。突き刺す細い痛みと、針が潜り込んでくる感触。そして、血液が吸い上げられていく喪失感。
 貧血検査は無事パスして、本番の太い針が逆の腕に挿入される。
 わたしの左腕は、数度の献血で針の痕が残りはじめていた。
 これまでわたしが提供した血は、無事に役目を全うしてくれただろうか。
 今日、今吸取られている血は、これから誰の身体の中を巡るのだろう。
 いずれにせよ、少なくともこれでここに通うのは一か月お休みだ。
『まち、あなた、そろそろ勉強なんとかしないと』
『そうだよ。どこに行くとしても、何をやるにしても、大学に行っておいて損はないよ』
 今まで仕事仕事でわたしの成績表など見たことがなかった彼らが、ついに揃って口を出しはじめたのだ。
『今まで部活をやっていた子たちだって、本腰入れて勉強を始めているはずだぞ』
 帰宅部だったわたしは、何となく肩身が狭い思いで彼らの珍しいお説教を聞いていた。
『成績、そんなに悪いつもりはなかったのだけれど』
『今までとこれからは、びっくりするほど変わってくるわよ? うかうかしてるとあっという間に追い抜かれるんだから』
 見てきたように母は追い打ちをかける。否、見てきたのではなく彼女は経験済みなのだ。秋の大会が終わった最終グループが受験勉強に専念しだした後の逆転劇を。
 思えば、この二か月、わたしにとってはここが部活のような場所だったのかもしれない。
 献血を理由に彼と他愛ないおしゃべりをしているだけだったとはいえ、学校と家を往復しているだけだったら、きっとわたしはまだ三つ編みおさげのままの秋堂まちだった。
 意気込んで受験勉強に身を投じようというわけではない。
 ただ、どこか賭けのような気分でわたしは200mL献血を選んだのだった。
 今日彼と会えなければ、それまでの縁だったのだ、と。
 献血を終え、たっぷりとジュースを飲んで雑誌を三冊めくっても、彼は来なかった。
 来てよ、って言ったのに。
 待ってる、って言ったのに。
 この髪を見たら、彼は何と言っただろう。
 惜しんだだろうか?
 それとも似合うと褒めてくれただろうか?
 思えば、彼に何かインパクトを与えたくて、わたしはおさげを切り落としたのだ。
 彼に与えられたインパクトを振り払い、立ち向かい、叶うなら、受け入れるために。
 三つ編みを切り落とせば大人になれるなんて都合のいいこと、あるわけはないのに、それだけで成長できた気になっていた。
 雑居ビルの窓から見える空はすっかり冬の逃げ場のない紺青に覆われていた。
 息が詰まるような冬が来る。
「帰ります」
 受付のお姉さんは引き留めてくれたけど、会えなかったらもうそれっきりにしようと思っていた。
 運命を試してみたかったんだと思う。
 偶然エレベーターの前で出会って、こんなに親しく話せた男の子なんていなかったから。
 運命だから、大丈夫って、思いたかったのかもしれない。
 嫌われる恐怖も、拒まれる恐怖も、何の懸念も必要ない相手なのだと、盲目的に信じたかった。そうでもしないと、自分が壊れてしまいそうだと思ったから。
 だけど、彼は来なかった。
 来てって言ったのに、待ってるって言ったのに、彼は献血に来なかった。
 嘘つきだ。
 エレベーターを降りたところで、心の中でそう呟いて、わたしはちょっと笑った。
 なんだ、わたし。
 安心してる。
 彼に会えなくて、安心してる。
 こんなんじゃ、彼に嫌われても当たり前だ。
 思い返してもみてよ。二週間前の水曜日、わたしは一体どれだけ彼に酷い態度を見せたことだろう。それなのに、髪なんか切って気を引こうとしたなんて、ばかみたい。
「あはは」
 渇いた笑いを漏らして、通りに出る。
 帰るためのバス停留所は、この通りを渡って一本向こうの車が多い通りにある。
 ふと顔を上げると、ビルとビルの間から禍々しい赤銅色の満月が暗く陰りながら紺青の空に昇ろうとしていた。
 腐りかけのカボチャのような色。
 渇いた冷たい風が肩口を吹き抜けていった。
 信号が青に変わる。
 わたしは首を振り、ただ前だけを見て白い歩道に一歩踏み出した。
「待って!」
 突然、背後から追いかけるように声がした。
「え……」
 彼の声だった。
 胸の中で萎み枯れたと思っていたものが、ぶわりと膨らんだ。
 振り返ると、確かに彼がわたしめがけて駆けてきてくれていた。
 だけど、その表情はちっとも嬉しそうじゃない。
 いかにも切迫して、危険を感知したかのような――
「危ない!!」
 どうして?
 そう呟く前に、彼はわたしを道路の向こう側に突き飛ばしていた。
 よろけてわたしは前のめりにつまずき、膝から崩れ落ちる。
 その後ろで、耳障りなブレーキ音が鳴り響いた。
 鈍い衝撃音とともに、振り返ると黒い学生服の男の子の身体は紺青の空を舞い、車の屋根部分に一度バウンドして白い横断歩道の上にどさりと落ちた。
 感情が抜け落ちていたわたしには、スローモーションでコマ送りするように、その一瞬一瞬が嫌になるくらいよく見えていた。
 お決まりのように女性の甲高い悲鳴が響き渡る。会社帰りのおじさんたちの低いどよめきが続く。白い交差点にうつぶせに大の字に転がっている彼は、ぴくりとも動かない。
 交差点の真ん中でようやく止まった車から運転していた人が降りてくる。口元を抑えてパニックになりながらも、車の中へ取って返す。通報するために電話を探しに戻ったのだろう。
 わたしはのろのろと立ち上がり、横断歩道の白線の間隔で一歩一歩彼に近づいていく。
 ようやくの思いで辿りついて彼を上から見下ろすと、頭や胸のあたりからじわりと白線に赤い血が滲みはじめていた。
 わたしは、悲鳴を上げたんだと思う。
 きゃぁとか、わぁとか。
 何か言葉にならない音を、口から叫びだしていたんだと思う。
 パニックになって逃げだしたい心が半分。
 彼を助けなきゃという心が半分。
 理性で選んだわけじゃなく、わたしは彼の側に広がりはじめた血溜りに膝をついた。
「血が出てる……」
 そんな当たり前の状況を呟いて、はっと献血ルームが入っている雑居ビルを見上げた。
 あそこにならたくさん血がある。今すぐにだって彼に輸血してあげられる。
 幸い、わたしは今日はまだ200mLしか採られていないし、あと200mL抜かれたって全然平気。
『O型は楽天主義でおおらかで大雑把、か』
 ふと、二週間前の彼の声が蘇ってきて、わたしは文字通り血の気が引いた。
「わたし、A型だ……」
 わたしの血じゃ、彼に輸血できない。
 わたしは彼の血がもらえるというのに。
「ああ、なんて役立たずなの……!」
 わたし、今、何のために献血してきたの?
 どうしてわたしの血は彼にあげられないの?
『O型はDNAに突起がないからね』
 ああ、そうだ。わたしのA型はDNAに突起が一つあるからだ。O型の彼にはそれがないから、どうしても一方通行になってしまうんだ。
「ねぇ、しっかりして!」
 ようやくわたしは彼にかけるべき言葉を思い出す。
「起きて! 目を覚まして! お茶、しに行くんでしょう?!」
 どうしてわたしはA型なんだろう。
 どうして彼はO型なんだろう。
 逆だったらよかったのに。
 わたしがO型だったら、彼に血をあげることができたのに。
 自分が錯乱しておかしくなっていることくらい分かってた。
 でも、彼がこんなに蒼白になっているのに、わたしの身体に流れる血では彼を救うことができないなんて、わたしは何のために生きているのか!
 自分を問い詰めずにはいられなかった。
 わたしの血は、何の役にも立たない。
 誰か、助けて。
 彼に血をあげて!
 そうでなければ、わたしの血をO型にしてちょうだい!!
 揺すり起こしたいのを堪えて、一所懸命彼の耳元で呼びかけつづける。
 その甲斐があったのだろうか。
「まち」
 掠れた声で、薄眼を開けた彼がわたしの名を呼んだ。
 わたしは彼の名を呼ぼうとして、――彼の名を知らないことに気がついた。
 気づいた彼は、口元に微かな笑みを浮かべる。
「まち、髪切った?」
「……うん」
「似合う。可愛い」
 彼は微笑んで、ふと、道路の開けた方に顔を向けた。
「ねぇ、まち。――綺麗な、月だね」
 わたしが不気味だと思った赤い月を、彼は綺麗だと言った。
「今晩は皆既月食だからね。皆既の状態で上ってくる月を見られるなんて、なんて特別な日なんだろう。あんなに大きくて赤い月、はじめてだ」
 眠りから覚めるように彼の目は見開かれていき、何かに取り憑かれたように赤い月を見つめていた。
「ブラディ・ムーン」
 ぽつりとつぶやいた瞬間、茶色かった彼の黒目が赤く変異した。するり、と唇から白い牙が伸びてくる。
 思わず彼に伸ばしていた腕が震えた。
 何が、起きたのだろう……?
「怖い? そうだよね、怖いよね。ヴァンパイアみたいでしょ?」
 頷くことも首を振ることもできずにいるわたしを知ってか知らずか、彼は無表情で付け足した。
「だって、ヴァンパイアだもの」
 と。
 きゃぁと悲鳴を上げて彼を放り出し、逃げることだってできたはずだ。
 でも、そうしなかったのは、できなかったのは、唇から伸びた二本の犬歯に恐ろしさと、恐怖心の向こうに魅入られるような僅かな好奇心を感じてしまったからだった。
「わたしの血、飲める? わたしの血で、役に立てる?」
 昂揚感が胸の奥から湧き上がる。
「飲めるよ。今なら何型の血でも美味しく飲める」
「冗談言ってる場合?」
「冗談じゃないよ。ねぇ、まち、僕に血をくれる? まちの血を僕にくれる?」
 青白くなった手がわたしの首筋に伸ばされる。
 冷たい指先が首筋をなぞった。
 その冷やかさにわたしは少し震え、彼の赤い目を見た。
 死という虚無の縁に立たされ、その深淵を覗き込んでいる者の目。
 わたしを見ているようでいて、もう見えてはいない人の目。
 ――戻ってきて。
 行かないで。
 あの時、病室でそう叫んであげることができたなら、祖母はまた退院して家に戻ってくることができただろうか。
 わたしは首筋にかかる髪を掻きあげ、首筋を彼の口元に近づけた。
 耳元に彼の微かな笑い声が届く。
「違うの?」
 顔を上げると、彼は小さく頷き、目でさっき血を抜かれてきたばかりの左腕を見た。
「ああ」
 わたしは白い正方形の絆創膏を剥がすと、彼の口元に腕を捧げた。

 ありえないことが重なると、何が現実かわからなくなるものだ。
 救急車が駆けつけた時、血溜まりの中にいるというのに彼の顔色は普通の人並みに赤みを帯びていた。それでも折れた肋骨や打った頭の傷はぱっくりと開いていて、担架で救急車に運び込まれた。わたしも突き飛ばされて膝をついたことで膝を擦りむいており、貧血と事故のショックによる眩暈でふらふらになっていて、同じく救急車に乗せられた。
 幸い、わたしは一晩病院で安静にしただけで翌日には家に帰された。
 事故に遭ったと聞いて職場を飛び出してきた両親には、何故大通りにいたのか、その腕の傷痕は何かと散々問い詰められ、わたしはあっさりと献血ルームに通っていたのだと白状した。
 さすがに悪い遊びに手を染めていたわけではないと誤解は解けたものの、監視の目もとい成績チェックは厳しくなって、それからひと月たって再び献血ができるようになっても、わたしは献血ルームに寄る余裕をなくしていた。
 ハロウィンを終えた大通りはあっという間に今度はクリスマスに鞍替えし、ジングルベルが通りのBGMに馴染んでいた。献血ルームには寄れなくても、バスに乗るために少し遠回りをして大通りを歩けば彼に会えるのではないか、と思っていたけれど、そううまくは行かなくて、痺れを切らしたわたしは献血目的ではなく彼の消息を聞くために献血ルームの扉を開いた。
 受付のお姉さんが言うには、彼は事故の後引っ越してしまったらしい。引っ越し先は分からない、とのこと。
 結局名前も分からないまま、受験シーズンが到来し、わたしはなんとか東京の私大に合格し、あっという間に四月から新居で一人暮らしが始まった。
 めまぐるしい新歓の嵐をかいくぐって帰る途中、ふと立ち止まった交差点の向こうの雑居ビルに、わたしは再び献血ルームという看板を見つけた。
 無意識に左腕の内側を撫で、わたしは駅の方ではなくそのビルの方へと足を向け、横断歩道を渡った。
 ごちゃごちゃした昭和の香りのするビルが多い中、そのビルはまだ平成の名残をみせていて、地元の献血ルームが入っていた雑居ビルを思わせた。
 献血ルームが入っている回を確認し、エレベーターのボタンに手を伸ばす。
 と、わたしの指がボタンを押すよりも早く、後ろから伸びてきた男の人の指がボタンを押した。
「あ」
「え」
 わたしは振り返る。
 彼は驚いた顔でわたしを見下ろす。
「まち」
 黒縁眼鏡の地味な顔立ちを装った男の子は、ぱっと顔を輝かせた。
「元気だった?」
「うん。――じゃない、ずっと、心配してたんだよ? どうして何も言わずにいなくなっちゃったの? 身体は? もう大丈夫なの? 後遺症とか残ってない?」
「それは――」
 エレベーターの扉が開く。
 彼は先に乗り込み、わたしが乗り込むのを待って扉を閉める。
 ゆっくりとエレベーターが上へ向かいはじめる。
「後遺症なら残ってる」
「えっ?! どこ? 頭? 手? 足?」
「頭って、酷いな。まぁ、似たようなものかもしれないけど」
「どういうこと?」
「あの夜のこと、覚えてる?」
 誰もいないのに、彼はわたしの耳もとに囁きかけた。
 さわりと首元の皮膚が冷気を感じて粟立った。
 赤い月が上る夜。変異した赤い瞳。伸びた二本の牙。左腕の傷口に、吸いつく唇。
「君の味が忘れられなくなった」
 困ったように彼は笑って言った。
 もともと、献血ルームには血をあげに来ていたのではなく、もらいに来ていたのだという。誰にも見られないよう、さらに奥の小部屋に通されていたのだから、献血台のある部屋で会うことがなかったのだ。
「血がもらえるなら味も血液型も何でもよかったんだけど、君から血をもらった後は贅沢になってしまって。東京(こっち)ならいろんな人がいるだろうから、飲める血もあるかなって」
 あはは、と笑っているのは、笑って真実を有耶無耶にしてしまいたいからに違いない。
「そもそもバカみたいだろ? ヴァンパイアだなんて。吸血鬼だなんて。本当にいるわけがない。そう思うだろ?」
「雑誌で特集していたハロウィンの仮装キャラの一人だって?」
「ね」
 上っていたエレベーターがゆっくりと減速していく。
「それで、飲める血には出会えたの?」
 わたしはごくごく当たり前のことを聞くように、彼に尋ねた。
 彼は驚いた顔でわたしを見返す。
「信じてるの?」
〈五階です〉
 タイミング悪く、混乱させるようなことをエレベーターが告げ、扉を開こうとする。
 わたしは〈閉〉と書かれたボタンに手を伸ばし、開きかけた扉を閉じる。
「まち」
 他の階で待ってる人に迷惑だよ、と言わんばかりに彼はわたしを窘めるように見る。
「ここで、美味しい血にはありつけてるの?」
 背伸びして、わたしは彼の顔を覗き込んだ。
 困ったように彼は顔を逸らす。
「どうなの、って聞いてるの!」
「……美味しくなくても生きていけるし……」
 目を合わせないまま弱々しい呟きが漏れ出たのを聞いて、わたしは〈閉〉ボタンから指を放した。
 息継ぎのために口を開きましたと言わんばかりに、エレベーターが大きく口を開ける。
「わたしの血、飲みたい?」
 わたしは首筋にかかる髪を掻きあげ、彼の耳元に囁く。
 彼の茶色い目が一瞬赤く変わりかけ、また平静を装って茶色に戻った。
「いいよ」
「っ、だめだよっ!」
 トンっと、彼はわたしを突き放した。
「何を考えてるんだ、君は。こんな平常時に。あれは、半年前のあれは、非常時だっただろう? あれ以上失血したら、僕だって危なかったんだ。だから仕方なく直接君の傷痕に口を当てたけど、決して牙は立ててない。だから君だって何事もなく……」
 わたしは彼の言葉を最後まで聞くことなく、新天地での献血ルームの扉を開いた。
「200mLでお願いします」
 後ろで茫然と立ち尽くしている彼の気配を感じつつ、わたしは献血台のある部屋へと通されていく。
「待って、やめてよ! そんなことされても、僕はちっとも嬉しくなんか……」
 我に返った彼が慌てふためきながら追い縋ってくる。
「一か月に一回。献血に来ようと思います」
「え……」
「あなたのことはそのついで。そんなに美味しいと思ってくれたなら、デザートくらいに思ってくれれば」
「そんなの……無理に決まってるだろう。美味しければたくさん欲しくなる。直接肌からなんてもらったら、それこそ歯止めがきかなくなる」
「そうならないように、あなたもちゃんと腹ごしらえをしてきたら?」
 まだかしら、と奥から出てきた看護師さんが物珍しそうにこちらを見ている。
 わたしの担当の看護師さんは準備に忙しいふりをして聞かないふりをしてくれている。
 彼は諦めたように首を振った。
「まちが献血したいなら好きにすればいい。でも僕は決して……」
「戻ったら、名前を教えて。それから、連絡先も」
 彼はわたしの担当看護師さんに追い払われるように奥の部屋へすごすごと入っていった。
「はじめに貧血じゃないか検査しますね。ちょっとちくっとしますよー」
 お決まりの台詞は地元と変わらないらしい。
 ちくり、とした後、針が皮膚の中に潜り込み、血が吸われ出す。
 一瞬の酩酊感。
 その気持ちよさに、わたしはあの時の彼の唇の冷たさを思い出した。
〈了〉
(20180227)
(201809100533)