雪焔 ―命の天秤―


 離した唇からは、何の味もしなかった。
 ただ匡生の口から白い息が漏れ出ただけだった。
 吐息は彼女の鼻先を掠めて消えていく。彼の吐息が彼女の吐息と混じりあうことはない。
 永遠に。

 妻が死んだ。

 その耐えがたい事実に、匡生の頭はまだついていけていない。認めてしまったら本当にもう二度と妻が戻ってこない気がして、目の前の事実を認めまいと呻吟していた。
 それでも、こうやって口づけても彼女の唇は微笑まず、吐息も漏れず、笑い声も上げない。それどころか渇いていく唇からは次第次第に熱が失われ、吸い寄せられるような甘いさくらんぼの香りも薄らいでしまっていた。くすぐったい甘い蜜の味も今はしない。味気ないぶよりとした古いゴムのような触感だけが匡生の唇に残った。
 死とは、かような味だったか。
 もっと甘美なものではなかったのか。
 文学作品における死者へのキスは、もっと甘くもっと陶酔に満ちたものであったはずだ。
 辺りを見回す。
 薄暗い闇の中、一台の自動車が斜めにひっくり返って頭から大地に突っ込んでいる。割れたフロントガラス、奇跡的に開いた運転手席側の扉。そこから引っ張り出した妻を引きずって残った雪の轍。車が大破する気配はまだない。しかし、長くいればいずれは巻き込まれる心配もある。
「美由紀! 起きろ、美由紀! 起きてくれ!」
 死んでいる。と思っている。
 もう妻は助からない。
 そう思っている。
 そう思って、キスをした。
 さよならのキスのつもりだった。
 しかし、酔いに任せてしたキスは甘くも美しくもなく、ただ醜い味しかしなかった。
 まして、目覚めのキスとはなりえなかった。
 現実。
 腕の中の妻は重い。ぐったりとして、を通り越して、もはやこれはただの物であった。意識どころか意志すらも抜け落ちたただの肉塊。
 人工呼吸は、胸に手を当てて一度押しただけでぐしゃりと肋骨が完全に潰れる音に恐れをなして中断した。ただ口から息を吹き込むだけ。できることなら自分の生気を吹き込み、生き返りはしないかとありもしない魔法を望んだ。
「頼む! 生き返ってくれ!」
 生き返ってくれ。
 生き返ってくれ?
 心の中に疑念が混じった。
 本当に自分は美由紀に生き返ってほしいと思っているのか?
 さっき起きろと叫んだ時には感じなかった違和感。
 生きているなら起きてほしい。
 死んでいるなら、生き返らないでほしい。
「何が……」
 何故、そう矛盾したことを思うのか。
 愛しい妻であったはずだ。十も年下のかわいい妻。その妻と、正月休みに自分の実家に向かっていた矢先の事故だった。どうしても越えなければならない峠は、曲がりくねる山道の先にあった。道路は雪こそ白く積もってはいなかったが、連日の寒さで黒くうっすらと凍りついていた。その氷にハンドルを取られ、白いガードレールを突き破り白濁した曇天を視界いっぱいに臨んだかと思うと、雪をかぶった木々の茂みの中を耳障りな音とともに突っ込みながら降下し、衝撃とともに一度意識を手放した。
 起きたのは自分だけだった。
 全身が鈍い倦怠感に覆われ、ぼんやり息が白いとだけ思った。その白さに自分が生きていることを教えられた。そして左を振り返り、妻が息をしていないことに気がついた。
 妻の身体はエアバックと座席の間に挟まれ、俯いた後頭部には大中小のフロントガラスが降り注いでいた。それでもぴくりとも動かない。
 ぞくっとした。
 茶色く染めた波打つ髪に隠された横顔がどうなっているのか、見るのが恐ろしかった。
 ああ、このまま顔を上げたらどうしようか。血まみれでつぶれた目で自分を見つめ、砕けた前歯で「助けて」と言われたらどうしようか。
 ぞっとした。
 起き上がらないでほしいと思った。
 それでも、自分は生きている。
 妻も生きているかもしれない。
 妻が顔を上げるのを待って怖い思いをするくらいなら、自分でその顔を確かめた方がいい。
 そう思って、匡生は美由紀の顔にかかった髪をかきあげ、エアバックに埋もれた顔を確かめた。
 顔は綺麗なままだった。
 若さと傲慢さと美しさが目元と口元に宿ったまま、彼女は息絶えていた。
 何をどうやったか、詳しくは思い出せない。エアバックに挟まれた妻の身体を助手席から抜き出し、引きずりながら雪くらいは凌げそうな樅の大木の下に落ち着いた。そこでようやく蘇生術なるものを思い起こす。試みにうろ覚えの術を試してみたが、結局自分にできたのはこの死体となった妻に口づけることだけだった。
 一体、自分は彼女を助ける意思があったのだろうか。
 もう死んでいるから、と、全力を傾けなかったのではないか。
『なぜ助けないの? なぜ助けてくれなかったの!?』
 妻の金切り声が聞こえてくるようだ。
 愛しかったはずの鶯が鳴くような声は、結婚生活八年目にして金盥を叩くような声に変わっていた。自分の実家へ行くことを渋っていた妻。それでも務めだからと説き伏せ、散々同級会があったのに、友人との飲み会があったのにという愚痴を聞かされながらもここまで来たのだ。自分だって好きこのんで帰りたいわけじゃない。帰る度に孫はまだか、子はまだか、と両親や親戚中からせっつかれる。ようやく結婚して結婚はまだかと言われなくなったのも束の間のことだった。どうしてこれほど若い妻をもらっておきながら子ができないのだ、と陰で呟く祖父母の声も聞いた。とんだ嫁をもらったものだという怒りとも憎悪ともつかない言葉を通りがかりに親戚に投げつけられもした。それでも、こうやって八年も正月と盆は帰り、両親や親戚に挨拶回りをするのは、それが子供時代から両親がするのを見てきたこの家のしきたりだと言い聞かせていたからだ。しきたりを外れては、二度とこの家に戻れなく、この家に居場所はなくなる。そうすれば――田舎とはいえ山も農地も住む家を建てるための土地も手に入らなくなる、そう、打算的なことを美由紀にも言い聞かせ、自分にも言い訳してきた。
 本当は違うのだ。
 単に、帰りたいだけだった。
 年に二度しか会えない両親に、元気な顔を見せてやりたかった。それだけが、遠くにいる自分が唯一できる親孝行だと信じていた。
 できることなら早く孫の顔も見せてやりたい。しかし、それはおそらく叶わない。美由紀が、ではない、自分が、どうやら妻を妊娠させにくい体質らしい。
 親戚にも一言そういえば、妻への仕打ちは薄らいだかもしれない。しかし、自分では恐くて言えなかった。たとえ妻を守るためとはいえども、自分の、男としての矜持がそれを受け入れられなかった。そして、妻も自分のせいだとは周りに公言しなかった。
 子を一番望んでいたのは美由紀だった。
 あなたの子供が欲しいの。
 直接的な逆プロポーズの末に結ばれた結婚だった。
 それなのに、自分が原因で彼女の熱意にこたえてあげられないのは手酷い痛手となって夜の営みにも直結した。
 もう、どれくらい妻を満足させられていないだろう。次第次第に落胆する妻の顔を見るのが恐くなり、この腕に抱くことはおろか、行ってきますとお帰りなさいのキスさえも拒むようになっていた。顔さえ見るのが恐くなって、会話が減り、日々の雑然たる営みを共有するだけの関係になり、そうこうしているうちに、妻はそろそろ出産の適齢期も過ぎようとしていた。
 子供ができないことで、美由紀が自分を直接言葉で攻めたことは一度もなかった。しかし、不妊治療や子供を作るために身体にいいと言われる料理やサプリ、お茶の攻撃は続いていた。
 うんざりしていたのかもしれない。
 自分も、もしかしたら彼女も。
 子供がいなくても仲良く楽しく生きている夫婦は世の中きっとたくさんいるだろう。それでもいいと割り切って、日々笑いあいながら生きていける夫婦はたくさんいるだろう。でも、それは本当にそう思っているんだろうか? 自分たちだって、外にはそう見せている。外に買い物に行けば仲がいいですね、と言われ、親戚にも影ではどうあれ、あそこは子供がいないからむしろ仲良くやっているのだ、と表面上は褒められている。
本当はどうかなんて知っているのは、自分と妻だけだ。

 妻が、死んだ。

 自分の子供を欲しいと言ってくれた女が、死んだ。
 助けなければ、いけないのだろう。
 死んだと認めてしまっては、いけないのだろう。
 雪が降り積もる。
 白い雪が、妻の傷一つない顔を包んでいく。
 自分の手のひらの上に舞い降りた白は透けて肌になじんでいくのに、妻の顔の上には降り積もる一方だ。
 さっき、なぜキスなどしようと思ったのだろう。
 人工呼吸を諦めた後、なぜ、もう一度彼女の唇に触れ、吸いつき、その香りを探ったのだろう。
「死んだと、思ったから、だ……」
 もう二度と起き上がらないと思ったから、新婚当初のいとしさだけをその顔に見たのだ。もう二度と子供を求められることもない。言葉無き嫌がらせをされ続けることもない。
「別れれば良かった、かな……」
 ぼんやりと呟いてみる。
 自分が不妊の原因であることを知った時、足掻くことなく、彼女の「それでもできることもあるわ」という一言に甘えることなく、一思いに彼女を手放していれば良かったろうか。そうすれば、今頃彼女は自分の隣で冷たくなっていることもなく、同い年の友人たちの子供自慢の聞き役に徹することなく、自分の子育てにまい進していたのではないだろうか。他の男との間にできた子供の。
 それが美由紀の本当の幸せだったかもしれない。
 人並みの女としての幸せを望んだ美由紀の夢を叶えてやれる唯一の方法だったかもしれない。
 あなたの子供が欲しいの。
(おれの、子供が)
 あなたの子供ならきっとかわいいわ。きっと男の子ならかっこいい子になるし、女の子ならモテモテで大変なくらいかわいい子になる。わたし、あなたの子を産みたいの。
 罪悪感ひとつない生き生きとした瞳で見つめられて、心が先に落ちていた。
 ああ、この女が真に望むものを自分が与えられるなら与えてやりたい。
 そう思った時には口づけに応えていた。
 身体の反応はわかりやすく、融け合うように一つになった。はじめから自分たちは一つだったのだと思うかのような合一感を感じた女は初めてだった。
 その時にはもう、彼女は自分のものだという思いが強くなっていた。
 今更どうして手放せようか。たとえ抱くことが恐ろしくなってしまっていたとしても、彼女の望みを叶えてあげられないと知ってしまっても、苛立つ彼女に心を詰られようとも、それでも、彼女はこの八年、毎年盆と正月、自分の実家帰りについてきてくれたではないか。真実を明かさず陰口をそのまま背負って自分には何も言わずにいてくれたではないか。
 他の男になど、どうして渡せよう。
「八年」
 年を取ってしまった。
 三十を過ぎてからの時間は飛ぶように早く、四十になってさらにそれに拍車がかかっていたが、それでも数字を思えばそれがいかに長かったのか思い知ることができる。
 若さだけが武器だった彼女の目元に年を思わせる疲れが滲むのも道理だ。
 スマホは圏外だった。
 雪は降り続け、闇は静かに雪明りと溶け合っている。
 助けを呼ぶにしても、落ちた道路ははるか頭上だ。ガードレールの歪みか破れを見て誰かが通報してくれるのを待つしかない。あるいは、今日着くと言っておいた両親が捜索願を出してくれていればいい。
 スマホの青白い光が静かに自分たちを雪の世界にうずめこもうとする雪の欠片を反射させてひと時、匡生の目を楽しませる。
 舞い踊る光の欠片は時に強く吹く風に任せて暗い曇天へ吹き上がり、あるいは森から突き進んでくる。雪片はひらひらと舞うばかりではなく、少しずつ小豆の粒ほどになり、いつの間にか拳大の光の玉が乱舞していた。
 そのことに気付いたのは、匡生がうとうとと目を瞑りはじめた時だった。
 引き寄せた美由紀の身体は冷たく、とても抱き寄せている気にはならない。少し離して置いたその美由紀の身体を中心に、青白い光の玉は乱舞していた。
 子供の頃、森の中の池で見た蛍の灯火の色とは違う。あれは人魂。鬼火。生を感じさせない温もりのない青い炎。
 不思議とぞっとはしなかった。うっすらと恐怖はあったが、それ以上に美しいと見とれていた。自分もそちらの世界に足を踏み入れかけているからかもしれない。
 青い炎はやがて美由紀の身体を離れ、匡生の周りを飛び回りだす。まるで蝶になつかれてでもいるかのようだ。手を伸ばせば指と指の間を青い炎がすり抜けていく。焼かれはしなかった。冷たさもない。何も感じない炎。やがてそれは森の向こうへと匡生を誘うようにすいすいと離れては近づき、離れては近づき、を繰り返しだす。
 呼ばれている。
 自分も死ぬのか?
 問いの終わりに自嘲に満ちた笑いが含まれた。
 せっかく生き残ったのに。
 そう思った自分が、今は浅ましいと思った。
 青白い炎は匡生を誘い続ける。
 真白い森の中へと。
 手を伸ばし、匡生は腰を上げる。
 炎は瑠璃揚羽のように鮮やかな青い光を放ち、喜びを表す。
 それなら呼ばれてやろう。
 ちら、と匡生は美由紀を振り返ったが、妻が生き返る気配はない。
 稲妻が落ちたかのように腰に走る痛み。崩れ落ちる左膝。顔から雪面に突っ込みかけ、力の入った右腕だけが鼻の先を少し擦ったところで自分の身体を支えるが、だらりと落ちた左腕は重しとなって左肩から雪面に転がる。
 こんな、はずでは。
 さっきまで左足も左膝も動いていたはずだ。
 それなのに、今は両方の感覚がない。
 匡生の身体の左側に瑠璃揚羽たちが集まりだす。
 まるで死臭を嗅ぎつけて群がっているようだ。
 鼻には湿った土と他者を受け入れない新雪のつんとした冷たい匂い。
 傾いた視界の先には、蹄。
 四足動物の、蹄!
 はっとして匡生は蹄から遠ざかるように後ろに転がる。
 身体の左側を下にして、右手で起き上がろうと身体を持ち上げる。
 鹿、だった。
 立派な二本の角を頭に生やした雄の鹿だった。
 この森の王であるかのように堂々と威厳を湛えて、鹿は匡生を見下ろしていた。
 食べられる――ことはないだろう。鹿は草食だ。しかし、あの足で蹴り飛ばされる可能性はゼロではない。
 牡鹿は匡生を見下ろし、ついでゆっくりと死んだ美由紀を見る。
 死んだ妻の亡骸を放置して青い蝶についていこうとしたからなのか、罪悪感に染められて匡生は牡鹿をまっすぐには見られない。
「おとうさん」
 その牡鹿の背の上から、なぜか子供の声がした。
 はっとして匡生は牡鹿の背の上をふり仰ぐ。
 子供が乗っていた。
 この寒いのに裸で無邪気に威厳ある森の王の背にまたがっていた。
 その子供は青白く発光している。さっきまで美由紀をとりまき、自分を森に誘おうとした青白い炎は今はどこにも見えない。ただ、子供だけが鹿の上で青白く光り輝いている。
 子供はそれ以上、何も言わなかった。
 ただじっと匡生を見ている。
 鹿もまた、じっと匡生を見ている。
 匡生は美由紀を振り返る。
 あの子供は何だ?
 あの鹿は何だ?
 あの子供は……いつの、誰の子供だ?
 最後に美由紀を抱いたのはいつだ? そんなのはもう、記憶にない。それじゃあ別の男の子供か? 別の男の子供を腹に宿して自分の実家に年始の挨拶に来ようとしていたのか?
 いや、違う。
『おねがい。これきりだから、我慢して。もしもの時のために、人工受精も考えているの』
「あああああーーーっ」
 申し訳なさそうに肩に寄せられた額。遠慮がちに掴むように抱かれた両肩。
 最後のカードを、あいつは切っていたのだ。
 いつ? 自分が全く彼女の身体に見向きもしなくなってから? それでも、おれの子供を欲しいと望んでくれていたのか?
 馬鹿じゃないか?
「馬鹿じゃ……ないか……?」
 目を閉じた美由紀はどんどん雪に埋もれながら蝋人形のようにただの物になっていく。
「なぜ言わない? 何故、言ってくれなかった? 妊娠していると、何故……」
「おかあさんもしらなかったから」
 ぽつりと子供が言う。
「これがさいごだからと、そのチャンスもだめだったとおもっていたから」
 鹿の上で子供が言う。
 匡生の知らない美由紀の想いを。
「さよなら、おとうさん」
 めまぐるしく回転する頭の中に浮かんでは消える映像とは別に、目がとらえる視界の向こうでは四本足の鹿がゆっくりと踵を返していた。
 裸の子供の背中が青白く、それでも柔らかく、今にも天使の羽でも生えてきそうな無垢さで以って匡生の目に飛び込んでくる。
 混乱の中で父性が目を覚ます。
 いかせてはいけない。このまま、あの子を、妻を、いかせてはいけない。
「待て! 待ってくれ!」
 足掻くように動く右腕と右膝で雪の上に蛇行する跡をつけながら匡生は鹿とその上の子供に手を伸ばす。
「返してくれ! おれの子供を! おれと美由紀の子を、返してくれ!」
 牡鹿は脚を止め、風変わりなものでも見るように匡生を見つめる。
 匡生を見つめる子供の目には、憐みしかない。
 匡生は雪の中に爪を立て、右手で拳を握った。
「おれの命と引き換えでいいから、その子を生き返らせてくれ!」
 血が滲むほど握った拳は、文字通り掌の薄皮を破り、白雪に赤い血を滴らせていた。
「一人では、無理だ」
 渋い声で牡鹿が告げた。
「命が足りない。お前の命で妻を蘇らせることはできても、この子は無理だ」
 妻は、蘇る?
 生き返らせたいのは子供なのに?
 いや――妻もだ。美由紀にも、生きてほしい。とうに心は離れたと思っていたのに、離れていたのは自分だけだったらしい。自分は彼女にどれだけの辛さと悔しさを味わわせてしまったことだろう。せめて最後に、この驚きと感謝を彼女に伝えたい。そして、申し訳なかったと謝りたい。
 自分の分だけでは命が足りないと牡鹿は言った。
 自分の命を妻にあてがったとしても、子供は助からない、と。
 しかし、今自分の目の前にはもう一つ、命がある。
 あの牡鹿の命だ。
 雪を、土を、抉り取るように握り、右側だけで体を起こす。左側は完全に麻痺していたが、バランスを取るつっかえ棒程度には左足が機能していた。
 あの牡鹿はきっとこの森の王だ。そんな牡鹿に危害を加えたら、この子まで祟られるかもしれない。それでも、あの子は生き返る!!
 匡生は牡鹿と見つめ合う。
 予断を許さない緊張感が両者の間に横たわり、
「おとうさん!」
 子供が叫んだ瞬間、匡生は命を燃やして牡鹿に向かっていった。


「まさか、同じような男がいるとは」
 自分に突進してきたずぶ濡れで半死半生の男の姿を見て、匡生は薄ら嗤った。
 この命はくれてやろうと思っていた。
 背の上に乗る、名も知らぬ誰かの子のため。
 その子供が自分の孫にあたろうとは、匡生も知らない。
〈了〉
(201501022135)