LAST LOVE

 これが最後の恋になればいいと思った――

「私と、付き合って下さい」
 告白が、こんなにも無防備なものだとは思わなかった。口にできる言葉は十代の少女と変わらない。年を重ねてもあの頃と同じように人を好きになってしまった。見た目ばかり年をとっても、何一つ成長していない恋心に翻弄され、甘酸っぱさよりも苦しさばかりが真綿で首を絞めるように優しく思考を奪っていく。
 枷の多い恋だった。
 職場という立場上、私は彼の上司で、五つも年が上だった。それにもかかわらず、私は大人の女性らしく彼を誘うことも罠にはめることもできず、結局選んだのが直球勝負の告白だった。 
 裸で全身を晒しているような燃えるような恥ずかしさに、思わず相手の目から顔を逸らしそうになる。
 年下に夢中になるのはこれが最後だと思っていた。
 どんな答えが返ってきても、また月曜日からは平静な上司に戻ろうと決めていた。この告白を無かったことにできるなら、それが一番いい。だけど世の中そんな便利な魔法は存在しない。
 まりあさん、まりあさん。
 はじめは毛並みのいいゴールデンレトリバーにでも懐かれている気持ちだった。
 上から目線で滑らかな毛並みを撫で愛しむように接していただけだった。
 それがいつからか名を呼ばれるたびに小娘のように胸の縮まるような思いをするようになり、資料のやり取りに指先が触れただけでもはっと手を引くほど意識するようになってしまっていた。
 デスクからぼんやりと彼を見つめることが多くなり、いやいやそれではだめだと首を振りながら業務に戻る。それでも、気づけば彼を目で追っていた。
 上司にかこつけて食事に誘うこと数回。
 彼は決して断らなくて、笑顔で「行きます」と言ってくれるのが嬉しかった。
 でも、嬉しさは満足と同一ではない。
 嬉しさがこみ上げれば込み上げるほど、腹の底の方に物足りなさが積もっていく。
 彼が欲しい。彼の、子供が欲しい。
 年のせいだろうか。そんなことを素で考えている自分がいて驚いたのも今は昔だ。
 彼の子供を産みたい。
 彼を見る度に下腹部の奥底が煮えるような想いと切なさに苛まれるようになった。
 年を取れば本能を理性が凌駕するものだと思っていたのに、三十路半ばの女性にはそれは通用しないらしい。最後の賭けの時期だと言わんばかりに、子づくりを本能が急き立ててくる。
 結婚したくないわけじゃないのだ。
 結婚ならしたい。今すぐにでも専業主婦になったっていい。
 大好きな人の子供を産んで、育てて――その当たり前の少女の夢が、なんと私には遠かったことだろう。
 当たり前だと思っていたことは当たり前ではなかったのだ。
 その一方で、難なく私の夢を現実にしていった友人たちが送ってくる年賀状は、今や小学校の入学式の写真が付されていたりする。
 別に独身女に遠慮してほしいなどと思うほど狭量だとは自分でも思いたくないが、大きくなったねぇ(旦那のお腹も)、と好々爺のように微笑み心をほっこりさせながらも、得られない幸せの大きさに切なさともの悲しさがこみ上げてくるのは、致し方ないものだと言い聞かせている。
 それくらい認めてあげないと、自分がつぶれてしまいそうだったから。
 上司が部下の年下の男の子に手をだそうだなんて、はしたないというか、立場も何もわきまえていない、ともすればパワハラとセクハラと言われても仕方のないご時世なのはわかっている。
 それでも、この恋にきっちりと終止符を打たない限り、合コンに行っても、婚活パーティーに行っても、条件のいい男性から声を掛けられても、どうしてもこの人の人懐こい笑顔が目裏にちらついてしまって前に踏み出す気になれないのだ。
 だから、これは上手くいけばめっけもの、受け入れてもらえなくて当たり前。最悪、パワハラだセクハラだと訴えられた暁には、潔く仕事を辞めて田舎に帰る口実にしようとさえ思っていた。
 これは前に進むための一石なのだ。
 婚活をするにしても、どうせ最後には自分の気持ちを打ち明けなければならなくなるのなら、今から出会う知らない人に晒すよりも、今一番欲しい人に晒した方が……本気な分とても恐ろしいことだけれど、あとあときっと後悔は少ないに違いない。
 これは恋でもあり、婚活でもあるのだ。
 そう言い聞かせ、何とか前に進むための告白の台詞を考えに考え抜いたはずなのに、いざとなると十代の小娘と変わらないピュアな台詞しか出てこなかった自分に、今どれほど自分で自分に呆れ果てているか、今すぐにでも頭を抱えて蹲り、自己反省会に突入したいのをどれだけの気力で我慢しているか、お察し願いたい。
 何度か食事に行くたびに、それとなく好意はアピールしてきたつもりだけれど、女生徒さえ見られていない可能性も重々承知の上だ。
 どう考えても今はまだ告白して上手くいくほど機は熟していないし、彼の気持ちもご飯をおごってくれる上司以外にはないことも分かっている。
 それでも、三十四を目の前にして、私にはもう時間がないのだ。
 この辺でこの三年に渡る不毛な片恋にけりをつけないことには、私は前にも右にも左にも進めないのだ。
 自分の勝手で彼を困らせてしまっていることは分かっている。
 ごめんなさい。
 その一言で彼を悪役にしてしまうことに抵抗がないわけじゃない。
 実際、その一言が聞けただけでも、私はこのこじらせた片思いに決着のくさびを穿つことができる。これは悪役ではないのだ。私を救ってほしい。好きにならせてしまったんだから、それくらいしてくれてもいいでしょ、なんて、口が裂けても言えない。
 悪いのは私。全部私。
 彼に恋してしまったことも、自分で自分の気持ちに整理をつけられなくなってしまったことも、自分の気持ちを整理するために彼を利用していることも、悪いのは全部私。
 どんなに自己弁護してもいい。
 今日はもう、彼に逃げ道を用意してあげるつもりはなかった。
 沈黙は金なりとは言うが、実際いつ下されるかわからないお断りの言葉を待つのは冷や汗と脂汗とが背中から噴き出し、眩暈のするような長い長い時間だ。
 でも、今日は逃さない。
 曖昧に「好きだよ」だけで私は終わらなかったのだから。
 「付き合ってほしい」と要求をつきつけたのだから。
 貴方はイエスかノーではっきりと答えなければならない。
 彼は、困った顔をしていた。
 どうしたらよいのやら、と頬を人差し指で掻き、辺りを見回し、人がいないことに安堵なのか落胆なのかよく分からない表情を浮かべ、再び私を見る。
 私はその困惑しかない視線を、ともすれば流しそうになる目で必死に受け止める。
「あのう、まりあさん。こうなること分かってて、言わせてしまってすみません」
 のんびりとした、まだ何か迷いの中にいるような調子で彼が口を開く。
「隙を作ったのはおれの責任です。すみません。でも、恐いです」
 恐い。
 そう言った彼は、ようやく言いたいことを言えたというようにほっと表情を緩めた。
 私は、思いもしなかった返事に眩暈が止まらない。
 恐い。
 そうだろう。
 恋に、というかもう純粋に十代の頃のように濃いだけを追いかけていられた時とは違って、この恋には私の将来がかかっている。必死なのだ。必死でなければこの年にもなって五歳も年下の男に告白しようなど、誰が思うものか。
 そうだよ。そこが、恐いんだよね。
 男性は追ってなんぼ。全力で追いすがられたら気持ち悪いよね。
 それも、考えてはいなかったわけではないのだけれど、どこかで彼なら分かってくれるんじゃないかと甘い期待をしていた。
「ごめん。今の、忘れて」
 もうこれが限界だった。
 沈黙は金なり? 私の精神の方が崩壊しそうだ。
 待つことができないから先走って何度失敗してきたことだろう。
 それが自分の弱さなのだ。相手の言葉を柔軟に受け止めていなしていく機転がないと分かっているから、自分の望まない言葉だと受け入れる度量がないから、だから、いつもこうやって逃げてしまう。
 無理矢理作った笑顔を彼に振り向け、そのまま勢いで踵を返す。
「待って」
 手は掴まれなかった。
 言葉だけだ。
「……ください」
 今すぐにでもしでかしてしまったここから逃げ出したかったが、なけなしの年上の矜持で背を向けたまま立ち止まる。
「ご飯、行きませんか。今日は俺が奢りますから。それから、ご飯だけじゃなくて、どこか遊びに行きましょう。ドライブでも、テーマパークでも美術館でも遊園地でも」
 それは、期待していなかった曖昧な返事。
 今後を期待させるようでいて、そのままの可能性も十分にはらんでいる返事。
 友達から、というやつだ。
 私に、そんな時間は……
「まりあさん、弱すぎます。どうしてそこで逃げ出すんですか。自分から言っておいて返事も聞かずに逃げるなんて、最低です。いつも全部自己完結して分かったようなふりをして、結局何にもわかっていないんだ。何年も好きで待っていたくせに、どうしてこの今一分二分が待てないんですか」
 何年も前から好きだったなんて、言っただろうか。
 いや、言ってない。
 そんなに前から、彼は気づいていたのか。
 気づいていて、そのまま曖昧な上司と部下のような飯友のような関係でいようとしたのか。それ以上を望む気もなかったということか。
 望むのはいつも、私だけ。
 一人できりきり舞いして、人知れずがっかりして終わるのだ。
 でも、今ははっきりと告げてしまっている。誰も知らないまま封印することもできなくなってしまった。
「そんなに恥ずかしいですか、人を好きになるの」
 直球の言葉に、私は思わず唇を噛む。
「人を好きになるのは普通です。好きだと伝えられればうれしくもなるし、迷惑だなんて思うような奴は、それまでの人間なんです」
 ……私は、好きでもない人に好きだと言われれば困惑するしかないそれまでの人間だった。とても思ってもいない誰かの好意を手放しで受け止めてありがとうと言えるほど、私の心は広くない。いや、彼の言葉からすれば人並み以上に狭量だということだ。
 だから、自分が誰かを好きになったこともとても恥ずかしいと思ってしまうのかもしれない。この気持ちは迷惑なものだと思ってしまうのかもしれない。
 お姉ちゃん、川平君のことが好きなんだって。
 まだ小学校低学年の頃、幼稚園児だった弟に好きな人はいるのと聞かれて、秘密だよと言って教えてあげたら、その夕方には両親にばれて気まずい思いをしたことがあった。
 きっと、あれからずっと私は恋愛恐怖症だ。
 誰かに恋情を抱くことは、恥ずかしいことなのだ。よくないことなのだ。この想いが誰かにばれたら、私はまた嫌な思いをする。
 その思考の循環でずっと殻の中に蹲り、自分で自分を好きになれないあまり、私を好きだと言う人がいれば、私をよく知らないんだとか、物好きだという目で見てしまっていた。
 好きだと言われて嬉しいと思ったことなど一度もないから、私は彼の気持ちも行動もずっと見誤ってきたのかもしれない。
「まりあさん、ご飯食べに行きましょう。大好きなイタリアン、行きましょう。この間行きたいって言ってたお店、ありましたよね。あそこにしましょう」
 そんな大雑把な雑談まで覚えてくれているものなのか。
 私は……結局自分にしか興味がなかったのだ。
 彼と話していると楽しい。趣味が似ているし、食べ物の好みも近い。おしゃべりをすれば話が弾むし、一緒にいて居心地がいい。
 だけど、私は彼の話したことをどれくらい覚えているだろう。
 彼がこの間興味を示した話は何だっただろうか――ほら、私はやっぱり自分に夢中だったのだ。
 何も見えていない。自分しか見ようとしていない。
 これじゃあ、十代の少女と変わらない直球勝負の告白になっても仕方ない。
 心の中で差し伸べてくれている手が見えた気がした。
 年下なのに、彼はこういう人たらし的なところが抜け目ない。
 そんな人の良さ、明るさ、何でもどーんと受け入れてくれそうな度量に、私は惹かれたんだろうか。
 振り向くと、彼は困ったような笑顔で私を見ていた。
「いやですか?」
 私は、この人といる時の自分が好きだ。明るくて、何でも前向きに考えられる。自分を好きな気持ちは自信につながる。仕事でも、日常生活でも。
 この恋は、心に張りを生む。
 彼は分かっていて言ってくれているのだろうか。
 もっと一緒にいる時間を増やそうと言ってくれていることが、私が私を好きになるための時間を増やそうと言ってくれているように聞こえてくる。
 そうやって私が自分を受け入れることができたら、その時は彼も次のステップを考えてくれるだろうか。
 これは婚活だ。
 どうせなら好きな人にアタックした方がいいに決まっている。
 そう結論付けるまで、それなりの時間を要した。
 どこの誰とも知れないネットの向こうに相手を探すよりも、まずは身近の好きな人から。
 馬鹿だ、自分。
 婚活なんて言葉を逃げ口上にして、また傷つかないようにしようとしてたんだ。
 ちゃんと向き合え。
 これは婚活じゃない。
 恋愛だ。
 今までがそうであったように、これからも顔を合わせる度に恋に落ちるだろう。
 できることなら一生、毎朝この人と恋に落ちていたい。
 それが本能とはまた別の恋の望みであるならば、私はきちんと向き合うべきなのだ。向き合い、受け入れるべきなのだ。
 難しいと思うのは、気恥しさと、傷つくのを恐れる気持ち。
 でも、それでは今までのように何も手には入らない。
 勉強も仕事も努力すれば望む程度には手に入った。
 でも、恋はどうしたらいいのか分からなかった。
 どう努力したらいいのか分からなかった。
 ハウトゥ本も化粧も衣装も髪型も、いろいろと研究はしたけれど、結局最後には自分の望みは叶えられなかった。
 今までの失敗が自分しか見ていなかった結果だとしたら?
 この告白は遅すぎたかもしれない。もっと早くに勇気を出すことができたなら、また違う人生だったかもしれない。
 だけど、今なら変われるかもしれない。
 彼が一緒にご飯を食べようと言ってくれている。一緒に遊びに行こうと言ってくれている。
 私が私を好きになれる時間を増やそうとしてくれている。
 強制的にではなく、自然に私が私を受け入れることができる日が来たのなら。
「いやじゃない」
 首を振った。
 そう言うのにも勇気がいった。
 本当に欲しいものを欲しいということが、これだけ勇気のいることだとはこの年になるまでついぞ気づかなかった。それが敗因。でも今からは違う。
 握った拳がカタカタと震えていた。
「じゃ、行きましょうか。付き合うって、そういうことからでしょ?」
 震える手を掬い取られて、気づくと私は彼に手を取られてどこか慌ただしく人々が行き交う三月の雑踏の中、お目当てのイタリアンレストランへと導かれていた。
〈了〉
(201503040201)