ウサギ

「ウサギは鳥なんだよ」
 小学校にいた時、変なことを言いだした男の子がいた。
「どうして?」
その回答が物知りと崇められるかバカにされるかの境目だった。
「一羽二羽って数えるからだよ」
 その子はバカにされるようになった。
 正しいことを言っても、馬鹿にされることがある。それは伝え方の不味さやちぐはぐな回答だったからばかりではない。受け手に知識や想像力が足りないことも大きな要因だ。それ以前に。
 そんなことあるわけはない。
 先入観が理解のハードルを高くする。それを乗り越えられるかが大きな問題だ。
 しかしながら、ただの小学生にそれ以上の知識があるわけがない。
 子供たちはウサギも鳥類なのかを知りたかった。
 男の子は、それ以上のことを知らなかった。
 周りと同じレベルなのにたまたまちょっとだけ知識量が上回ってしまったがために、彼は人生の舞台から引きずり落とされてしまった。
 自殺する前、彼はウサギが嫌いだと言った。ウサギ小屋の前を通るのが憂鬱だと。
 たまにウサギ小屋のウサギを全部(全羽とは言わなかった)縊り殺したくなると。
 事実、彼は死ぬ前に自分の飼っていたウサギの首をつまんで殺した。
 これ以上生きてても憎悪が募るばかりだから。
 幼い口で彼は言って、今度は自分の首を絞めた。
 彼の憎悪はクラスのみんなじゃなくウサギと自身に向けられていたらしい。
 けれど彼は自分で自分の首を絞めようとして、失敗した。
 ものの見事に咳き込み、首には赤い手の痕が残った。
 私は彼を殺そうとした犯人に祭り上げられた。
 すぐに手の痕が不自然だからと釈放されたが、私は丸一日殺人犯と言われつづけた。
 でも、学校に行っても私は殺人犯のままだった。
 彼らは彼をウサギと呼んでいたが、私は殺人犯と呼ばれるようになった。呼ばれるうちに、本当に彼を殺したような気になってくるから不思議だ。
 そのうち気持ちだけじゃなく記憶まで改竄されていく。
 何度も何度もその時のことを思い出すうちに、彼が自分で自分の首に回した手が私が伸ばした手と重なってくる。その小さな手が私の手のように思えてくる。
 気づけば私は明らかに彼の首に手を伸ばし、きゅっと指先に力を込めている。
 指先に抵抗するように跳ねる脈を温かく感じながら押さえつけて流れを止め、狭い管の中で膨らんでいく血液の熱を潰していく。
 抵抗し、もがく彼の手が私の手首に爪を立て、喉元はぐるぐるぐると獣じみた唸りをあげる。酸素を求めてばっくり開いた口の中は赤く、ピンと外に突き出された舌は引っこ抜いてやりたい衝動に駆られる。鼻の穴は膨らみ、目は半ば白目を向きながら頭のてっぺんを向いている。腐りかけのトマトのように紫色に膨れていく頬、瞼、額。
 全ての首の血管を押し潰し、全ての気管を握りつぶすと彼は目から血の涙を溢れさせ、いよいよ私の指には固く抵抗する骨の棒が当たりはじめる。
 これをへし折れば完璧だ。しかし最後の砦は指先だけでは落ちてはくれない。私は身をのりだし、馬乗りになって肩から肘から腕から全力で計十本の指先に力を込めた。
「ウサギ」
 その一言はことの最中に肩を叩かれるより心臓が縮み上がった。
 はっと気づくと私は苦鳴をあげながら喉を蠕動させていた。目はあらぬ方を向いていてチカチカと瞬く蛍光灯が赤く歪んで見えた。
「ウサギ、だめだよ。自分だけ楽になろうなんて」
 赤い蛍光灯を遮って、血まみれのゾンビのような顔をしたウサギが私を覗き込んでいた。
「あっあっうっうっ」
 声にならない悲鳴をあげて私は逃げようとし、ベッドから転げ落ちた。
 消毒臭いリノリウムの床を這いながら、私は必死で彼から逃げる。ずるずると重い身体を引きずりながら。
 私はウサギではない。この四肢で跳ねられもしなければ空を飛ぶ羽のような長い耳があるわけでもない。
 見苦しく地を這い逃げ惑う様は蟻よりもカタツムリよりも無様なものだったろう。
 彼は二歩進んで私の上に馬乗りになった。
「逃げるなよ、ウサギ」
 彼の手が私の首を捉える。のけぞる喉にあてがわれた指先にじっと力が込められ核心を握りつぶしていく。
「ウサギは飛べない。鳥でもないのに羽で数えるのはおかしいよね?」
「あああううう」
「お前があんなことを教えなければ、僕がウサギと呼ばれることもなかったのに」
 ウサギは鳥ではない。私は「ウサギも鳥のように一羽、二羽って数えるんだよ」と教えただけだ。それを勘違いして知識をひけらかし、自慢しようとしたのは彼自身だ。
「ウサギは鳥なんだねと聞いた僕に、お前はうんと頷いたじゃないか」
 ウサギの耳が鳥の羽に見えるという由来があるからだ、と付け足す前に彼は行ってしまった。みんなのところへ。そして自慢気に口を開いてしまった。
「鵜鷺(うさぎ)。変な名前だよね。鵜と鷺でウサギだなんて、ほんと詐欺だ。お前にピッタリだよ、ペテン師のウサギ」
 唾を吐きかける勢いで彼は罵倒し、私の首を締め上げる。
「お前、自分がウサギって呼ばれたくないからあんな嘘を教えたんだろう? 単純な僕ならすぐみんなに自慢すると思って。からかわれてたもんな。ウサギ、ウサギって」
 そんなことはない。ウサギが大好きだった彼にちょっとした知識を教えてあげたかっただけだ。家で飼っているウサギの写真を見せながら楽しそうに話す彼の笑顔が好きだったから。彼に、少しでも同じウサギという名を持つ私に興味を持ってほしかったから。
 だからウサギについて調べた。図鑑やインターネットや、彼が興味を持ってくれそうなことはないかと。クラスの人気者の彼が私と仲良くなってくれたら、もうわたしもウサギとバカにされることもなくなると思って。
 はっと目を見開く。
 彼は子供の姿のままだった。
 みんなの人気者だった小学生の時のまま。
 首には赤く両手の指の痕が残っている。それは、伸ばし、押し当てたわたしの指の痕と向きも形も大きさも一致していた。
 私が殺した。
 この手に残る熱も感触も、この目に残る記憶も、改竄されたものなどではない。真実だ。
 この手が、彼を殺した。目の前で再度あてつけに死のうとして失敗した彼の首を、私が絞め殺した。
 苦しそうだったから。
 自殺が失敗して苦しそうだったからではない。生きているのが苦しそうだったから。私の余計なひと言のせいで彼が孤立し、自身を責めつづける姿を見つづけるのが忍びなかったから。憎悪に満ちた目で見られるのが耐えられなかったから。
 私が得たかったのは、彼からの好意の視線だったのに。
 抵抗する手に、私は力を込めた。
 真白いばかりの四角い個室の窓から青い月が見える。
 月のウサギはまだ、煮え切らない。

〈了〉
(201406221208)